2022年03月17日、音楽批評家の石黒隆之氏が「SMAPの昔の歌が、ウクライナ戦争で人気急上昇。今聴くべき名反戦歌の数々」という記事を発表した。
本記事では彼の記事に関する私見を述べていく。
<忌野清志郎(1951-2009)は、日本国憲法の第九条への並々ならぬ愛と信頼を隠しませんでした。
「憲法九条を知っているかい。ジョン・レノンの歌みたいじゃないか。世界中に自慢しよう」(2005年4月24日 アースデイ東京二〇〇五での発言)と語ったこともあり、自身のバンド「RCサクセション」では洋楽のカバーに日本語詞をつけたアルバム『カバーズ』(1988年)で、反戦と反核を主張しました。
特に、清志郎流の「風に吹かれて」(オリジナルはボブ・ディラン)の改変は痛烈です。
「どれだけ金を払えば満足できるの? どれだけミサイルが飛んだら戦争が終わるの? その答えは風の中さ」“金を払えば”と“ミサイルが飛んだら”は、どちらもディランの原曲にはないフレーズ。清志郎なりの解釈から創作した、新説「風に吹かれて」といった趣です。>
忌野清志郎は洋楽を日本語に訳した歌詞も素晴らしいことで知られている。個人的にはイマジンの日本語訳の歌詞が特に魅力的だと考えている。原曲の歌詞の一節「You may say I'm a dreamer」のmayに着目し、「夢かもしれない」「夢じゃないかもしれない」と歌う箇所は彼独自の感性が漂っていると思う。
<敗戦国であり唯一の被爆国であることからくる戦争への決定的な拒否感と、ベトナム戦争に抗議した60、70年代の欧米のフォークソングに対する共感。これらがあいまって、日本ならではの反戦歌が生まれたように思います。根底にあるのは、戦争は愚かな行為であり、平和と人間の生命こそが何よりも大事であるとのメッセージです。>
SMAPやブルーハーツは兎も角、少なくとも忌野清志郎に関しては妥当な主張。
<当然、そこに反対すべき点はありません。おそらくほとんどの人は戦争をしたくないし、平和で幸せに暮らしたいし、暴力に訴えるより対話によって合意を見出すのが人類の理性であり良心であると信じている。筆者もその一人です。 けれども、このように戦争を遠くからながめて批判的でいられるのは、第二次大戦以降、いまのところ私達が幸いにも戦争の部外者であるからなのではないでしょうか? 考えたくもないことですが、万が一、今後当事者となってしまったとき、“人命は尊い”とか、“暴力では何も解決しない”との理念だけで、果たして耐えられるのだろうか?>
紛争の当事者であっても元々紛争を望んでいなかった人であれば紛争を仕掛けた侵略者に対して批判的になる気がする。
<このたび「Triangle」の道徳的なメッセージに共感が集まった事実は、現状の日本が比較的裕福であり、いくぶん平和であるという恵まれた特権的な立場にあることの裏返しでもあるのだと思います。戦争への時間的猶予と経済的余裕が保障する、条件付きの“反戦”なのですね。 問題は、今後起こりうる事態に、温室育ちのリベラリズムで耐えきれるのだろうか、という点です。>
日本よりも紛争に近い国々、日本よりも経済的に豊かではない国々であっても、ウクライナ侵攻に対して、反戦歌への共感が大規模かつ広範囲に発生している。「戦争への時間的猶予」という箇所があるが、この言い回しでは「日本は戦争開始をぐずぐず引き延ばして、戦争開始を決定・実行しなかったり戦争を実行する日時を引き延ばしたりしていること」となってしまう。石黒氏が「日本は戦争開始を実行せず引き延ばしている」と捉えているのなら話は別だが、冷静に考えるならば時間的猶予という表現は適切ではない。
<問題は、今後起こりうる事態に、温室育ちのリベラリズムで耐えきれるのだろうか、という点です。>
日本が70年以上、平和であったことを石黒氏は「温室育ちのリベラリズム」と表現しているのかなと思う。戦後民主主義では確かに平和主義が濃厚だと言える。
<テレビや新聞のニュースなどで世界情勢を知った気になっている中流家庭の子供たちに、ポルポト支配下のカンボジアへ行ってみろとけしかける。大学でマルクス主義を学んだぐらいで革命家気取りになり、ジャズを聞きかじっては、スラム街に暮らす黒人たちの厳しい境遇に同情を示すぼんぼん連中。>
ジャーナリストなら激戦地に足を運んだ方が良いし、伝聞よりも直に現場を知るほうが望ましいことは論を俟たない。しかし、ウクライナ侵攻下でウクライナに入国した慶応大学生の事例(松田隆氏の指摘)などが示すように、非紛争地帯で日常生活を送っている一般人が紛争地帯に足を踏み入れるというのは現実的でない側面もある。
<ここまで極端ではなかったとしても、目の前でテロや戦争と向き合う人たちの訴える“NO WAR”と、“戦争はいけない”と説く道徳的な非戦との間には、決して小さくない隔たりがあるのだと思います。>
「目の前でテロや戦争と向き合う人たちの訴える“NO WAR”」も世界平和という倫理(道徳)に基づいているはず。隔たりというよりも、単に経験者か否かの違いと捉える方が妥当。
<ジョン・プラインは、サム・ストーンが“すてごま”だとは明言しません。そうすることで、激しく異議を唱えることもしません。優れた歌詞は、青年の主張や新聞の社会時評的なアプローチを取らないからです。>
ブルーハーツの「すてごま」の歌詞への批判となっているが、この批判は事実に即していない。「サム・ストーンが“すてごま”だとは明言」しないのは、ジョン・プラインが戦争では多くの若者が「すてごま」として扱われがちであることを訴えようと思わなかったから、もしくはジョン・プラインにとっては当事性が強すぎて、そのような辛辣な表現が心理的に出来なかったからだろう。これも経験者か否かの違いでしかない。
「すてごま」の作詞作曲者である甲本ヒロトが「僕たちを縛りつけて ひとりぼっちにさせようとした 全ての大人たちに感謝します 1985年日本代表ブルーハーツ」と述べたのは事実だが、「すてごま」に関しては歌詞における主人公が青年であるとは限定されていない。そもそも「すてごま」が収録されたブルーハーツの6枚目のアルバム『STICK OUT』が発表されたのは1993年であり、1985年から8年も経過している。「新聞の社会時評的なアプローチ」というのは甲本ヒロトの作詞に余り当てはまらないものだと言える。
<代わりに、聞き手に強烈なイメージと問いを投げかける。注射針で穴のあいた肉体を、ゴルゴダの丘で釘付けにされたキリストと重ねることで、偉大さとみすぼらしさが背中合わせだとほのめかすのですね。この全く笑えない皮肉こそが、紛れもない事実なのだと。>
ブルーハーツの音楽にも強烈なイメージと問いを投げかける歌詞は多い印象を受ける。
<戦争に賛成だとか反対だとかいう議論では何の気休めにもならない。抗うことのできない大きな力に飲み込まれたとき、一体個人に何が残るのかを考えさせられるのです。>
民主主義国家において議論は政治を成熟させていく。気休めではなく、国家の軌跡を左右する重大なものである。
<日本を取り巻くパワーバランスが激変しているいま。戦後育んできた道徳的な反戦思想は守りつつ、一方で無慈悲な現実に対応するための準備も必要になってしまったように思います。 武力の存在そのものを否定する平和のメッセージは尊い。けれども、それは同時に決定的に無力であることも理解しなければならないのです。>
「武力の存在そのものを否定する平和のメッセージ」とあるが、世界中で武力が完全になくなれば世界平和は自動的に成立するので原理的には何ら間違っていないメッセージだとは言える。非紛争地帯における反戦運動がベトナム戦争の終結にどれほど貢献したことか。歴史において、平和を訴える世論が戦争終結に繋がったケースもあれば繋がらなかったケースもあるという事実を「決定的に無力」と断言しているのはいただけない。
石黒氏の批評を読んで感じたのは「このひと本当にブルーハーツや日本の反戦歌などを知っているのかな」ということである。Dead Kennedysもブルーハーツもパンクロックという根底の部分は一致しているし、「親に養ってもらってる立場でなんか言ってもしょうがないんだよね(出典:『どぶねずみの詩』)」という甲本のコメントや「イメージ」(6枚目のアルバム『BUST WASTE HIP』収録)という曲の歌詞などを考えれば寧ろDead Kennedysに価値観が近いと分かるはずなのだが・・・。