★底本
第二部 p200~207
★手塚による要約
有徳者と言われる者たちの低い種々相をあばき、真の徳とは人間が「本来のおのれ」を愛して、それを生かしていくことにあると説く。
★解説
・有徳者は「うとくしゃ」や「ゆうとくしゃ」と読み、「徳がある人」という意味の名詞。
・手塚による要約文に「種々相(しゅしゅそう)」とあるが、これは「さまざまな姿」や「いろいろな様子」という意味の名詞。
・「本来のおのれ」は「5 肉体の軽蔑者」や「7 青白い犯罪者」でも言及されていた概念である。p201で「美」という名詞が用いられているが、前章「27 僧侶たち」でツァラトゥストラが「ただ美だけが悔悛(かいしゅん)をうながす力をもっている」と語っているように、ツァラトゥストラは美に肯定的である。
・この章でツァラトゥストラは有徳者たちに語りかけている。この章における「君たち」は有徳者たちでもあり、ツァラトゥストラにとっての友人たちでもある。
・p201の「支払い」は「報酬」というニュアンスで読むと分かりやすい。ツァラトゥストラにとって徳は「良いことをすれば、後で報酬(ご褒美)が貰える」というようなものではない。
・「良いことをすれば、後で報酬(ご褒美)が貰える」の具体例として、ツァラトゥストラは「地上で善い生活を送れば死後、天国に行ける」という発想や「今日(という今)を犠牲にすれば、いずれ永遠を手に入れられる」という発想を挙げている。「永遠を手に入れられる」の「永遠」はゲーテの「永遠なるもの」という概念(ツァラトゥストラは「25 至福の島々で」において「永遠なるもの」という概念を否定している)や、キリスト教の「永遠の生」(「10 死の説教者」参照)という概念を指している。
・ツァラトゥストラは徳を「復讐、罰、褒賞、報復」などと捉えることを否定している。p202の第三段落で、ツァラトゥストラは、君たちの徳の目標は君たちの「本来のおのれ」だと説いている。この段落にある「円環」は本書の重要概念である永劫回帰を連想させる。
・ツァラトゥストラにとって、徳の目ざすものは人体における異物ではないし、キリスト教の説く天国でも皮膚や外套(服の上に着用する衣服)でもない。徳の目ざすものは「本来のおのれ」であるとツァラトゥストラは語っている。ツァラトゥストラは「君たちの魂の根底にある真実なのだ、有徳者たちよ」と、その語り口は聞き手を圧倒するかのようである。
・p202の第一段落と第二段落の内容は、p205の後半からp206までの内容と対応している。
・前述したように、ツァラトゥストラにとって徳の目標は「本来のおのれ」である。そのため、「わたしがそれでないもの、それがわたしには神であり、徳である」という主張(p203)はツァラトゥストラの価値観と相容れないものである。
・ツァラトゥストラは徳について誤解している人々の具体例をp202~205で列挙しているが、ツァラトゥストラがこの章で教えを説いている目的は、徳について誤解している人々に対して「お前らは間違っている」などと伝えることではなく、君たち(ツァラトゥストラにとっての友人たち)が「報酬」「報復」「罰」「正義による復讐」などの言葉や、「おのれを空しく(むなしく)させる行為が善なのだ」という主張などに飽き飽きすることである。
・制動機(p203):「せいどうき」と読む。「ブレーキ」のことである。
・「徳について誤解している人々」の具体例を以下にまとめる。
一、鞭の雨の下でのもがきを徳だと思っているような人々
一、自分たちの悪徳が怠け者、無精者になったことを徳と称している人々
一、堕落するほど手前勝手な気持ちで神を求めるが、いたずらに熱狂的で堕落すればするほど神への欲望に燃える人々
一、威厳や徳について、しきりに語り、自分の制動機を徳と称している人々
一、ねじを巻かれた柱時計のような者たち(この暗喩を手塚は「習慣と惰性による徳行(とっこう)」と脚注しているが、ねじを巻かれた柱時計は「同じ動きを繰り返しているだけの存在」と言えるため、個人的には、この暗喩は「創造性がなく、ルーティーン化した日常生活を送っているような者たち」を指しているようにも感じる。)
一、ひと握りの正義を誇って、その正義のために、あらゆる事物にたいして不正をはたらく人々
一、自分の沼のなかに腰をおしつけて、芦のあいまから「徳とは、沼のなかに黙ってすわっていることだ。われわれはだれをも噛まず、噛みつこうとする者を避ける。そして何事につけても、ひとから与えられた意見をもつ」と語る人々(きたないところにも安住して、万事に事なかれ主義をとる人々)
一、身ぶりを好んで、徳は一種の身ぶりだと考え、つねに膝を崇拝のためにかがめさせているが、心情(本心)ではその身ぶりが徳となんのかかわりもない人々
一、「徳はなくてはならないものだ」と口にすることを徳だと思っている人々(ただし、ツァラトゥストラによれば、「徳はなくてはならないものだ」というのは「警察はなくてはならないものだ」と信じているだけである。つまり、彼らは「徳を他人の取締り(とりしまり)や社会の保安のための手段」と捉えている。)
一、人間における低劣なものをすぐそばから見ることを徳と読んでいる人々
一、高尚なことを聞いて心を高めようとして、そのことを徳と称している者や、衝撃的な感動を与えてもらうことを望み、これを徳と称している者
・「ひと握りの正義を誇って、その正義のために、あらゆる事物にたいして不正をはたらく人々」(p204)が「わたしは正しい」と言うとき、それはいつもまるで「わたしは復讐をした」と言っているように聞こえると、ツァラトゥストラは指摘している。彼らが、ひと握りの正義のために、あらゆる事物にたいして不正をはたらくのは、その正義感の背景に敵(もしくは社会)への復讐心が潜んでいるからである。彼らは彼らの徳によって彼らの敵の目玉をえぐり取ろうとしているが、彼らがおのれ(自分ら自身)を高めるのは、ただ他者を低くしようとするためだとツァラトゥストラは語る。
・「衝撃的な感動を与えてもらうことを望み、これを徳と称している者」という具体例は、感動ポルノなどを愛好してしまうような人々を連想させる。ニーチェが本書を執筆した時代に限らず、21世紀の現代においても感動ポルノで涙を流してしまうような庶民は多い。かつて、著述家の適菜収が「B層」という名称を用いていたが、要するに、感受性がジャンク(junk)で安っぽい人々のことである。
・参与(p205):「さんよ」と読む。「事業や計画に参加し関わる」という意味。
・任じる(p205):「にんじる」と読む。「任命する」「担当させる」「自負する」などという意味。
・これらの具体例を列挙したうえで、ツァラトゥストラは「ほとんどすべての人間が、徳に参与していると信じている」と指摘する。だが、ツァラトゥストラは「これらすべての道化や嘘つきたち」というインパクトのあるフレーズを用いて「ほとんどすべての人間が、徳に参与していると信じているのは間違いだ」と語っている。
・「ほとんどすべての人間が、徳に参与していると信じているのは間違いだ」などと語れば、「ほとんどすべての人間」は「このツァラトゥストラとかいう奴は、なに変なことをぬかしているのか」などと呆れたり不快になったりするだろう。p206の第一段落でも、ツァラトゥストラは「まことに、わたしは君たちから百のことばと君たちの徳が最も玩具類を奪った。そしていま君たちは、子どものようにわたしに腹をたてている」と述べている。
・そのうえで、ツァラトゥストラは、「子どもたちは砂浜で遊んでいた。――と波が来て、子どもたちの玩具を改定へさらって行った。子どもたちは泣いている。だが、子どもたちを泣かしたその波が、かれらに新しい玩具をもたらすことになろう、色とりどりの新しい貝殻をかれらの目の前にまきひろげることだろう。それによって子どもたちの機嫌もなおろう。また、わたしの友人たちよ、君たちも、同じように機嫌をなおすことだろう――新しい色とりどりの貝殻を得て」と述べ、「君たち」を励ましている。
・このように、ツァラトゥストラは君たち(わたしの友人たち)の機嫌を考える優しさを示す一方で、「ねじを巻かれた柱時計のような者たち」(p203)は嘲笑するなど、両極端である。
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