★底本
第二部 p264~270
★手塚による要約
かき集めた教養に寄食する現代を痛撃し、自分は過去の遺産に頼らず未来への創造に生きようとする決意を言う。先駆的な教養不毛論。
★解説
・ツァラトゥストラは「ツァラトゥストラの序説」や「12 新しい偶像」などで教養を否定的に捉える見解を示している。この章のタイトルは「教養の国」となってはいるが、この「教養の国」は「現代の人間たちがいるところ」という意味である。
・故国(p264):「ここく」と読む。「母国」や「ふるさとの国」という意味。
・ツァラトゥストラは自身を鳥に喩え、「私の羽ばたきは余りにも深く未来の空間のなかに入りすぎて私と時を同じくする人間はいなくなってしまった。私は故国に向かって急いだ。そして、現代の者たちがいるところ(教養の国)に着いた」と語る。p266以降でも鳥の喩えが用いられているが、空を飛ぶ鳥は遠く離れた場所であっても自由に行き来できる動物とされる。遠く離れた場所を行き来できるということから、地理的な距離のみならず時間的な距離をも行き来するというイメージをツァラトゥストラは持ち、鳥の喩えを考案したのではないだろうか。手塚治虫の『火の鳥』でも、火の鳥は遠く離れた場所を行き来するだけではなく、過去から未来へ行ったり未来から過去へ行ったりしている。
・長らく未来の空間になかに入っていたツァラトゥストラは善意の欲望をたずさえて現代の人間たちを見た。だが、ツァラトゥストラの目には現代の人間たちが「雑然としたまだら模様」や「あらゆる絵具の集散地」に映った。ツァラトゥストラによれば、現代の人間たちは顔に手足に五十の絵具のしみをつけている。そして、自身らのまわりに五十の鏡を置き、その鏡は現代の人間たちの色の叫喚に媚び、それをまねて叫び声をあげている。ツァラトゥストラは現代の人間たちを「おまえたちは絵具と、膠(にかわ)で張られた紙とでできている」や「おまえたちから、ヴェールとマントと色と身ぶりをはぎ取ったら、あとに残るのは、鳥おどしに役立つ程度のものだろう」と酷評している。
・ツァラトゥストラは現代の人間たちを笑いに笑った。ただし、現代の人間たちに対する善意の欲望をたずさえてはいたので、笑うと同時に胸苦しさにふるえていた。
・p265に「腎臓」とあるが、手塚が脚注で述べているように、「人間の精髄、本性」という意味で用いられている。『ヨハネの黙示録2:23』に「all the churches shall know that I am he which searcheth the reins and hearts」(King James Version)とあり、reinsは現代の英語に訳せばkidneysとなる。現在において心(心臓)という臓器が気持ちを表す言葉として用いられるように、聖書において腎臓はしばしば「人間の精髄、本性」といった意味で用いられる。
・ツァラトゥストラによれば、現代の人間たちは「われわれはまったく現実的な存在である。そして信仰にも迷信にもとらわれない」と言って胸を張っている。確かに、ニーチェが本書を執筆した1880年代の西欧では自然科学の発達によってキリスト教や非科学的な迷信が影響力を失いつつあった。だが、ツァラトゥストラは<未来におけるすべての不気味なもの、また過去において鳥たちをおどして飛び去らせたいっさいのものも、おまえたちの「現実」にくらべれば、まだしも親しみを感じさせる>と語る。
・ツァラトゥストラは現代の人間たちを「かつて信ぜられたいっさいのことの写し絵にすぎないおまえたち」と呼び、「おまえたちは、おまえたちのことばを聞くまでもなく、そうして立っているだけで信仰の否定である。手足を持った生身(なまみ)の否定である。あらゆる思想の脱臼である。信ずるに値せぬ者、そうわたしはおまえたちを呼ぶ。現実的な者たちよ」と酷評する。確かに、「過去の生んだ記号をからだいちめんに書きつけ、さらにその記号を新しい記号で上塗りしている」ように見える者たちは、手足を持ちながら生身(生の肉体)を否定しているようなものかもしれない。
・ツァラトゥストラによれば、現代の人間たちのいう「現実」は、「一切は滅びるにあたいする」という虚無的な価値観である。ニーチェは虚無主義(ニヒリズム)の代表的な哲学者とされるが、本書を読めばわかるようにニーチェは創造を重視しており、「どうせ一切は滅びるにあたいする」といった諦めにも似た価値観を提唱した訳ではない。
・「一切は滅びるにあたいする」という価値観を持っていると、自分自身の価値さえも疑わしく(いぶかしく)感じられるようになる。現代の人間たちの一部も、自分たちの空虚さをうすうす感じているようであり、彼らは神がイブを創造するためにアダムの就寝中にアダムの体から肋骨を奪ったという聖書の故事を踏まえて、その空虚さを表現している。
・ツァラトゥストラは「13 市場の蠅」で「世の小人たち」を無数の蠅と表現していたが、p268でも「わたしがおまえたちのいぶかりようを笑うことができなくなったら、そしておまえたちの鉢のなかからすべてのいとわしいものを飲まねばならなくなったら、さぞわたしはみじめなことだろう。しかし、わたしはおまえたちのことを軽く受けとめておこう、わたしは重いものを担わなければならない身なのだから。わたしの荷に甲虫や羽虫などがとまったからといって、それが何だろう。まことに、おまえたちがとまったからといって、わたしがそれを重荷にするはずもない。現代の者たちよ、おまえたちから大きい疲労がわたしに伝わってくるはずもない」と語っており、現代の人間たちを甲虫や羽虫などに喩えている。
・「ああ、わたしの憧れを担っているわたしは、さらにどこへ登るべきか。わたしはあちこちの山から、父の国、母の国へと目をそそぐ。 だが、どこにも故郷を見いだせなかった。わたしはどんな都市にも落ちつくことができない。わたしはあらゆる市門からの出発者である。 現代の者たちは、わたしには他郷の者であり、笑いの種である。なるほど、ついさきごろわたしの心はかれらへ駆り立てられはしたが。 そしてわたしは父の国、母の国からも追われた身だ」とツァラトゥストラは自分の境遇を語る。手塚の脚注によれば、「父の国」や「母の国」は「文明の源流である過去の諸時代」のメタファーである。
・続けてツァラトゥストラは「こうして、わたしが今も愛するのは、わたしの子どもたちの国だけである。大洋の果てにある、まだ発見されない国である。わたしはわたしの帆にその国をあくまでさがせと命令する。わたしがわたしの父祖の子として生まれたことを、わたしはわたしの子どもたちで、取り返そうと思う。未来で――この現在を取り返そうと思う――。」と語っており、その直後に「ツァラトゥストラはこう言った。」という定型句を以て、この章が結ばれている。「あくまでさがせ」は「あきるまでさがせ」という意味である。ツァラトゥストラは「24 鏡をもった小児」でも「叫喚と歓呼のように、わたしは大海を渡って行こう。わたしの友となるべき者たちが住んでいる至福の島々を見いだすまで」と決意しており、「父の国、母の国からも追われ、現代の人間たちの住む教養の国にもなじめないので、わたしの子どもたちの国を探そう」と考えている。
※『ツァラトゥストラはかく語り』解説プロジェクトに関連する記事は全て【記事リスト】でまとめられています。