★底本

第二部 p270~276

 

★手塚による要約

主観的な意図や欲望を離れた、いわゆる純粋な認識や観照の欺瞞性を突き、真の美は生気にみちた無垢な創造行為にのみ宿ると説く。

 

 

★解説

・この章でツァラトゥストラは「純粋に認識する者たち(観照の者たち)」を月に喩え、酷評している。観照(かんしょう)は「主観をまじえないで事物を冷静に直視すること」であり、美学の領域などでよく用いられる語彙である。

 

・ツァラトゥストラは月すなわち「観照の者たち」を酷評する一方で「太陽」を賞賛している。手塚は「観照の者たち」のことを「欲念や主我的態度を離れて、現象をありのままに観照しようとする人たち」と解説している。若き頃のニーチェはショーペンハウアー哲学に心酔していたが、ショーペンハウアーは意志の離れた観照を「美の母胎」とみなした。

 

・「ツァラトゥストラの序説」でもツァラトゥストラは太陽を賞賛していた。「23 贈り与える徳」でツァラトゥストラの弟子たちが別離のしるしとしてツァラトゥストラに贈った杖でも握り部分のデザインにて太陽が用いられていた。この章でツァラトゥストラは「贈り与える者のまなざしは金の輝きに似ている。金の光は月と太陽とを平和に結びつける」と語っており、「光を与える天体である太陽」と「光を受ける天体である月」という関係性を述べている。

 

・近辺(p270):「きんぺん」と読む。「ある場所の周辺の地域」という意味。

 

・この章の冒頭に「昨夜、のぼりゆく月を見たとき、わたしは月が一つの太陽を生もうとしている、と思った。それほどに月は、地平線上に大きな孕んだ姿を見せていた。しかし、月が懐妊と見せかけたのは、いつわりだった。だから、わたしは月が男性であることを信じよう、月が女性であることを信ずるよりは。」とあるが、夜中に月の明るさを見てツァラトゥストラは「月が一つの太陽を孕もうとしている」と感じた。だが、ツァラトゥストラが教えを説いているうちに朝が来たようで、この章の終わり際に太陽(あけぼのの深紅の光)が姿を現している。なお「月が男性であることを信じよう、月が女性であることを信ずるよりは」はゲルマン神話で「太陽は女神、月は男神」とされていることを踏まえている。

 

・ツァラトゥストラは続けて「そうは言っても、月、このおずおずした夜歩き人はあまり男性的ではない。まことに、 かれはやましい良心をもって屋根屋根の近辺を渡っているのだ。つまり、かれ、月中の僧侶は、好色で嫉妬ぶかい。大地にたいして、また恋人たちのあらゆる喜びにたいして、ものほしげな目を向けている。そうだ、わたしは屋根屋根を渡りあるくこの牡猫(おねこ)を好まない。なかば閉ざされた窓のあたりを忍び足であるく者たちは、すべてわたしにはいとわしい。殊勝げに、寡黙に、かれは星々をちりばめた絨毯(じゅうたん)の上を移ってゆく。しかし、わたしは、拍車(はくしゃ)の音をひびかせることなしに、ひっそりと歩く男の足を、おしなべて好まない。正直な者の歩みは、声高に語る。だが猫はこっそりと床を渡って行く。見よ、月が猫のように、不正直者らしくやってくるのを。」と語っている。キリスト教の僧侶を「好色で嫉妬ぶかい」と形容するのはシニカルなようにも感じられる。拍車は「乗馬用の靴のかかとに付けて馬の腹を刺激し、馬の走りを速める金具」のことである。

 

・ツァラトゥストラは「観照の者たち」が「ツァラトゥストラたちと同様に大地を愛し、地上のものを愛していること」を認めてはいる。だが、地上のものへの愛に、羞恥とやましい良心とが含まれてしまうため、「わたしにとって最高のことは、生を、欲念なしに、また犬のように舌をたらすことなしに、観照することだ。 観照に幸福を見いだそう、意志を殺し、主我的な干渉と欲念をなくして。――全身は冷ややかに灰色に、しかし目は月のように見ることに陶酔して。これがわたしにとって最も好ましいことだ」と誤った考えに陥り、ついには「月が大地を愛するような愛しかたで、大地を愛しよう。 ただ目だけで大地の美を撫でよう。そしてわたしは、すべての事物から何も欲しないということを、すべての事物にたいする無垢な認識と呼ぼう。わたしが望むのはただ、すべての事物の前に、百の目をもつ鏡のように横たわっていることだ」と更に誤った考えに陥ってゆくと指摘する。

 

・ツァラトゥストラによれば「観照の者たち」は「自分は愛にとらわれない」と口にしているようであり、その影響で「観照の者たち」の持つ地上のものへの愛には、羞恥とやましい良心が含まれてしまうのだという。ツァラトゥストラは「観照の者たち」を「神経質な偽善者たち」や「好色者」や「おまえたち臆病者」や「高貴な名称の冒瀆者たち」や「無垢な者たち」や「虚言者たち」などと形容する。

 

・観照に幸福を見いだしたり意志を殺したりするということは、「生きるという営みを、主観をまじえないで事物を冷静に直視することに費やし、何らかの意思を持つことを放棄する」ということであり、創造を説くツァラトゥストラの超人思想とは相いれない。なお、「百の目をもつ鏡」は前章の「自身らのまわりに五十の鏡を置く現代の人間たち」と似たフレーズである。

 

・p272でツァラトゥストラが形象(けいしょう)について言及しているが、形象は「表に現れているかたち。姿。形態。感覚でとらえたイメージや、心に浮かぶ観念などを具象化すること」という意味の用語であり、美学や哲学や心理学などで広く使われる用語である。ショーペンハウアーは「人間同士は互いに苦しみ合う運命にあり、その苦しみから一時的に逃れるには、他人との関わりを断ち、一人で精神的思索に没頭することや、芸術活動などで美を追求することなどが挙げられる」と述べたが、ツァラトゥストラは観照の者たちに対して「単に思索や芸術活動をして満足するのではなく、いっさいの意志をあげて迫りくるような創造の意欲を持つこと」を説いているのだろう。

 

・ツァラトゥストラが観照の者たちを「高貴な名称の冒瀆者たち」や「虚言者たち」などと呼んでいるのは、観照の者たちが高貴な言葉を口いっぱいにつめているからである。一方でツァラトゥストラの言葉は卑しく、姿の悪い言葉である。ツァラトゥストラによれば、観照の者たちの食事のときに食卓の下に落ちたもの(魚の骨、貝の殻、とげのある葉)をツァラトゥストラは好んで拾い上げ、これらの拾ったもの(言い換えれば「卑しく、姿の悪い言葉」)で、観照の者たちの鼻をくすぐることが出来るのだという。

 

・余談だが、手塚は「とげ」に対して「刺」という漢字表記をしている。名詞「とげ」は「刺」のほかに「棘」という漢字表記も可能である。

 

・ツァラトゥストラによれば、観照の者たちや、観照の者たちの食卓のまわりには、悪い空気がただよっており、観照の者たちのみだらな思想、嘘、隠しごとが、その空気のなかにこもっている。ツァラトゥストラは観照の者たちに「大胆に自分自身を信ずるがよい」や「おまえたち自身とおまえたちの内臓を信ずるがよい。自分自身を信じない者のことばは、つねに嘘になる」と助言する。ツァラトゥストラは内臓という語彙を多用するが、この章では食卓の比喩が用いられている。言うまでもなく、食事は内臓と密接に関連している行為である。

 

・p274に「仮面」や「匍い虫(はいむし)」というフレーズがある。「匍い虫」は「地などを這う(はう)ようにして動く虫」のことだが、前章を振り返ると、p265に「何にもまさる仮面」とあり、p268に「甲虫や羽虫など」とある。さきほど述べたp265の「五十の鏡」も踏まえると、この章と前章のつながりのようなものが浮かび上がってくる。確かに、前章では「現代の人間たち」が非難されており、この章では「(現代の人間たちのなかでも特に)観照の者たち」が非難されている。

 

・とぐろ(p274):蛇などが渦巻き状に体を巻くこと。漢字では「塒」や「蜷局」と表記される。

 

・奸智(p274):「かんち」と読む。「悪知恵」という意味。

 

・ツァラトゥストラは「かつてはおまえたちの芸術にまさる芸術を考えることはできなかった」と語るほど、観照の者たちに肯定的だった。しかし、観照の者たちに近づいたことで、観照の者たちの正体に気づいたのだという。ツァラトゥストラは蛇や「奸智にたけたとかげ(悪知恵が得意な蜥蜴)」といった表現を用いて、観照の者たちを批判するが、p274の第七段落で「洞察の朝がわたしに開けた」や「月の情事は終わったのだ」と語りだす。

 

・朝が来て太陽が姿を現すと、「自らは光を発することなく単に太陽からの光を反射しているに過ぎない月」が青ざめて見えてくる。ツァラトゥストラは太陽を賛美し、「無邪気さと創造の欲望が、太陽の愛である」と語る。

 

・p275に「太陽は海を吸い」とあるが、これは「潮の満ち引き」を指しているのだろう。ただし、正確には「潮の満ち引き」は太陽の引力だけで発生するものではなく、月などの天体の引力も関わっている。同じ段落に「海の欲念は千の乳房(ちぶさ)をみなぎらせて高まる」とあるが、ツァラトゥストラは「32 夜の歌」でも「光の乳房」という表現を用いている。

 

・植物が太陽の光を受けて(つまり太陽の力によって)生き生きとするというイメージはありふれているが、ツァラトゥストラはp275で「海が太陽の力によって生き生きする」というイメージを詩的に表現している。大地だけではなく海さえも太陽の力にひきつけられているという発想はダイナミックであり、ニーチェの有するイマジネーションの豊かさが感じられてくる。

 

・ツァラトゥストラが、認識とよばれるべきものは「いっさいの深みにあるものをのぼらせること――わたしの高みにまでのぼらせること」だと述べた直後に、「ツァラトゥストラはこう言った。」という定型句を来て、この章は結ばれている。この章全体の内容と、この箇所に関する手塚の脚注を踏まえると、「いっさいの深みにあるものをのぼらせること――わたしの高みにまでのぼらせること」は「単に事物を観照して認識するのではなく、高いレベルの創造によって、事物の深部にあるものをのぼらせる(形象が単なる形象として終わらないようにする)こと」を指していると思われる。

 

・なお、「36 崇高な者たち」でツァラトゥストラは「わたしの海の底」や「わたしの深部」という暗喩を用いており、ツァラトゥストラにとって「海」は深部(深いところ)を想起させる名詞なのだろう。確かに、日本語において「海底」という名詞があるように、浅瀬や屋内プールなどと違って、海は潜ろうと思えばかなり深くまで潜ることが出来る。

 

 

 

 

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★底本

第二部 p264~270

 

★手塚による要約

かき集めた教養に寄食する現代を痛撃し、自分は過去の遺産に頼らず未来への創造に生きようとする決意を言う。先駆的な教養不毛論。

 

 

★解説

・ツァラトゥストラは「ツァラトゥストラの序説」や「12 新しい偶像」などで教養を否定的に捉える見解を示している。この章のタイトルは「教養の国」となってはいるが、この「教養の国」は「現代の人間たちがいるところ」という意味である。

 

・故国(p264):「ここく」と読む。「母国」や「ふるさとの国」という意味。

 

・ツァラトゥストラは自身を鳥に喩え、「私の羽ばたきは余りにも深く未来の空間のなかに入りすぎて私と時を同じくする人間はいなくなってしまった。私は故国に向かって急いだ。そして、現代の者たちがいるところ(教養の国)に着いた」と語る。p266以降でも鳥の喩えが用いられているが、空を飛ぶ鳥は遠く離れた場所であっても自由に行き来できる動物とされる。遠く離れた場所を行き来できるということから、地理的な距離のみならず時間的な距離をも行き来するというイメージをツァラトゥストラは持ち、鳥の喩えを考案したのではないだろうか。手塚治虫の『火の鳥』でも、火の鳥は遠く離れた場所を行き来するだけではなく、過去から未来へ行ったり未来から過去へ行ったりしている。

 

・長らく未来の空間になかに入っていたツァラトゥストラは善意の欲望をたずさえて現代の人間たちを見た。だが、ツァラトゥストラの目には現代の人間たちが「雑然としたまだら模様」や「あらゆる絵具の集散地」に映った。ツァラトゥストラによれば、現代の人間たちは顔に手足に五十の絵具のしみをつけている。そして、自身らのまわりに五十の鏡を置き、その鏡は現代の人間たちの色の叫喚に媚び、それをまねて叫び声をあげている。ツァラトゥストラは現代の人間たちを「おまえたちは絵具と、膠(にかわ)で張られた紙とでできている」や「おまえたちから、ヴェールとマントと色と身ぶりをはぎ取ったら、あとに残るのは、鳥おどしに役立つ程度のものだろう」と酷評している。

 

・ツァラトゥストラは現代の人間たちを笑いに笑った。ただし、現代の人間たちに対する善意の欲望をたずさえてはいたので、笑うと同時に胸苦しさにふるえていた。

 

・p265に「腎臓」とあるが、手塚が脚注で述べているように、「人間の精髄、本性」という意味で用いられている。『ヨハネの黙示録2:23』に「all the churches shall know that I am he which searcheth the reins and hearts」(King James Version)とあり、reinsは現代の英語に訳せばkidneysとなる。現在において心(心臓)という臓器が気持ちを表す言葉として用いられるように、聖書において腎臓はしばしば「人間の精髄、本性」といった意味で用いられる。

 

・ツァラトゥストラによれば、現代の人間たちは「われわれはまったく現実的な存在である。そして信仰にも迷信にもとらわれない」と言って胸を張っている。確かに、ニーチェが本書を執筆した1880年代の西欧では自然科学の発達によってキリスト教や非科学的な迷信が影響力を失いつつあった。だが、ツァラトゥストラは<未来におけるすべての不気味なもの、また過去において鳥たちをおどして飛び去らせたいっさいのものも、おまえたちの「現実」にくらべれば、まだしも親しみを感じさせる>と語る。

 

・ツァラトゥストラは現代の人間たちを「かつて信ぜられたいっさいのことの写し絵にすぎないおまえたち」と呼び、「おまえたちは、おまえたちのことばを聞くまでもなく、そうして立っているだけで信仰の否定である。手足を持った生身(なまみ)の否定である。あらゆる思想の脱臼である。信ずるに値せぬ者、そうわたしはおまえたちを呼ぶ。現実的な者たちよ」と酷評する。確かに、「過去の生んだ記号をからだいちめんに書きつけ、さらにその記号を新しい記号で上塗りしている」ように見える者たちは、手足を持ちながら生身(生の肉体)を否定しているようなものかもしれない。

 

・ツァラトゥストラによれば、現代の人間たちのいう「現実」は、「一切は滅びるにあたいする」という虚無的な価値観である。ニーチェは虚無主義(ニヒリズム)の代表的な哲学者とされるが、本書を読めばわかるようにニーチェは創造を重視しており、「どうせ一切は滅びるにあたいする」といった諦めにも似た価値観を提唱した訳ではない。

 

・「一切は滅びるにあたいする」という価値観を持っていると、自分自身の価値さえも疑わしく(いぶかしく)感じられるようになる。現代の人間たちの一部も、自分たちの空虚さをうすうす感じているようであり、彼らは神がイブを創造するためにアダムの就寝中にアダムの体から肋骨を奪ったという聖書の故事を踏まえて、その空虚さを表現している。

 

・ツァラトゥストラは「13 市場の蠅」で「世の小人たち」を無数の蠅と表現していたが、p268でも「わたしがおまえたちのいぶかりようを笑うことができなくなったら、そしておまえたちの鉢のなかからすべてのいとわしいものを飲まねばならなくなったら、さぞわたしはみじめなことだろう。しかし、わたしはおまえたちのことを軽く受けとめておこう、わたしは重いものを担わなければならない身なのだから。わたしの荷に甲虫や羽虫などがとまったからといって、それが何だろう。まことに、おまえたちがとまったからといって、わたしがそれを重荷にするはずもない。現代の者たちよ、おまえたちから大きい疲労がわたしに伝わってくるはずもない」と語っており、現代の人間たちを甲虫や羽虫などに喩えている。

 

・「ああ、わたしの憧れを担っているわたしは、さらにどこへ登るべきか。わたしはあちこちの山から、父の国、母の国へと目をそそぐ。 だが、どこにも故郷を見いだせなかった。わたしはどんな都市にも落ちつくことができない。わたしはあらゆる市門からの出発者である。 現代の者たちは、わたしには他郷の者であり、笑いの種である。なるほど、ついさきごろわたしの心はかれらへ駆り立てられはしたが。 そしてわたしは父の国、母の国からも追われた身だ」とツァラトゥストラは自分の境遇を語る。手塚の脚注によれば、「父の国」や「母の国」は「文明の源流である過去の諸時代」のメタファーである。


・続けてツァラトゥストラは「こうして、わたしが今も愛するのは、わたしの子どもたちの国だけである。大洋の果てにある、まだ発見されない国である。わたしはわたしの帆にその国をあくまでさがせと命令する。わたしがわたしの父祖の子として生まれたことを、わたしはわたしの子どもたちで、取り返そうと思う。未来で――この現在を取り返そうと思う――。」と語っており、その直後に「ツァラトゥストラはこう言った。」という定型句を以て、この章が結ばれている。「あくまでさがせ」は「あきるまでさがせ」という意味である。ツァラトゥストラは「24 鏡をもった小児」でも「叫喚と歓呼のように、わたしは大海を渡って行こう。わたしの友となるべき者たちが住んでいる至福の島々を見いだすまで」と決意しており、「父の国、母の国からも追われ、現代の人間たちの住む教養の国にもなじめないので、わたしの子どもたちの国を探そう」と考えている。

 

 

 

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★底本

第二部 p258~264

 

★手塚による要約

強者が刻苦と力闘によって、いかに崇高に見えようとも、くつろぎと遊びと美の世界にはいらなければ真の高所に達したのではない。

 

 

★解説

前章のp254~255に「謎」や「秘密」という語句が登場していたが、この章の冒頭部(p258)や終わり際(p262)にも「謎」や「秘密」とある。この章で、ツァラトゥストラは「オイディプス王が怪物スフィンクスの謎を解く」という古代ギリシャ悲劇を踏まえて自身の弟子たちに教えを説いている。古代ギリシャにおいて悲劇はディオニュソスに関する宗教儀式として制作され演じられていた。

 

・ニーチェは本書を発表する十年ほど前に、処女作『悲劇の誕生』を著している。この処女作でニーチェはギリシア神話のアポロンとディオニュソスに着目し、「アポロン的」と「ディオニュソス的」という対立概念を提唱したうえで、悲劇を両者の性質をあわせもつ最高の芸術形態と論じた。

 

・この章は「崇高な者(力強い者)」を論じているだけではなく、英雄についても論じている。ツァラトゥストラは「魂から英雄が離れたとき、はじめて、その魂に夢のなかで超英雄が近づく」と語っている。

 

・ツァラトゥストラの(精神の)深部は静かであり、ゆらぐことがない。しかし、ツァラトゥストラは(精神の)深部に戯れ好きの怪物を隠しているという。この「戯れ好きの怪物」は通りがかりの者に「朝に四脚、昼に二脚、夕に三脚。この生き物は何か?」という謎を出題していた怪物スフィンクスを暗喩している。

 

・p258~259で、ツァラトゥストラは自身が目撃した「一人の崇高な者」について語っている。彼(一人の崇高な者)は胸を高く張り、深く息を吸いこんださまで黙々と立っていたが、ツァラトゥストラは彼の魂を醜いと感じている。

 

・p258に「裂けた着物」とあるように、元々「着物」は「衣服」という意味の名詞であり、必ずしも「和服」を意味する名詞ではなかった。つまり、元々の日本語では、和服であっても洋服であっても「着物」と呼ばれていた。だが、21世紀の標準的な日本語では洋服を「着物」と表現することは殆ど無くなっている。

 

・p259でツァラトゥストラは薔薇の暗喩を用いている。薔薇は美しい花(花びら)を有するが、その一方で茨(いばら)もある。ツァラトゥストラは崇高さを持つ一方で、笑いや美を学んでいない彼のことを「茨だらけなのに(美しい)薔薇の花は一つもない」と評している。「8 読むことと書くこと」においても薔薇を用いた暗喩が見られ、その章でツァラトゥストラは重々しさへの笑いを説いている。

 

・ツァラトゥストラの友ら(ツァラトゥストラの弟子たち)は「趣味と味覚は論争の外にある」と考えているようである。この考えは弟子たちに限らず、世間一般で広くみられる価値観だろう。バスケットボールが趣味の人もいればテニスが趣味の人もいる。バイオリンの演奏が趣味の人もいればチューバの演奏が趣味の人もいる。トマトが大好きな人もいればトマトが大嫌いな人もいる。確かに、銃規制の是非や、憲法を改正すべきか否かや、野球のDH制に賛成か反対か等は議論や論争の対象となりうるが、何を趣味とするのかや、食べ物の好き嫌いは人それぞれであり、それ自体は議論や論争の対象とはならないなどと考えるのはおかしなことではない。

 

・だが、ツァラトゥストラは「生の一切は、趣味と味覚をめぐる争いなのだ」と説く。ツァラトゥストラにとって、趣味は秤り皿であり、同時に錘(おもり)であり、秤り手である。味覚にしても、ジャンクフードを食べて「凄く美味しい!」と本気で感じているような人などを想像してみると、ツァラトゥストラの言わんとしていることが分かりやすいように思われる。

 

・p260によれば彼(一人の崇高な者)の目には今なお蔑みの色があるという。「ツァラトゥストラの序説」でも老隠者は「そうだ、これはツァラトゥストラだ、その目は澄んでいる」と述べていたし、「9 山上の木」でもツァラトゥストラは「かれ(山上の木の幹に腰を下ろしツァラトゥストラのことについて考えていた青年)の目はいっそう清らかにならねばならぬ」と語っていた。ツァラトゥストラは彼(一人の崇高な者)に対して「天使の目」を持ってほしいと願う。

 

・ツァラトゥストラは天上界について「ツァラトゥストラの序説」や「9 山上の木」で「天上の希望を説く人々」について酷評しているが、この章では「天使の目」や「天の大気」や「天上の子どもたち」などといった語句を肯定的なニュアンスで用いている。また、ツァラトゥストラは前章まで「力への意志」などといったキーワードを多用しており、意志を肯定的に捉えていたが、この章では「筋肉を遊ばせ、意志の馬具をはずして立つこと、これが崇高な者たちよ、君たちすべてにとって最も困難なことである」と述べている。

 

・牡牛(p260):「おうし」と読む。オスの牛という意味。

 

・また、ツァラトゥストラは彼(一人の崇高な者)に対して牡牛(おうし)のようにふるまうべきだと語る。そして、彼の幸福は地の匂いを発するべきで、地への蔑みの匂いを発するべきではなかったとも語る。要するに、ツァラトゥストラは彼が蔑みや面持ちの暗さから抜け出して、天空のような朗らかさ(ほがらかさ)を持つべきだと考えている。この「地」は「我々がいま生きている現世」という意味だろう。

 

・p261でツァラトゥストラは「かれの欲求が満ち足りて沈黙すべきだ、とわたしは言っているのではない、そうではなくて、美の世界にひたってかれの欲求が沈黙するのでなければならない」と語っている。これは「人間同士は互いに苦しみ合う運命にあり、その苦しみから一時的に逃れるには、他人との関わりを断ち、一人で精神的思索に没頭することや、芸術活動などで美を追求することなどが挙げられる」というショーペンハウアーの思想(35 自己超克)を反映しているようにも感じられる。

 

・ツァラトゥストラは彼(一人の崇高な者)を「精神に奉仕する贖罪者」と形容していたが、「30 毒ぐも」でツァラトゥストラは「わたしは復讐の強風になるよりは、むしろ円柱聖者となろう」と語っている。円柱聖者は「4~5世紀ごろのシリア地方で最初は狭い場所、のちには円柱の上で贖罪した苦行僧」を指す歴史用語である。

 

・円柱は高くなるほど美しくなる。p262の「細くなる」は「円柱の断面は円だが、この円の面積が一定であったとしても高くなればなるほど、高さに対する『円の直径』の比は大きくなる一方である。このように、円柱の高さが増加するほど円は相対的に小さくなってゆき、円柱が細くなってゆく」という意味だろう。ツァラトゥストラは円柱が高くなっていくことを崇高さに喩え、「一人の崇高な者は、崇高さ(や、崇高さを支える力強さ)と、美しさを両立してほしいものだ」と考えている。

 

・ツァラトゥストラは「そうだ、崇高な者よ、君はいつの日か、美しいものにならねばならぬ。そして自分自身の美しさを鏡にうつしてながめねばならぬ。そのとき、君の魂は神的な欲念のためにおののくだろう。そしてその美しさを誇りながらも、高いものへの愛慕が君のうちに湧くことだろう。つまり、これが魂の秘密なのだ。魂から英雄が離れたとき、はじめて、その魂に夢のなかで―――超英雄が近づくのだ」と、ナルシシズムを推奨するかのようなことを主張している。

 

・ナルシシズムは、ギリシア神話に登場するナルキッソスに由来する心理学用語である。泉の水面にうつった自分の姿に惚れるという呪いを受けた美青年のナルキッソスは水面にうつった自分にキスしようとして泉に落ち、溺死したが、水面を鏡に置き換えるとツァラトゥストラの主張はナルキッソスの伝説さながらである。ただし、言うまでもないことだが、ツァラトゥストラはナルキッソスのように彼(一人の崇高な者)が泉や地上に転落して死ぬことを願っている訳ではない。

 

・「超英雄が近づくのだ」とツァラトゥストラが英雄論に関する言葉を発した直後に「ツァラトゥストラはこう語った」という定型句が登場し、この章は結ばれている。

 

 

 

 

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★底本

第二部 p250~258

 

★手塚による要約

認識も評価も客観的真理ではなく、力への意志の現われと見、およそ生を、力への意志によって自らを克服してゆくものと力説する。

 

 

★解説

・この章のタイトルの「自己超克」はニーチェの哲学用語の一つである。それは「生の必然的なありかた」であり、「自己が置かれている現状を超えるような価値や道徳を創造し、自分自身の現状を乗り超えていくこと」でもある。この章には「生への意志」、「真理への意志」、「生産への意志」、「力への意志」というキーワードが登場している。なお「服従」も、この章のキーワードである。

・この章はツァラトゥストラが君たち(最高の賢者たち)に教えを説く箇所と、生がツァラトゥストラに生についての教えを説いた箇所に分けられる。「生がツァラトゥストラに生について教えを説く」というのは、本書において生という概念(「生命」や「生きるということ」といった概念)が擬人化されており、その擬人化された「生」がツァラトゥストラに生という概念について語っているという意味である。

・真率(p250):「しんそつ」と読む。「真摯」や「ありのままで包み隠しがない」という意味。

・ツァラトゥストラは、君たち(最高の賢者たち)は「真理への意志」を持っていると考えている。それは、「いっさいの存在者を思考しうるものにしようとする意志」を指しているが、これは言い換えるならば「この世界に存在する全ての事象を思考可能なものにしようとする意志」である。今も昔も地球には様々な価値観を持った人間がいて、「この世界に存在する全ての事象を思考の対象にするような人間(この世界の様々なことについて思索にふけるのが好きな人間)」もいる。哲学者や思想家は確かにそのような傾向を有している。

・ツァラトゥストラによれば、この「真理への意志」は「力への意志」の一種なのだという。「力への意志」については「12 新しい偶像」などで既に語られている。

・p250~251に「君たちは、君たちがひざまずいて礼拝するに足る世界を、君たちの精神によって創造しようとしている。それが君たちの究極の理想であり、陶酔なのだ」とあるが、これは君たち(「最高の賢者たち」すなわち「ツァラトゥストラの弟子たち」)が、いま自身らのいる世界を自身らの価値観に沿ったものにしようとしていることを指している。

・p251に「賢明でないもの、民衆は、無意識に流れる川に等しい」とあるように、ツァラトゥストラは民衆を「賢明でないもの」と見做しており、「最高の賢者たち」と呼んでいる自身の弟子たちとは対照的に扱っている。ただ、「無意識に流れる川」の「無意識」に対して個人的に感じるのは、「真理への意志(この世界に存在する全ての事象を思考可能なものにしようとする意志)は無意識とは正反対の姿勢ではないか」ということである。この世界に存在する全ての事象を思考可能なものにしようとする意志は、この世界に存在する全ての事象を意識的に捉えていこうとする意志でもあると考えることは出来るだろう。

・竜骨(p251):「りゅうこつ」と読む。船舶の構造材の一つである。船首から船尾にかけて通すように配置され、船体の強度を上げる役割を持つ。

・天性(p251):「てんせい」と読む。「天から授けられた性質」という意味。

・ツァラトゥストラは生の天性を認識しようとした。その結果、「すべての生あるものは、服従するものである」「自分自身に服従することができない者は他者から命令される」「命令は服従より困難だ」ということを認識した。

・最強の者であっても「自分は最強でありたい」という自分自身の思いに服従している。このように、すべての生あるものは、服従するものなのだとツァラトゥストラは説いている。「自分自身に服従することができない者は他者から命令される」は、裏を返せば「最強の者は自分自身によって命令される」という意味になる。「命令は服従より困難だ」は「強者のほうが弱者よりも困難である」と捉えることも出来る。

・p253に「およそ生あるものの見いだされるところに、わたしは力への意志をも見いだした。そして服従して仕えるものの意志のなかにも、わたしは主人であろうとする意志を見いだしたのだ。弱者が強者に仕えるのは、自分は、自分より弱い者の主人になろうという弱者の意志があるからだ。主人となることの喜びだけは、生あるものであるかぎり、捨てることができないのだ。そして、より小さいものが、より大きいものに身をささげ、そして最も小さいものにたいする支配の喜びと力を得ようとするのとひとしく、最も大いなるものも、さらに身をささげる。そして力を獲得するために――生を賭けるのだ。」とあるが、ブルーハーツも「TRAIN-TRAIN」で「弱い者達が夕暮れ更に弱い者をたたく」と歌っていた。

・間道(p253):「かんどう」と読む。「脇道(わきみち)」という意味である。

・p253にある「冒険、危険、そして死を賭けてのばくち、これが最も大いなる者の献身である」の「最も大いなる者」は超人を暗示している。ツァラトゥストラは「犠牲の行為、奉仕、そして愛のまなざしの見いだされるところにも、主人となろうとする意志が見いだされる。つまり、そのとき、弱者は間道を通って、強者の城郭と心臓とに忍びこみ、力を盗み取ろうとするのだ」と語っている。

p253の最後の段落に<そして、次の秘密は、生そのものがわたしに語ったことなのだ。「見よ」と生は語った。>とあるが、「見よ」は聖書で頻出の語句である。このようにニーチェは本書で聖書をもじった表現を多用している。

・p254からp255の途中までの内容は「生がツァラトゥストラに生についての教えを説くという構図」で記されている。生によれば「自己超克」を天性としており、その天性と「生産への意志」と「目的への衝動」と「より高いもの、より遠いもの、より多様なものへの衝動」は全て同一のものであり、同一の秘密なのだという。

・254の第五段落は第四段落の「目的と目的との矛盾葛藤」を踏まえているように読める。確かに(人が)生きるにあたっては互いに矛盾しているような目的が現れることも珍しくない。

・p254の第六段落の「認識する者」は「26 同情者たち」などでも既出の語句だが、手塚の解説によれば「認識する者としてのわたし(生)」すなわち「わたし(生)の認識作業」なのだという。

・ニーチェは生を擬人化させて生の口から語らせるという形式で、厭世主義者ショーペンハウアーの「生存への意志」という概念に否定的な見解を示している。

・ショーペンハウアーは1788年に生まれ、1860年に没したドイツの哲学者である。「世界は我々人間の主観的認識のうちにしか存在せず、その背後には人間の欲望がある。人間には生存への意志があるため、人間の持つ欲望は無限だが、無限の欲望を満たすことは出来ないため、人間同士は互いに苦しみ合う運命にある。その苦しみから一時的に逃れるには、他人との関わりを断ち、一人で精神的思索に没頭することや、芸術活動などで美を追求することなどが挙げられる。その苦しみから究極的に逃れるのであれば仏教的な諦念や解脱(げだつ)を目指さねばならない」という思想を展開し、西欧の哲学界に多大な影響を与えた。

・ニーチェの主張を分かりやすく言い換えるならば「ショーペンハウアーは『生存への意志』という概念を掲げていたけど、まだ存在しないものが意欲する(何かを欲する)というのは有り得ない。また、既に存在しているものが更に存在や生存を意欲するというのも有り得ない」などとなるだろう。

・いずれにせよ、ニーチェが「生が生を意欲することは有り得ない」と考えていることは確かである。ニーチェは「一般に生があるところにだけ、意志がある。ただし、それは生への意志ではなく力への意志である(生が生を意欲することは有り得ず、生が意欲するものは力である)」と捉えている。

・p255の途中で、生がツァラトゥストラに生についての教えを説いたシーンが終わり、ツァラトゥストラが自身の弟子たちに持論を語るシーンに戻る。「君たち最高の賢者らの心の謎」とあるが、この「謎」はp253の最終段落の「秘密」の類語と捉えて問題なく、この「謎」や「秘密」は「まだ明かされていないこと」というニュアンスなのだろう。

・ツァラトゥストラの弟子たちは善悪の価値判断を行っていくが、善や悪は絶えず自己超克を行う。彼らが現在、立てている「善」という価値にしても、やがて、その内部からいっそう強い暴力と新しい克服が育ってゆき、その「善」という価値が砕かれてゆくだろう。彼らが現在、立てている「悪」という価値にしても、やがて、その内部からいっそう強い暴力と新しい克服が育ってゆき、その「悪」という価値が砕かれてゆくだろう。したがって、最高の悪は最高の善の一端である。そして最高の善とは創造的なものなのだとツァラトゥストラは説いている。

・「語るのはよくないことだが、沈黙しているのは、いっそうよくない」というツァラトゥストラの言葉は本書のタイトルである『ツァラトゥストラはかく語りき』を踏まえているようにも感じられる。

・「われわれの説く真理に触れてくだけるようなものは、みなくだけるがよい――まだ立てるべき多くの家があるのだ」とツァラトゥストラは、この章の終わり際に述べているが、この「家」の他にも「創造された価値観が自己超克されることで破壊される」ということを、ツァラトゥストラはp255で「卵と卵の殻はくだける」という暗喩を用いて表現している。

・この章に限らず、ニーチェは『この人を見よ』でも「善悪において一個の創造者になろうとするものは、まず破壊者でなければならない。そして、一切の価値を粉砕せねばならない」と述べている。

 

 

 

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★底本

第二部 p242~249

 

★手塚による要約

これも抒情の歌である。青春の諸理想が、敵たちの悪意によって早死したことを嘆く。しかもたくましい意志は墓を破って再生する。

 

 

★解説

・この章も「32 夜の歌」や「33 舞踏の歌」同様にLied(歌もしくは叙事詩)である。「32 夜の歌」で「この章を詩と捉えるならば、抒情詩としてだけではなく、叙事詩として読むことも出来よう」と前述したが、この章において「ワーグナーがキリスト教傾向をあらわにした『パルジファル』というオペラを制作した」という現実世界の出来事が詩的に語られていることなどを踏まえると、この章は「32 夜の歌」などと同様に、抒情詩としての性格だけではなく叙事詩としての性格も有している。

 

・地の文(ニーチェの視点による文)を含む「33 舞踏の歌」と対照的に、この章は「ツァラトゥストラはこう語った」という締めの文を除き地の文がない。締めの文以外に地の文がないのは「32 夜の歌」も然りである。

 

・ツァラトゥストラは第一部でも「13 市場の蠅」においてリヒャルト・ワーグナーを批判していたが、この章でもワーグナー批判が展開されている。オペラ『パルジファル』の公開は1882年7月であり、本書の第二部が執筆されたのは1883年の夏なので、執筆者のニーチェにとって、オペラ『パルジファル』の公開は時事ネタだったと言える。

 

・因みに、本書の第一部は1883年2月3日に執筆が始まり、同年2月13日に執筆が完了しているが、ワーグナーが死去したのも同年2月13日である。自身の若い頃の師匠が亡くなった日と、本書の第一部を書き終えた日が一致したことを、ニーチェは、運命は「神聖な時間」を一致させたと形容した。

 

・オペラ『パルジファル』は聖杯伝説というキリスト教における伝説が題材となっており、「救済」が主要なテーマの一つとなっている。このオペラを締めくくる文句は「救済者への救済(Erlösung dem Erlöser)」であり、「27 僧侶たち」でツァラトゥストラが「救済者からの救済」を訴える表現を用いているのは、このオペラに影響を受けているのかもしれない。

 

・常盤木(p242):常緑樹のこと。「ときわぎ」と読む。

 

・この章の冒頭部に「あそこに墓の島がある、物言わぬ島が」とあるが、本書の第二部に「至福の島々で」というタイトルの章があるように、本書の第二部では船出や島という表現がしばしば登場する。

 

・p242に「愛のまなざし」とあるが、「23 贈り与える徳」や「29 賤民」のようにツァラトゥストラは「まなざし」という名詞を多用している。

 

・p242~243に「美しいばら色のりんごの実」とあるが、確かに薔薇の赤さは林檎の実の表面が持つ赤さに似ている。

 

・ツァラトゥストラは40歳ほどの中年男性であり、既に青春時代を通り過ぎている。ニーチェが1844年生まれで、本書の第一部や第二部の執筆時期が1883年であることを考えると、ツァラトゥストラの年齢はニーチェの年齢と凄く近いことが分かる。この章でツァラトゥストラは自身の青春時代の幻影や理想などが消え去ってしまったことを悲嘆しているが、ニーチェも自身の青春時代に尊敬していたワーグナーと後に決別するなど、自身の青春時代の幻影や理想が消え去った体験を持つ。

 

・鳴禽(p243):「よくさえずり鳴く鳥」という意味。「めいきん」と読む。

 

・ツァラトゥストラは自身の青春時代の幻影や理想などをp243で「やさしい、今はわたしに遠くなった奇跡たちよ」と言い換え、そのあと更に「わたしの希望の鳴禽たち」と言い換えているが、これは西洋の言語の文章における一つの慣習を想起させる。実は英語やドイツ語などの文章では、なるべく同じ単語を用いないという慣習があり、同じ単語が何度も登場するのを避けるために言い換え表現(パラフレーズ)を使うという文化がある。

 

・なお「今はわたしに遠くなった奇跡たち」は「今はわたしにとって遠くなった奇跡たち」という意味であろう。

 

・手塚の要約に「青春の諸理想が、敵たちの悪意によって早死したことを嘆く」とあるが、この「敵たち」は「ツァラトゥストラ以外の者たち」というニュアンスで捉えるのが無難だろう。

 

・p244に「おまえたちの膚(はだ)は柔毛(にこげ)に似ていた。それ以上に微笑に似ていた、ひとにちらと見られるともう死んでゆく微笑に」とあるが、「柔毛(にこげ)」という現代の日本人にとってはあまりなじみのない名詞は「32 夜の歌」でも用いられている。

 

・ツァラトゥストラはp244の最終段落で「わたしの敵たちよ、おまえたちへのこの呪いだ。おまえたちはわたしの所有した永遠的なものを短くしてしまったのだ。まるで一つの楽音が寒い夜空にくだけて消えるように」と歌っている。そして、p245によれば、かつてツァラトゥストラの純潔は「世界におけるすべては、わたしにとって神的なものでなければならぬ」と言ったそうだが、恐らく、青春時代のツァラトゥストラは、現在のツァラトゥストラが否定している「永遠的なもの(永遠なるもの)」や「神的なもの」に心酔していたのだろう。

 

・p245に「かつてわたしはよい鳥占いのしるしを熱望した」とある。鳥占いは手塚の脚注にて解説されているように、古代ギリシャなどで行われていた占いであり、青春時代のツァラトゥストラは占い好きという側面があったようである。

 

・鳥占いに関する箇所で「いまわしい梟(ふくろう)」とあるが、ドイツ語のEuleには梟という意味の他に「醜い女」という意味もある。古代ギリシアにおいて梟は知恵の女神であるアテナの同伴者とされるなど、西洋では洞察力の象徴と見なされることも多いため、「いまわしい梟」という言い回しは一見、不思議な言い回しにも感じられるかもしれない。

 

・p246に「わたしを愛している人々をして叫ばせた」とあるが、これは「わたしを愛している人々に叫ばせた」という意味である。その次の段落に「おまえたちはわたしの最上の蜜、わたしの最上の蜜蜂の勤勉の産物に胆汁を注いだのだ」とあるが、胆汁は苦い体液であり、甘い蜜と対照的である。因みに、ツァラトゥストラは「ツァラトゥストラの序説」で「わたしはいまわたしの知恵の過剰に飽きた、蜜蜂があまりに多くの蜜を集めたように」(p13)と語っていたように、しばしば知恵を蜜に喩えている。

 

・p247に「調べ」とあるが、これは勿論「調査」という意味ではなく、「演奏」や「旋律」などといった意味である。

 

・恍惚(p247):「物事に心を奪われてうっとりしている状態」や「意識がはっきりしない状態」という意味。「こうこつ」と読む。

 

・「舞踏しているときにだけ、わたしは最高の事柄の比喩を語ることができる。――いまわたしの最高の比喩は、語られぬままにわたしの四肢のなかにとどまっている」とツァラトゥストラは語っているが、これはツァラトゥストラが舞踏家であるということと、若き頃に尊敬していたワーグナーがキリスト教傾向をあらわにしたオペラ(オペラは歌唱とダンスの側面が強い劇である)を発表したことが大きく影響している。

 

・「わたしの最高の希望は、語られぬまま、解き放されぬままだった。そしてわたしの青春時代の幻影と慰めのすべては死に絶えた。いったいどうしてわたしはそれに堪えることができたか。どうしてわたしはこういう傷に堪え、それに打ち勝つことができたか。どうしてわたしの魂はこれらの墓の中からよみがえったか。そうだ、傷つけることのできないもの、葬ることのできないもの、岩をも砕くものが、 わたしにはそなわっている。その名はわたしの意志だ。それは黙々として、屈することなく歳月のなかを歩んでゆく。わたしの昔ながらの伴侶、わたしの意志は、このわたしの足によって、おのれの道を行こうとする。かれの思いは堅く、不死身である」と、ツァラトゥストラは自身の意志の不死身さを語っている。

 

・不死身には主に二つのパターンがあると個人的に考えており、一つは文字通り永遠に死なない体を有するパターンである。もう一つは定期的に死んで、そのたびに墓へゆくが、しばらくして墓から復活するのを繰り返すパターンである。「18 創造者の道」で不死鳥(フェニックス)について言及したが、不死鳥も定期的に死んだのち自ら復活することで結果的に不死身となっている。

 

・ツァラトゥストラはp248でギリシャ神話の英雄アキレス(アキレウス)をもじって、「わたしはわたしの踵(かかと)だけが、不死身なのだ」と語っている。これは、踵以外の部位が不死身だったアキレスへのパロディな訳だが、踵は道を行く際に必要不可欠な体の部位である。例えば、片腕が欠損していたり、片方の眼球が欠損していたりする人であっても、道を行くことは可能だろうが、踵なくして道を行くことは出来ないはずである。

 

・p248でツァラトゥストラは「この黄いろい墓石のかけら」とあるが、この表現はわたしの意志が「わたしの青春時代の幻影や理想などの死」を乗り超えていることを指している。

 

・ツァラトゥストラが「そうだ、わたしの意志よ、今もおまえは、わたしにとってあらゆる墓の破壊者なのだ。健やか(すこやか)なれ。墓のあるところにだけ、復活はあるのだ」と歌ったあと、「ツァラトゥストラはこう語った」という定型句が来て、この章は結ばれている。

 

 

 

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★底本

第二部 p234~241

 

★手塚による要約

生を愛しはするが、生への認識(知恵)を捨てることはできない。知恵は生へと誘うが究極の満足は与えない。生の舞踏に伴う悲哀。

 

 

★解説

・この章ではツァラトゥストラとその弟子たちが乙女たちと遭遇するストーリーが語られている。そのストーリーのなかでツァラトゥストラはlied(歌や叙事詩)を歌う。この章のタイトルは「Das Tanzlied」であり、名詞Tanzはダンスや舞踏という意味である。

 

・この章は、「ツァラトゥストラらが乙女たちと出会って歌い始めるまでの箇所」「ツァラトゥストラが歌っている箇所」「ツァラトゥストラが歌い終わった後の箇所」の三つに分けられる。「ツァラトゥストラらが乙女たちと出会って歌い始めるまでの箇所」と「ツァラトゥストラが歌い終わった後の箇所」は鍵括弧で囲われたツァラトゥストラの台詞文を除けば地の文であり、「ツァラトゥストラが歌っている箇所」はツァラトゥストラの台詞である。

 

・ツァラトゥストラは「23 贈り与える徳」で自身の弟子たちに「いつまでもただ弟子でいるのは、師に報いる道ではない」と語っているが、この章の最初の文は「ある夕べ、ツァラトゥストラは弟子たちといっしょに森を過ぎた」となっている。それは、「ツァラトゥストラらが乙女たちと出会って歌い始めるまでの箇所」が地の文となっているからである。

 

・くさむら(p234):「草が群がり生えている所」という意味。漢字では「草叢」や「叢」と表記される。

 

・うち連れる(p234):「そろって行く」や「一緒に行く」という意味。

 

・ツァラトゥストラと弟子たちは緑の草地で舞踏している乙女たちと遭遇する。乙女たちはツァラトゥストラらを見て舞踏を辞めたが、ツァラトゥストラは「愛らしい乙女たちよ、踊りを続けるがいい」や「かろやかな者たちよ、どうしてわたしが神々しい舞踏に敵意をもとう。美しいくるぶしをもった乙女の足に敵意をもとう」と語り、童神(キューピッド)に言及した。童神(キューピッド)が乙女たちと一緒に踊り始め、ツァラトゥストラも「舞踏の歌」を歌い始める。

 

・キューピッドはローマ神話における愛の神であり、ギリシャ神話のエロス(エーロス)と同一視される。ツァラトゥストラによればキューピッドは乙女たちに踊ってくれと頼むのだという。タナトスが死への方向性を示し、エロスが生への方向性を示すことを踏まえるならば、踊りは重さ(重力)に反する行為であり、生への方向性を示す行為である。

 

・前章「32 夜の歌」でツァラトゥストラは「わたしは光だ」と語っているが、この章では乙女たちに「なるほどわたしは森であり、深い木立ちの闇である。だが、わたしの暗さをこわがらない者は、わたしの糸杉の木立ちの下にばらの咲く斜面をも見いだすだろう」と語っている。

 

・糸杉(p235):地中海東部からイラン北部に自生するヒノキ科の針葉樹。「いとすぎ」と読む。ヨーロッパでは「悲哀」や「死の悲嘆」を象徴する針葉樹とされ、葬儀の棺を糸杉で飾ったり糸杉を墓地に植えたりする文化がある。

 

・「舞踏の歌」は重さの霊(重苦しさの霊)に対する嘲笑の歌である。ツァラトゥストラによれば、重さの霊は人々が「世界の主(せかいのあるじ)」と呼んでいるものである。ツァラトゥストラは重さの霊を「わたしの最高、最強の悪魔」と呼んでいる。

 

・手塚は重さの霊を「物理的には、重力、慣性など、精神的には物欲、野心など、人を束縛し、人間の自由な活動をさまたげるもの」と解説している。確かに、重力や慣性などは世界にある物体の動きを司っており、「世界の主」といっても過言ではない。「8 読むことと書くこと」でもツァラトゥストラは重さの霊を悪魔と呼んでいる。

 

・舞踏の歌が始まり、「信用のおけない女」に擬人化された生が「わたしはただ変わりやすいというだけのこと。そして激しい。そしてつまりはひとりの女、それも徳の高い女ではない」と語っている。日本語でも「女心と秋の空」というし、ドイツ語でも「April und Weiberwill ändern sich schnell und viel(四月の天気と女たちの気分はすぐに大きく変わる)」という諺がある。

 

・そして「信用のおけない女」に擬人化された生は「わたしは男たちからは『深いもの』、『貞節なもの』、『永遠なもの』、『神秘なもの』といわれている」とツァラトゥストラに語っているが、ツァラトゥストラは「10 死の説教者」や「28 有徳者たち」でキリスト教の「永遠の生」やゲーテの「永遠なるもの」という概念を否定している。

 

・さしむかい(p236):「二人が顔を合わせて向き合っている状況」という意味の名詞。「差し向かい」と漢字表記される。俗語の「サシ」は「差し向かい」が省略されて出来た表現だといわれている。

 

・p237に「心から」とあるが、これは「こころから」とも読めるし「しんから」とも読める。ツァラトゥストラは生と知恵を女性と仮定し、自分と生と知恵の間における三角関係を表現している。因みにツァラトゥストラは生と知恵は互いに凄く似ていると考えている。

 

・つまり、ツァラトゥストラが歌っている「舞踏の歌」はツァラトゥストラが生と知恵を女性に見立てて、生と会話したり知恵と会話しているという内容な訳だが、これを聴かされた乙女たちは「舞踏していたら、よく分からないおじさんたちが来て、しかも生や知恵を女性かのように扱って生や知恵と会話をしている内容の歌を聴かされながら踊ることになった」とも言えそうであり、少し可哀想なようにも感じられる。

 

・本書では一つの章が終わるとき「ツァラトゥストラはこう語った」という一文で締めくくられるが、「舞踏の歌」が終わるときに「ツァラトゥストラはこう歌った」という一文が用いられている。

 

・童神による効果が切れたのか、乙女たちの踊りが終わり、乙女たちが去ってゆく。すると、ツァラトゥストラは悲しみに襲われる。ツァラトゥストラは「日はとうに沈んだ」等からなる悲嘆の台詞を発してゆくが、「未知のものがわたしを囲んでいて、物思わしげに見ている」という箇所は一次妄想(妄想気分)などといった精神病の症状らしき雰囲気を漂わせている。晩年のニーチェが精神病を患ったことは有名である。

 

・悲嘆の台詞のなかには「たそがれ」という名詞が何度も登場するが、現代の日本語にも「夕暮れ時に物思いにふけること」を指す「たそがれる」という動詞が存在する。

 

・手塚はこの章を難解と評している。この章を手塚は以下のように総括している。

全体として難解な章である。ツァラトゥストラは生の使徒であるが、認識を通じてのそれである。かれの認識は生に切り入る(切り込む)のだが、認識であることによって、やはり生そのものではない。それで認識を捨てて軽快な生につこうとするが、生はそれだけでは尽くされないという疑念が起こり、また認識につこうとする。こういう循環のなかに、生きること自体についての疑いが悲哀の念とともに起こる。闘士のツァラトゥストラが悲哀を語る正直さ、すなわち詩人ニーチェの誠実さをうかがわせる。

 

 

 

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★底本

第二部 p229~234

 

★手塚による要約

主人公は歌う人となった。本書の抒情的性格を代表する章の一つ。光と力にみちて、与えるだけで受けることのない痛切な嘆き。

 

 

★解説

・今までのツァラトゥストラの台詞は、自身の友ら(自身の教えに耳を傾ける仲間たち)や、前章の「名声高い賢者たち」などのように、語り掛けている対象が概ねはっきりしていた。しかし、この章でツァラトゥストラが紡いでいる言葉は語り掛けている相手が誰なのか(言葉の受け取り手が誰なのか)が明示されていない。

 

・手塚の要約文に「本書の抒情的性格」とあるが、本書は哲学書としてだけではなく詩としても読まれている。詩は叙景詩、叙事詩、叙情詩(抒情詩)に分類されるが、手塚のようにツァラトゥストラはこの章で自身の心情に重きを置いて語っていると捉えた場合、この章は抒情的であり、抒情詩のような性質を持っていると判断できる。

 

・ただし、この章のタイトルは「夜の歌」であり、原文では「Das Nachtlied」となっている。「Das Nachtlied」はDasとNachtとliedに分割でき、DasはTheで、NachtはNightという意味である。そして、名詞lied(Lied)は「歌」のほかに「叙事詩」という意味がある。そのため、この章を詩と捉えるならば、抒情詩としてだけではなく、叙事詩として読むことも出来よう。

 

・この章の冒頭部は「夜だ。」から始まる段落が2つ連続しているが、この章の終末部でも「夜だ。」から始まる段落が4つ連続している。ツァラトゥストラは夜を「愛をもつ者たちの歌がみな、いまようやく目を覚ます」ような時間帯と捉えている。

 

・ツァラトゥストラは光につつまれているものは孤独であると述べる。光につつまれているということは、周囲に光を与えるということでもあるが、確かに、光を与えるものと光を受けるものの関係性に着目するとき、光を与えるものは大抵の場合ひとつであり、光を受けるものは複数あることが多い。太陽系においても、太陽系の惑星や衛星に光をあたえる星は太陽ただ一つであるのに対し、太陽の光を受け取る星は水星、金星、地球、月、火星、木星、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト、土星、天王星など無数に存在する。

 

・「わたしは光だ。ああ、わたしは夜でありたい。だが、わたしが光につつまれていること、それがわたしの孤独だ。ああ、わたしは暗くありたい、夜でありたい。そうなったら、わたしはどんなにか光の乳房(ちぶさ)にすがって飲むだろう」と吐露するツァラトゥストラだが、旧約聖書『創世記』に「光あれ」という有名なフレーズがあるように、聖書において光は善いものとされる。そのため、「暗くありたい」と述べるツァラトゥストラは聖書の価値観と対照的である。

 

・p230の「そして、おまえたち、小さい天上の火花よ、きらめく蛍よ、おまえたちをさえわたしは祝福し、おまえたちからさえ光の贈り物を受けて、ひたすら幸福になれように」は原文では「Und euch selber wollte ich noch segnen, ihr kleinen Funkelsterne und Leuchtwürmer droben!—und selig sein ob eurer Licht-Geschenke.」となっている。

 

・「Und euch selber wollte ich noch segnen」は「そして、おまえたち自身にも祝福を授けたい」と直訳できる。「ihr kleinen Funkelsterne und Leuchtwürmer droben!」についてだが、drobenは「上で」や「頭上で」という意味で、Leuchtwürmerは光の虫すなわち蛍のことなので、該当部を直訳するならば「おまえたち、頭上の小さなきらめく星と蛍たちよ!」となる。要するに、手塚は「頭上の小さなきらめく星」を「小さい天上の火花」と意訳している。

 

・「und selig sein ob eurer Licht-Geschenke」は直訳すれば「そして、おまえたちの光の贈り物によって祝福されるように」などとなるだろう。少なくとも、「おまえたちからさえ光の贈り物を受けて、ひたすら幸福になれように」という手塚の訳文は日本語して不自然なように感じる。

 

・ツァラトゥストラは自分の知恵を周囲に贈り与える者であり、受ける者の幸福を知らない。p231でツァラトゥストラは「おお、与える者のふしあわせ。わが太陽の憂鬱。欲しがることへの憧れ。飽満のなかの激しい飢え」と体言止めを繰り返し、自身の孤独を嘆く。ツァラトゥストラは「与えることと受けること、そのあいだには一つの亀裂がある」とも語っている。

 

・柔毛(p232):「乳児や鳥獣の柔らかい毛」という意味。「にこげ」と読む。

 

・ツァラトゥストラは「26 同情者たち」でも羞恥について論じているが、「わたしの目はもう、乞う者の羞恥を見ても涙することがない。わたしの手は、施し物をいっぱいに受けた人々の手のふるえを感ずるには、かたくなりすぎた」と吐露している。

 

・実際の太陽系には太陽は一つしかないが、p232でツァラトゥストラは「荒涼とした空間に多くの太陽がめぐっている状況」を仮定している。「めぐっている」という言い回しや「嵐のようにもろもろの太陽はおのれの軌跡を飛ぶ」という表現から、ツァラトゥストラが仮定しているこの状況は地動説よりも天動説の視点に立っているように思われる。

 

・仮借(p232):ここでは「かしゃく」と読む。「許し」や「見逃し」や「容赦」などという意味。

 

・前述したように、ツァラトゥストラは自分の知恵を周囲に贈り与える者だが、「荒涼とした空間に多くの太陽がめぐっている状況」を仮定していることから、自分以外にも自分の知恵を周囲に贈り与える者が存在していると考えているようである。

 

・ツァラトゥストラは自分が光のままでいなければならないことを嘆き、自分が光のない夜であることを渇望する。ツァラトゥストラには夜でありたいという渇望のほかに、自分の思いや主張を語りたいという渇望がある。事実、本書のタイトルも「ツァラトゥストラはこう語った」である。

 

・p229の第二段落と同じ言葉を繰り返したあと、「ツァラトゥストラはこう語った」という定型句が来て、この章は結ばれている。

 

 

 

 

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★底本

第二部 p222~229

 

★手塚による要約

名声高い思想家たちは、民衆の奴僕(ぬぼく)であって、精神の真髄が何であるかを知らない。では精神とは何か、それを熱意をもって説く。

 

 

★解説

・この章でツァラトゥストラが語り掛けている相手は「名声高い賢者たち」である。「名声高い賢者たち」は真理ではなく民衆やその迷信に仕える(つかえる)ことで人々からの畏敬を受けている思想家や文筆家たちを指しており、手塚の脚注によれば、その具体例としてはヴォルテールが挙げられる。

 

・ヴォルテールは18世紀のフランスの啓蒙思想家であり、1750年代にはプロイセンの啓蒙専制君主であるフリードリヒ2世に招かれてサンスーシ宮殿に滞在し、フリードリヒ2世から財政的支援を受けるほど啓蒙専制君主といった権力者たちから支持されていた。

 

・名声高い賢者たちはキリスト教社会の因習から離脱するよう説いており、その点ではツァラトゥストラの思想と一致しているが、民衆を崇拝して、民衆の信ずる正義を是認し、弁護しようとする点でツァラトゥストラの思想と異なっている。

 

・p222でツァラトゥストラは「古代ギリシャの『驢馬の自由』のように、主人は奴隷に無礼講などで自由を与えることさえある。しかし、人間の支配を受けている犬たちが野生の狼を恐れ憎むように、民衆は自由な精神を持つ者を恐れ憎む」と指摘する。ツァラトゥストラの教えは多岐にわたるが、とりわけ新たな価値を創造することを重視している。本書の第一部と第二部を読む限りでは、ツァラトゥストラは権力者よりも民衆のほうを重点的に非難している印象を受ける。

 

・p223に「真理への意志」とあるが、ツァラトゥストラは「〇〇への意志」という表現を多用する。「12 新しい偶像」の「死への意志」しかり、「16 千の目標と一つの目標」の「力への意志」しかり、「30 毒ぐも」の「平等への意志」しかり。

 

・ツァラトゥストラによれば、名声高い賢者たちは獅子の皮を被った驢馬であり、彼らは崇拝意志(民衆とその習俗的価値への崇拝と従属の意志)を砕き捨てなければならない。というのも、崇拝意志は真の自由精神を妨げるからである。

 

・獅子は、(過酷な環境である)砂漠にすみ、奴僕(ぬぼく)的幸福から自由であり、飢えていて、猛々しく(たけだけしく)、孤独で神を持たない存在である。その一方で、驢馬は都会に住み、よく飼育され、民衆の荷車を引いている存在である。

 

・ツァラトゥストラは「肉体の軽蔑者」や「死の説教者」や「賤民」を猛烈に非難していたが、「名声高い賢者たち」に関しては少し評価している部分もある。p224でもツァラトゥストラは「わたしはかれら(名声高い賢者たち)に怒っているわけではない」と述べている。

 

・p225に「まことに、名声高い賢者たちよ、民衆の従者らよ、君たち自身、民衆の精神と徳といっしょに成長したのだ――そして民衆は君たちのおかげで成長した。君たちの名誉のために、わたしはこれを言っておく」とあるが、「民衆は君たちのおかげで成長した」というのは啓蒙思想家たちが、キリスト教の因習からの解放、絶対王政に代わる新たな政治システムの模索、古代ギリシャや古代ローマなどの古代文明への再評価、自然科学の進展や普及などに貢献してきたことなどを指しているのだろう。

 

・そのうえでツァラトゥストラは「しかしわたしから見れば、君たちはその徳において依然として民衆である。――弱視の民衆――精神が何であるかを知らない民衆である」と、名声高い賢者たちの限界も強調する。p225でツァラトゥストラは「君たちはすでにそのことを知っていたか」と4回も連続して、精神や「認識する者」に関する考えを、名声高い賢者たちに問うている。

 

・p225に「盲(めしい)」とあるが、「盲」という漢字の意味や「 29 賤民」で解説した動詞「廃う」の意味を知っていれば「めしい」という語彙を知らなくても「めしい」の意味を推測できる。「めしい」は盲者という意味の名詞である。

 

・鉄敷(p226):ハンマー台という意味。「かなしき」と読む。

 

・鉄槌(p226):ハンマーという意味。「てっつい」と読む。

 

・金属加工においてハンマー台とハンマーは非常に重要な道具である。加工のため高温となった金属はハンマー台のうえに載せられ、ハンマーによって打たれることで加工されてゆく。ツァラトゥストラは「君たちはただ精神の火花を知っているだけだ。しかし君たちは精神の本体である鉄敷を見ない。また精神の鉄槌の残酷さを見ない」という暗喩を通して、「名声高い賢者たち」の精神への見方は、金属加工において地味な鉄敷や鉄槌を見ずに目立ちやすい火花ばかりを見てしまっているようなものだと指摘している。

 

・ツァラトゥストラは「万事に君たちは精神を盲信しすぎるのだ。そしてしばしば君たちは、君たちの知恵を、単なるへぼ詩人たちのための救貧院、また病院にしてしまったのだ」と名声高い賢者たちに苦言を呈する。ニーチェは詩人としても評価されているが、21世紀の日本において、俗に「ポエム」と揶揄されるようなレベルの低い文章や詩が少なくないように、ニーチェが本書を執筆した1880年代のドイツにもレベルの低い詩人が少なからず存在していた。こういった「へぼ詩人」たちは啓蒙思想という世間のトレンドに追従するだけの安易な内容の詩を量産していたのだろう。

 

・p226やp227の内容は、既出のキーワードが複数、登場しているように感じられる。例えばp226の「鷲」は「ツァラトゥストラの序説」や「24 鏡をもった小児」で登場していたようにツァラトゥストラの同棲者であり、p226の「泉」も「29 賤民」で「エネルギー源(活力の源)」の暗喩として登場している。p227の「強烈な風」も「自分はあらゆる低地に対して強力な風である」とツァラトゥストラが自認していたことを思わせる。

 

・ツァラトゥストラは「名声高い賢者たちは謹厳なすがたで立っている」と指摘しつつ、「どうして君たちにできようか、わたしとともに行くことが」と語っており、超人思想を持つツァラトゥストラたちと、民衆の従者たちである名声高い賢者たちの方向性には、やはり大きな隔たりがあると述べている。そう述べたあと、「ツァラトゥストラはこう語った」という定型句が来て、この章は結ばれている。

 

 

 

 

 

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★底本

第二部 p214~221

 

★手塚による要約

えせ現実主義者の平等説への痛撃。それは高貴をひきずり下ろそうとする復讐心から来ている。不平等へ、すなわち超人へ向上せよ。

 

 

★解説

・ツァラトゥストラは第一部の「10 死の説教者」で「死の説教者(死を説く宗教者や厭世主義者たち)」を非難したが、この章では「平等の説教者(平等を説く社会主義者など)」を非難している。

 

・ツァラトゥストラは「平等の説教者」を毒ぐも(Tarantel)に喩え、「平等の説教者は(社会への)復讐の念を持っている」と指摘する。p214の「かいせん」は「疥癬」かと思われるが、疥癬はあくまで医学用語としては「ヒゼンダニ(疥癬虫)が皮膚の角質層に寄生することで生じる感染症」を指し、「毒ぐもが皮膚の角質層に寄生することで生じる感染症」を意味する訳ではない。

 

・毒ぐもは巣網(すあみ)をつくり、獲物を狙っている。脚注によれば、ニーチェが生きていた時代のヨーロッパには「毒ぐも(Tarantel)に刺されると毒を消すために長いあいだ踊らねばならない」という迷信があったようである。ツァラトゥストラは、平等の説教者が平等思想を世間で拡散し、その思想にかぶれた一般人が平等の説教者に踊らされていることを風刺している。

 

・ツァラトゥストラは自身のいる高い所から平等の説教者の顔に哄笑を浴びせ、彼らの作る網を裂く。ツァラトゥストラによれば、それは彼らを激怒させ、その虚言の洞穴(ほらあな)の外へおびきだすためであり、彼らの復讐の念を彼らの慣用語「正義」のかくれ蓑(みの)から飛び出させるためだという。だが、p214の第二段落には「さあ、くもが自分から進んで(洞穴を)出てきた。よく来た、毒ぐもよ」とあり、ツァラトゥストラの目の前にいる毒ぐもは既に洞穴の外に出ているようである。

 

・ツァラトゥストラは「人間が復讐心から解放されること」を「最高の希望への橋」や「長い荒天(こうてん)の後の虹」と考えているが、平等の説教者は「世界じゅうがわれわれの復讐の荒天でいっぱいになること、これをこそわれわれは正義と呼ぶ」や「われわれは、われわれと同等でない、より強力なすべての者に、復讐と誹謗(ひぼう)を加えよう」や「そして『平等への意志』――このこと自体が今後は徳の名称となるべきだ。権力をもついっさいのものに反対して、われわれはわれわれの叫びをあげよう」と主張しており、両者の価値観は対照的である。

 

・ツァラトゥストラは「12 新しい偶像」で「死への意志」という表現を用いているが、この章でも「平等への意志」という表現を用いている。21世紀の日本では「機会の平等」や「結果の平等」などといった議論があるにせよ、「平等と不平等であれば、平等のほうがいいよね」といった価値観が主流であろう。だが、ツァラトゥストラによれば、正義はわたし(ツァラトゥストラ)に「人間は平等ではない」と語っており、人間は平等になるべきでもない。

 

・ツァラトゥストラが平等を否定するのは、ツァラトゥストラが超人を愛しているからである。つまり、末人と超人が平等だというのは超人が可哀想すぎるのではないかとツァラトゥストラは考えているのだろう。

 

・p216で、ツァラトゥストラは「かれら(平等の説教者)の哀訴の一つ一つから、復讐の音調がひびいている。かれらの賞賛の一つ一つにひとを傷つけようとする意図がひそんでいる。そして裁き手になること、これがかれらには最上の幸福に思える」と指摘する。確かに、社会に復讐したいと思っている活動家や社会主義者は自らが裁き手になって対象に罰を与えることで復讐を達成したいとしばしば願っている。

 

・ツァラトゥストラは「罰しようとする衝動の強いすべての人間」と「おのれの正義について多くを語るすべての人間」を信用するなと忠告する。これらの人間(平等の説教者)は自らを「善い者、正しい者」と称していることがあるが、彼らは現段階で権力を持っていないだけで、今後もし権力を持つようになったら彼らはイエス・キリストが生きていた時代に特権階級であったパリサイ派(パリサイの徒)のようになるだろうと予言する。

 

・ニーチェが本書を出版したのは1880年代だが、史実では社会主義者や、それを更に過激にしたような共産主義者らが次第に権力を得ていった。そして、1917年にはソビエト社会主義ロシア共和国という社会主義国家が誕生するに至った。20世紀の社会主義国家の共産党幹部や官僚たちは社会主義者や共産主義者であることを誇示していたが、彼らのなかには豪華な暮らしを送る者が少なくなかった。これらを赤い貴族というが、赤い貴族はまさに特権階級そのものであり、ツァラトゥストラひいてはニーチェの予言は的中していたように見える。

 

・ツァラトゥストラは「世には、生についてのわたしの教えを説くと同時に平等をも説いている毒ぐもがいる」と指摘しており、そのような毒ぐもと自分とが世間で混同されるのを恐れている。ツァラトゥストラは平等を強く否定している。

 

・p218でツァラトゥストラは「人間たちは幾千もある大橋小橋を渡って、未来へ突き進むべきである。そしてますます多くの戦いと不平等とが、かれらのなかに起こるべきである。わたしの大きい愛はわたしにそう語らせるのだ。人間たちはたがいに敵対しながら、さまざまな幻影の発明者となるべきである。そしてそれぞれの幻影をたずさえて、いよいよ互いに最高の戦いを戦うべきである」と述べている。

 

・ただし「人間たちはたがいに敵対しながら、さまざまな幻影の発明者となるべきである」は原文では「Erfinder von Bildern und Gespenstern sollen sie werden in ihren Feindschaften」となっており、これを直訳すると「彼ら(人間たち)は敵対関係のなかで絵(画像)や幻影の発明者になるべきである」となる。要するに手塚は「絵(画像)や幻影」を「さまざまな幻影」と訳している。手塚の脚注によれば「さまざまな幻影」は「さまざまな理想」を指しているのだという。

 

・「それぞれの幻影をたずさえて、いよいよ互いに最高の戦いを戦うべきである」のほうは「mit ihren Bildern und Gespenstern sollen sie noch gegeneinander den höchsten Kampf kämpfen!」であり、直訳すると「彼らの絵(画像)と幻影たちとともに(をたずさえて)彼らは互いに最高の戦いを行うべきである!」となる。

 

・この思想は岡本太郎の対極主義を連想させる。対極主義は「対極的な概念を無理に調和させようとするのではなく、両者を対極的なままぶつけあわせることで、既存の文脈を超えた新たな価値を誕生させるという思想」である。相違点を挙げるならば、岡本太郎の対極主義が二つの対極的な概念の戦いや衝突であるのに対し、ツァラトゥストラの主張は(二つ以上の)様々な理想の戦いや衝突であることだろう。

 

・ツァラトゥストラは、「善悪、貧富、上下、その他もろもろの価値の名。それらが戦いにおける武器であらねばならぬ」と説いているが、この「上下」は原文では「Hoch und Gering」となっており、「(価値の)高低」などと訳すことも出来る。ツァラトゥストラは階段に矛盾性を見出し、「生は高みを必要とするゆえに、階段を必要とし、またもろもろの階段、そしてそれを登り行く者たちの、矛盾を必要とする。生は登ろうとする、登りながらおのれを乗り超えようとする」と説く。

 

・活眼(p218):「物事の本質を見きわめる見識」という意味。「かつがん」と読む。

 

・穹窿(p219):「アーチ断面を水平に押し出した建築物や天井様式」を指し、「きゅうりゅう」と読む。英語ではヴォールト(vault)という。

 

・迫持(p219):「アーチ」を指し、「せりもち」と読む。

 

・毒ぐもの洞穴のあるこの場所に、一つの古い寺院の廃墟がそばだっていると、ツァラトゥストラは指摘する。穹窿や迫持という語彙から判断して、ここで古い寺院はキリスト教の寺院(礼拝堂)を指していると判断できる。この古い寺院をそびえ立たせた人物は、「闘争と不平等、そして力と優越を求めての戦いが、美の領域にもあること」を穹窿や迫持という最も明瞭な比喩で我々(ツァラトゥストラたち)に教えているのだという。

 

・古いキリスト教の礼拝堂は、穹窿や迫持が組み合わさって建てられている。これをツァラトゥストラは「穹窿や迫持は神々しく(こうごうしく)互いに格闘しながら相手を(互いに)屈服させている」と形容する。ツァラトゥストラは「友よ、われわれもこのように悠然と、このようにみごとに互いの敵となろう。われわれは神々しくたがいに対抗して向上を目ざそうではないか」と説く。

 

・そう説いた直後、「この激痛!いま、わたしの古いなじみ、この毒ぐもがわたしを咬んだ。神々しく、悠然と、みごとに、わたしの指に咬み入った」とツァラトゥストラは語っており、ここでツァラトゥストラと毒ぐもが、かつては慣れ親しんでいた間柄だったことが明かされる。

 

・あだに(p219):「いたずらに」や「無益に」という意味。

 

・ツァラトゥストラに敵意を向けられたと感じた毒ぐもはツァラトゥストラの指を咬み、ツァラトゥストラに復讐した。それによって、ツァラトゥストラは毒を消すために長いあいだ踊らねばならない状況になり始めていると思われるが、ツァラトゥストラは友らに「わたしが狂って踊り出さないように、わたしをしっかりとこの円柱に縛りつけてくれ。わたしは復讐の強風になるよりは、むしろ円柱聖者となろう。まことに、ツァラトゥストラは狂気のつむじ風ではない。かれは舞踏者であるにしても、けっして毒ぐもの毒による踊り手ではない」と語り、この章は結ばれている。

 

・この円柱は、「古いキリスト教の礼拝堂」の円柱であるかのようにも読めるが、手塚の脚注によれば、「円柱聖者」と呼ばれる聖者(4~5世紀ごろのシリア地方で最初は狭い場所、のちには円柱の上で贖罪した苦行僧)たちがいて、その聖者たちを踏まえているのだという。

 

・「復讐の強風」や「狂気のつむじ風」というフレーズは、ツァラトゥストラが前章「29 賤民」で「自分はあらゆる低地に対して強力な風である」と自認していたことを反映している。

 

・「ツァラトゥストラの序説」の★2 (p14~18)で老翁が「今のツァラトゥストラは舞踏者のようだ」と指摘し、「8 読むことと書くこと」でも「わたしが神を信ずるなら、踊ることを知っている神だけを信ずるだろう」と語っているように、ツァラトゥストラは舞踏者としての側面がある。

 

・最後になるが、手塚は「ニーチェの原文では終止符ではなく感嘆符で終わっている文」を何故か句点で和訳していることが多い印象を受ける。感嘆符で終わっている文は基本的に感嘆符で訳すのが自然なように思うのだが、手塚はニーチェの原文を格調高く和訳したかったのかもしれない。

 

 

 

 

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★底本

第二部 p208~214

 

★手塚による要約

「市場の蠅」の章では民衆の卑小さを、ここでは賤民の汚らわしさをののしる。しかし嘔気(はきけ)がかれを高所の清涼な泉に導く、生の真夏に。

 

 

★解説

・『ツァラトゥストラ 第一部』の「市場の蠅」の章では民衆の卑小さが語られており、この『ツァラトゥストラ 第二部』の「賤民(せんみん)」の章では賤民(身分の低い民、下賤な民、卑しい民)の汚らわしさ(けがらわしさ)が語られている。

 

・ツァラトゥストラは「市場の蠅」で「のがれよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。強壮な風の吹くところへ」と述べているが、この章でもツァラトゥストラは「強力な風のように、われわれはかれら(賤民たち)を超えて生きたい」と語っている。

 

・p208でツァラトゥストラは水(泉)、火(炎)、果実という暗喩を用いて賤民(不潔な者たち)を非難している。ツァラトゥストラは「わたしは純潔な者のすべてに好意をよせるが、不潔な者たちの口をゆがめた笑いと渇きとを見ることを好まない」と述べているが、確かに、純粋無垢な赤ん坊らが無邪気な笑みを浮かべているのを見て爽やかな気分になる者は多い一方で、街路や公共交通機関などで頭の悪い人たちが口をゆがめた笑みを浮かべているのを見て爽やかな気分になる者はいないであろう。

 

・なおp208には「まなざし」という名詞が登場し、しかも傍点までついているが、この名詞はp212にも登場している。p208の第三段落にある「視線」は「まなざし」の類語であり、この段落でツァラトゥストラは賤民(不潔な者たち)からのまなざしについて語っている。ツァラトゥストラによれば、賤民(不潔な者たち)からの視線(まなざし)は自分に吐気(嘔気)をもたらすのだという。

 

・ツァラトゥストラは、生(生きるということ)を愉悦の泉に喩えているが、「愉悦」という言葉が賤民たちによって汚されていると嘆く。しかし、ツァラトゥストラは或るとき「生はこの賤民をも必要とするのか」と自問し、窒息しそうになるほど苦しんだ。

 

・p209の第一段落から第三段落までの内容は、山の上で独り住んでいたツァラトゥストラ自身を想起させる。

 

・p209でツァラトゥストラは「機知縦横な精神をもつ賤民」に言及しているが、「機知縦横な精神」は「時と場所に応じて自由自在に才能や知恵を発揮する精神をもつ賤民」を指している。21世紀の現代社会でも「言動や人格は下賤だが、何らかの才能自体はあって頭も良いという類の人間」は散見される。

 

・「機知縦横な精神をもつ賤民」のほか、権力賤民(賤民を相手に権力目的の駆け引きと取り引きを行う支配者)、文筆賤民(ニーチェが生きていた時代には既にジャーナリズムが発達しており、昨日や今日の出来事は文筆家らが書く新聞記事などを通して認識されるようになっていた。ジャーナリズムに寄生する文筆家をツァラトゥストラは文筆賤民と呼んでいる)、愉悦賤民(愉悦というと賭場を汚している賤民)らが存在し、これらの賤民にツァラトゥストラは吐気を感じていた。

 

・p210に「わたしの様子は、耳も目も廃い(しい)、口もきけなくなった不具者に似ていた」とある。「口がきけない」は21世紀でも辛うじて残っている表現だが、「廃う(しう)」は完全に廃れてしまった表現である。

 

・「う」という完全にれてしまった表現について解説すると、「廃う」は古語「廃ふ(しふ)」に由来し、「目や耳などの器官が衰えて機能不全になる」という意味の自動詞である。「耳も目も廃い」は「耳も目も衰えて機能不全になり」という意味だが、「廃ふ」は「癈ふ」とも漢字表記される。

 

・不具者は「ふぐしゃ」と読み、「身体の一部に障害のある者」という意味の名詞だが、この名詞は差別的な表現とされ、21世紀の日本では殆ど用いられていない言葉である。

 

・p210の「骨を折って」は「苦労して」という意味の表現である。「施物(せもつ)」は「僧や貧者に施される(ほどこされる)物」という意味だが、「せぶつ」と読まれることもある。

 

・p210でツァラトゥストラは「わたしの精神は骨を折って、そして用心ぶかく、階段を登った」とあるが、p210~211にも「至高の場所」や「君たちとわたしとの高所」というフレーズが登場しており、ツァラトゥストラは位置的な高低を価値の高低に結びつける傾向がある。

 

・吐気に苦しんでいたツァラトゥストラだったが、ふと気づくとツァラトゥストラは至高の場所(泉のほとりに一人の賤民もすわっていない高所)へ飛び立っており、吐気からも救い出されていた。ツァラトゥストラは「わたしの嘔気そのものが、翼と、泉に近づく力とを創り出して、それをわたしに与えてくれたからなのだろうか。まことに、わたしは愉悦の泉をふたたび見いだすために、至高の場所に飛ばなければならなかったのだ」と語る。

 

・p211でツァラトゥストラは夏と春に関する暗喩を用いているが、「つかのまの、暑い、憂鬱な、幸福すぎる夏」の「つかのま」からは、ニーチェが住んでいた高緯度の西欧の気候が反映されているように思う。21世紀の日本において夏は6月ぐらいから始まり9月下旬や10月上旬まで続く長い季節だが、高緯度の西欧においては「つかのまの季節」なのだろう。

 

・はかばかしい(p211):「順調に」という意味。「捗る(はかどる)」という動詞と同語源の形容詞で、「捗々しい」と漢字表記される。

 

・たゆたいがち(p211):「ゆらゆら揺れがち」という意味。

 

・ツァラトゥストラは自身の友らに「清涼な泉と至福の静けさのある、この最高所における夏。おお、友らよ、来たれ、この静けさが、いっそうその清らかな幸福を増すように」と呼びかける。

 

・p212の第一段落の内容は、p208の第三段落の対比となっている。思うに、この章において、「泉」は「エネルギー源(活力の源)」の暗喩となっており、「水」は「エネルギー(活力)」の暗喩となっているのではないだろうか。

 

・p212の第四段落に「氷の洞窟」という暗喩が登場するが、木やレンガなどで出来た家屋と異なり、氷の洞窟は寒くて非常に居住しづらい空間である。p211の「六月に時ならぬ雪片を散らしたわたしの悪意」という暗喩を踏まえると、「氷の洞窟」はツァラトゥストラが不潔な者どもに向けていた悪意(雪片)が塊になったものというニュアンスなのかもしれない。p212の第五段落にも「雪の隣人」という暗喩が用いられている。

 

・ただなか(p212):「まんなか」という意味の名詞。

 

・つばき(p212):「つば」という意味。「つば」も「つばき」も漢字表記は唾である。

 

・ツァラトゥストラは「自分はあらゆる低地に対して強力な風である」と自認する。そして、おのれの敵と(おのれに)つばきを吐くすべての者に「風にさからってつばきを吐くな」と忠告したあと、「ツァラトゥストラはこう語った」という定型句が来て、この章は結ばれている。

 

 

 

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