★底本

第二部 p208~214

 

★手塚による要約

「市場の蠅」の章では民衆の卑小さを、ここでは賤民の汚らわしさをののしる。しかし嘔気(はきけ)がかれを高所の清涼な泉に導く、生の真夏に。

 

★解説

 

 

 

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★底本

第二部 p200~207

 

★手塚による要約

有徳者と言われる者たちの低い種々相をあばき、真の徳とは人間が「本来のおのれ」を愛して、それを生かしていくことにあると説く。

 

 

★解説

 

 

 

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★底本

第二部 p194~200

 

★手塚による要約

一種の英雄性をもってはいるが、生命にそむいて彼岸への救済をはかる僧侶と教会を攻撃する。自由な人間として超人を目ざせ。

 

★解説

 

 

 

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★底本

第二部 p186~193

 

★手塚による要約

同情するのは、他者を弱者とみなして恥じさせることで、恥ずべきことである。愛する対象を鍛え高める高い愛に進むべきである。

 

★解説

 

 

 

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★底本

第二部 p179~186

 

★手塚による要約

友と敵の住む至福の島々が第二部の舞台である。本章では超絶的な思想を明確に否定し、現世における超人への創造の道を説く。

 

★解説

 

 

 

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★底本

第二部 p174~179

 

★手塚による要約

数年の孤独の間にかれの教えは下界でゆがめられてしまった。かれの胸はふたたびあふれ、嵐のように友と敵を求めて下りてゆく。

 

★解説

 

 

 

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★底本

第一部 p161~172

 

★手塚による要約

他から施されるのでなく、おのれを贈り与えるのが最高の徳。しかもそれは大地に忠実な生、大いなる正午を実現するための徳である。

 

 

★1(p161~166)

・ツァラトゥストラは「2 三様の変化」から第一部の最後の章であるこの章まで「まだら牛」という都市(町)を拠点に暮らしていたが、この都市に別れを告げる。そのとき、ツァラトゥストラの弟子を名乗る多くの者がツァラトゥストラを見送った。

 

・独り行くことを愛する者であるツァラトゥストラは或る十字路まで来て「ここから独りで行きたい」と告げる。そこで弟子たちは別離のしるしとしてツァラトゥストラに一本の杖を贈る。杖の握り部分は金で出来ており、一匹の蛇が太陽に身を巻きつけて輪をなしているデザインである。ツァラトゥストラはこの贈り物を喜び、それを地に突く。それから、弟子たちに向かって語り始める。

 

・この節(★1)における弟子への語り掛けは、金(黄金)が最高の価値を持つ理由に始まり、最高の徳(贈り与える徳)や善悪に関する主張を経て「すなわち、金色の太陽に巻きついている認識の蛇だ」という一文で終わっている。つまり、杖のデザインはこの節を読み解くうえで重要な手がかりとなっている。

 

・ツァラトゥストラは金を「最高の徳」の写し絵と見做している。金は、通常性を離れた稀有(けう)なもの、不用のものであり、輝きを持っていて、その光は柔和である。最高の徳も、通常性を離れた稀有なもの、不用のものであり、輝きを持っていて、その光は柔和である。

 

・p162に「贈り与える者のまなざしは金の輝きに似ている。金の光は月と太陽とを平和に結びつける」とある。哲学者であると同時に詩人でもあったニーチェは、金色である光が「光を与える天体である太陽」と「光を受ける天体である月」とを結びつけているという発想に至っていた。太陽と月は遠く離れているし、連結されている訳ではないにも拘らず、両者の間には光を通した繋がりが確かにある。

 

・漫画家であると同時に詩人でもある久保帯人も「もし わたしが雨だったなら それが永遠に交わることのない 空と大地を繋ぎ止めるように 誰かの心を繋ぎ留めることができただろうか」という詩を21世紀の初頭に発表している。洞察力や表現力に富む天才は、生まれた地域や時代に関係なく、常人には気づきがたいような発想に至るということなのかもしれない。

 

・ツァラトゥストラによれば、弟子たちはツァラトゥストラ同様に贈り与える徳を得ようと努めている。贈り与える意欲において飽くことを知らぬ君たちの魂は、飽くことなく富と宝玉を得ようと努めている。こういう贈り与える愛は、「価値のあるあらゆるもの」の強奪者とならざるを得ない。しかし、ツァラトゥストラはこういう我欲を健全や神聖と呼ぶ。

 

・我欲(p163):「がよく」と読む。「自分一人の利益や満足だけを求める気持ち」という意味。「我慾」とも表記される。

 

・ツァラトゥストラは我欲を二つに分けて考えている。一つはツァラトゥストラが健全や神聖と呼ぶ我欲で、もう一つは「あまりにも貧しく、飢えていて、つねに盗もうとする我欲」「病者の我欲」「病める我欲」である。後者は盗人の目で全ての輝くものを見る。そして、贈り与える者の食卓のまわりをいつも忍び歩きしているという。

 

・後者には「目に見えぬ退化」が潜んでおり、後者の盗人めいた貪欲さは肉体に宿る生命力が病み衰えている証拠だとツァラトゥストラは主張する。超人への道(われらの道)は、上へとのぼる。つまり、種から超種(種がおのれを超えて向上した段階)へとのぼる。だが、後者のように退化しつつある心はツァラトゥストラや弟子を身ぶるいさせる。

 

・一方で、ツァラトゥストラらの心は上に向かって飛ぶ。この心はツァラトゥストラらの肉体の比喩、向上の比喩である。もろもろの徳の名称はこのような向上の態度の比喩であり、善と悪に与えられている名称のすべても「生の向上の意志」に由来する比喩である。

 

・なお、p164の第一段落でツァラトゥストラは精神を肉体に帰属させる見解を示している。「5 肉体の軽蔑者」でも示されていたように、ツァラトゥストラにとっては、あくまで肉体あっての精神なのである。

 

・ゆるがせ(p164):おろそか、いい加減。

 

・とどろき(p165):とどろくことや、その音。「轟き」と書く。

 

・怜悧な(p165):「れいりな」と読む。「利口な」や「賢い」という意味。

 

・生動(p165):「せいどう」と読む。「いきいきと動く」という意味。

 

・ツァラトゥストラは徳の根源が発生する過程を語り、その新しい君たちの徳を「新しい善と悪」「新しい深い水のとどろき、新しい泉の声」や「支配する力をもつ高く強い思想」と捉える。「支配する力をもつ高く強い思想」を中心として一つの怜悧な生き物(金色の太陽に巻きついている認識の蛇)が生動すると説く。

 

 

 

★2(p166~169)

・しばらくツァラトゥストラは沈黙し、愛のまなざしを弟子たちに注ぐ。そして、弟子たちに語りかけるが、ツァラトゥストラの声は★1とは別の調子である。

 

・ツァラトゥストラは、これまで第一部で語ってきたように、「大地に忠実であれ」や「万物の価値が君たちによって定められるようになれ」「戦う者であれ」「創造する者であれ」と弟子たちに説く。

 

・天翔る(p166):「あまがける」と読む。「人や神や霊魂などが空を飛び走る」という意味。

 

・君たちの愛と認識とが地上から飛び離れて、その翼が永遠の壁につき当たることをツァラトゥストラは懸念する。「永遠の壁」は、観念的な天上の世界を指している。ツァラトゥストラは「ツァラトゥストラの序説」で「天上の希望を説く人々」すなわち「キリスト教の聖職者たち」を嫌っていたように、「観念的な天上の世界に囚われることは(超人への道における)永遠の障壁である」と考えている。

 

・「今まで天翔って飛び失せた徳は実に多い。わたしが飛び失せた徳を大地へ(肉体を生へ)連れ戻しているように、君たちもそうしろ」とツァラトゥストラは訴える。それらの徳が大地に意義を与えるようであるとき、それは一つの人間的な意義となる。ツァラトゥストラは観念的な天上の世界を中心とした意義ではなく、人間を中心とした意義を肯定している。

 

・ツァラトゥストラによれば、今まで精神や徳は百千のあやまちを犯した。あやまちや無知がわれわれの肉体となり、意志となってしまったほど、迷妄と失策(しくじり)は我々の肉体の中に住んでいる。つまり人間とは試み(幾千年にもわたって試行錯誤を重ねてきた生物)である。われわれは幾千年にわたる理性と幾千年にわたる妄念の両方を有しており、それらがいつ顔を出すか分からないという点で危険なのだと説く。

 

・偶然の対義語は必然である。★1のp165にある「必然の名で呼ばれるとき」の「必然」は、(ツァラトゥストラが巨人に喩えている)偶然と対応する。人類が幾千年にわたる理性と幾千年にわたる妄念の両方を有しているのは偶然であり、今も人類は偶然という名の巨人と一進一退の戦いをしている。この戦いに勝つこと(人間による意志を確立すること)で、我々は偶然を乗り超えられるとツァラトゥストラは暗に語っている。

 

・p168でツァラトゥストラは人間と(人間の住み)大地は、まだ汲みつくされておらず発見しつくされていないと説いている。つまりツァラトゥストラは「人間と大地には、未知の可能性がある」と考えている。

 

・更に、ツァラトゥストラは「君たち、今日の孤独者よ、離脱者よ、君たちは未来において一つの民となるべきだ。自分自身を選び出した君たちのなかから、一つの選ばれた民が生い育って(おいそだって)ゆくべきだ。――そして、その民のなかから超人が。」と語る。この主張は「16 千の目標と一つの目標」で述べられた民族論を反映している。

 

・それに続いて記されている「まことに、大地は今後快癒の場所とならねばならぬ。早くも新しい香り、祝福をもたらす香りが大地をつつんでいる――そして新しい希望が」という台詞で、この節は終わっている。ツァラトゥストラは今後の展望や未来への希望を弟子たちに示している。

 

 

 

★3(p169~172)

・ツァラトゥストラは口を閉ざすが、まだおのれの最後の言葉を発していない人のようだった。しばらく思いまどいながら(思い迷いながら)杖をもてあそんでいたが、ついに最後の言葉を発し始める。なお、その声音(こわね)は変わっていた。

 

・ツァラトゥストラは弟子たちに、いったん独りになるよう告げる。「今はツァラトゥストラから離れて去り、そしてツァラトゥストラを拒み、恥じること」を弟子たちに望むツァラトゥストラは「かれ(ツァラトゥストラ)は君たちを欺いたかもしれない」と不安のような気持ちを漏らす。
 

・p170で「認識の徒は、おのれの敵を愛することができるばかりか、おのれの友を憎むことができなくてはならぬ。いつまでもただ弟子でいるのは、師に報いる道ではない。なぜ君たちはわたしの花冠をむしり取ろうとしないのか」と語るツァラトゥストラは、従順な弟子や信徒を歓迎する凡庸な思想家や活動家や宗教家などとは性格が異なっている。
 

・ツァラトゥストラは「信じることはつまらない」と述べ、「君たちのすべてがわたしを否定することができたとき、わたしは君たちのもとに帰ってこよう」と宣言する。ツァラトゥストラから弟子へのこれらの言葉は、ニーチェからニーチェ主義者への言葉と捉えることも出来るだろう。

 

・そして「そのときわたしは、今とは違った目で、わたしから別れた者たちをさがすだろう。今とは違った愛で、君たちを愛するだろう。さらに、わたしは、君たちがいつの日か、わたしの友、おなじ一つの希望の子となることを、期待する。そのときは、わたしは、三度目として君たちを訪れよう、大いなる正午を君たちとともに祝うために」と語る。

 

・「そのときわたしは、今とは違った目で、わたしから別れた者たちをさがす」は「そのときわたしは弟子たちを独立した人格として認める」という意味である。それにしても「三度目として」は「今後、わたしは一度目に君たちを訪ねたのち、二度目に君たちを訪ね、最終的に三度(三回)君たちを訪ねる」という意味なのだろうか。

 

・「大いなる正午とは、人間が、獣と超人とのあいだに懸け渡された軌道の中央に立ち、これから夕べへ向かうおのが道を、おのが最高の希望として祝うときである。その道が最高の希望になりうるのは、新しい朝に向かう道だからである。そのとき、没落してゆく者は、おのれがかなたへ渡ってゆく過渡の者であることを自覚して、おのれを祝福するだろう。そしてかれの認識の太陽は、かれの真上に、正午の太陽としてかかることだろう」という台詞からは正午の太陽を最高とするツァラトゥストラの価値観が伝わってくる。

 

・確かに天球において太陽は正午のとき最も高くなる。「8 読むことと書くこと」で前述したように、ニーチェは位置的な高低を価値の高低に結びつける傾向がある。


・この節ひいては第一部は<「すべての神々は死んだ。いまやわれわれは超人が栄えんことを欲する」――これが、その大いなる正午におけるわれらの究極の意志であれ。――― ツァラトゥストラはこう語った。>という文章で終わっている。

 

 

 

 

 

★総評

この章は、ツァラトゥストラの序説と同様に、章全体が節に分けられている。「2 三様の変化」からこの章は「ツァラトゥストラの言説」という部分に該当し、各章の最後に「ツァラトゥストラはこう語った。」という一文がある。この章でも「★1」や「★2」の最後にはないが、「★3」の最後に「ツァラトゥストラはこう語った。」という一文がある。

個人的には「★1」と「★2」と「★3」とで口調が変わっていることが興味深く感じられる。「★2」は愛のまなざしを弟子たちに注いでいることから、どこか優しげな口調であり、「★3」は思い迷いながら言い始めていることから、「積極的に言いたい訳ではないが、言うべきだと判断したから口を開く」というような険しさを含んだ口調であるように感じられる。

 

 

 

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★底本

第一部 p155~160

 

★手塚による要約

おのれの生を完成して生を去り、よき使命を次代へ引き継ぎたい。それが真の生だ。未熟の生しか知らないのに死を憧れてはならない。

 

 

★解説

・この章の冒頭でツァラトゥストラは「今のところはまだ異様に聞こえるだろうけど、時に適って死ね」と説く。「時に適って死ね」は「(人は)適切なタイミングで死ぬべきだ」という意味である。

 

・「10 死の説教者」や「21 子どもと結婚」などと同様に、ツァラトゥストラは「無用な者たち」を酷評する。ツァラトゥストラによれば、無用な者たちは時に適って生きていないため時に適って死ぬことが出来ない。よって、無用な者たちは生まれてこないほうが良かったのだが、無用な者たちも死ぬことにもったいぶった意味をつけたがるという。

 

・p155の「空(から)の胡桃(くるみ)も割ってもらいたがる」は、「人は胡桃の実を食べるために胡桃の殻を割る。それゆえ実が入っていない胡桃の殻を割るのは無意味なことである。空の胡桃を割るのが無意味であるように、無用な者たちの死も無意味である」というニュアンスの暗喩ではないだろうか。

 

・「すべての者が、死ぬことを大げさに考える」と語るツァラトゥストラはp155の最後の段落で「わたしは君たちに、生者たちにたいして刺激となり、誓約となるような、完成をもたらす死を示そう」と宣言する。

 

・ツァラトゥストラは「生者たち(希望する者たちや誓約する者たち)に取り囲まれながら勝利に輝いて死に、生者たちの誓いを固めさせること」を最善の死と主張し、「戦いながら死に、大きい魂を惜しむことなく浪費すること」を次善の死と主張する。「戦いながら」とあるが、ツァラトゥストラは「19 老いた女と若い女」で「男は戦闘のために教育されるべきであり、女はその戦士の心身の勇気の回復に役立つように教育されなければならぬ」と語っていた。

 

・「わたしの死をわたしは君たちに向かって讃える。それは、わたしが欲するゆえに、わたしに来る自由な死だ」と語っていることから、ツァラトゥストラ自身もいつかは死ぬようである。ツァラトゥストラは「(わたしのように)目的をもち、相続者をもつ者は、目的と相続者にとって適正な時に死を欲する」と宣言する。

 

・ツァラトゥストラは「真理と勝利を得るにはもう老いすぎている者も少なくない。歯のない口は、もはやどんな真理をも味わう権利はないのだ」と述べる一方で「だが青春の訪れのおそい者は、ながく青春を保つ」と述べており、「早すぎる死も良くないし遅すぎる死も良くない」と考えている。ツァラトゥストラは「多数の、あまりにも多数の者」や「無用な者たち」が早く死ぬことを願っており、p157~158でその願いを吐露している。

 

・だが、その願いに反して、ツァラトゥストラの耳には、ゆるやかな死と、「地上のもの」すべてに対する忍耐を説く声ばかりが聞こえるという。ツァラトゥストラは「忍耐し辛抱しているのは、大地に対する忍耐を説く声を聴いている無用な者たちのほうではなく、大地のほうである」と主張し、無用な者たちから大地(地上の事物)を庇おうとしている。

 

・「ゆるやかな死」というのは、「死を説教しながら、もしくはその説教を聴きながら、生へのなまぬるい未練を持ったままゆるやかに死んでいくこと」を指す。「10 死の説教者」という章があったが、これは正確には「ゆるやかな死の説教者」とするべきなのだろう。

 

・p158の「ゆるやかな死の説教者たちが敬うヘブライ人」はイエス・キリストを指している。ヘブライ人は簡単に言えばユダヤ人のことである。「あまりに早く死んだ」というのはイエスが33歳ぐらいの年齢で磔刑に処せられたことを踏まえている。なお、敬虔なキリスト教徒は「イエスは磔刑に処せられたあと復活し、今も生きている」という信仰を持っているため、「イエスは33歳ぐらいの年齢で刑死した」という表現を好まず、「イエスが人間であった期間は33年ほどであった」などといった表現を好む。

 

・キリスト教の教えによれば、救世主であるイエスは人類を原罪(アダムとイブが神の命令に背き、禁断の木の実を食べたことによる罪)から救うために、人類の身がわりとなって磔刑を受けた。

 

・この教えに対して、ツァラトゥストラは「まだ若いかれ(イエス)が知っていたことは、ヘブライ人たちの涙と憂愁(ローマによる支配を受けていたヘブライ人たちの苦痛)、それに正義の者たち(手塚の脚注によれば「パリサイ人たち」のこと)の憎しみだけだった」や「かれはなおも荒野にとどまっていて、あの正義の者たちから離れていれば良かったのだ。そうすれば、おそらく生きることを学び、大地を愛することを学び、さらには笑うことを学んだであろう」や「かれはあまりに早く死んだのだ。もしかれが生きつづけていてわたしの年齢(「ツァラトゥストラの序説」のp12によればツァラトゥストラは40歳前後である)に達したなら、かれはかれの教えを撤回したことだろう」と語っている。

 

・パリサイ人(ぱりさいびと)は、ユダヤ戦争(ヘブライ人とローマ帝国が争い、ヘブライ人がローマ帝国に敗れてローマ帝国の支配下に置かれるようになった戦争)によるエルサレム神殿の崩壊後にユダヤ教の主流派となった集団である。パリサイ派、ファリサイ人、ファリサイ派とも呼ばれている。イエスは生前、パリサイ人と対立していたとされる。

 

・ツァラトゥストラはイエスを「高貴な人だった」と評する一方で、「かれはまだ未熟だった。およそ(総じて)青年というものは、未熟に愛し、また未熟に人間と大地を憎む。その心情と精神の翼は、まだ縛られていて重い」と指摘する。

 

・p159の第二段落に「然り(しかり)」や、神聖な「否(いな)」の発語者という表現がある。これらの表現は「2 三様の変化」でも用いられていた。ツァラトゥストラによれば、成人は青年と違って死ぬことや生きることをよく心得ている。33歳ほどの年齢で刑死したイエスを、ツァラトゥストラは成人ではなく青年と見なしているようである。

 

・ツァラトゥストラは君たち(わたしの友ら)と自分自身の理想的な死を述べる。「君たちの死が人間と大地にたいする冒瀆とならないように!わたしの友らよ。このことをわたしは君たちの魂の蜜に懇願する。死ぬ時にも、そこにはなお君たちの精神と君たちの徳とが燃えかがやいていなければならぬ、大地をつつむ夕映えのように。そうでなければ、君たちの死は失敗ということになろう。君たちがわたしの死に接して、そのためにいよいよ大地への愛を深めてゆくように、そういうふうにわたし自身は死にたいと思う。そしてわたしはふたたび大地の一部となって、わたしを生んだこの母のなかで安静を得たいと思う」という台詞からは、ツァラトゥストラの死生観が窺える。

 

・日本語では、死ぬことを婉曲的に「土に還る」という場合がある。本書の原文はドイツ語であるが、「ふたたび大地の一部となって」は「土に還る」という日本語の表現を連想させる。また、「わたしを生んだこの母」は本書の読者に地母神をイメージさせる。地母神は大地の生産力や生命力を神格化した女神のことであり、世界の幅広い地域で見られる宗教的概念である。ニーチェはギリシャ神話に関心をよせていたが、ギリシャ神話のガイアも地母神の一種とされる。

 

・この章の最後に、ツァラトゥストラは「まことに、ツァラトゥストラは一つの目的をもっていた。かれはかれのまりを投げた。 さあ、君たち友人よ、わたしの目的の相続者となれ。君たちを目がけて、わたしは黄金のまりを投げつける。 わたしの友人たちよ、何にもまさってわたしの見たいのは、君たちがその黄金のまりを投げるさまだ。だからわたしはもうしばらく大地にとどまろう。そのことをわたしに許せ」と語っているが、一人称が「わたし」から「ツァラトゥストラ」に変化している箇所がある。

 

・「黄金のまり」はツァラトゥストラの超人思想を指すが、「16 千の目標と一つの目標」で前述したように、ニーチェは「ゾロアスター(ドイツ語読みではツァラトゥストラ)は『金の星』を意味するという説」を信じていた。「ツァラトゥストラの序説」のp26にも「黄金のことば」というフレーズがあった。

 

 

 

 

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★底本

第一部 p150~154

 

★手塚による要約

超人を生むという観点から、結婚の意義を説く。男女の最善の愛は、人類のより高い段階へ進むべき一つの道程になることだとする。

 

 

★解説

・この章は「わたしの兄弟よ、わたしは君ひとりに訊きたいことがある。測量用の鉛のように、わたしはその問いを君の魂のなかへ投げこむ、君の魂がどのくらい深いかを知るために」という段落から始まっている。直前の「20 まむしのかみ傷」でも、「隠者は深い泉に似ている。石を投げこむことはやさしい。しかし、石が底まで沈んだとき、だれがそれを取り出すことができようか」とツァラトゥストラは語っていた。

 

・訊く(p150):「きく」と読む。「尋ねる」という意味だが、人名用漢字である「訊」は常用漢字に含まれていないため「聞く」という漢字表記で代用されることがある。

 

・最初の段落の次の段落によれば、「君ひとり」の「君」は若く、結婚して子を持つことを望んでいる。だが、ツァラトゥストラは「自己を解放した強者として、その強さをつたえる子を望むことが、君の結婚意志でなければならぬ」と説き、「君はただおのれを生みふやしてゆくだけでなく、おのれを生み高めてゆかねばならぬ。結婚の園は、そのことのために君に役立つものであれ」と訴える。

 

・p151に「より高い肉体を君は創造しなければならぬ。始原の運動、おのれの力で回る車輪を。――君は創造する者を創造しなければならぬ」とある。「始原(始まり)の運動、おのれの力で回る車輪」という表現は「2 三様の変化」や「18 創造者の道」でも登場している。直後に「結婚、そうわたしが呼ぶのは、二人の意志が結合して、自分たち以上の一者を創造しようとすることである」と語っているように、ツァラトゥストラにとって(結婚に伴う)出産は創造なのである。

 

・ツァラトゥストラは「あのあまりにも多数の者、無用な者たち」による結婚を嫌悪している。「10 死の説教者」でツァラトゥストラは「大地は不用な者たちに満ちている」と語っていた。「12 新しい偶像」にも「多数の、あまりにも多数の者」というフレーズが登場していた。

 

・手塚の脚注によると、ツァラトゥストラは因習的な教会の説く神や天を嫌っているのだという。確かに西洋で結婚といえば教会が真っ先に頭に浮かぶほど、西洋社会において結婚と教会は強く繋がっている。事実、ツァラトゥストラは「自分が結び合わせたのでもない二人を祝福しようと、遅ればせに不自由な足をひきずりながらやってくる神」と語っている。

 

・しかし、ツァラトゥストラはそう語った直後に「だが、こういう結婚を笑うのはよすがいい。自分の両親のことを泣かずにいられる子どもが、どこにあろう」と語っている。つまり、ツァラトゥストラが語り掛けている君の両親も「あのあまりにも多数の者、無用な者たち」なのではないのかとツァラトゥストラは問いかけているのである。どうやら、ツァラトゥストラは「超人に向いている者の子どもは超人に向いている」などといった思想(血統を重視する思想)を余り有していないようだ。

 

・ツァラトゥストラは自分が見聞きした結婚の失敗例を五つほど列挙したあと、恋愛を「短期間の愚かさ」と形容し、結婚を「長期間の愚かさ」と形容している。ツァラトゥストラにとって、結婚は通常、二匹の獣が互いに互いの腹をさぐりあっているに過ぎないのだ。

 

・この章の最後で、ツァラトゥストラは最善の愛について説き始める。「いつか君たちは、君たち自身を超えて、また互いに相手を超えて愛すべきである。だからまず愛することを実習せよ。それをするために君たちは君たちの愛の苦い杯(さかずき)を飲まなければならなかったのだと、考えるのがいい。苦さは最善の愛の杯のなかにもある。それゆえ、その愛は超人への憧れとなり、創造者としての君を渇望の人にするのだ。創造者としての渇望、超人を目ざす矢と憧れ。わたしの兄弟よ、それがはたして結婚における君の意志であるか。こういう意志、そしてこういう結婚を、わたしは神聖と呼ぶ。――」という台詞からは、結婚を超人への道につなげるツァラトゥストラの思想を読み取ることが出来る。

 

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★底本

第一部 p145~149

 

★手塚による要約

悪に善を報いるのではなく、受けた不正を自分への善に転ぜよ。敵をゆるしていい気になるより、ともどもに人間として敵とあい対せよ。

 

 

★解説

・あい対する(p145):「あいたいする」と読む。「相対する」とも表記される。「互いに向かい合う」や「直面する」や「対立する」などという意味。

 

・ある暑い日に、ツァラトゥストラがイチジクの木の下でまどろんで(少しの間うとうとして)いると、一匹のマムシ(毒蛇の一種)がツァラトゥストラの頸(くび)を噛む。

 

・痛みのため声をあげるツァラトゥストラは両腕を顔から離し、マムシを見つめる。噛んだ相手がツァラトゥストラであることに気づいたマムシは逃げようとするが、ツァラトゥストラに「逃げるな」と言われ、ツァラトゥストラのそばに留まる。因みに、このマムシは会話が出来る。

 

・「おまえはまだわたしの感謝を受け取っていない。おまえはわたしをよい時に眠りから起こしてくれた。わたしの行くべき道はまだ長いのだから」というツァラトゥストラに対し、マムシは悲しげに「あなたの道はもう短い」「わたしの毒は、命を奪う毒なのだ」という。しかし、ツァラトゥストラは微笑しながら「今までに竜が蛇の毒で死んだことがあるか」「だが、おまえの毒を取りもどせ。おまえはそれをわたしに贈るほど、富んではいないのだから」といい、マムシはもう一度ツァラトゥストラの頸にからだを巻きつけ、その傷を舐める。

 

・この逸話を自分の弟子たちに紹介するツァラトゥストラ。p140に突然「弟子たち」という語句が登場するが、「ツァラトゥストラの序説」から、この章に至るまでの間に、何者かがツァラトゥストラに弟子入りしているような描写はない。あくまで「9 山上の木」で登場した青年のように、ツァラトゥストラの教えに耳を傾けている者が描写された程度である。

 

・なお、ドイツ語では毒のことをGiftという。もともとは英語と同様、ドイツ語でもGiftは「贈り物」という意味であった。現代ドイツ語でもGabe(贈り物を意味する雅語)やMitgift(持参金)などといった名詞にその痕跡がある。

 

・ツァラトゥストラは普通の人体から乖離した肉体を有しているが、「18 創造者の道」で涙ぐんでいたりマムシに噛まれて声をあげたりと人間らしさも漂うキャラクターである。この逸話は常人離れしている一方で人間味もあるというツァラトゥストラの二つの側面を物語っていると言えそうである。

 

・この逸話を聴いた弟子はツァラトゥストラに「その逸話の教訓は何か」と問う。ツァラトゥストラは教訓について説き始める。

 

・まずツァラトゥストラは「善い者たち、正義の者たちは、わたしを道徳の破壊者と呼んでいる。つまり私のした話は道徳を教えるものではない」と述べる。ツァラトゥストラは「18 創造者の道」で「善い者たち、正しい者たち(日常的な意味における善人たちや正義感の強い者たち)」に警戒せよと説いていた。

 

・ツァラトゥストラは「君たちに敵があるなら、その敵が君たちにたいしてした悪に、善をもって報いるな」と説く。この主張は『マタイの福音書』の「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」などに代表されるキリスト教道徳とは大きく異なっている。p147でツァラトゥストラは「小さい復讐をするのは、まったく復讐しないことより、人間的である」とも語っている。

 

・だが、「一つの大きな不正が加えられたら、すみやかに五つの小さい不正をもって、それに仕返しをするがよい」で「大きい不正」と「小さい不正」という対比が用いられているように、あくまでツァラトゥストラは「少しばかりは仕返し(復讐)するがよい」と説いている。「目には目を、歯には歯を」などのように「同じぐらい復讐せよ」と説いている訳ではない。

 

・隠見(p147):「隠顕」とも表記される。「見え隠れする」という意味。

 

・ツァラトゥストラは「悪に善を報いるのではなく、受けた不正を自分への善に転換せよ」と説くが、そのうえで「わたしは君たちの冷たい公正を好まない。君たちのところの裁判官の目は、つねに刑吏の目であり、そこには刑吏の冷たい刃が隠見(いんけん)している」とも語っている。

 

・ツァラトゥストラは「人間は超人を目ざすべきだ」という思想を持っており、例えば、超人を目ざそうとしない人間を心理的に容認できない。それゆえ、それぞれの人間におけるそれぞれの人間のありかたを容認することも出来ない。このような事情を持つツァラトゥストラは「だから、わたしは次のことで十分としよう、わたしはそれぞれの人間をわたしの立場から見てゆくことにしよう」と語る一方で、弟子たちに向けて「単にいっさいの刑罰を負うばかりでなく、いっさいの負い目を身に引き受けるような愛を、君たちは創り出してくれ。あらゆる者――裁く者を例外として――を無罪と宣告しうる公正を、君たちは創り出してくれ。」と願う。

 

・最後に、ツァラトゥストラは隠者について弟子たちに語り始める。「わたしの兄弟たちよ、あらゆる隠者にたいして不正を加えることをつつしめ」や「隠者は深い泉に似ている。石を投げこむことはやさしい。しかし、石が底まで沈んだとき、だれがそれを取り出すことができようか」と述べ、隠者の深遠さを指摘し、「隠者を畏怖せよ」と説いて、この章は終わっている。

 

 

 

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