★底本
第二部 p208~214
★手塚による要約
「市場の蠅」の章では民衆の卑小さを、ここでは賤民の汚らわしさをののしる。しかし嘔気(はきけ)がかれを高所の清涼な泉に導く、生の真夏に。
★解説
・『ツァラトゥストラ 第一部』の「市場の蠅」の章では民衆の卑小さが語られており、この『ツァラトゥストラ 第二部』の「賤民(せんみん)」の章では賤民(身分の低い民、下賤な民、卑しい民)の汚らわしさ(けがらわしさ)が語られている。
・ツァラトゥストラは「市場の蠅」で「のがれよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。強壮な風の吹くところへ」と述べているが、この章でもツァラトゥストラは「強力な風のように、われわれはかれら(賤民たち)を超えて生きたい」と語っている。
・p208でツァラトゥストラは水(泉)、火(炎)、果実という暗喩を用いて賤民(不潔な者たち)を非難している。ツァラトゥストラは「わたしは純潔な者のすべてに好意をよせるが、不潔な者たちの口をゆがめた笑いと渇きとを見ることを好まない」と述べているが、確かに、純粋無垢な赤ん坊らが無邪気な笑みを浮かべているのを見て爽やかな気分になる者は多い一方で、街路や公共交通機関などで頭の悪い人たちが口をゆがめた笑みを浮かべているのを見て爽やかな気分になる者はいないであろう。
・なおp208には「まなざし」という名詞が登場し、しかも傍点までついているが、この名詞はp212にも登場している。p208の第三段落にある「視線」は「まなざし」の類語であり、この段落でツァラトゥストラは賤民(不潔な者たち)からのまなざしについて語っている。ツァラトゥストラによれば、賤民(不潔な者たち)からの視線(まなざし)は自分に吐気(嘔気)をもたらすのだという。
・ツァラトゥストラは、生(生きるということ)を愉悦の泉に喩えているが、「愉悦」という言葉が賤民たちによって汚されていると嘆く。しかし、ツァラトゥストラは或るとき「生はこの賤民をも必要とするのか」と自問し、窒息しそうになるほど苦しんだ。
・p209の第一段落から第三段落までの内容は、山の上で独り住んでいたツァラトゥストラ自身を想起させる。
・p209でツァラトゥストラは「機知縦横な精神をもつ賤民」に言及しているが、「機知縦横な精神」は「時と場所に応じて自由自在に才能や知恵を発揮する精神をもつ賤民」を指している。21世紀の現代社会でも「言動や人格は下賤だが、何らかの才能自体はあって頭も良いという類の人間」は散見される。
・「機知縦横な精神をもつ賤民」のほか、権力賤民(賤民を相手に権力目的の駆け引きと取り引きを行う支配者)、文筆賤民(ニーチェが生きていた時代には既にジャーナリズムが発達しており、昨日や今日の出来事は文筆家らが書く新聞記事などを通して認識されるようになっていた。ジャーナリズムに寄生する文筆家をツァラトゥストラは文筆賤民と呼んでいる)、愉悦賤民(愉悦というと賭場を汚している賤民)らが存在し、これらの賤民にツァラトゥストラは吐気を感じていた。
・p210に「わたしの様子は、耳も目も廃い(しい)、口もきけなくなった不具者に似ていた」とある。「口がきけない」は21世紀でも辛うじて残っている表現だが、「廃う(しう)」は完全に廃れてしまった表現である。
・「廃う」という完全に廃れてしまった表現について解説すると、「廃う」は古語「廃ふ(しふ)」に由来し、「目や耳などの器官が衰えて機能不全になる」という意味の自動詞である。「耳も目も廃い」は「耳も目も衰えて機能不全になり」という意味だが、「廃ふ」は「癈ふ」とも漢字表記される。
・不具者は「ふぐしゃ」と読み、「身体の一部に障害のある者」という意味の名詞だが、この名詞は差別的な表現とされ、21世紀の日本では殆ど用いられていない言葉である。
・p210の「骨を折って」は「苦労して」という意味の表現である。「施物(せもつ)」は「僧や貧者に施される(ほどこされる)物」という意味だが、「せぶつ」と読まれることもある。
・p210でツァラトゥストラは「わたしの精神は骨を折って、そして用心ぶかく、階段を登った」とあるが、p210~211にも「至高の場所」や「君たちとわたしとの高所」というフレーズが登場しており、ツァラトゥストラは位置的な高低を価値の高低に結びつける傾向がある。
・吐気に苦しんでいたツァラトゥストラだったが、ふと気づくとツァラトゥストラは至高の場所(泉のほとりに一人の賤民もすわっていない高所)へ飛び立っており、吐気からも救い出されていた。ツァラトゥストラは「わたしの嘔気そのものが、翼と、泉に近づく力とを創り出して、それをわたしに与えてくれたからなのだろうか。まことに、わたしは愉悦の泉をふたたび見いだすために、至高の場所に飛ばなければならなかったのだ」と語る。
・p211でツァラトゥストラは夏と春に関する暗喩を用いているが、「つかのまの、暑い、憂鬱な、幸福すぎる夏」の「つかのま」からは、ニーチェが住んでいた高緯度の西欧の気候が反映されているように思う。21世紀の日本において夏は6月ぐらいから始まり9月下旬や10月上旬まで続く長い季節だが、高緯度の西欧においては「つかのまの季節」なのだろう。
・はかばかしい(p211):「順調に」という意味。「捗る(はかどる)」という動詞と同語源の形容詞で、「捗々しい」と漢字表記される。
・たゆたいがち(p211):「ゆらゆら揺れがち」という意味。
・ツァラトゥストラは自身の友らに「清涼な泉と至福の静けさのある、この最高所における夏。おお、友らよ、来たれ、この静けさが、いっそうその清らかな幸福を増すように」と呼びかける。
・p212の第一段落の内容は、p208の第三段落の対比となっている。思うに、この章において、「泉」は「エネルギー源(活力の源)」の暗喩となっており、「水」は「エネルギー(活力)」の暗喩となっているのではないだろうか。
・p212の第四段落に「氷の洞窟」という暗喩が登場するが、木やレンガなどで出来た家屋と異なり、氷の洞窟は寒くて非常に居住しづらい空間である。p211の「六月に時ならぬ雪片を散らしたわたしの悪意」という暗喩を踏まえると、「氷の洞窟」はツァラトゥストラが不潔な者どもに向けていた悪意(雪片)が塊になったものというニュアンスなのかもしれない。p212の第五段落にも「雪の隣人」という暗喩が用いられている。
・ただなか(p212):「まんなか」という意味の名詞。
・つばき(p212):「つば」という意味。「つば」も「つばき」も漢字表記は唾である。
・ツァラトゥストラは「自分はあらゆる低地に対して強力な風である」と自認する。そして、おのれの敵と(おのれに)つばきを吐くすべての者に「風にさからってつばきを吐くな」と忠告したあと、「ツァラトゥストラはこう語った」という定型句が来て、この章は結ばれている。
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