★底本
第二部 p270~276
★手塚による要約
主観的な意図や欲望を離れた、いわゆる純粋な認識や観照の欺瞞性を突き、真の美は生気にみちた無垢な創造行為にのみ宿ると説く。
★解説
・この章でツァラトゥストラは「純粋に認識する者たち(観照の者たち)」を月に喩え、酷評している。観照(かんしょう)は「主観をまじえないで事物を冷静に直視すること」であり、美学の領域などでよく用いられる語彙である。
・ツァラトゥストラは月すなわち「観照の者たち」を酷評する一方で「太陽」を賞賛している。手塚は「観照の者たち」のことを「欲念や主我的態度を離れて、現象をありのままに観照しようとする人たち」と解説している。若き頃のニーチェはショーペンハウアー哲学に心酔していたが、ショーペンハウアーは意志の離れた観照を「美の母胎」とみなした。
・「ツァラトゥストラの序説」でもツァラトゥストラは太陽を賞賛していた。「23 贈り与える徳」でツァラトゥストラの弟子たちが別離のしるしとしてツァラトゥストラに贈った杖でも握り部分のデザインにて太陽が用いられていた。この章でツァラトゥストラは「贈り与える者のまなざしは金の輝きに似ている。金の光は月と太陽とを平和に結びつける」と語っており、「光を与える天体である太陽」と「光を受ける天体である月」という関係性を述べている。
・近辺(p270):「きんぺん」と読む。「ある場所の周辺の地域」という意味。
・この章の冒頭に「昨夜、のぼりゆく月を見たとき、わたしは月が一つの太陽を生もうとしている、と思った。それほどに月は、地平線上に大きな孕んだ姿を見せていた。しかし、月が懐妊と見せかけたのは、いつわりだった。だから、わたしは月が男性であることを信じよう、月が女性であることを信ずるよりは。」とあるが、夜中に月の明るさを見てツァラトゥストラは「月が一つの太陽を孕もうとしている」と感じた。だが、ツァラトゥストラが教えを説いているうちに朝が来たようで、この章の終わり際に太陽(あけぼのの深紅の光)が姿を現している。なお「月が男性であることを信じよう、月が女性であることを信ずるよりは」はゲルマン神話で「太陽は女神、月は男神」とされていることを踏まえている。
・ツァラトゥストラは続けて「そうは言っても、月、このおずおずした夜歩き人はあまり男性的ではない。まことに、 かれはやましい良心をもって屋根屋根の近辺を渡っているのだ。つまり、かれ、月中の僧侶は、好色で嫉妬ぶかい。大地にたいして、また恋人たちのあらゆる喜びにたいして、ものほしげな目を向けている。そうだ、わたしは屋根屋根を渡りあるくこの牡猫(おねこ)を好まない。なかば閉ざされた窓のあたりを忍び足であるく者たちは、すべてわたしにはいとわしい。殊勝げに、寡黙に、かれは星々をちりばめた絨毯(じゅうたん)の上を移ってゆく。しかし、わたしは、拍車(はくしゃ)の音をひびかせることなしに、ひっそりと歩く男の足を、おしなべて好まない。正直な者の歩みは、声高に語る。だが猫はこっそりと床を渡って行く。見よ、月が猫のように、不正直者らしくやってくるのを。」と語っている。キリスト教の僧侶を「好色で嫉妬ぶかい」と形容するのはシニカルなようにも感じられる。拍車は「乗馬用の靴のかかとに付けて馬の腹を刺激し、馬の走りを速める金具」のことである。
・ツァラトゥストラは「観照の者たち」が「ツァラトゥストラたちと同様に大地を愛し、地上のものを愛していること」を認めてはいる。だが、地上のものへの愛に、羞恥とやましい良心とが含まれてしまうため、「わたしにとって最高のことは、生を、欲念なしに、また犬のように舌をたらすことなしに、観照することだ。 観照に幸福を見いだそう、意志を殺し、主我的な干渉と欲念をなくして。――全身は冷ややかに灰色に、しかし目は月のように見ることに陶酔して。これがわたしにとって最も好ましいことだ」と誤った考えに陥り、ついには「月が大地を愛するような愛しかたで、大地を愛しよう。 ただ目だけで大地の美を撫でよう。そしてわたしは、すべての事物から何も欲しないということを、すべての事物にたいする無垢な認識と呼ぼう。わたしが望むのはただ、すべての事物の前に、百の目をもつ鏡のように横たわっていることだ」と更に誤った考えに陥ってゆくと指摘する。
・ツァラトゥストラによれば「観照の者たち」は「自分は愛にとらわれない」と口にしているようであり、その影響で「観照の者たち」の持つ地上のものへの愛には、羞恥とやましい良心が含まれてしまうのだという。ツァラトゥストラは「観照の者たち」を「神経質な偽善者たち」や「好色者」や「おまえたち臆病者」や「高貴な名称の冒瀆者たち」や「無垢な者たち」や「虚言者たち」などと形容する。
・観照に幸福を見いだしたり意志を殺したりするということは、「生きるという営みを、主観をまじえないで事物を冷静に直視することに費やし、何らかの意思を持つことを放棄する」ということであり、創造を説くツァラトゥストラの超人思想とは相いれない。なお、「百の目をもつ鏡」は前章の「自身らのまわりに五十の鏡を置く現代の人間たち」と似たフレーズである。
・p272でツァラトゥストラが形象(けいしょう)について言及しているが、形象は「表に現れているかたち。姿。形態。感覚でとらえたイメージや、心に浮かぶ観念などを具象化すること」という意味の用語であり、美学や哲学や心理学などで広く使われる用語である。ショーペンハウアーは「人間同士は互いに苦しみ合う運命にあり、その苦しみから一時的に逃れるには、他人との関わりを断ち、一人で精神的思索に没頭することや、芸術活動などで美を追求することなどが挙げられる」と述べたが、ツァラトゥストラは観照の者たちに対して「単に思索や芸術活動をして満足するのではなく、いっさいの意志をあげて迫りくるような創造の意欲を持つこと」を説いているのだろう。
・ツァラトゥストラが観照の者たちを「高貴な名称の冒瀆者たち」や「虚言者たち」などと呼んでいるのは、観照の者たちが高貴な言葉を口いっぱいにつめているからである。一方でツァラトゥストラの言葉は卑しく、姿の悪い言葉である。ツァラトゥストラによれば、観照の者たちの食事のときに食卓の下に落ちたもの(魚の骨、貝の殻、とげのある葉)をツァラトゥストラは好んで拾い上げ、これらの拾ったもの(言い換えれば「卑しく、姿の悪い言葉」)で、観照の者たちの鼻をくすぐることが出来るのだという。
・余談だが、手塚は「とげ」に対して「刺」という漢字表記をしている。名詞「とげ」は「刺」のほかに「棘」という漢字表記も可能である。
・ツァラトゥストラによれば、観照の者たちや、観照の者たちの食卓のまわりには、悪い空気がただよっており、観照の者たちのみだらな思想、嘘、隠しごとが、その空気のなかにこもっている。ツァラトゥストラは観照の者たちに「大胆に自分自身を信ずるがよい」や「おまえたち自身とおまえたちの内臓を信ずるがよい。自分自身を信じない者のことばは、つねに嘘になる」と助言する。ツァラトゥストラは内臓という語彙を多用するが、この章では食卓の比喩が用いられている。言うまでもなく、食事は内臓と密接に関連している行為である。
・p274に「仮面」や「匍い虫(はいむし)」というフレーズがある。「匍い虫」は「地などを這う(はう)ようにして動く虫」のことだが、前章を振り返ると、p265に「何にもまさる仮面」とあり、p268に「甲虫や羽虫など」とある。さきほど述べたp265の「五十の鏡」も踏まえると、この章と前章のつながりのようなものが浮かび上がってくる。確かに、前章では「現代の人間たち」が非難されており、この章では「(現代の人間たちのなかでも特に)観照の者たち」が非難されている。
・とぐろ(p274):蛇などが渦巻き状に体を巻くこと。漢字では「塒」や「蜷局」と表記される。
・奸智(p274):「かんち」と読む。「悪知恵」という意味。
・ツァラトゥストラは「かつてはおまえたちの芸術にまさる芸術を考えることはできなかった」と語るほど、観照の者たちに肯定的だった。しかし、観照の者たちに近づいたことで、観照の者たちの正体に気づいたのだという。ツァラトゥストラは蛇や「奸智にたけたとかげ(悪知恵が得意な蜥蜴)」といった表現を用いて、観照の者たちを批判するが、p274の第七段落で「洞察の朝がわたしに開けた」や「月の情事は終わったのだ」と語りだす。
・朝が来て太陽が姿を現すと、「自らは光を発することなく単に太陽からの光を反射しているに過ぎない月」が青ざめて見えてくる。ツァラトゥストラは太陽を賛美し、「無邪気さと創造の欲望が、太陽の愛である」と語る。
・p275に「太陽は海を吸い」とあるが、これは「潮の満ち引き」を指しているのだろう。ただし、正確には「潮の満ち引き」は太陽の引力だけで発生するものではなく、月などの天体の引力も関わっている。同じ段落に「海の欲念は千の乳房(ちぶさ)をみなぎらせて高まる」とあるが、ツァラトゥストラは「32 夜の歌」でも「光の乳房」という表現を用いている。
・植物が太陽の光を受けて(つまり太陽の力によって)生き生きとするというイメージはありふれているが、ツァラトゥストラはp275で「海が太陽の力によって生き生きする」というイメージを詩的に表現している。大地だけではなく海さえも太陽の力にひきつけられているという発想はダイナミックであり、ニーチェの有するイマジネーションの豊かさが感じられてくる。
・ツァラトゥストラが、認識とよばれるべきものは「いっさいの深みにあるものをのぼらせること――わたしの高みにまでのぼらせること」だと述べた直後に、「ツァラトゥストラはこう言った。」という定型句を来て、この章は結ばれている。この章全体の内容と、この箇所に関する手塚の脚注を踏まえると、「いっさいの深みにあるものをのぼらせること――わたしの高みにまでのぼらせること」は「単に事物を観照して認識するのではなく、高いレベルの創造によって、事物の深部にあるものをのぼらせる(形象が単なる形象として終わらないようにする)こと」を指していると思われる。
・なお、「36 崇高な者たち」でツァラトゥストラは「わたしの海の底」や「わたしの深部」という暗喩を用いており、ツァラトゥストラにとって「海」は深部(深いところ)を想起させる名詞なのだろう。確かに、日本語において「海底」という名詞があるように、浅瀬や屋内プールなどと違って、海は潜ろうと思えばかなり深くまで潜ることが出来る。
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