2022年03月17日、音楽批評家の石黒隆之氏が「SMAPの昔の歌が、ウクライナ戦争で人気急上昇。今聴くべき名反戦歌の数々」という記事を発表した。

本記事では彼の記事に関する私見を述べていく。

 

 

忌野清志郎(1951-2009)は、日本国憲法の第九条への並々ならぬ愛と信頼を隠しませんでした。

「憲法九条を知っているかい。ジョン・レノンの歌みたいじゃないか。世界中に自慢しよう」(2005年4月24日 アースデイ東京二〇〇五での発言)と語ったこともあり、自身のバンド「RCサクセション」では洋楽のカバーに日本語詞をつけたアルバム『カバーズ』(1988年)で、反戦と反核を主張しました。

特に、清志郎流の「風に吹かれて」(オリジナルはボブ・ディラン)の改変は痛烈です。

 「どれだけ金を払えば満足できるの? どれだけミサイルが飛んだら戦争が終わるの? その答えは風の中さ」“金を払えば”と“ミサイルが飛んだら”は、どちらもディランの原曲にはないフレーズ。清志郎なりの解釈から創作した、新説「風に吹かれて」といった趣です。

忌野清志郎は洋楽を日本語に訳した歌詞も素晴らしいことで知られている。個人的にはイマジンの日本語訳の歌詞が特に魅力的だと考えている。原曲の歌詞の一節「You may say I'm a dreamer」のmayに着目し、「夢かもしれない」「夢じゃないかもしれない」と歌う箇所は彼独自の感性が漂っていると思う。

 

 

敗戦国であり唯一の被爆国であることからくる戦争への決定的な拒否感と、ベトナム戦争に抗議した60、70年代の欧米のフォークソングに対する共感。これらがあいまって、日本ならではの反戦歌が生まれたように思います。根底にあるのは、戦争は愚かな行為であり、平和と人間の生命こそが何よりも大事であるとのメッセージです。

SMAPやブルーハーツは兎も角、少なくとも忌野清志郎に関しては妥当な主張。

 

 

当然、そこに反対すべき点はありません。おそらくほとんどの人は戦争をしたくないし、平和で幸せに暮らしたいし、暴力に訴えるより対話によって合意を見出すのが人類の理性であり良心であると信じている。筆者もその一人です。  けれども、このように戦争を遠くからながめて批判的でいられるのは、第二次大戦以降、いまのところ私達が幸いにも戦争の部外者であるからなのではないでしょうか? 考えたくもないことですが、万が一、今後当事者となってしまったとき、“人命は尊い”とか、“暴力では何も解決しない”との理念だけで、果たして耐えられるのだろうか?

紛争の当事者であっても元々紛争を望んでいなかった人であれば紛争を仕掛けた侵略者に対して批判的になる気がする。

 

 

このたび「Triangle」の道徳的なメッセージに共感が集まった事実は、現状の日本が比較的裕福であり、いくぶん平和であるという恵まれた特権的な立場にあることの裏返しでもあるのだと思います。戦争への時間的猶予と経済的余裕が保障する、条件付きの“反戦”なのですね。  問題は、今後起こりうる事態に、温室育ちのリベラリズムで耐えきれるのだろうか、という点です。

日本よりも紛争に近い国々、日本よりも経済的に豊かではない国々であっても、ウクライナ侵攻に対して、反戦歌への共感が大規模かつ広範囲に発生している。「戦争への時間的猶予」という箇所があるが、この言い回しでは「日本は戦争開始をぐずぐず引き延ばして、戦争開始を決定・実行しなかったり戦争を実行する日時を引き延ばしたりしていること」となってしまう。石黒氏が「日本は戦争開始を実行せず引き延ばしている」と捉えているのなら話は別だが、冷静に考えるならば時間的猶予という表現は適切ではない。

 

 

問題は、今後起こりうる事態に、温室育ちのリベラリズムで耐えきれるのだろうか、という点です。

日本が70年以上、平和であったことを石黒氏は「温室育ちのリベラリズム」と表現しているのかなと思う。戦後民主主義では確かに平和主義が濃厚だと言える。

 

 

テレビや新聞のニュースなどで世界情勢を知った気になっている中流家庭の子供たちに、ポルポト支配下のカンボジアへ行ってみろとけしかける。大学でマルクス主義を学んだぐらいで革命家気取りになり、ジャズを聞きかじっては、スラム街に暮らす黒人たちの厳しい境遇に同情を示すぼんぼん連中。

ジャーナリストなら激戦地に足を運んだ方が良いし、伝聞よりも直に現場を知るほうが望ましいことは論を俟たない。しかし、ウクライナ侵攻下でウクライナに入国した慶応大学生の事例松田隆氏の指摘)などが示すように、非紛争地帯で日常生活を送っている一般人が紛争地帯に足を踏み入れるというのは現実的でない側面もある。

 

 

ここまで極端ではなかったとしても、目の前でテロや戦争と向き合う人たちの訴える“NO WAR”と、“戦争はいけない”と説く道徳的な非戦との間には、決して小さくない隔たりがあるのだと思います。

目の前でテロや戦争と向き合う人たちの訴える“NO WAR”」も世界平和という倫理(道徳)に基づいているはず。隔たりというよりも、単に経験者か否かの違いと捉える方が妥当。

 

 

 

ジョン・プラインは、サム・ストーンが“すてごま”だとは明言しません。そうすることで、激しく異議を唱えることもしません。優れた歌詞は、青年の主張や新聞の社会時評的なアプローチを取らないからです。

ブルーハーツの「すてごま」の歌詞への批判となっているが、この批判は事実に即していない。「サム・ストーンが“すてごま”だとは明言」しないのは、ジョン・プラインが戦争では多くの若者が「すてごま」として扱われがちであることを訴えようと思わなかったから、もしくはジョン・プラインにとっては当事性が強すぎて、そのような辛辣な表現が心理的に出来なかったからだろう。これも経験者か否かの違いでしかない。

「すてごま」の作詞作曲者である甲本ヒロトが「僕たちを縛りつけて ひとりぼっちにさせようとした 全ての大人たちに感謝します 1985年日本代表ブルーハーツ」と述べたのは事実だが、「すてごま」に関しては歌詞における主人公が青年であるとは限定されていない。そもそも「すてごま」が収録されたブルーハーツの6枚目のアルバム『STICK OUT』が発表されたのは1993年であり、1985年から8年も経過している。「新聞の社会時評的なアプローチ」というのは甲本ヒロトの作詞に余り当てはまらないものだと言える。

 

 

代わりに、聞き手に強烈なイメージと問いを投げかける。注射針で穴のあいた肉体を、ゴルゴダの丘で釘付けにされたキリストと重ねることで、偉大さとみすぼらしさが背中合わせだとほのめかすのですね。この全く笑えない皮肉こそが、紛れもない事実なのだと。

ブルーハーツの音楽にも強烈なイメージと問いを投げかける歌詞は多い印象を受ける。

 

 

戦争に賛成だとか反対だとかいう議論では何の気休めにもならない。抗うことのできない大きな力に飲み込まれたとき、一体個人に何が残るのかを考えさせられるのです。

民主主義国家において議論は政治を成熟させていく。気休めではなく、国家の軌跡を左右する重大なものである。

 

 

日本を取り巻くパワーバランスが激変しているいま。戦後育んできた道徳的な反戦思想は守りつつ、一方で無慈悲な現実に対応するための準備も必要になってしまったように思います。  武力の存在そのものを否定する平和のメッセージは尊い。けれども、それは同時に決定的に無力であることも理解しなければならないのです。

武力の存在そのものを否定する平和のメッセージ」とあるが、世界中で武力が完全になくなれば世界平和は自動的に成立するので原理的には何ら間違っていないメッセージだとは言える。非紛争地帯における反戦運動がベトナム戦争の終結にどれほど貢献したことか。歴史において、平和を訴える世論が戦争終結に繋がったケースもあれば繋がらなかったケースもあるという事実を「決定的に無力」と断言しているのはいただけない。

 

 

石黒氏の批評を読んで感じたのは「このひと本当にブルーハーツや日本の反戦歌などを知っているのかな」ということである。Dead Kennedysもブルーハーツもパンクロックという根底の部分は一致しているし、「親に養ってもらってる立場でなんか言ってもしょうがないんだよね(出典:『どぶねずみの詩』)」という甲本のコメントや「イメージ」(6枚目のアルバム『BUST WASTE HIP』収録)という曲の歌詞などを考えれば寧ろDead Kennedysに価値観が近いと分かるはずなのだが・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〇『夜叉羅刹改方』とは

2022年4月25日発売の『週刊少年ジャンプ 21・22合併号』に載った読切漫画。石川理武先生のジャンプ本誌掲載作品としては『炎眼のサイクロプス』以来の読切。

 

 

 

〇あらすじ

将軍様が江戸に幕府を開いて190年ほど経過した時代のストーリー。人間と妖怪(あやかし)が共存している世界観。江戸では蝦蟇烏帽子という妖盗(「窃に手を染めている怪」という意味だと思われる)による犯罪が問題となっている。幕府直属の取り締まり集団「夜叉羅刹改メ」は蝦蟇烏帽子を取り締まるための捜査を始めている。

 

或る少年が大獄丸という妖怪に対して掏摸(すり)を行う。掏摸に気付いた一人の侍が少年を捕まえるが、大獄丸は「その財布はコイツにやったのだ」と少年を庇う。大獄丸は少年のことが気に入り、少年を温かく迎える。夜叉羅刹改メを率いている大獄丸は蝦蟇烏帽子に関する情報を少年に訊くが、その瞬間、少年は大獄丸に「オマエも同じ妖怪じゃないか」と激昂し、帰ってしまう。帰り際、大獄丸は「大丈夫 お前は必ず自分を変えられる」と少年を励ますような言葉を投げかける。

 

少年が帰った家には蝦蟇烏帽子がいた。蝦蟇烏帽子は「誰にも私のことを口外するな」と少年を脅迫する。

 

昼間、少年に関する情報を街で集めていた大獄丸は、日没後、自分の部下に「ただの直感で確証は無いが、掏摸の少年の家は蝦蟇烏帽子の潜伏先になっている可能性がある。その場合、少年の命が危ない」と伝え、少年の家に向かう。

そのころ、蝦蟇烏帽子は少年が持って帰ってきた財布に「蔓に百足の丸」という印があることに気づく。この印は夜叉羅刹改メの紋章である。蝦蟇烏帽子は少年に売られたと思い、少年を殺そうとする。

しかし、少年は大獄丸の言葉を思い出し、弟妹・父を逃がした上で蝦蟇烏帽子らに立ち向かう。

少年は瀕死となるも、タイミングよく現れた大獄丸によって命を救われる。

大獄丸は蝦蟇烏帽子ら妖盗を殺していく。

 

夜が明け、少年は植木屋の父と一緒にいた。すると、大獄丸が少年の前に現れた。

少年は大獄丸に感謝し平伏すが、大獄丸は笑顔で少年をおんぶしていく。

 

本作は「むかし将軍ひざもとの大江戸 夜叉羅刹出き(いでき) 市井の人妖(ひとびと)を悩ます 将軍此由(このよし) 大獄丸とて鬼神に仰付(おほせつけ) 急ぎ正すべしとの宣旨也 大獄丸畏まって 宣旨承(うけたまわる)  配下の妖怪を召し寄せ 数多の夜叉羅刹を討つ」という暗示的なナレーションで結ばれている。

 

 

 

 

〇分析

★構成力の高さ

・冒頭頁で蝦蟇烏帽子(ガマガエル姿の妖盗)が約束を守らずに娘を殺している描写があり、これは蝦蟇烏帽子が掏摸の少年に対しても約束を破り、殺そうとするシーンの伏線となっている。

 

・冒頭部で街を歩いている子供らの童歌「夜ふけのなるかみ わるいこさがす ヒトツメ ナナツメ 背中のムカデ」は「夜叉羅刹改メ」の暗示となっている。

 

・妖怪は素手でも十分強いのに大獄丸が刀を携帯している理由や、大獄丸が蝦蟇烏帽子に関する情報を訊いた瞬間に少年が大獄丸に「オマエも同じ妖怪じゃないか」と激昂したシーンなど、本作は伏線が丁寧に敷かれている。

 

 

★サスペンス色

大獄丸が天道干(露天商)に少年のことを質問していく箇所など、『雨の日ミサンガ』や『炎眼のサイクロプス』でもあったサスペンスの手法が使われている。

 

 

★カタルシス

本作では悪党に苦しんでいる少年が救われるというカタルシスが描かれている。カタルシスを表現するストーリー展開となっているのは『雨の日ミサンガ』や『グラビティー・フリー』と同様である。

 

 

 

★メッセージ性

雨の日ミサンガ』や『グラビティー・フリー』ほど明確なメッセージ性ではないが、「自ら生み出せるものが強い者」「人間は自ら値打ちを生み出して、どこまでも変わっていける」などといった主張が込められている。

 

少年「強くなれば奪う側になれる」 

大獄丸「違うさ 弱いから奪うのだ」

 

このような言い回しを逆説と言うが、逆説は言語理解力を聞き手・読み手に要求する。少年も「弱いから奪う」という表現の意味(自ら値打ちを生み出せる者は誰かから何かを奪う必要がない。つまり何かを奪っている者は弱者である)が理解し難かったようで、この言い回しを言葉遊びと感じている。

 

 

 

★少年漫画的なテンプレートの利用

主人公サイドが悪人を倒していくというテンプレートは数多の漫画家が数多の作品で採用してきたストーリー展開である。筆者の場合、少年が「妖怪に人間の気持ちはわからない」「帰るぞ」と述べるシーンを読んだあたりで、「少年が蝦蟇烏帽子に何かしらの被害を受けているのかな」と大まかな察しがついてしまった。また、夜叉羅刹改メという名称が冒頭に出た時点で、「本作は夜叉羅刹改メ達が蝦蟇烏帽子を倒していく感じのストーリーなのかな」と予想が出来てしまった。

しかし、言い換えれば、このようなテンプレートは、分かりやすさという大きなメリットがある。

「この読切はストーリーが難解すぎて、よく分からない」と読者に思われてしまうリスクを減らすことができるのだ。

また、このテンプレートが昔から今に至るまで使われ続けているのは、主人公サイドが悪人を倒していく過程に痛快さを感じる読者が多いからでもある。

本作のカラー絵で「鬼刃、奸悪を断つ」という煽り文が本作のストーリーのネタバレとなっているように、本作は読者の意表をつくことを企図された読切ではなく、少年漫画的なテンプレートの中でカタルシスを表現することを企図された読切なのだと考えられる。

 

 

 

★暗示的なナレーションの考察

・「むかし将軍ひざもとの大江戸 夜叉羅刹出き(いでき) 市井の人妖(ひとびと)を悩ます」→ 将軍が江戸に幕府を開いて190年ほど経過した時期よりも前、夜叉羅刹なる集団が市井の人間や妖怪を悩ませていた。

 

・「将軍此由(このよし) 大獄丸とて鬼神に仰付(おほせつけ) 急ぎ正すべしとの宣旨也 大獄丸畏まって 宣旨承(うけたまわる)」→ 将軍が大獄丸という鬼神に急いで夜叉羅刹なる集団を正せと命じ、大獄丸は畏まって、その宣旨を承諾した。

 

・「配下の妖怪を召し寄せ 数多の夜叉羅刹を討つ」→ 大獄丸は配下の妖怪を召喚し寄せ集めて、数多くいる夜叉羅刹を討つようになった。

 

・このナレーションを踏まえると夜叉羅刹改メは「夜叉羅刹を改める(正す)集団」というニュアンスかと思われる。

 

 

★ジャンプの有名作品からの影響

本作は、捏マユリと雰囲気の似た顔や、独白の短文と絵だけのコマを連続させる構図など、BLEACHや鬼滅の刃からの影響は強い。(ただし、BLEACHでは短文が横書きとなっていることが多いのに、本作では縦書きとなっている。)

偶然かと思われるが、本作は久保帯人『ゾンビパウダー』の第一話と共通点が多く見られる。

 

・「戦闘能力が傑出したキャラ」と「凡人に近い少年」という構図。『ゾンビパウダー』なら芥火ガンマとジョン・エルウッド・シェパードの関係であり、本作なら大獄丸と掏摸の少年の関係である。

 

・少年が地味目な服装をしており、黒髪という目立たないヘアスタイルであること。

 

・少年を追い詰めている犯罪集団の首領は、一般人に「カッコイイ!」と称賛されないような容姿をしている。

 

・少年が家族を守るため、掏摸に手を染めるという展開。少年の家族は善良であり、悪人ではない。

 

・家族に手を出され、犯罪集団に少年が立ち向かうという展開。立ち向かっている少年が今にも殺されようとしているタイミングで「戦闘能力が傑出したキャラ」が登場するという展開も一致している。

 

・「戦闘能力が傑出したキャラ」が敵をさほど苦労せず倒していること。

 

・あくまで主人公は「戦闘能力が傑出したキャラ」の方であり、「凡人に近い少年」はメインキャラの一人である点も一致。

 

 

 

〇私見

「週刊少年ジャンプ 2005年15号」に掲載された読切『斬』が「週刊少年ジャンプ 2006年34~52号」で連載化されたように、ジャンプ関連の漫画雑誌に載る読切は読者アンケートの評価が高ければ連載化されることがある。本作では、狛、一ツ目、七ツ目、深羅などといった大獄丸の配下のキャラも豊富に登場しており、本作はジャンプ本誌での連載化を狙った読切であるようにも感じられる。人間と妖怪が共存しているという世界観は、現実社会に対応したリアリティーと、現実世界の枠を超えたファンタジーとを両立しうる優れた設定だと言えるのではないか。

 

 

〇リンク

漫画本編:かおなくし - ミヨカワ将 | 少年ジャンプ+ (shonenjumpplus.com)

感想コメント:かおなくし - ミヨカワ将 | 少年ジャンプ+ (hatena.ne.jp)

 

 

 

〇本作のポイント

・ストーリー自体を理解するのは、そこまで難しくない。しかし、本作は読んだ後に「?」と感じる人がSNS上で続出している。言い換えれば、「どんな出来事が漫画内で生じているのかは普通に分かる。でも作者のミヨカワ将先生が何を面白いと感じて本作を描いたのかが自分には理解しがたい」と多数の読者に感じさせてしまう読切なのかもしれない。

 

・「少年ジャンプ+」に掲載される読切は石川理武『雨の日ミサンガ』など、最初の方の頁がカラーとなっていることが多い。しかし、本作は2ページ目で赤色と黄色のフォントが使われている点や、赤系統の色彩編集が行われている点を除き、カラー絵と言える頁が見受けられない。

 

・作者が本作を通して描きたかったテーマは2ページ目の煽り文に「愛しているのは 美しい顔? それとも―…」とあるように、恋愛対象が「恋人そのもの」なのか、それとも「恋人の美しい顔」なのかという問題だと思われる。

 

・3ページ目では「包帯女」なる噂(うわさ)が紹介されている。噂によると、包帯女は夜の路地に現れてメスで若い女の顔を切り取っており、事故で顔に大ケガして失った大切な顔を探しているとのこと。

 

・「包帯女」なる噂を聞いたショートヘアの女子は「こわ~」と呟いたが、その後ひとりで歩いていると、包帯女がその女子の背後に登場する。女子は楳図かずお作品で出てきそうな顔をしながら悲鳴をあげている。

 

・3ページ目の2コマ目の台詞文と最終ページの台詞文は繋がっているように読むことが出来る。

 

・本作の主人公、瀬口は三角食べという概念に固執しているが、三角食べは「一度の食事の中で、ご飯・おかず・味噌汁を均等に食べ進める行為」であり、「いつも日替わりでハンバーグ 唐揚げ カレーの順で注文すること」は三角食べに該当しない。

 

・瀬口が自分の眼球を自ら抉るシーンは、谷崎潤一郎『春琴抄』の主人公が自ら眼球を刺すシーンの影響かと思われる。

 

・たとえば2頁にわたって読者に江倉の傷痕を違和感や不自然さなく隠せている箇所など、作画における工夫が光る頁も多く、原作付きの漫画を多数てがけてきたミヨカワ将先生のキャリアが感じられる。(『かおかくし』は『かおなくし』のミスタッチ。)

 

・最初の頁と最終頁の一つ前の頁は文体が丁寧語となっている。前者が語り手不詳の文となっているのに対し、後者は江倉(交通事故で顔を怪我した女性)による語り口となっている。ただし、江倉が誰に語っている台詞なのかは不明。

 

・ショートヘア女子の背後に包帯女がいて女子が悲鳴をあげるシーンや、「夜の路地に現れて」という吹き出しのあるコマで包帯女の足元に影が見えることから、包帯女は物理的に実在していることが判るのに最終頁の煽り文では「心も体も瞳もなく彷徨う」と書かれており、矛盾が生じている。

 

 

 

 

〇本作を読んだ後に「?」と感じる人が続出している理由の考察

・冒頭でショートヘアの女子が包帯女なる噂を聞いている描写があったが、この描写を読んで「夜の路地に現れてメスで若い女の顔を切り取るという話が事実なら、顔の一部を切り取られた女性の遺体が発見されたり、包帯女を見たという目撃証言が出たり、包帯女に関するニュースがマスコミやSNSで流れたりして警察が動いているはず。警察が動いていない以上、この話は作品内で実際には起こっていないことなのでは?」と感じる読者も少なくないと思われる。

 

・つまりホラー(漫画)というテーマ自体が、スマホや防犯カメラが溢れている現代社会では余りリアリティーを感じさせないジャンルになっている可能性がある。

 

・例えば、日本では口裂け女という都市伝説が流行した時代が20世紀頃にあったが、今であれば「口裂け女とかいう生き物が実在しているのなら防犯カメラや目撃者による撮影などによって映像が記録されているはず」という冷静な指摘が行われ、噂にすらならないだろう。(余談だが、SNS全盛の今の時代、ツチノコやネッシーや怪談なんかよりQアノンや反ワクチンなどといった陰謀論のほうが影響力を有しているのではないか。)

 

・また、瀬口の心中文のシーン(「今やっと気付いた 俺が間違っていたと」)は読者に「ようやく瀬口が『自分は今まで恋人のことばかり考えていて、それ以外のことを考えていなかった』などといった反省をするのかな」と思わせるものとなっている。しかし、そのシーンの直後に瀬口が取った行動は自分の眼球を自ら抉るというものであった。

 

・作者は「いかにもポジティヴな展開になりそうだったのに瀬口が眼球を抉れば読者はビックリするだろう」と思い、そのような展開にしたのだろう。このように、視聴者や読者が抱くであろう予想とは異なる展開を描くことで視聴者や読者を驚かせる手法のことをミスリードといい、ミステリー作品などでも多用されている手法である。本作では他にもミスリードが見られ、「包帯女の正体が江倉ではなく瀬口だったという展開」がこれに該当する。

 

・だが、ミスリードという手法を用いる際には注意しなけばならないことがある。それは読者を良い意味で驚かせなければならないということである。

 

・例えば『名探偵コナン』では、「ベルモットがジョディ先生に変装している」と読者に思わせるようなシーンが沢山あったにも拘らず、実際にベルモットが変装していたのは新出智明だったという展開があった。このミスリードは多くの『名探偵コナン』読者を良い意味で驚かせた。理由としては、後から読めば不自然さがない展開であるにも拘らず「実は新出智明に変装していたという真相」が余りにも意外だったこと、「ジョディが持つ写真の一部に白い枠のようなズレが生じていた→その写真は新出智明に変装していたベルモットが所持する写真から複製されたものだったため白い枠のようなズレが生じていた」などといった巧みな伏線が用意されていたことなどが挙げられる。

 

・もし、これが「ベルモットがジョディ先生に変装している」と読者に思わせるようなシーンが沢山あったにも拘らず、実際にベルモットが変装していたのは小学一年生の円谷光彦君だったという展開であったならば、良い意味で驚かされた読者は居なかったであろう。もちろん読者は「成人女性のベルモットがあの光彦君に変装していたのかよ」と驚愕こそするだろうが、このような安直なミスリードは「リアリティー無さすぎだろ」「名探偵コナンってシュール系ギャグ漫画だったのかよ」などと読者をガッカリさせる結果となる。

 

・前述したように本作では少なくとも二つのミスリードが用いられている。「包帯女の正体が江倉ではなく瀬口だったという展開」の方についてだが、作者がこのミスリードを設けた影響で色々と不自然な点が生じてしまっている。

 

・瀬口が病院から失踪した直後に、マスコミ等で「病院から一人の男が失踪」などといった報道はされなかったのだろうか。江倉は最終頁の一つ前の頁で「彼(瀬口)が私を探して夜の街を徘徊しているという噂を聞きましたが あくまで噂です 確認はしていません」と述べているが、「瀬口が夜の街を徘徊している」という噂が既に世間で流れているのなら「包帯女が夜の路地に現れてメスで若い女の顔を切り取っている」という噂が世間で流れかけたとしても「それって病院から一人の男が失踪した例の事件のことだよね」というツッコミがなされ、結果的に噂として成立しないのでは?…という疑問点がある。

 

・「いかにもポジティヴな展開になりそうだったのに瀬口が眼球を抉りだす展開」の方に関しても、SNSで『かおなくし』と検索した限りでは「この突飛で猟奇的な展開」に良い意味で驚いている読者は少なく、むしろ呆気に取られている読者が多い印象を受ける。

 

・ただ、Twitter民のグラスカーム氏は本作を高く評価している。以下ではグラスカーム氏のコメントを分析していく。

 

 

 

〇グラスカーム氏のTwitterにおけるコメント

スレッド1魚拓

スレッド2魚拓

 

 

〇グラスカーム氏のコメントに関する分析

・<まず主人公の男性についてだけど、終始自己中心的で思い込みの激しい人物として描かれている。

→これは妥当でないコメントだと思われる。主人公は高校時代にサッカー部だった友人を半年にも亘って支えていたことから、少なくとも江倉と交際するまでは狂気に囚われていなかったと考えられる。自ら眼球を抉るという異常行動に及ぶ直前ですら、「人間ならやって当たり前の美談」「そんな当たり前の美しい行いが当たり前にできない俺って何なんだろう」と心中文にあるように常人の価値観自体は推し量ることが出来ている。

 

 

・<最初アルバイトの子が「手が離せない」と言っているのに対して「手が離せないって」って不愉快そうに言ってるけど これ「スマホで業務上のなんらかの手続きをしている可能性」を全く考慮してなさそうなんだよね。

→そのアルバイトの子は「何してる?コバちゃん」「お客さん来てるでしょ」と江倉に言われている。また、江倉も「申し訳ございません お待たせしました」と述べている。「スマホで業務上のなんらかの手続きをしている可能性」を想定するのは自由だが、仮にそうだと仮定するにしても、江倉の言動から判断して、その業務が店頭での注文対応よりも優先されるべきものだとは考えにくい。

 

 

・<そういえば「三角食べ」発言に対して「三角食べはそうじゃないだろ」って言ってる人結構いるけど、作者もそれは分かって描いてると思うよ。 主人公の「三角食べ」発言に対して登場キャラ1人も同意や反応してないから。普通であれば「私もしてます」とか「懐かしいですね」とかリアクションあっても良いはずなのに、スルーするの、割と人の間違った知識をスルーする事良くあるしリアルよね

→仮に作者が作品内で瀬口の三角食べの知識を間違っているものとして扱いたいのだとしても、周囲のキャラが「瀬口が間違った知識を述べているということ」に違和感を持っているような描写がないと、「作品内でその知識が間違っているものとして扱われているのか否か」が読者に判断できない状況となってしまう。もし作者が瀬口の三角食べの知識を間違っているものとして扱いたかったのであれば、三角食べに関する瀬口の発言に対して、周囲のキャラが何かしらの違和感を抱いているような描写を入れた方が無難だったと思われる。

 

 

・<手鏡、というかコンパクト?を「こんなものもう見るな」って、勝手に不要なものと判断してそれがどれだけ大切なものか考えずに勝手にゴミ箱に捨てるシーンもかなりヤバいやつ描写してるよね。 現にラスト別の恋人との待ち合わせ中に割れてるのに使ってるし、かなり思い入れありそう

→これは同感。自分も他人の所有物を勝手にゴミ箱に捨てるような行為は余程のことがない限りしない。

 

 

・<こっちの発言や行動を待たずに眼球えぐられたら「うわ気持ちわる、関わらんとこ」ってなるのは当然だろうし、彼について聞かれても知らんがなって答えられる程度には明るく生きていけるのは正直魅力的な生き方だなぁって思う

→普通の人だったら、交際相手の人物が衝撃的な行為に及んでいる光景を目の前で直視した場合、恋人(瀬口)への恋心が残るか否かによらず、トラウマ(や、それに近いような心理的状況)になるはずなのに、江倉は「あたかも自分がその猟奇的な現場にいなかったかのような言動」をしており、不自然である。また、「明るく生きていけること」と「常人が持っているような感情に乏しいこと」は同義ではない。

 

 

・<最後に後輩について、言葉遣いや態度は悪いけど多分悪い人では無いのかなって思う。 というのも最後に「アイツはどうなったの?」って聞くのはある程度主人公に対して気にかけてないとできない発言だから

→メタ視点になるが、作者が後輩に「アイツはどうなったの?」と問わせたのは、この時点で江倉が瀬口についてどれほど関知しているのかを読者に示しやすくするためだと思われる。それにしても、警察は江倉に行方不明の狂人(瀬口)に関する事情聴取などをしなかったのだろうか。

 

 

・<作者はあなたの眼球は潰してないはずなのでもう一度読んでほしい

→グラスカーム氏は<五感が正常な人間が視力を完全に失ってベッドから真っ直ぐドアに向かえるだろうか? 仮にリハビリでそれができたとしても、その後街を徘徊できるだろうか?杖も無しに? 剥き出しの刃物もって街を歩いているのに転けた跡や擦り傷切り傷無いからアイツ目が見えてるよ>と述べている。確かに、視力を完全に失った者が街を徘徊するというのは殆ど不可能である。一方、損傷直後のシーンを確認すると、損傷部位が瞼板や角膜に及んでいるように描画されており、瀬口の眼球は十分に破壊されていると読むのが自然である。「街を徘徊する行為には最低限の視力が要るはずなのに、瀬口の眼球は病院内の一室で十分に破壊されているという矛盾」を解消するためには「瀬口は自身の眼球を損傷し包帯を巻かれた後の或るタイミングで一人の若年男性から『心も体も瞳もない霊的な存在』へと変化した」と解釈する必要があるのかもしれない。

 

 

 

〇浄土るる先生とは

ユニークな短編漫画を発表している漫画家。「週刊ビッグコミックスピリッツ」2021年40号では『良心の呵責』という読切を発表した。『鬼』は浄土るる先生が17歳の時に描いたデビュー作で、「新人コミック大賞 青年部門 佳作(審査員のコメント)」を受賞した。

 

 

〇リンク

第84回 青年部門 佳作「鬼」浄土るる(17歳・群馬県)|小学館 新人コミック大賞 (shogakukan.co.jp)

 

 

 

〇本作のポイント

・主人公、江田子豆は小学5年生。「お父さんはいなくて、お母さんと妹の3人暮らし♪」という独白があるが、主人公の生活環境は語尾に♪が付くような明るいものではない。本作の吹き出し内の文では読点・句点が用いられているが、この独白の一文には句点がない。

 

・扉絵の次の頁の2コマ目において、主人公ら二人の小学生は昭和っぽい体操着を着用しているように見える。本作の作者は2019年時点で17歳だったそうで、「平成十年代生まれの筆者が小学生だった時でさえ、こんなレトロな体操着を使っている小学生が殆どいなかったこと」を考えれば少し違和感がある。もしかしたら、浄土るる先生は小学校に余り通っておらず自分の小学生時代の体操着に関する記憶がないのかもしれない。

 

・主人公の母は主人公に「生まれてきてごめんなさい と言え」などと強いている。自分の娘に「テメコラ(「てめえ、こら」の意)」等の言葉を浴びせるような親のことを毒親という。

 

・小学校の教室にいる主人公。教壇の上に担任の先生と一人の転校生が立っている。転校生は「クソガキ小学校」という小学校の出身者で、「渡辺ポンポコ」という名前をしている。黒板にポという片仮名一文字が書かれているのはポンポコの頭文字を担任の先生が書いたためだろう。

 

・転校生は、苗字こそ渡辺という普通なものとなっているが、ファースト・ネームはポンポコという常識外れな代物となっている。『徒然草』 第百十六段に「人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり」という一節があるように、名前だけでも転校生の親が異常である可能性の高さが伝わってくる。

 

・渡辺は根暗であり、朝の会と1限の間の休み時間になってもクラスの小学生は渡辺に近づこうとしない。そんななか、主人公は転校生の席のところに行き、色々話かける。

 

・しかし、渡辺は主人公の「どの辺に引っ越したの?」という問いを無視するなど、主人公に対して無反応な態度を示す。

 

・授業が始まり、多くの児童が席に着く。先生は周囲の児童に「ポンポコさんに教科書 見せてあげて。」と言うが、周囲の児童は「やだー気持ち悪い。」「呪われそう。」「あんまり近づきたくない。」「臭そう。」と口にする。主人公のように「ポンポコこっちおいでよ、見せてあげるよ。」と友好的な台詞を口にしている児童は、クラスにおいて主人公以外に見当たらない。

 

・あまりにも渡辺に酷な態度を示す教え子を見て担任の教師は「先生だって朝起きて ああ仕事行きたくない って毎日思うけど、頑張って来てるんだよッ。」「分かったらポンポコに教科書を見せなッ。」と激昂する。担任の怒りっぷりを目の当たりにした児童らの一人が、しぶしぶ渡辺に教科書を見せる。

 

・授業が終わったあと、渡辺に教科書を見せていた児童は自らその教科書をゴミ箱に投棄する。その光景を見た主人公以外の児童は「どっ」などと大笑いする。(細かい話だが、自分の教科書を自ら投棄した児童は、明日以降の「その科目の授業」のときに困らないのだろうか…。)

 

・余談だが、担任の教師は授業中に落書きレベルの板書しかしていないようだ。

 

・主人公の通っている小学校は「死ね小学校」という学校名であり、校舎がドーム状である。転校生の通っていた小学校の名前が「クソガキ小学校」だったことを踏まえると、作者は小学校というものに良い感情を余り持っていないのかもしれない。

 

・放課後、主人公は「一緒に帰ろう」と渡辺に呼びかけるが、渡辺は逃げるかようにして教室から去ってゆく。「あっ、待って。」と追いかける主人公を見て周囲の児童は「子豆まだアイツに絡んでる。」と言う。

 

・渡辺に追いついた主人公は「家どこなの?」と話しかける。渡辺は走るのを辞め、主人公の話を聞いている。しかし、主人公が「お父さんはいないんだ お母さんは毎日仕事でね、いつも疲れているよ。」と話すのを聞くと、「うち お母さんいない。」とつぶやき、主人公を睨みつけて走り去ってしまう。

 

・主人公が帰宅すると、妹(みいちゃん)が玄関で主人公の帰宅を待っていた。玄関で笑顔になる主人公と妹。家の中の或る部屋で主人公は妹に「今日ね転校生が来たんだよ」と話す。

 

・すると、部屋に母親が入ってくる。主人公はジャージ姿の母親に「お母さん、おはよう。」と語り掛けるが、放課後という時間帯なのに主人公が「おはよう」という挨拶をしているのは、母親が昼間まで寝ていたことを示している。下校中に主人公が「お母さんは毎日仕事でね、いつも疲れているよ。」と言っていたのに母親が昼間まで寝ていた理由は後々の頁で明かされる。

 

・母親の耳には自分の子供たちの微笑ましい会話がうるさく聞こえるようで、主人公を蹴りつける。「鬱陶しい(うっとうしい)…」「オマエら やかましいんだよ バカ、死ね。」と暴言を吐く母親に対して妹は泣き出してしまう。主人公は母親の機嫌が更に悪化することを恐れ、「お母さん ごめんなさい。」「静かにします。」「ごめんなさい。」「許してください。」と発言する。母親は「産まなきゃよかった。」と言い捨てる。

 

・日付が変わり、或る朝、主人公が教室に入ると、渡辺が水をかけられるという「いじめ」に遭っていた。主人公はいじめをしていたクラスメートに「ダメでしょ」と叱る。

 

・朝の会を始めるため教室に入っていった担任の教師は、びしょぬれの渡辺を見て「すぐ着替えなきゃ!」と慌てる。

 

・その次の頁の1コマ目で主人公は体操着を着ている。一方の渡辺は「保健室」と書かれた服を着ている。

 

・2コマ目で、主人公の服が変わっていることから座学の授業が始まっていることが読み取れる。主人公は渡辺に話しかけるが、授業中だったため、「江田さん!授業中ですよ!」と注意される。主人公を「江田さん」と呼んでいる点、「ですよ」という丁寧語を用いている点から、この台詞を発しているのは担任の先生だと分かる。

 

・その後、主人公と渡辺以外に誰もいない教室で、給食に関する会話をする二人。主人公は渡辺の席の上で横になる。

 

・頁が変わり、教室にはたくさんの児童がいる。沈黙を続ける渡辺に主人公は「ポンポコ遊ぼうよ」と話しかける。周囲の児童の台詞「ドッチしよー。」の「ドッチ」はドッチボールという意味。

 

 

・渡辺と主人公のそばに、二人の児童が立っている。

 

無地の服を着ている児童(以下、無地)「子豆って親に殴られてるらしいよ…」

縞模様の服を着ている児童(以下、縞模様)「知ってる。」

無地「多分 転校生の親も ろくなのじゃないよ。」

縞模様「ねー、絶対そう。」

 

(小さくて見づらいが、「知ってる。」と句点が置かれている。)

 

 

・無地と縞模様の悪口に耐えかねた渡辺は「私のお母さんは そんなんじゃない!!」「殴ったりなんて絶対しないもん!!」と激昂する。

 

・自分の母親を侮辱されて怒るのは人として普通の反応だし、殴る蹴るなどといった暴力行為に及んでいない以上、特に落ち度のない反応だと言える。しかし、無地は「キモ。」と人格否定の言葉を発する。

 

・無地が「キモ。」と言う頁は、4段構成だった前の頁と違って、3段構成となっている。また、「ワイ ワイ」や「ガヤ ガヤ」などといった効果音が書かれている前の頁と異なり、どのコマにも効果音が書かれていない。3段構成となっているのは、渡辺が無口な態度から一転して激昂するのを見た無地が「キモ。」と呟くに至るシーンを端的に描くためだろう。効果音が書かれているコマがないのは、渡辺が「私のお母さんは そんなんじゃない!!」と叫んだあと、教室の空気が一変したことを表現するためだと思われる。

 

・下校時、主人公が渡辺に添うようにして歩いている。主人公は妹の話を渡辺に話しかけているが、渡辺は当初、口を閉ざしていた。だが、しばらくしてボソリと「嫌がらせなん?」と呟く。驚く主人公に対し、渡辺は「鬱陶しいんさ…」と話す。このとき渡辺は顔を主人公のいる方ではなく歩いている方に向けている。

 

・主人公は「ち、違うよ。ポンポコとね、ポンポコと友達になりたいんだよ。」というが、自分でも上手く釈明できないようで最後には「ごめんね」と口にする。それを聞いた渡辺は何も言わず、独り立ち去ってゆく。

 

・涙を流しながら独り家路につく主人公。家のドアを開けると、玄関には妹がいた。「ただいま」という頃には涙がなくなっているようだ。

 

・しかし、転校生が「死ね小学校」に初めて来た日と違って、妹の顔に笑顔はない。主人公が、母親の嬉しそうな鼻歌が聞こえてくる「玄関庫品の部屋」を覗くと、ジャージ服から華美な服に着替え、髪も整えた母親がメイクをしていた。

 

・母親は「あ、なんだ帰ってたの。」「私 出掛けるからさ、この前みたいに体調悪いとかで電話掛けてくるのやめろよ。」「鬱陶しいだけだから!」と言い捨て、家を出発する。

 

・ドアがバタンと閉じられていくのを眺めている主人公と妹。涙を流し始めた妹を主人公はポンポンと後ろから抱きしめる。

 

・翌日、主人公は登校し、「ランランラン。ラララララ。」もなく教室に入る。教室では渡辺に対する「いじめ」が行われていた。主人公はいじめている児童を叱るが、いじめっ子から「うるさい!!!」と反撃されてしまう。周囲の児童は主人公に「子豆いい加減にしてよ。」「めんどくさい。」「偽善者。」「片親。」「友達やめる。」「うざい。」と酷い言葉を投げかける。

 

・児童の一人が「てかさ、私 昨日見ちゃったんだけど。子豆の母親 駅前で若い男と一緒に歩いてたよ!!!!!!」と暴露し、周囲の児童も「キモイ。」「えー!気持ち悪ーい!!」「ヤバ!!」と同調する。それに対して主人公は「うるさいなァ 人のお母さんの悪口 言わないでよ!」と怒り、教室から逃げ出す。

 

・路上にいる主人公と渡辺。「なんで構うん。」と問われ主人公は「私のお母さんね、すぐ叩いたり蹴ったりするんだ。私だけじゃなくて、妹を叩くこともあるよ。ポンポコが転校してきたとき、ちょっとだけ、妹に似てると思ったんだ。ポンポコの不機嫌そうな顔が、泣いてるの我慢してるみたいに見えたよ。叩かれたり暴言言われたりするのって、すごく辛いんだ。だからね、ポンポコを守りたかったよ。」と答える。次第に涙が漏れてくる二人。

 

・渡辺も「うちね…お母さん死んじゃったんさ…お父さんは仕事 忙しいから、ばあちゃん家に引っ越して来たん。友達なんていらないと思った。江田さんは私のこと からかってるんかと思ってた。だから………ひどいこと言ったりしてごめんね。」と語る。(ばあちゃん家の「家」には「ち」とルビがついてある。)

 

・渡辺に「友達だよ」と話す主人公。渡辺は「なんでそんなに優しく出来るん。私は…全然優しくないのに。」と語るが、主人公は「優しいよ。」と2回にわたって伝える。

 

・渡辺は泣きながらも笑い、「明日うちに遊びにきてよ。」と提案する。主人公は妹も連れていって良いか訊くと、渡辺は笑顔で「もちろん。」と答える。

 

・次の頁の「ともらち」は「ともだち(友達)」という意味。

 

・翌日、主人公は「ランランラン。ラララララ。」と言いながら教室に入っていった。その瞬間、主人公は突如、水を掛けられる。

 

・水をかけたのは、なんと渡辺だった。渡辺は或る児童に「よくやった お前はもう5年4組の仲間だ。」と褒められる。渡辺は「朝来たら これかけろって言われたんだ。ねぇ、私が叩かれたり暴言言われたりするのイヤなんでしょ?私もね、私が叩かれたり暴言言われたりするのイヤなんだ。」と語り掛ける。

 

・本作の最終頁では教室の児童らが主人公を笑っている光景が描かれている。

 

 

 

 

〇全体を通して感じたこと

・文字が一切かかれていないコマが随所にあり、間(ま)の表現を感じさせる工夫だと言える。

 

・主人公は教室に入るときに「ランランラン。ラララララ。」などと鼻歌らしきものを歌う習慣がある。これは主人公にとって学校が(少なくとも渡辺から水を掛けられる瞬間までは)楽しい空間であったことを示していると思われる。言い換えれば家庭環境が過酷であったがために、学校空間が或る意味すごしやすかったのだろう。母親も若い男と会うため家から出るときに「ランランラン。ラララララ。」と歌っていたことを踏まえると、母親の行動習慣に影響された習慣である可能性が高い。

 

『良心の呵責』ほど明瞭な区別ではないが、「人格的に終わっている訳ではないキャラ」(担任の先生など)と「人格的に終わりきっているキャラ」(主人公の母親など)の区別がされている印象を受ける。

 

・本作は、普通の漫画であればハッピーエンドにつながりそうな展開が終わり際に出現しているにも拘らず、実際にはハッピーエンドから乖離した結末となっている。『良心の呵責』も同様。

 

・本作で主人公が渡辺に水を掛けられるという結末になっているのは、長い期間にわたって交流している訳でもない他人に対して「君は素晴らしい」などのようにポジティヴな言葉を投げかけてくる人物(本作であれば渡辺に対して「優しいよ。」と語り掛ける主人公)に作者が違和感を持っているからなのかもしれない。

 

★底本

第二部 p326~333

 

★手塚による要約

最も静かな時刻が来て、永劫回帰の真理を宣べ(のべ)伝えよ、と命ずる。モーゼの召命に似た場面。かれは自分の未熟を思って孤独にはいる。

 

★解説

 

 

 

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ツァラトゥストラ解説 46 さすらいびと

★底本

第二部 p319~325

 

★手塚による要約

人間をののしるが、人間を離れては自分の事業を行う場所がない。それで人間をがまんする知恵を語る。皮肉のうちに愛情がほのめく。

 

★解説

 

 

 

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★底本

第二部 p307~319

 

★手塚による要約

真の救済とは不具を癒やすことではなく、過去の偶然を意志が積極的に肯定し、それを意志の必然に化すること。永劫回帰説は近づく。

 

★解説

 

 

 

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★底本

第二部 p298~306

 

★手塚による要約

強い生の教説者にとって最大の敵は、すべてはむなしいとの虚無感である。それに苦しんだ末、新しい打開の予感を得る。永劫回帰。

 

 

★解説

 

 

 

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★底本

第二部 p290~298

 

★手塚による要約

永劫回帰の思想は熟しつつあるが、ここでは革命家の根底を探り、大事件は喧噪からではなく、静かな時間のうちに生まれると説く。

 

★解説

 

 

 

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★底本

第二部 p282~289

 

★手塚による要約

ツァラトゥストラも詩人であるだけに、詩人の弱点を痛感する。それにゲーテがどうも気にかかる。明日を担う本質的な詩人たれ。

 

★解説

 

 

 

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