★底本
第二部 p276~281
★手塚による要約
凡庸な学者を口をきわめて攻撃する。ニーチェがアカデミズムの世界を去らねばならなかったことへの個人的憤激がにじんでいる。
★解説
・ニーチェは20代前半で早くも古典文献学の教授に就任するなど、学問の世界においても優秀だった。だが、ニーチェは30代の半ば頃に教授職を辞しており、それ以後は著述活動に専念した。学者たちの世界に身を置いていたからこそ、学者たちの欠点や醜態などを強く意識していたということが、この章から強く伝わってくる。
・きづた(p276):ウコギ科の常緑樹。漢字では「木蔦」と表記する。
・ニーチェは教授となった数年後に処女作『悲劇の誕生』を発表した。この処女作でニーチェはギリシア神話のアポロンとディオニュソスに着目し、「アポロン的」と「ディオニュソス的」という対立概念を提唱したが、神話上の設定においてディオニュソスは葡萄、酒杯、シナモン、きづたの冠などと関連づけられている。手塚の脚注にもあるように、p276の「きづたの冠」はディオニュソスひいては『悲劇の誕生』を連想させるものである。
・本書でツァラトゥストラというキャラクターを通して持論を語っているニーチェは、自分を酷評した学者を「羊」に喩えている。本書では「羊」が複数の箇所で登場するが、「羊」という名詞は多義的である。名詞「羊」は「従順さ」のシンボルとしても用いられるし、聖書でキリスト教徒のメタファーとしても用いられるが、「紙をよく食う哺乳類」というニュアンスもある。ここでは紙すなわち書物を咀嚼するというニュアンスで「羊」という表現が用いられている。
・ツァラトゥストラひいてはニーチェ(以下、単に「ツァラトゥストラ」と表記する)は、あざみ(薊)と赤いけし(芥子)の花や、子供たちにとっては今も自分は学者なのだと主張する。あざみと赤いけしの花や、子供たちはツァラトゥストラにとって無邪気さを代表する存在なのだろう。ツァラトゥストラは、自分が学者たちと決別したことを明言する。
・p277でツァラトゥストラは「わたしの魂は、あまりにも長くかれらの食卓につらなっていて、飢えに苦しんだ。わたしは、かれらと違って、胡桃割り(くるみわり)の仕事を目的として認識の訓練を受けたのではない」と述べているが、食卓の比喩は前章でも登場していた。
・「35 自己超克」から、この章に至るまでの箇所で、「或る比喩・語句と同じか類似した比喩・語句が、その次の章に登場する」というケースが散見されるが、もしかすると、ニーチェは「35 自己超克」を書いた際に、「私は今ショーペンハウアーの『生存への意志』という概念を批判したが、そういえば『一人の崇高な者』も私は批判しているんだよな。そうだ、『一人の崇高な者』を批判する文章も書こう」と感じて「36 崇高な者たち」の文章を書いたのではないだろうか。
・そして、「36 崇高な者たち」を書いた後、ニーチェは「かき集めた教養に寄食する現代の人間たち」も否定したいと感じ、「37 教養の国」を書き、「37 教養の国」で「かき集めた教養に寄食する現代の人間たち」を否定した直後に「(現代の人間たちのなかでも特に)観照の者たち」も批判したいと思い、「38 無垢な認識」を書いたが、更に「かつて自分を酷評した学者たち」も批判したいと思って、ニーチェはこの章を書いたのかもしれない。「35 自己超克」からこの章までの箇所は、全体的にショーペンハウアー哲学について述べられている文章が多いし、この章を読んでも「38 無垢な認識」で登場した「観照」がこの章のp278に登場している。
・胡桃(くるみ)は殻が硬く、殻の内部にある実を食べるには、殻を破る作業(胡桃割りの作業)をしなければならない。だが、胡桃の実は味も薫りも良く、紀元前7000年ごろには既に食べられていたほど、古くから人類と関わりの深い植物でもある。ツァラトゥストラは「中身は味わい深いが、翻訳や文献分析という工程をしないと中身をスムーズに味わえない古文書」を「中身は味わい深いが、胡桃割りという工程をしないと中身をスムーズに味わえない胡桃」に喩えている。
・p279でもツァラトゥストラは学者たちを粉ひき機械に喩え、「(そのなかに穀物の粒を投げれば)かれらは(学者たちは)すぐその穀物を砕いて、白い粉にすることを心得ている」と語っている。ツァラトゥストラにとって、学者たちは、胡桃を渡されれば胡桃の殻を割って、胡桃の実をすぐに食べられる状態にし、穀物の粒を投げられれば穀物を挽いて穀物を食べやすくするように、加工の作業が上手い人々なのだろう。
・ツァラトゥストラは「街路に立っていて、行き来する者を口をあけて見ている者とひとしく、かれらもじっとしたまま、他者が考えた思想を口をあけてながめている。かれらをつかめば、かれらはしかたなしに粉袋のように埃を立てる。しかし、その埃が、もとは夏の畑の産み出した黄金色の歓喜、あの穀物から生じたものであることに、だれが思い及ぶだろう。かれらが賢者ぶるとき、わたしはかれらのみすぼらしい寸言や真理に寒けを感ずる。かれらの知恵には沼から立ちのぼるような臭気のあることがしばしばだ。まことに、かえるの鳴き声も、早くもその臭気に運ばれて聞こえてくる」と学者たちを罵る。漫画『ど根性ガエル』に登場する蛙の可愛いキャラクターやサンリオの「けろっぴ」などが広く親しまれている日本とは対照的に、蛙は西洋においてグロテスクで不気味な両生類とされる。「かえるの鳴き声」が不気味な音というニュアンスで扱われているのは、そのことが影響している。
・「かれらは熟練しており、器用な指をもっている。その複雑さに比べたら、わたしの単純さに何ができよう。かれらの指は、糸のあつかい方、結び方、編み方をすっかり心得ている。こうしてかれらは精神製の靴下を編み上げるのだ」と、ツァラトゥストラは学者たちの器用さを指摘し、自分(ツァラトゥストラ)の単純さとは対照的だと語る。器用さは世間一般で良い言葉で用いられることが多く、単純さは「シンプルさ」というニュアンスであれば兎も角、どちらかと言えば「思慮分別が乏しい」といった悪いニュアンスで用いられることが多い言葉である。「自分は単純だが、自分が非難している相手は複雑で器用だ」という主張は、前章における「自分の言葉は姿が悪く卑しいが、相手の言葉は高貴だ」という主張に似ている。
・骰子(p279):「さいころ」という意味。「さい」と読む。「賽」と漢字表記されることもある。
・ツァラトゥストラはp279で「わたしとかれらとは互いに異邦人だ。かれらの徳は、かれらの虚偽といかさまの骰子以上に、わたしの趣味に反するのだ」と語る。だが、「かれらはわたしの足音をかれらの耳から遠ざけた。こうしてわたしは今まで最もすぐれた学者たちから耳をかたむけられることが、最も少なかったのである」とも語っており、ツァラトゥストラは最もすぐれた学者たちには肯定的なようにも思われる。ツァラトゥストラは全ての学者たちに否定的なのではなく、虚偽やいかさまばかりの学者たちに否定的ということなのだろう。
・「ツァラトゥストラはこう語った。」という定型句の直前にツァラトゥストラは<かれらはかれらとわたしとの間に、人間すべての過誤と弱点とを置いた。――それをかれらの家における「防音板」と称した。しかもわたしは今もわたしの生きた思想をいだいて、かれらの頭上を歩んでいる。たとえわたしがわたし自身の過ちを履き物にして歩くことがあっても、それでもわたしがかれらの頭上を歩いていることには変わりがない。なぜなら人間は平等ではないからだ。公正はそう語る。かれらは、わたしの欲することを欲する資格をもたないのだ>と述べている。<かれらはかれらとわたしとの間に、人間すべての過誤と弱点とを置いた。――それをかれらの家における「防音板」と称した>は「かれらがわたしの存在を誤魔化そうとしたことは人間すべての過誤と弱点である」という意味で読めそうだが、手塚によれば、この箇所は「たとえわたしの説くことに、時には過ちがあっても、自分がかれらより高い位置において思索している事実は、動かすことができない」という意味なのだという。
・「なぜなら人間は平等ではないからだ。公正はそう語る」からは、「30 毒ぐも」でも述べられていた「人間は平等になるべきでもない」というツァラトゥストラの価値観が窺える。
※『ツァラトゥストラはかく語り』解説プロジェクトに関連する記事は全て【記事リスト】でまとめられています。