★底本

第二部 p200~207

 

★手塚による要約

有徳者と言われる者たちの低い種々相をあばき、真の徳とは人間が「本来のおのれ」を愛して、それを生かしていくことにあると説く。

 

 

★解説

・有徳者は「うとくしゃ」や「ゆうとくしゃ」と読み、「徳がある人」という意味の名詞。

 

・手塚による要約文に「種々相(しゅしゅそう)」とあるが、これは「さまざまな姿」や「いろいろな様子」という意味の名詞。

 

・「本来のおのれ」は「5 肉体の軽蔑者」や「7 青白い犯罪者」でも言及されていた概念である。p201で「美」という名詞が用いられているが、前章「27 僧侶たち」でツァラトゥストラが「ただ美だけが悔悛(かいしゅん)をうながす力をもっている」と語っているように、ツァラトゥストラは美に肯定的である。

 

・この章でツァラトゥストラは有徳者たちに語りかけている。この章における「君たち」は有徳者たちでもあり、ツァラトゥストラにとっての友人たちでもある。

 

・p201の「支払い」は「報酬」というニュアンスで読むと分かりやすい。ツァラトゥストラにとって徳は「良いことをすれば、後で報酬(ご褒美)が貰える」というようなものではない。

 

・「良いことをすれば、後で報酬(ご褒美)が貰える」の具体例として、ツァラトゥストラは「地上で善い生活を送れば死後、天国に行ける」という発想や「今日(という今)を犠牲にすれば、いずれ永遠を手に入れられる」という発想を挙げている。「永遠を手に入れられる」の「永遠」はゲーテの「永遠なるもの」という概念(ツァラトゥストラは「25 至福の島々で」において「永遠なるもの」という概念を否定している)や、キリスト教の「永遠の生」(「10 死の説教者」参照)という概念を指している。

 

・ツァラトゥストラは徳を「復讐、罰、褒賞、報復」などと捉えることを否定している。p202の第三段落で、ツァラトゥストラは、君たちの徳の目標は君たちの「本来のおのれ」だと説いている。この段落にある「円環」は本書の重要概念である永劫回帰を連想させる。

 

・ツァラトゥストラにとって、徳の目ざすものは人体における異物ではないし、キリスト教の説く天国でも皮膚や外套(服の上に着用する衣服)でもない。徳の目ざすものは「本来のおのれ」であるとツァラトゥストラは語っている。ツァラトゥストラは「君たちの魂の根底にある真実なのだ、有徳者たちよ」と、その語り口は聞き手を圧倒するかのようである。

 

・p202の第一段落と第二段落の内容は、p205の後半からp206までの内容と対応している。

 

・前述したように、ツァラトゥストラにとって徳の目標は「本来のおのれ」である。そのため、「わたしがそれでないもの、それがわたしには神であり、徳である」という主張(p203)はツァラトゥストラの価値観と相容れないものである。

 

・ツァラトゥストラは徳について誤解している人々の具体例をp202~205で列挙しているが、ツァラトゥストラがこの章で教えを説いている目的は、徳について誤解している人々に対して「お前らは間違っている」などと伝えることではなく、君たち(ツァラトゥストラにとっての友人たち)が「報酬」「報復」「罰」「正義による復讐」などの言葉や、「おのれを空しく(むなしく)させる行為が善なのだ」という主張などに飽き飽きすることである。

 

・制動機(p203):「せいどうき」と読む。「ブレーキ」のことである。

 

・「徳について誤解している人々」の具体例を以下にまとめる。

一、鞭の雨の下でのもがきを徳だと思っているような人々

一、自分たちの悪徳が怠け者、無精者になったことを徳と称している人々

一、堕落するほど手前勝手な気持ちで神を求めるが、いたずらに熱狂的で堕落すればするほど神への欲望に燃える人々

一、威厳や徳について、しきりに語り、自分の制動機を徳と称している人々

一、ねじを巻かれた柱時計のような者たち(この暗喩を手塚は「習慣と惰性による徳行(とっこう)」と脚注しているが、ねじを巻かれた柱時計は「同じ動きを繰り返しているだけの存在」と言えるため、個人的には、この暗喩は「創造性がなく、ルーティーン化した日常生活を送っているような者たち」を指しているようにも感じる。)
一、ひと握りの正義を誇って、その正義のために、あらゆる事物にたいして不正をはたらく人々
一、自分の沼のなかに腰をおしつけて、芦のあいまから「徳とは、沼のなかに黙ってすわっていることだ。われわれはだれをも噛まず、噛みつこうとする者を避ける。そして何事につけても、ひとから与えられた意見をもつ」と語る人々(きたないところにも安住して、万事に事なかれ主義をとる人々)
一、身ぶりを好んで、徳は一種の身ぶりだと考え、つねに膝を崇拝のためにかがめさせているが、心情(本心)ではその身ぶりが徳となんのかかわりもない人々
一、「徳はなくてはならないものだ」と口にすることを徳だと思っている人々(ただし、ツァラトゥストラによれば、「徳はなくてはならないものだ」というのは「警察はなくてはならないものだ」と信じているだけである。つまり、彼らは「徳を他人の取締り(とりしまり)や社会の保安のための手段」と捉えている。)

一、人間における低劣なものをすぐそばから見ることを徳と読んでいる人々

一、高尚なことを聞いて心を高めようとして、そのことを徳と称している者や、衝撃的な感動を与えてもらうことを望み、これを徳と称している者

 

・「ひと握りの正義を誇って、その正義のために、あらゆる事物にたいして不正をはたらく人々」(p204)が「わたしは正しい」と言うとき、それはいつもまるで「わたしは復讐をした」と言っているように聞こえると、ツァラトゥストラは指摘している。彼らが、ひと握りの正義のために、あらゆる事物にたいして不正をはたらくのは、その正義感の背景に敵(もしくは社会)への復讐心が潜んでいるからである。彼らは彼らの徳によって彼らの敵の目玉をえぐり取ろうとしているが、彼らがおのれ(自分ら自身)を高めるのは、ただ他者を低くしようとするためだとツァラトゥストラは語る。

 

・「衝撃的な感動を与えてもらうことを望み、これを徳と称している者」という具体例は、感動ポルノなどを愛好してしまうような人々を連想させる。ニーチェが本書を執筆した時代に限らず、21世紀の現代においても感動ポルノで涙を流してしまうような庶民は多い。かつて、著述家の適菜収が「B層」という名称を用いていたが、要するに、感受性がジャンク(junk)で安っぽい人々のことである。

 

・参与(p205):「さんよ」と読む。「事業や計画に参加し関わる」という意味。

 

・任じる(p205):「にんじる」と読む。「任命する」「担当させる」「自負する」などという意味。

 

・これらの具体例を列挙したうえで、ツァラトゥストラは「ほとんどすべての人間が、徳に参与していると信じている」と指摘する。だが、ツァラトゥストラは「これらすべての道化や嘘つきたち」というインパクトのあるフレーズを用いて「ほとんどすべての人間が、徳に参与していると信じているのは間違いだ」と語っている。

 

・「ほとんどすべての人間が、徳に参与していると信じているのは間違いだ」などと語れば、「ほとんどすべての人間」は「このツァラトゥストラとかいう奴は、なに変なことをぬかしているのか」などと呆れたり不快になったりするだろう。p206の第一段落でも、ツァラトゥストラは「まことに、わたしは君たちから百のことばと君たちの徳が最も玩具類を奪った。そしていま君たちは、子どものようにわたしに腹をたてている」と述べている。

 

・そのうえで、ツァラトゥストラは、「子どもたちは砂浜で遊んでいた。――と波が来て、子どもたちの玩具を改定へさらって行った。子どもたちは泣いている。だが、子どもたちを泣かしたその波が、かれらに新しい玩具をもたらすことになろう、色とりどりの新しい貝殻をかれらの目の前にまきひろげることだろう。それによって子どもたちの機嫌もなおろう。また、わたしの友人たちよ、君たちも、同じように機嫌をなおすことだろう――新しい色とりどりの貝殻を得て」と述べ、「君たち」を励ましている。

 

・このように、ツァラトゥストラは君たち(わたしの友人たち)の機嫌を考える優しさを示す一方で、「ねじを巻かれた柱時計のような者たち」(p203)は嘲笑するなど、両極端である。

 

 

 

 

 

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★底本

第二部 p194~200

 

★手塚による要約

一種の英雄性をもってはいるが、生命にそむいて彼岸への救済をはかる僧侶と教会を攻撃する。自由な人間として超人を目ざせ。

 

 

★解説

・名詞「僧侶(そうりょ)」は仏教の僧という意味のほかに、キリスト教の聖職者という意味でも用いられる。この章における僧侶はキリスト教の聖職者という意味である。

 

・この章は、弟子たちを伴って歩いているツァラトゥストラが僧侶たちのそばを通る前と、通った後との二つの場面からなる。ツァラトゥストラと弟子たちが僧侶たちのそばを通った直後、ツァラトゥストラは激しい痛みに襲われる。しばらく、その痛みと戦っていたが、やがてツァラトゥストラはいつものように教えを説き始める。

 

・p194でツァラトゥストラは「わたしはかれら(僧侶たち)と血のつながりをもっている」と述べているが、p198にも「血」や「血のしるし」というワードが登場している。

 

・「かれら(僧侶たち)のなかにも英雄がいる」とツァラトゥストラが語っているが、これはp196で言及されているように「かれらは自分たちの意に添わぬもの、自分たちに痛みを与えたものを、神と名付け、かれらのこういう帰依のしかた(仕方)には英雄的なものが多分にあったから」である。

 

・帰依(p196):「きえ」と読む。「優れたものや正しいものに自己の身心を捧げ、それに従う」という意味で、元々は仏教用語だったが、キリスト教の聖職者がキリスト教の神に自己の身心を捧げ、従うことも「帰依」と表現する場合がある。

 

・前章「26 同情者たち」でも語られていたように、ツァラトゥストラは喜びや軽快を重視する。ツァラトゥストラによれば、僧侶たちの大多数は余りにも苦悩したがために、他人に苦悩を与えようとしているそうであり、ツァラトゥストラの価値観と、僧侶たちの大多数の価値観は相容れない側面がある。ただし、「僧侶たちは自分らにとって凶悪な敵ではあるが、弟子たちの持つ剣で真っ先に攻撃しなければならないような存在でもない」とツァラトゥストラは説いている。

 

・p195の「わたしが人間たちに交わりはじめてから」は、「ツァラトゥストラがツァラトゥストラの序説で下山してから」という意味であるように感じられる。前章「26 同情者たち」の「同情」に加えて、「英雄」や「救済者」がこの章の重要なテーマである。「血(液)」も、それに含めるべきだろうし、「25 至福の島々で」や前章などで言及されている「神」というテーマも、この章で取り上げられている。

 

・p195の本文に添えられている脚注(3)に「対蹠(的)」とあり、「たいせき(てき)」というルビが振ってあるが、この単語は「たいしょ(てき)」と読まれることも多い。現代の日本語では「対蹠的」よりも「対照的」という単語の方がよく用いられる。

 

・まにま(p195):漢字では「随」と表記される名詞。助詞「に」を伴って「随に(まにまに)」というフレーズで用いられることが多い。「随に(まにまに)」は「成り行きや変化や動きに身を任せて」という意味のフレーズである。

 

・p195の「かれらが大海を波のまにまに漂ったとき」は「かれらが波の動きに身を任せて大海を漂ったとき」という意味である。ツァラトゥストラは「かつて、かれら(僧侶たち)は波の動きに身を任せて大海を漂ったとき、一つの島に上陸したと信じた。だが、この一つの島の正体は怪物だった。やがて怪物は大口をあけて、自分の上に小屋を作って住んでいた僧侶たちを呑み込むのだ」という暗喩を展開している。

 

・小屋というのは、キリスト教の教会のことである。ツァラトゥストラはイタリアの首都「ローマ」にあるスカラ・サンタ(聖なる階段)などといった教会をこきおろす。なお、p195の「甘やかにかおるそれらの洞穴(ほらあな)」は、山の上にいるときのツァラトゥストラが洞窟に住んでいることとの対比になっているのかもしれない。

 

・甘やかに(p195):「あまやかに」と読む。「甘い感じがする」という意味。

 

・p196に「斜視(しゃし)」とある。これは「眼筋の異常によって、一方の目が物を直視しているときに、もう片方の目が別の方向を向いている状態」という意味の医学用語だが、「左目と右目で視線が合っておらず傍から見て不気味な状態」という意味に捉えるのが妥当だろう。

 

・屍(p196):「しかばね」と読む。「死体」という意味。因みに、屍の部首は尸(しかばね)であり、尸という漢字が存在する。少年漫画『BLEACH』において「尸魂界」は「現世で死んだ魂が集まる世界」という意味である。このように、漢字「尸」は屍と通ずる漢字である。

 

・p196でツァラトゥストラは「かれら(僧侶たち)は、ただ屍として生きようとした。そして、おのれの屍を黒衣でおおった。かれらの口にすることばからも、わたしは屍体室(したいしつ)の不快なにおいをかぎつける」と述べているが、葬式仏教の国である今の日本でもお坊さんの発する言葉や衣装はしばしば葬式を連想させる。例えば、念仏は心に仏の姿やご利益(りやく)を思い浮かべ念じる行為であり、本来は葬式に限定された行為ではないが、現代の日本人の大多数は葬式ぐらいでしか念仏を見聞きしないため念仏はしばしば葬式をイメージさせる。

 

・p197に「第七天国(siebentem Himmel)」とある。手塚が脚注で解説しているように、これは「最高の天国」という意味の慣用句である。英語にもSeventh Heavenという慣用句がある。

 

・p197でツァラトゥストラは既存の宗教で信者を救済するとされる救済者たちを非難しているが、「同情心におぼれて」や「畜群」など、これらが超人と対照的な存在であることを指摘している。

 

・「血は真理に対する最悪の証人である。血は最も純粋な教えにも毒をそそいで、それを迷妄と憎悪にしてしまう」というツァラトゥストラの主張は、十字軍やユグノー戦争などといったキリスト教の流血の歴史を彷彿とさせる。

 

・颶風(p198):「ぐふう」と読む。強く激しい風、暴風のこと。

 

・不安で蒸し暑い心情と低温の頭脳、この両者が結んだとき、「救済者」という颶風が生ずるのだと、ツァラトゥストラは指摘する。「不安で蒸し暑い」と「低温」は対比となっており、「心情は不安に満ちてむんむんとしている(不快になるほど熱気に満ちている)のに、その不安定な情緒を落ち着かせる知能(頭脳)は余り働いていない」という意味である。

 

・ツァラトゥストラは救済者よりも、もっと偉大な者(高い哲人や芸術家など)がいると指摘するが、真の自由への道を見いだそうとするならば救済者による支配だけではなく、もっと偉大な者(高い哲人や芸術家など)による支配からも救済されなければならぬと述べ、超人への道を目指すよう説く。このように、ツァラトゥストラは、この章で「救済者からの救済」を訴える表現を複数回、用いている。

 

・ツァラトゥストラは、「超人の前では、最大の人間(人間のなかで最も素晴らしい人間)と最小の人間(人間のなかで最も愚劣な人間)は余りにも類似している」というレトリックを用いて、「高い哲人や芸術家など」であっても超人ほどの偉大さはないと指摘している。その際、「あまりに人間的(allzumenschlich)」という表現が用いられている。

 

・このallzumenschlichはallzuとmenschlichからなり、menschlichで「人間的」という意味になる。日本語でもドイツ語でも「人間的(menschlich)」という言葉は肯定的なニュアンスで用いられることが大半であり、p199のように「超人ほどの偉大さはない人間らしい」という否定的なニュアンスで「人間的(menschlich)」という言葉が用いられるのは珍しい。

 

・「あまりに人間的であった」のあと、お決まりの「ツァラトゥストラはこう言った」という一文を以て、この章は結ばれている。

 

 

 

 

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★底本

第二部 p186~193

 

★手塚による要約

同情するのは、他者を弱者とみなして恥じさせることで、恥ずべきことである。愛する対象を鍛え高める高い愛に進むべきである。

 

 

★解説

・この章でツァラトゥストラは羞恥や同情について論じている。前章「25 至福の島々で」にて言及されていた神の死に関する主張も含まれている。

 

・p186に「嘲りのことば」とあるが、この言葉の主は誰なのだろうか。「24 鏡をもった小児」などで言及されている「(ツァラトゥストラの)敵たち」の中の一人なのだろうか。それとも、p190などで言及されている悪魔だろうか。

 

・認識する者にとって、人間は赤い頬をした獣だとツァラトゥストラは語る。人間の頬が赤くなったのは、余りにもしばしば羞恥を感じなければならなかったからだという。

 

・「余りにもしばしば」と手塚は訳しているが、この和訳は正直なところ日本語としてはやや不自然なものとなっている印象を受ける。英語の和訳で喩えるならばvery oftenを「とてもしばしば」と訳するようなものではないだろうか。実は、副詞oftenは「しばしば」の他に「……ことが多い」と訳することができ、そのことを知っていればvery oftenを「……ことがとても多い」と自然に和訳することが出来る。「余りにもしばしば羞恥を感じなければならなかった」も「羞恥を感じなければならぬことが余りにも多かった」などと訳す方が自然なように思われる。

 

・なお、西洋世界において、人類と羞恥のつながりは深い。旧約聖書において、人類の祖先であるアダムとイヴはエデンの園で幸せに暮らしていた。だが、二人は神の教えに反して「知恵の樹」にある「禁断の果実」をかじり、善悪の知識を得たことで裸の姿を恥ずかしいと思うようになり、イチジクの葉で陰部を隠すようになった。それを知った神は二人に激怒して二人をエデンの園から追放した。このときのアダムとイヴの罪をキリスト教では「原罪」という。p188でツァラトゥストラも、このキリスト教用語に言及している。

 

・p189でツァラトゥストラは「わたしの果樹」という暗喩を用いているが、これは「知恵の樹」を念頭に置いた表現なのかもしれない。

 

・ツァラトゥストラにとって、他者に同情することは他者を弱者扱いし、他者に恥をかかせる行為である。そのため、他者への同情は、羞恥心の欠如であり、厚かましさの吐露なのだとツァラトゥストラは考えている。

 

・ツァラトゥストラは喜びや軽快を重視し、「われわれがよりよく楽しむことを学びおぼえるなら、われわれは他人に苦痛を与えるようとする気持などは、きれいに自分のなかから払い落としてしまうだろう。また他人の苦痛になることを考え出すようなこともなくなくだろう」と説く。

 

・ツァラトゥストラは「わたしは悩む者を助けたことのある自分の手を洗う」と語るが、それは助けた相手が「自分は他人から助けを受けるほど惨めなのか」と恥を感じたからである。確かに、プライドの高い者は他人から助けや施しを受けるのを不名誉に感じることがある。

 

・第一部に「23 贈り与える徳」という章があったように、ツァラトゥストラは(知恵を)贈り与える者である。そのため、自分の友には喜んで贈り与える。だが、未知な者や貧しい者たちに対しては(羞恥の念を起こさせることが少ないだろうという理由で)ツァラトゥストラが知恵を直接、彼らに贈り与えるのではなく、彼らが自らツァラトゥストラ(「わたしの果樹」)から自分の手で知恵(「果実」)を摘み取るのがいいと語る。

 

・ただし、乞食たち、罪人、良心に責められている者たちに関しては「寄せ付けるな」とツァラトゥストラは友たちに助言している。

 

・p189では「だが」という接続詞が4回も用いられている。逆接の接続詞は「だが」以外にも複数ある訳なので、手塚が「だが」を多用していることは個人的に少し気になった。

 

・ツァラトゥストラは「何よりもいけないのは、さまざまなちっぽけな考えである。まことに、ちっぽけな考えにふけるよりは、悪を行うほうがましだ」と「ちっぽけな考え」を酷評する。ツァラトゥストラは、悪い行為は腫物(はれもの)に似ているとする。腫物の語る言葉に嘘はないとする一方で、ちっぽけな考えはカビ類に似ていると語る。

 

・確かに、腫物はむずがゆくなり、痛がゆくなり、ついには破れるが、カビ類は全身よりもちっぽけなサイズなのに、最終的には全身を腐らせてしまう。確かに、ただの腫物とカビ類であれば前者のほうがましかもしれない。

 

・「自分の友人が悩んでいるときは、その友人に同情して助けるのではなく、自分自身を堅い寝床(ねどこ)や戦陣用の寝床のような安息の場所にせよ」とツァラトゥストラは説く。ツァラトゥストラは「許しや同情を乗り超えた愛」を「すべての大きい愛」と呼んでいる。ツァラトゥストラによれば、「すべての大きい愛」は対象を愛するばかりでなく、その愛する対象をさらに創造しようとするのだという。

 

・p191に悪魔がツァラトゥストラに述べた台詞が二つ登場しているが、ツァラトゥストラは語り主が悪魔であるにもかかわらず、この二つの台詞を否定的には捉えていないように感じられる。悪魔によれば、神が死んだのは人間への同情ゆえだという。

 

・苛烈(p192):「かれつ」と読む。「厳しく激しい」という意味である。

 

・p192に登場する「すべての創造者」の発する言葉では「わたしの隣人(meinen Nächsten)」と「わたしの愛(meiner Liebe)」が語られているが、キリスト教では隣人愛(Nächstenliebe)が重視される。この章は「すべての創造者は苛烈である」という一文ののちに「ツァラトゥストラはこう語った」という定型句が登場して結ばれている。

 

 

 

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★底本

第二部 p179~186

 

★手塚による要約

友と敵の住む至福の島々が第二部の舞台である。本章では超絶的な思想を明確に否定し、現世における超人への創造の道を説く。

 

 

★解説

・ツァラトゥストラは、この章で神と超人について語っている。この章は「1 ツァラトゥストラの序説」の第2節でツァラトゥストラが「神は死んだ」と述べていた背景を窺うことが出来る文章となっている。

 

・ふくよか(p179):ふっくらしている様子、柔らかそうにふくらんでいる様子、良い香りがする様子。

 

・p180に「甘い肉」とあるが、これは「甘い果肉」という意味。

 

・「時は秋だ、澄んだ空、そして午後」と宣言するツァラトゥストラ。このフレーズを読んで感じたのだが、一年における秋は、一日における午後(より正確には夕方以前の午後)に近いかもしれない。一年のうち秋は気温が夏よりも下がってゆく時であり、一日のうち気温が正午ごろよりも下がってゆく(夕方以前の)午後と似ている。

 

・ツァラトゥストラは神を「一つの憶測」と捉えている。ツァラトゥストラは「人間は自分の認識能力の範囲で徹底的に思考すべきであり、自分の認識能力の範囲を超えて不可知のものを問題にするのは辞めるべきだ」と考えている。

 

・ツァラトゥストラは「わたしの兄弟たち」に対して「君たちは神を創造することは出来ないが、君たち自身を創り直すことで超人の父や祖父になることは出来るだろう」と説く。「超人の父や祖父になること」は、ツァラトゥストラにとって「君たちの最上の創造」なのだ。

 

・p181に「君たちが世界と名づけたもの、それはまず君たちによって創造されねばならぬ。君たちの理性、君たちの心象、君たちの意志、君たちの愛そのものが世界とならねばならぬ。そしてまことに、そのことが君たちの至福とならねばならぬ。君たち、創造する者たちよ」とあり、超人を創造する者たちにとっての幸福と、「1 ツァラトゥストラの序説」の第5節の「われわれは幸福を発明した」と語る末人にとっての幸福(至福)が完全に異なっていることが分かる。

 

・「われわれは幸福を発明した」の原文は「Wir haben das Glück erfunden」であり、p181の「君たちの至福」は「zu eurer Seligkeit」である。GlückとSeligkeitは類語だが、Seligkeitは「至福、無上の喜び、歓喜」と訳され、グッド・ラックというニュアンスの強いGlückよりも幸福の程度が強い。

 

・因みに、Seligkeitはドイツ語におけるキリスト教用語の一つでもある。キリスト教徒にとっての至福が「神のご加護を受けること」であることも、超人を創造する者たちにとっての至福との対比となっている。

 

・p180~182でツァラトゥストラは「もし神が存在したら、こういうことになる。だから神は存在しない」という論法を駆使して、神を否定的に捉える考えを吐露している。

 

p182に「時が失せていいというのか」とあるが、原文では「Die Zeit wäre hinweg」となっている。これを直訳すると、「時が向こうへと去って(いいというのか)」や「時が過ぎ去って(いいというのか)」などとなる。ツァラトゥストラによれば、神について思いめぐらすことは「人間にとって渦流運動(うずまき運動)であり、めまいであり、さらに胃にとって嘔吐」である。そのような憶測を、ツァラトゥストラは渦流病(drehende Krankheit)と呼んでいる。

 

・ツァラトゥストラはゲーテの『ファウスト 第二部』の有名フレーズ「Alles Vergängliche ist nur ein Gleichnis」をもじって「全ての不滅のものは一つの比喩にほかならず(Alles Unvergängliche—das ist nur ein Gleichniss!)」と持論を語る。「Alles Vergängliche ist nur ein Gleichnis」は「全ての儚いものは一つの比喩にほかならず」や「全ての無常のものは一つの比喩にほかならず」や「すべて移ろい行くものは、永遠なるものの比喩にすぎず」(高橋義孝)などと訳され、この持論はゲーテの思想と正反対である。

 

・p182にある「詩人たち」は手塚の脚注によれば、もっぱらゲーテを指している(ゲーテという一人の詩人を指している)とのことだが、これは「全ての移ろい行くものは、永遠なるものの比喩でしかない(つまり、移ろい行くものがあったとしても、それらの正体は永遠なるものである)」と考えるゲーテと、ゲーテに影響を受けた文筆者らや文学者らのことだと読むことも出来るだろう。

 

・このように、ニーチェはゲーテの思想や作品に大きな影響を受けている。ニーチェはエッカーマンの『ゲーテとの対話』を「およそ存在するドイツの最良の本」と表現するほどゲーテの言動に興味を抱いていた。

 

・p182には「時」や「時間」といった語句が散見されるが、これらの語句は本書の重要概念である「永劫回帰」と関連している。ツァラトゥストラは、「移ろい行くもの」を「地上」に、ゲーテのいうような「永遠なるもの」をツァラトゥストラの否定する「天上界」に対応させているようだ。

 

・ツァラトゥストラは「意欲しないこと」「評価しないこと」「創造しないこと」を「大きな倦怠」と形容し、大きな倦怠が自分に近づいてこないことを願っている。

 

・p183の「生殖欲」と「生成欲」は超人を生殖し生成する欲望のことだろう。ツァラトゥストラは現実の人間を醜い石材に喩え、自分は現実の人間から超人を生み出そうとしていると説く。その際、ミケランジェロの「石の中に一つの像が眠っている」という名言を引用している。かつてのツァラトゥストラと違って、今のツァラトゥストラは神や神々から離れており、「今の自分は、あの神々となんのかかわりもない」と述べている。

 

 

 

 

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★底本

第二部 p174~179

 

★手塚による要約

数年の孤独の間にかれの教えは下界でゆがめられてしまった。かれの胸はふたたびあふれ、嵐のように友と敵を求めて下りてゆく。

 

 

★解説

・手塚の要約やp177にある「下界」は、「まだら牛」という都市のように、人々がたくさん住んでいる場所のことである。「俗世」と表現しても過言ではないだろう。なお、手塚の要約では「数年の孤独」とあるが、この章の本文には「ツァラトゥストラが山の上で孤独な生活を送っていた期間が数年であること」を直接的に示している描写はない。

 

・第一部の最後の章「23 贈り与える徳」で「まだら牛」を去ったツァラトゥストラは、「1 ツァラトゥストラの序説」の第1節で登場した山で独り暮らしていた。山にある洞窟で暮らしているうちに、ツァラトゥストラの知恵はもっと充実してきて、そのことが苦痛になってきた。そんな或る日、ツァラトゥストラは曙光に先立って目覚める。

 

・曙光(p174):「しょこう」と読む。「夜明けの光」という意味。

 

・臥床(p174):「ふしど」と読む。「寝るところ」という意味。医療分野においては「がしょう」と読まれ、「布団をしいて横になる」という意味で用いられることが多い。

 

・自然の中に暮らしている者は曙光と共に目覚めるのが一般的であろう。曙光に先立って目覚めたということは、夜明け前に何か通常とは異なる出来事が起こって目覚めたということを示唆する。目覚めたあとも臥床(ふしど)で長い間、物思いにふけるツァラトゥストラだったが、しばらくして「どうして私は夢のなかで、あんなに驚いて目を覚ましたのだろう。そうだ、鏡を持った一人の小児が私に歩み寄ってきたのだ」と寝起きで混乱している自分の心を落ち着かせる。

 

・渋面(p175):4通りの読み方があり、「じゅうめん」「しぶつら」「しぶっつら」「しぶめん」のいずれかで読まれる。「渋いものを舐めているような苦々しい顔つき」という意味。

 

・夢の中でツァラトゥストラは、鏡を持った一人の小児と対面し、「鏡のなかのおまえを見よ」と小児に言われる。ツァラトゥストラが鏡を見ると、(普段の)ツァラトゥストラの顔ではなく、「一人の悪魔の渋面と嘲り(あざけり)」が鏡に映っていた。ツァラトゥストラは「(下界で)わたしの教えに危機に陥っている」と察する。

 

・雑草が小麦の名を騙っているという暗喩を用いつつ、ツァラトゥストラは「わたしの敵たちが強力になって、わたしの教えのありかたをゆがめた。そのためにわたしの最も愛する者たちさえ、わたしから受けた贈り物を恥じなければならなくなっている。わたしの友人たちは失われた。わたしの失われた者たちをさがし求めるべき時が来たのだ」と、「まだら牛」で別れた自分の弟子たちが失われたことを悟る。

 

・そう悟ったツァラトゥストラは立ち上がる。だが、苦しさとともに立ち上がったのではなく、来るべき幸福が映えた(はえた)表情で立ち上がったため、わたしの生き物たち(鷲と蛇)は訝しむ(いぶかしむ)。

 

・通常の論客であれば、自分の敵たちが自分の教えをゆがめているのを知ったら、悲しんだり激怒したりするだろう。しかし、敵たちが自分の教えをゆがめているのを知ったおかげで、ツァラトゥストラには再び下界へ行く理由が出来たともいえる。ツァラトゥストラは幸福を感じ、鷲と蛇に「この幸福を寛容の目で見てくれ」と頼む。

 

・第一部や第二部でツァラトゥストラが下界へ行き、外界の人々に自分の教えを説いているのは、下界の人々を愛しているからである。この愛をツァラトゥストラは水の流れに喩えている。

 

・ニーチェは位置的な高低を価値の高低に結びつける傾向があると「8 読むことと書くこと」や「23 贈り与える徳」で述べたが、この章では「河流がどうしてついに大海へ注ぐ道を見いださないことがあろうか」と位置的には山よりも低い海を「大海」と表現しており、どちらかといえば肯定的に捉えている。

 

・ツァラトゥストラには隠栖を愛する性格(「一つの湖水」と暗喩されている)もあるが、ツァラトゥストラによれば、この愛の奔流は「一つの湖水」を下へ、海へ、連れ去る。

 

・叫喚(p177):「きょうかん」と読む。「大声で喚き叫ぶ(わめきさけぶ)」という意味。現代の日本語では「叫喚」よりも「阿鼻叫喚」という四文字の単語のほうが多用される印象を受ける。

 

・ツァラトゥストラは多弁となり、「古い説き方に飽きた」と語る。「わたしには、あらゆる言説の進みが遅すぎる」とも語る。そして、「叫喚と歓呼のように、わたしは大海を渡って行こう。わたしの友となるべき者たちが住んでいる至福の島々を見いだすまで」と決意する。

 

・ツァラトゥストラは自分が下界に降りた後のことを語り始める。山での暮らしに戻っている間に充実したツァラトゥストラの知恵は、彼の友らと敵たちにとって荒々しいものである。だから、彼の友らは敵たちとともに彼から逃げ出すだろう。この知恵が荒々しいのは山がさびしい荒々しい場所だからであるが、その荒々しい場所で誕生した知恵は(快適で)やわらかい草地を求める。この「やわらかい草地」は、「彼の教えをよく受容する彼の友らの姿勢」の暗喩となっている。

 

・この知恵をツァラトゥストラは「牝獅子(めじし)」と喩えているが、「2 三様の変化」にも獅子が重要な暗喩のモチーフとなっていた。この知恵は、ツァラトゥストラの説く「三様の変化」と関連しているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

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★底本

第一部 p161~172

 

★手塚による要約

他から施されるのでなく、おのれを贈り与えるのが最高の徳。しかもそれは大地に忠実な生、大いなる正午を実現するための徳である。

 

 

★1(p161~166)

・ツァラトゥストラは「2 三様の変化」から第一部の最後の章であるこの章まで「まだら牛」という都市(町)を拠点に暮らしていたが、この都市に別れを告げる。そのとき、ツァラトゥストラの弟子を名乗る多くの者がツァラトゥストラを見送った。

 

・独り行くことを愛する者であるツァラトゥストラは或る十字路まで来て「ここから独りで行きたい」と告げる。そこで弟子たちは別離のしるしとしてツァラトゥストラに一本の杖を贈る。杖の握り部分は金で出来ており、一匹の蛇が太陽に身を巻きつけて輪をなしているデザインである。ツァラトゥストラはこの贈り物を喜び、それを地に突く。それから、弟子たちに向かって語り始める。

 

・この節(★1)における弟子への語り掛けは、金(黄金)が最高の価値を持つ理由に始まり、最高の徳(贈り与える徳)や善悪に関する主張を経て「すなわち、金色の太陽に巻きついている認識の蛇だ」という一文で終わっている。つまり、杖のデザインはこの節を読み解くうえで重要な手がかりとなっている。

 

・ツァラトゥストラは金を「最高の徳」の写し絵と見做している。金は、通常性を離れた稀有(けう)なもの、不用のものであり、輝きを持っていて、その光は柔和である。最高の徳も、通常性を離れた稀有なもの、不用のものであり、輝きを持っていて、その光は柔和である。

 

・p162に「贈り与える者のまなざしは金の輝きに似ている。金の光は月と太陽とを平和に結びつける」とある。哲学者であると同時に詩人でもあったニーチェは、金色である光が「光を与える天体である太陽」と「光を受ける天体である月」とを結びつけているという発想に至っていた。太陽と月は遠く離れているし、連結されている訳ではないにも拘らず、両者の間には光を通した繋がりが確かにある。

 

・漫画家であると同時に詩人でもある久保帯人も「もし わたしが雨だったなら それが永遠に交わることのない 空と大地を繋ぎ止めるように 誰かの心を繋ぎ留めることができただろうか」という詩を21世紀の初頭に発表している。洞察力や表現力に富む天才は、生まれた地域や時代に関係なく、常人には気づきがたいような発想に至るということなのかもしれない。

 

・ツァラトゥストラによれば、弟子たちはツァラトゥストラ同様に贈り与える徳を得ようと努めている。贈り与える意欲において飽くことを知らぬ君たちの魂は、飽くことなく富と宝玉を得ようと努めている。こういう贈り与える愛は、「価値のあるあらゆるもの」の強奪者とならざるを得ない。しかし、ツァラトゥストラはこういう我欲を健全や神聖と呼ぶ。

 

・我欲(p163):「がよく」と読む。「自分一人の利益や満足だけを求める気持ち」という意味。「我慾」とも表記される。

 

・ツァラトゥストラは我欲を二つに分けて考えている。一つはツァラトゥストラが健全や神聖と呼ぶ我欲で、もう一つは「あまりにも貧しく、飢えていて、つねに盗もうとする我欲」「病者の我欲」「病める我欲」である。後者は盗人の目で全ての輝くものを見る。そして、贈り与える者の食卓のまわりをいつも忍び歩きしているという。

 

・後者には「目に見えぬ退化」が潜んでおり、後者の盗人めいた貪欲さは肉体に宿る生命力が病み衰えている証拠だとツァラトゥストラは主張する。超人への道(われらの道)は、上へとのぼる。つまり、種から超種(種がおのれを超えて向上した段階)へとのぼる。だが、後者のように退化しつつある心はツァラトゥストラや弟子を身ぶるいさせる。

 

・一方で、ツァラトゥストラらの心は上に向かって飛ぶ。この心はツァラトゥストラらの肉体の比喩、向上の比喩である。もろもろの徳の名称はこのような向上の態度の比喩であり、善と悪に与えられている名称のすべても「生の向上の意志」に由来する比喩である。

 

・なお、p164の第一段落でツァラトゥストラは精神を肉体に帰属させる見解を示している。「5 肉体の軽蔑者」でも示されていたように、ツァラトゥストラにとっては、あくまで肉体あっての精神なのである。

 

・ゆるがせ(p164):おろそか、いい加減。

 

・とどろき(p165):とどろくことや、その音。「轟き」と書く。

 

・怜悧な(p165):「れいりな」と読む。「利口な」や「賢い」という意味。

 

・生動(p165):「せいどう」と読む。「いきいきと動く」という意味。

 

・ツァラトゥストラは徳の根源が発生する過程を語り、その新しい君たちの徳を「新しい善と悪」「新しい深い水のとどろき、新しい泉の声」や「支配する力をもつ高く強い思想」と捉える。「支配する力をもつ高く強い思想」を中心として一つの怜悧な生き物(金色の太陽に巻きついている認識の蛇)が生動すると説く。

 

 

 

★2(p166~169)

・しばらくツァラトゥストラは沈黙し、愛のまなざしを弟子たちに注ぐ。そして、弟子たちに語りかけるが、ツァラトゥストラの声は★1とは別の調子である。

 

・ツァラトゥストラは、これまで第一部で語ってきたように、「大地に忠実であれ」や「万物の価値が君たちによって定められるようになれ」「戦う者であれ」「創造する者であれ」と弟子たちに説く。

 

・天翔る(p166):「あまがける」と読む。「人や神や霊魂などが空を飛び走る」という意味。

 

・君たちの愛と認識とが地上から飛び離れて、その翼が永遠の壁につき当たることをツァラトゥストラは懸念する。「永遠の壁」は、観念的な天上の世界を指している。ツァラトゥストラは「ツァラトゥストラの序説」で「天上の希望を説く人々」すなわち「キリスト教の聖職者たち」を嫌っていたように、「観念的な天上の世界に囚われることは(超人への道における)永遠の障壁である」と考えている。

 

・「今まで天翔って飛び失せた徳は実に多い。わたしが飛び失せた徳を大地へ(肉体を生へ)連れ戻しているように、君たちもそうしろ」とツァラトゥストラは訴える。それらの徳が大地に意義を与えるようであるとき、それは一つの人間的な意義となる。ツァラトゥストラは観念的な天上の世界を中心とした意義ではなく、人間を中心とした意義を肯定している。

 

・ツァラトゥストラによれば、今まで精神や徳は百千のあやまちを犯した。あやまちや無知がわれわれの肉体となり、意志となってしまったほど、迷妄と失策(しくじり)は我々の肉体の中に住んでいる。つまり人間とは試み(幾千年にもわたって試行錯誤を重ねてきた生物)である。われわれは幾千年にわたる理性と幾千年にわたる妄念の両方を有しており、それらがいつ顔を出すか分からないという点で危険なのだと説く。

 

・偶然の対義語は必然である。★1のp165にある「必然の名で呼ばれるとき」の「必然」は、(ツァラトゥストラが巨人に喩えている)偶然と対応する。人類が幾千年にわたる理性と幾千年にわたる妄念の両方を有しているのは偶然であり、今も人類は偶然という名の巨人と一進一退の戦いをしている。この戦いに勝つこと(人間による意志を確立すること)で、我々は偶然を乗り超えられるとツァラトゥストラは暗に語っている。

 

・p168でツァラトゥストラは人間と(人間の住み)大地は、まだ汲みつくされておらず発見しつくされていないと説いている。つまりツァラトゥストラは「人間と大地には、未知の可能性がある」と考えている。

 

・更に、ツァラトゥストラは「君たち、今日の孤独者よ、離脱者よ、君たちは未来において一つの民となるべきだ。自分自身を選び出した君たちのなかから、一つの選ばれた民が生い育って(おいそだって)ゆくべきだ。――そして、その民のなかから超人が。」と語る。この主張は「16 千の目標と一つの目標」で述べられた民族論を反映している。

 

・それに続いて記されている「まことに、大地は今後快癒の場所とならねばならぬ。早くも新しい香り、祝福をもたらす香りが大地をつつんでいる――そして新しい希望が」という台詞で、この節は終わっている。ツァラトゥストラは今後の展望や未来への希望を弟子たちに示している。

 

 

 

★3(p169~172)

・ツァラトゥストラは口を閉ざすが、まだおのれの最後の言葉を発していない人のようだった。しばらく思いまどいながら(思い迷いながら)杖をもてあそんでいたが、ついに最後の言葉を発し始める。なお、その声音(こわね)は変わっていた。

 

・ツァラトゥストラは弟子たちに、いったん独りになるよう告げる。「今はツァラトゥストラから離れて去り、そしてツァラトゥストラを拒み、恥じること」を弟子たちに望むツァラトゥストラは「かれ(ツァラトゥストラ)は君たちを欺いたかもしれない」と不安のような気持ちを漏らす。
 

・p170で「認識の徒は、おのれの敵を愛することができるばかりか、おのれの友を憎むことができなくてはならぬ。いつまでもただ弟子でいるのは、師に報いる道ではない。なぜ君たちはわたしの花冠をむしり取ろうとしないのか」と語るツァラトゥストラは、従順な弟子や信徒を歓迎する凡庸な思想家や活動家や宗教家などとは性格が異なっている。
 

・ツァラトゥストラは「信じることはつまらない」と述べ、「君たちのすべてがわたしを否定することができたとき、わたしは君たちのもとに帰ってこよう」と宣言する。ツァラトゥストラから弟子へのこれらの言葉は、ニーチェからニーチェ主義者への言葉と捉えることも出来るだろう。

 

・そして「そのときわたしは、今とは違った目で、わたしから別れた者たちをさがすだろう。今とは違った愛で、君たちを愛するだろう。さらに、わたしは、君たちがいつの日か、わたしの友、おなじ一つの希望の子となることを、期待する。そのときは、わたしは、三度目として君たちを訪れよう、大いなる正午を君たちとともに祝うために」と語る。

 

・「そのときわたしは、今とは違った目で、わたしから別れた者たちをさがす」は「そのときわたしは弟子たちを独立した人格として認める」という意味である。それにしても「三度目として」は「今後、わたしは一度目に君たちを訪ねたのち、二度目に君たちを訪ね、最終的に三度(三回)君たちを訪ねる」という意味なのだろうか。

 

・「大いなる正午とは、人間が、獣と超人とのあいだに懸け渡された軌道の中央に立ち、これから夕べへ向かうおのが道を、おのが最高の希望として祝うときである。その道が最高の希望になりうるのは、新しい朝に向かう道だからである。そのとき、没落してゆく者は、おのれがかなたへ渡ってゆく過渡の者であることを自覚して、おのれを祝福するだろう。そしてかれの認識の太陽は、かれの真上に、正午の太陽としてかかることだろう」という台詞からは正午の太陽を最高とするツァラトゥストラの価値観が伝わってくる。

 

・確かに天球において太陽は正午のとき最も高くなる。「8 読むことと書くこと」で前述したように、ニーチェは位置的な高低を価値の高低に結びつける傾向がある。


・この節ひいては第一部は<「すべての神々は死んだ。いまやわれわれは超人が栄えんことを欲する」――これが、その大いなる正午におけるわれらの究極の意志であれ。――― ツァラトゥストラはこう語った。>という文章で終わっている。

 

 

 

 

 

★総評

この章は、ツァラトゥストラの序説と同様に、章全体が節に分けられている。「2 三様の変化」からこの章は「ツァラトゥストラの言説」という部分に該当し、各章の最後に「ツァラトゥストラはこう語った。」という一文がある。この章でも「★1」や「★2」の最後にはないが、「★3」の最後に「ツァラトゥストラはこう語った。」という一文がある。

個人的には「★1」と「★2」と「★3」とで口調が変わっていることが興味深く感じられる。「★2」は愛のまなざしを弟子たちに注いでいることから、どこか優しげな口調であり、「★3」は思い迷いながら言い始めていることから、「積極的に言いたい訳ではないが、言うべきだと判断したから口を開く」というような険しさを含んだ口調であるように感じられる。

 

 

 

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★底本

第一部 p155~160

 

★手塚による要約

おのれの生を完成して生を去り、よき使命を次代へ引き継ぎたい。それが真の生だ。未熟の生しか知らないのに死を憧れてはならない。

 

 

★解説

・この章の冒頭でツァラトゥストラは「今のところはまだ異様に聞こえるだろうけど、時に適って死ね」と説く。「時に適って死ね」は「(人は)適切なタイミングで死ぬべきだ」という意味である。

 

・「10 死の説教者」や「21 子どもと結婚」などと同様に、ツァラトゥストラは「無用な者たち」を酷評する。ツァラトゥストラによれば、無用な者たちは時に適って生きていないため時に適って死ぬことが出来ない。よって、無用な者たちは生まれてこないほうが良かったのだが、無用な者たちも死ぬことにもったいぶった意味をつけたがるという。

 

・p155の「空(から)の胡桃(くるみ)も割ってもらいたがる」は、「人は胡桃の実を食べるために胡桃の殻を割る。それゆえ実が入っていない胡桃の殻を割るのは無意味なことである。空の胡桃を割るのが無意味であるように、無用な者たちの死も無意味である」というニュアンスの暗喩ではないだろうか。

 

・「すべての者が、死ぬことを大げさに考える」と語るツァラトゥストラはp155の最後の段落で「わたしは君たちに、生者たちにたいして刺激となり、誓約となるような、完成をもたらす死を示そう」と宣言する。

 

・ツァラトゥストラは「生者たち(希望する者たちや誓約する者たち)に取り囲まれながら勝利に輝いて死に、生者たちの誓いを固めさせること」を最善の死と主張し、「戦いながら死に、大きい魂を惜しむことなく浪費すること」を次善の死と主張する。「戦いながら」とあるが、ツァラトゥストラは「19 老いた女と若い女」で「男は戦闘のために教育されるべきであり、女はその戦士の心身の勇気の回復に役立つように教育されなければならぬ」と語っていた。

 

・「わたしの死をわたしは君たちに向かって讃える。それは、わたしが欲するゆえに、わたしに来る自由な死だ」と語っていることから、ツァラトゥストラ自身もいつかは死ぬようである。ツァラトゥストラは「(わたしのように)目的をもち、相続者をもつ者は、目的と相続者にとって適正な時に死を欲する」と宣言する。

 

・ツァラトゥストラは「真理と勝利を得るにはもう老いすぎている者も少なくない。歯のない口は、もはやどんな真理をも味わう権利はないのだ」と述べる一方で「だが青春の訪れのおそい者は、ながく青春を保つ」と述べており、「早すぎる死も良くないし遅すぎる死も良くない」と考えている。ツァラトゥストラは「多数の、あまりにも多数の者」や「無用な者たち」が早く死ぬことを願っており、p157~158でその願いを吐露している。

 

・だが、その願いに反して、ツァラトゥストラの耳には、ゆるやかな死と、「地上のもの」すべてに対する忍耐を説く声ばかりが聞こえるという。ツァラトゥストラは「忍耐し辛抱しているのは、大地に対する忍耐を説く声を聴いている無用な者たちのほうではなく、大地のほうである」と主張し、無用な者たちから大地(地上の事物)を庇おうとしている。

 

・「ゆるやかな死」というのは、「死を説教しながら、もしくはその説教を聴きながら、生へのなまぬるい未練を持ったままゆるやかに死んでいくこと」を指す。「10 死の説教者」という章があったが、これは正確には「ゆるやかな死の説教者」とするべきなのだろう。

 

・p158の「ゆるやかな死の説教者たちが敬うヘブライ人」はイエス・キリストを指している。ヘブライ人は簡単に言えばユダヤ人のことである。「あまりに早く死んだ」というのはイエスが33歳ぐらいの年齢で磔刑に処せられたことを踏まえている。なお、敬虔なキリスト教徒は「イエスは磔刑に処せられたあと復活し、今も生きている」という信仰を持っているため、「イエスは33歳ぐらいの年齢で刑死した」という表現を好まず、「イエスが人間であった期間は33年ほどであった」などといった表現を好む。

 

・キリスト教の教えによれば、救世主であるイエスは人類を原罪(アダムとイブが神の命令に背き、禁断の木の実を食べたことによる罪)から救うために、人類の身がわりとなって磔刑を受けた。

 

・この教えに対して、ツァラトゥストラは「まだ若いかれ(イエス)が知っていたことは、ヘブライ人たちの涙と憂愁(ローマによる支配を受けていたヘブライ人たちの苦痛)、それに正義の者たち(手塚の脚注によれば「パリサイ人たち」のこと)の憎しみだけだった」や「かれはなおも荒野にとどまっていて、あの正義の者たちから離れていれば良かったのだ。そうすれば、おそらく生きることを学び、大地を愛することを学び、さらには笑うことを学んだであろう」や「かれはあまりに早く死んだのだ。もしかれが生きつづけていてわたしの年齢(「ツァラトゥストラの序説」のp12によればツァラトゥストラは40歳前後である)に達したなら、かれはかれの教えを撤回したことだろう」と語っている。

 

・パリサイ人(ぱりさいびと)は、ユダヤ戦争(ヘブライ人とローマ帝国が争い、ヘブライ人がローマ帝国に敗れてローマ帝国の支配下に置かれるようになった戦争)によるエルサレム神殿の崩壊後にユダヤ教の主流派となった集団である。パリサイ派、ファリサイ人、ファリサイ派とも呼ばれている。イエスは生前、パリサイ人と対立していたとされる。

 

・ツァラトゥストラはイエスを「高貴な人だった」と評する一方で、「かれはまだ未熟だった。およそ(総じて)青年というものは、未熟に愛し、また未熟に人間と大地を憎む。その心情と精神の翼は、まだ縛られていて重い」と指摘する。

 

・p159の第二段落に「然り(しかり)」や、神聖な「否(いな)」の発語者という表現がある。これらの表現は「2 三様の変化」でも用いられていた。ツァラトゥストラによれば、成人は青年と違って死ぬことや生きることをよく心得ている。33歳ほどの年齢で刑死したイエスを、ツァラトゥストラは成人ではなく青年と見なしているようである。

 

・ツァラトゥストラは君たち(わたしの友ら)と自分自身の理想的な死を述べる。「君たちの死が人間と大地にたいする冒瀆とならないように!わたしの友らよ。このことをわたしは君たちの魂の蜜に懇願する。死ぬ時にも、そこにはなお君たちの精神と君たちの徳とが燃えかがやいていなければならぬ、大地をつつむ夕映えのように。そうでなければ、君たちの死は失敗ということになろう。君たちがわたしの死に接して、そのためにいよいよ大地への愛を深めてゆくように、そういうふうにわたし自身は死にたいと思う。そしてわたしはふたたび大地の一部となって、わたしを生んだこの母のなかで安静を得たいと思う」という台詞からは、ツァラトゥストラの死生観が窺える。

 

・日本語では、死ぬことを婉曲的に「土に還る」という場合がある。本書の原文はドイツ語であるが、「ふたたび大地の一部となって」は「土に還る」という日本語の表現を連想させる。また、「わたしを生んだこの母」は本書の読者に地母神をイメージさせる。地母神は大地の生産力や生命力を神格化した女神のことであり、世界の幅広い地域で見られる宗教的概念である。ニーチェはギリシャ神話に関心をよせていたが、ギリシャ神話のガイアも地母神の一種とされる。

 

・この章の最後に、ツァラトゥストラは「まことに、ツァラトゥストラは一つの目的をもっていた。かれはかれのまりを投げた。 さあ、君たち友人よ、わたしの目的の相続者となれ。君たちを目がけて、わたしは黄金のまりを投げつける。 わたしの友人たちよ、何にもまさってわたしの見たいのは、君たちがその黄金のまりを投げるさまだ。だからわたしはもうしばらく大地にとどまろう。そのことをわたしに許せ」と語っているが、一人称が「わたし」から「ツァラトゥストラ」に変化している箇所がある。

 

・「黄金のまり」はツァラトゥストラの超人思想を指すが、「16 千の目標と一つの目標」で前述したように、ニーチェは「ゾロアスター(ドイツ語読みではツァラトゥストラ)は『金の星』を意味するという説」を信じていた。「ツァラトゥストラの序説」のp26にも「黄金のことば」というフレーズがあった。

 

 

 

 

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★底本

第一部 p150~154

 

★手塚による要約

超人を生むという観点から、結婚の意義を説く。男女の最善の愛は、人類のより高い段階へ進むべき一つの道程になることだとする。

 

 

★解説

・この章は「わたしの兄弟よ、わたしは君ひとりに訊きたいことがある。測量用の鉛のように、わたしはその問いを君の魂のなかへ投げこむ、君の魂がどのくらい深いかを知るために」という段落から始まっている。直前の「20 まむしのかみ傷」でも、「隠者は深い泉に似ている。石を投げこむことはやさしい。しかし、石が底まで沈んだとき、だれがそれを取り出すことができようか」とツァラトゥストラは語っていた。

 

・訊く(p150):「きく」と読む。「尋ねる」という意味だが、人名用漢字である「訊」は常用漢字に含まれていないため「聞く」という漢字表記で代用されることがある。

 

・最初の段落の次の段落によれば、「君ひとり」の「君」は若く、結婚して子を持つことを望んでいる。だが、ツァラトゥストラは「自己を解放した強者として、その強さをつたえる子を望むことが、君の結婚意志でなければならぬ」と説き、「君はただおのれを生みふやしてゆくだけでなく、おのれを生み高めてゆかねばならぬ。結婚の園は、そのことのために君に役立つものであれ」と訴える。

 

・p151に「より高い肉体を君は創造しなければならぬ。始原の運動、おのれの力で回る車輪を。――君は創造する者を創造しなければならぬ」とある。「始原(始まり)の運動、おのれの力で回る車輪」という表現は「2 三様の変化」や「18 創造者の道」でも登場している。直後に「結婚、そうわたしが呼ぶのは、二人の意志が結合して、自分たち以上の一者を創造しようとすることである」と語っているように、ツァラトゥストラにとって(結婚に伴う)出産は創造なのである。

 

・ツァラトゥストラは「あのあまりにも多数の者、無用な者たち」による結婚を嫌悪している。「10 死の説教者」でツァラトゥストラは「大地は不用な者たちに満ちている」と語っていた。「12 新しい偶像」にも「多数の、あまりにも多数の者」というフレーズが登場していた。

 

・手塚の脚注によると、ツァラトゥストラは因習的な教会の説く神や天を嫌っているのだという。確かに西洋で結婚といえば教会が真っ先に頭に浮かぶほど、西洋社会において結婚と教会は強く繋がっている。事実、ツァラトゥストラは「自分が結び合わせたのでもない二人を祝福しようと、遅ればせに不自由な足をひきずりながらやってくる神」と語っている。

 

・しかし、ツァラトゥストラはそう語った直後に「だが、こういう結婚を笑うのはよすがいい。自分の両親のことを泣かずにいられる子どもが、どこにあろう」と語っている。つまり、ツァラトゥストラが語り掛けている君の両親も「あのあまりにも多数の者、無用な者たち」なのではないのかとツァラトゥストラは問いかけているのである。どうやら、ツァラトゥストラは「超人に向いている者の子どもは超人に向いている」などといった思想(血統を重視する思想)を余り有していないようだ。

 

・ツァラトゥストラは自分が見聞きした結婚の失敗例を五つほど列挙したあと、恋愛を「短期間の愚かさ」と形容し、結婚を「長期間の愚かさ」と形容している。ツァラトゥストラにとって、結婚は通常、二匹の獣が互いに互いの腹をさぐりあっているに過ぎないのだ。

 

・この章の最後で、ツァラトゥストラは最善の愛について説き始める。「いつか君たちは、君たち自身を超えて、また互いに相手を超えて愛すべきである。だからまず愛することを実習せよ。それをするために君たちは君たちの愛の苦い杯(さかずき)を飲まなければならなかったのだと、考えるのがいい。苦さは最善の愛の杯のなかにもある。それゆえ、その愛は超人への憧れとなり、創造者としての君を渇望の人にするのだ。創造者としての渇望、超人を目ざす矢と憧れ。わたしの兄弟よ、それがはたして結婚における君の意志であるか。こういう意志、そしてこういう結婚を、わたしは神聖と呼ぶ。――」という台詞からは、結婚を超人への道につなげるツァラトゥストラの思想を読み取ることが出来る。

 

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★底本

第一部 p145~149

 

★手塚による要約

悪に善を報いるのではなく、受けた不正を自分への善に転ぜよ。敵をゆるしていい気になるより、ともどもに人間として敵とあい対せよ。

 

 

★解説

・あい対する(p145):「あいたいする」と読む。「相対する」とも表記される。「互いに向かい合う」や「直面する」や「対立する」などという意味。

 

・ある暑い日に、ツァラトゥストラがイチジクの木の下でまどろんで(少しの間うとうとして)いると、一匹のマムシ(毒蛇の一種)がツァラトゥストラの頸(くび)を噛む。

 

・痛みのため声をあげるツァラトゥストラは両腕を顔から離し、マムシを見つめる。噛んだ相手がツァラトゥストラであることに気づいたマムシは逃げようとするが、ツァラトゥストラに「逃げるな」と言われ、ツァラトゥストラのそばに留まる。因みに、このマムシは会話が出来る。

 

・「おまえはまだわたしの感謝を受け取っていない。おまえはわたしをよい時に眠りから起こしてくれた。わたしの行くべき道はまだ長いのだから」というツァラトゥストラに対し、マムシは悲しげに「あなたの道はもう短い」「わたしの毒は、命を奪う毒なのだ」という。しかし、ツァラトゥストラは微笑しながら「今までに竜が蛇の毒で死んだことがあるか」「だが、おまえの毒を取りもどせ。おまえはそれをわたしに贈るほど、富んではいないのだから」といい、マムシはもう一度ツァラトゥストラの頸にからだを巻きつけ、その傷を舐める。

 

・この逸話を自分の弟子たちに紹介するツァラトゥストラ。p140に突然「弟子たち」という語句が登場するが、「ツァラトゥストラの序説」から、この章に至るまでの間に、何者かがツァラトゥストラに弟子入りしているような描写はない。あくまで「9 山上の木」で登場した青年のように、ツァラトゥストラの教えに耳を傾けている者が描写された程度である。

 

・なお、ドイツ語では毒のことをGiftという。もともとは英語と同様、ドイツ語でもGiftは「贈り物」という意味であった。現代ドイツ語でもGabe(贈り物を意味する雅語)やMitgift(持参金)などといった名詞にその痕跡がある。

 

・ツァラトゥストラは普通の人体から乖離した肉体を有しているが、「18 創造者の道」で涙ぐんでいたりマムシに噛まれて声をあげたりと人間らしさも漂うキャラクターである。この逸話は常人離れしている一方で人間味もあるというツァラトゥストラの二つの側面を物語っていると言えそうである。

 

・この逸話を聴いた弟子はツァラトゥストラに「その逸話の教訓は何か」と問う。ツァラトゥストラは教訓について説き始める。

 

・まずツァラトゥストラは「善い者たち、正義の者たちは、わたしを道徳の破壊者と呼んでいる。つまり私のした話は道徳を教えるものではない」と述べる。ツァラトゥストラは「18 創造者の道」で「善い者たち、正しい者たち(日常的な意味における善人たちや正義感の強い者たち)」に警戒せよと説いていた。

 

・ツァラトゥストラは「君たちに敵があるなら、その敵が君たちにたいしてした悪に、善をもって報いるな」と説く。この主張は『マタイの福音書』の「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」などに代表されるキリスト教道徳とは大きく異なっている。p147でツァラトゥストラは「小さい復讐をするのは、まったく復讐しないことより、人間的である」とも語っている。

 

・だが、「一つの大きな不正が加えられたら、すみやかに五つの小さい不正をもって、それに仕返しをするがよい」で「大きい不正」と「小さい不正」という対比が用いられているように、あくまでツァラトゥストラは「少しばかりは仕返し(復讐)するがよい」と説いている。「目には目を、歯には歯を」などのように「同じぐらい復讐せよ」と説いている訳ではない。

 

・隠見(p147):「隠顕」とも表記される。「見え隠れする」という意味。

 

・ツァラトゥストラは「悪に善を報いるのではなく、受けた不正を自分への善に転換せよ」と説くが、そのうえで「わたしは君たちの冷たい公正を好まない。君たちのところの裁判官の目は、つねに刑吏の目であり、そこには刑吏の冷たい刃が隠見(いんけん)している」とも語っている。

 

・ツァラトゥストラは「人間は超人を目ざすべきだ」という思想を持っており、例えば、超人を目ざそうとしない人間を心理的に容認できない。それゆえ、それぞれの人間におけるそれぞれの人間のありかたを容認することも出来ない。このような事情を持つツァラトゥストラは「だから、わたしは次のことで十分としよう、わたしはそれぞれの人間をわたしの立場から見てゆくことにしよう」と語る一方で、弟子たちに向けて「単にいっさいの刑罰を負うばかりでなく、いっさいの負い目を身に引き受けるような愛を、君たちは創り出してくれ。あらゆる者――裁く者を例外として――を無罪と宣告しうる公正を、君たちは創り出してくれ。」と願う。

 

・最後に、ツァラトゥストラは隠者について弟子たちに語り始める。「わたしの兄弟たちよ、あらゆる隠者にたいして不正を加えることをつつしめ」や「隠者は深い泉に似ている。石を投げこむことはやさしい。しかし、石が底まで沈んだとき、だれがそれを取り出すことができようか」と述べ、隠者の深遠さを指摘し、「隠者を畏怖せよ」と説いて、この章は終わっている。

 

 

 

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★底本

第一部 p140~144

 

★手塚による要約

大胆な女性観。ユーモアの味があり、心理学的に鋭い。女性の本質を超人の出現に奉仕させようとする意図を見のがしてはならない。

 

 

★解説

・この章では老いた一人の女(老婆)と、ツァラトゥストラが登場する。この章は、老婆とツァラトゥストラの対話によって構成されている。

 

・ツァラトゥストラが、ただひとり日の沈んでゆく時刻に歩いていると、一人の老いた女と出会う。その女は「ツァラトゥストラよ、どうしてあなたは足を忍ばせて、暗がりのなかを歩いているのか。そして何をあなたは大事そうに、あなたのマントの下に隠しているのか。それはあなたに贈られた宝か。それとも、あなたが生ませた子どもか。それとも、悪人どもの友であるあなたは、いまみずから盗賊の道を歩いているのか」と問う。ツァラトゥストラは「まことに、わたしの兄弟よ、それは私に贈られた宝だ。わたしが抱いているのは、一つの小さな真理なのだ。しかし、それは赤子(あかご)のようにやんちゃだ。もしわたしがその口をおさえていなければ、大声でわめくだろう」と答える。

 

・「悪人どもの友であるあなた」を手塚は「弱い善よりは強い悪をよしとするあなた」と解釈しているが、「ツァラトゥストラの序説」でツァラトゥストラが綱渡り人と組み、市場の群衆であまりにも多くの者に憎まれていたように、一般大衆の目にはツァラトゥストラが「悪人どもの友」に見えるという意味なのではないだろうか。

 

・老婆「ツァラトゥストラはわたしたち女にも多くのことを語ったが、女というものについてわたしたちに語ったことは一度もない」ツァラトゥストラ「女についてはただ男にだけ語るべきだ」 老婆「わたしにも女について語ってもらいたい。わたしは老いているから、 聞いてもすぐにそれを忘れてしまうだろう」 

 

・ツァラトゥストラは老婆の望みにしたがって語り始める。ツァラトゥストラの女性観が窺えるので、引用する。

 

女における一切は謎である。しかも女における一切は、ただ一つの答えで解ける。答えはすなわち妊娠である。

女にとっては、男は一つの手段であり、目的はつねに子どもである。だが、男にとっては、女は何であろう。 

真の男は二つのことを欲する、危険と遊戯を。それゆえ男は女を欲する、最も危険な玩具として。

男は戦闘のために教育されるべきであり、女はその戦士の心身の勇気の回復に役立つように教育されなければならぬ。

他の一切は、ばかげたことである。 

あまりに甘美な果実――これは戦士の好みに合わぬ。それゆえ戦士は女を好むのだ。最も甘美な女も、苦みをもっているからだ。 

女は男にくらべて、よりよく子どもを理解する。ところで男は女よりも子どもめいたものである。真の男のなかには子どもが隠れている。この隠れている子どもが遊戯をしたがるのだ。さあ、女たちよ、男のなかにいる子どもを見つけ出すがいい。 女性は玩具であれ、きよらかな、美しい玩具であれ、そしてまだ出現していないような世界を飾るべきもろもろの徳の輝きにみちた宝石にひとしいものであれ。

女たちよ、おまえたちの愛のなかには一つの星が輝いているように! おまえたちの希望は「わたしは超人を生みたい」ということであれ。おまえたちの愛が勇敢さをもつように!おまえたちは、おまえたちに畏怖(いふ)の念を起こさせる男性にむかってまっしぐらに進んで行け。

 

おまえたちの愛をおまえたちの名誉たらしめよ。ほかの場合に、女が名誉を解することはほとんどない。いつも、おまえたちが愛される以上に愛すること、愛において第二位にはならぬこと、これがおまえたちの名誉であれ。

女が愛するときには、男はその女を恐れるがいい。愛するとき、女はあらゆる犠牲をささげる。そしてほかのいっさいのことは、その女にとって価値を失う。 女が憎むときは、男はその女を恐れるがいい。なぜなら、魂の底において、男は「悪意の者」であるにとどまるが、女は劣等であるのだから。

 

女はどういう男を最も憎むか。――鉄が磁石に言ったことがある。「わたしがおまえを最も憎むのは、おまえがわたしを引きながらも、ぐっと引きよせて離さぬほどには強く引かないからだ」と。

男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである。 

「見よ、今こそ世界は完全になった」――あらゆる女は、愛の力のすべてをあげて従うとき、そう考える。

まことに、女は従うことによって、おのれの表皮のほかに一つの深みを獲得せねばならない。

女の心情は表皮であり、動きやすく、騒ぎやすい、浅い水の面である。 だが、男の心情は深い。その流れは、地下の見えないところを流れている。女はその力を感じはする。しかし理解することはできない。――

 

 

 

・「女における一切は謎だが、ただ一つの答えで解くことができ、それは妊娠である」というツァラトゥストラの主張は妥当なように思われる。女性の心身は月経と無関係ではないし、婦人科はしばしば産婦人科とも呼ばれている。妊娠は男性には出来ず女性のみが出来る行為である。

 

・この章で、ツァラトゥストラは男性と女性の両方を或る意味で低く見ているように思う。「女にとっては、男は一つの手段であり、目的はつねに子どもである」は別の見方をすれば、女性にとって男性は子どもを生むのに必要な精子や子どもを育てるのに必要な金銭を得るための手段でしかないとも言えるし、「女は男にくらべて、よりよく子どもを理解する。ところで男は女よりも子どもめいたものである。真の男のなかには子どもが隠れている」は「女のほうが真の男よりも精神年齢は高い」と読める。

 

・このように男性を低く見る一方で、ツァラトゥストラは「おまえたちの愛をおまえたちの名誉たらしめよ。ほかの場合に、女が名誉を解することはほとんどない」や「女は劣等であるのだから」など、女性を低く見ているようである。因みに「女は劣等であるのだから」は手塚によれば「女は劣等であるがゆえに何をするかわからないとツァラトゥストラが恐れている」という意味であるらしい。

 

・ツァラトゥストラもニーチェも男性だが、男性に「女性は玩具であれ、きよらかな、美しい玩具であれ、そしてまだ出現していないような世界を飾るべきもろもろの徳の輝きにみちた宝石にひとしいものであれ」や「おまえたち(女性たち)の希望は『わたしは超人を生みたい』ということであれ」と言われて「その通りだ!」などと賛同する女性はまずいないだろう。だが、これらの話を聞いた老婆は「ツァラトゥストラは多くの適切なことを言った。ことに、それを聞かせたいような年若い女たちについて多くの適切なことを言った」と絶賛している。

 

・「12 新しい偶像」などから窺えるように、ツァラトゥストラは近代国家に否定的であり、決して軍国主義者ではないが、個人的には「男は戦闘のために教育されるべきであり、女はその戦士の心身の勇気の回復に役立つように教育されなければならぬ」からは、「男は国や戦争のために教育されるべきであり、女は銃後として役立つよう教育されなければならぬ」としばしば考える軍国主義者の雰囲気を感じる。

 

・磁石と鉄の暗喩に関してだが、磁石は一人の男性で、鉄はその男性を愛している女性なのではないだろうか。つまり「もっと、あたしのことを抱きしめてよ」などと恋人の男性にねだっている女性を表現した暗喩なのかもしれない。

 

・かかりあう(p144):かかわる、巻き込まれる。

 

・むつき(p144):おむつ、おしめ、産着(うぶぎ)、ふんどし。

 

・ツァラトゥストラの長い話を聞いた老婆は「ツァラトゥストラは多くの適切なことを言った。ことに、それを聞かせたいような年若い女たちについて多くの適切なことを言った。不思議なことだ。ツァラトゥストラは、あまり女を知っていないのに、女について的確なことを言うとは。これも、女というものにかかりあえば、どんな不思議なことでも起こりうるせいなのだろうか。 さて、わたしの感謝のしるしに、一つの小さい真理を受け取るがよい。わたしはわたしの齢(とし)のせいでその真理を知っているのだ。 だが、それをよくむつきにくるんで、その口をおさえているがよい。さもないと、大声でわめきたてるだろうから、その小さい真理は」と語る。

 

・ツァラトゥストラ「女よ、その小さい真理をわたしに聞かせてくれ」老婆「女のもとへ行くなら、鞭(むち)をたずさえることを忘れるな」という会話のあと、「ツァラトゥストラはこう語った。」という常套句で、この章は結ばれている。この章は老婆とツァラトゥストラの対話によって構成されているが、この章でニーチェは「ツァラトゥストラが老婆との対話について本書の読者に語っているという形式」を採用している。

 

 

 

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