★底本

第一部 p140~144

 

★手塚による要約

大胆な女性観。ユーモアの味があり、心理学的に鋭い。女性の本質を超人の出現に奉仕させようとする意図を見のがしてはならない。

 

 

★解説

・この章では老いた一人の女(老婆)と、ツァラトゥストラが登場する。この章は、老婆とツァラトゥストラの対話によって構成されている。

 

・ツァラトゥストラが、ただひとり日の沈んでゆく時刻に歩いていると、一人の老いた女と出会う。その女は「ツァラトゥストラよ、どうしてあなたは足を忍ばせて、暗がりのなかを歩いているのか。そして何をあなたは大事そうに、あなたのマントの下に隠しているのか。それはあなたに贈られた宝か。それとも、あなたが生ませた子どもか。それとも、悪人どもの友であるあなたは、いまみずから盗賊の道を歩いているのか」と問う。ツァラトゥストラは「まことに、わたしの兄弟よ、それは私に贈られた宝だ。わたしが抱いているのは、一つの小さな真理なのだ。しかし、それは赤子(あかご)のようにやんちゃだ。もしわたしがその口をおさえていなければ、大声でわめくだろう」と答える。

 

・「悪人どもの友であるあなた」を手塚は「弱い善よりは強い悪をよしとするあなた」と解釈しているが、「ツァラトゥストラの序説」でツァラトゥストラが綱渡り人と組み、市場の群衆であまりにも多くの者に憎まれていたように、一般大衆の目にはツァラトゥストラが「悪人どもの友」に見えるという意味なのではないだろうか。

 

・老婆「ツァラトゥストラはわたしたち女にも多くのことを語ったが、女というものについてわたしたちに語ったことは一度もない」ツァラトゥストラ「女についてはただ男にだけ語るべきだ」 老婆「わたしにも女について語ってもらいたい。わたしは老いているから、 聞いてもすぐにそれを忘れてしまうだろう」 

 

・ツァラトゥストラは老婆の望みにしたがって語り始める。ツァラトゥストラの女性観が窺えるので、引用する。

 

女における一切は謎である。しかも女における一切は、ただ一つの答えで解ける。答えはすなわち妊娠である。

女にとっては、男は一つの手段であり、目的はつねに子どもである。だが、男にとっては、女は何であろう。 

真の男は二つのことを欲する、危険と遊戯を。それゆえ男は女を欲する、最も危険な玩具として。

男は戦闘のために教育されるべきであり、女はその戦士の心身の勇気の回復に役立つように教育されなければならぬ。

他の一切は、ばかげたことである。 

あまりに甘美な果実――これは戦士の好みに合わぬ。それゆえ戦士は女を好むのだ。最も甘美な女も、苦みをもっているからだ。 

女は男にくらべて、よりよく子どもを理解する。ところで男は女よりも子どもめいたものである。真の男のなかには子どもが隠れている。この隠れている子どもが遊戯をしたがるのだ。さあ、女たちよ、男のなかにいる子どもを見つけ出すがいい。 女性は玩具であれ、きよらかな、美しい玩具であれ、そしてまだ出現していないような世界を飾るべきもろもろの徳の輝きにみちた宝石にひとしいものであれ。

女たちよ、おまえたちの愛のなかには一つの星が輝いているように! おまえたちの希望は「わたしは超人を生みたい」ということであれ。おまえたちの愛が勇敢さをもつように!おまえたちは、おまえたちに畏怖(いふ)の念を起こさせる男性にむかってまっしぐらに進んで行け。

 

おまえたちの愛をおまえたちの名誉たらしめよ。ほかの場合に、女が名誉を解することはほとんどない。いつも、おまえたちが愛される以上に愛すること、愛において第二位にはならぬこと、これがおまえたちの名誉であれ。

女が愛するときには、男はその女を恐れるがいい。愛するとき、女はあらゆる犠牲をささげる。そしてほかのいっさいのことは、その女にとって価値を失う。 女が憎むときは、男はその女を恐れるがいい。なぜなら、魂の底において、男は「悪意の者」であるにとどまるが、女は劣等であるのだから。

 

女はどういう男を最も憎むか。――鉄が磁石に言ったことがある。「わたしがおまえを最も憎むのは、おまえがわたしを引きながらも、ぐっと引きよせて離さぬほどには強く引かないからだ」と。

男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである。 

「見よ、今こそ世界は完全になった」――あらゆる女は、愛の力のすべてをあげて従うとき、そう考える。

まことに、女は従うことによって、おのれの表皮のほかに一つの深みを獲得せねばならない。

女の心情は表皮であり、動きやすく、騒ぎやすい、浅い水の面である。 だが、男の心情は深い。その流れは、地下の見えないところを流れている。女はその力を感じはする。しかし理解することはできない。――

 

 

 

・「女における一切は謎だが、ただ一つの答えで解くことができ、それは妊娠である」というツァラトゥストラの主張は妥当なように思われる。女性の心身は月経と無関係ではないし、婦人科はしばしば産婦人科とも呼ばれている。妊娠は男性には出来ず女性のみが出来る行為である。

 

・この章で、ツァラトゥストラは男性と女性の両方を或る意味で低く見ているように思う。「女にとっては、男は一つの手段であり、目的はつねに子どもである」は別の見方をすれば、女性にとって男性は子どもを生むのに必要な精子や子どもを育てるのに必要な金銭を得るための手段でしかないとも言えるし、「女は男にくらべて、よりよく子どもを理解する。ところで男は女よりも子どもめいたものである。真の男のなかには子どもが隠れている」は「女のほうが真の男よりも精神年齢は高い」と読める。

 

・このように男性を低く見る一方で、ツァラトゥストラは「おまえたちの愛をおまえたちの名誉たらしめよ。ほかの場合に、女が名誉を解することはほとんどない」や「女は劣等であるのだから」など、女性を低く見ているようである。因みに「女は劣等であるのだから」は手塚によれば「女は劣等であるがゆえに何をするかわからないとツァラトゥストラが恐れている」という意味であるらしい。

 

・ツァラトゥストラもニーチェも男性だが、男性に「女性は玩具であれ、きよらかな、美しい玩具であれ、そしてまだ出現していないような世界を飾るべきもろもろの徳の輝きにみちた宝石にひとしいものであれ」や「おまえたち(女性たち)の希望は『わたしは超人を生みたい』ということであれ」と言われて「その通りだ!」などと賛同する女性はまずいないだろう。だが、これらの話を聞いた老婆は「ツァラトゥストラは多くの適切なことを言った。ことに、それを聞かせたいような年若い女たちについて多くの適切なことを言った」と絶賛している。

 

・「12 新しい偶像」などから窺えるように、ツァラトゥストラは近代国家に否定的であり、決して軍国主義者ではないが、個人的には「男は戦闘のために教育されるべきであり、女はその戦士の心身の勇気の回復に役立つように教育されなければならぬ」からは、「男は国や戦争のために教育されるべきであり、女は銃後として役立つよう教育されなければならぬ」としばしば考える軍国主義者の雰囲気を感じる。

 

・磁石と鉄の暗喩に関してだが、磁石は一人の男性で、鉄はその男性を愛している女性なのではないだろうか。つまり「もっと、あたしのことを抱きしめてよ」などと恋人の男性にねだっている女性を表現した暗喩なのかもしれない。

 

・かかりあう(p144):かかわる、巻き込まれる。

 

・むつき(p144):おむつ、おしめ、産着(うぶぎ)、ふんどし。

 

・ツァラトゥストラの長い話を聞いた老婆は「ツァラトゥストラは多くの適切なことを言った。ことに、それを聞かせたいような年若い女たちについて多くの適切なことを言った。不思議なことだ。ツァラトゥストラは、あまり女を知っていないのに、女について的確なことを言うとは。これも、女というものにかかりあえば、どんな不思議なことでも起こりうるせいなのだろうか。 さて、わたしの感謝のしるしに、一つの小さい真理を受け取るがよい。わたしはわたしの齢(とし)のせいでその真理を知っているのだ。 だが、それをよくむつきにくるんで、その口をおさえているがよい。さもないと、大声でわめきたてるだろうから、その小さい真理は」と語る。

 

・ツァラトゥストラ「女よ、その小さい真理をわたしに聞かせてくれ」老婆「女のもとへ行くなら、鞭(むち)をたずさえることを忘れるな」という会話のあと、「ツァラトゥストラはこう語った。」という常套句で、この章は結ばれている。この章は老婆とツァラトゥストラの対話によって構成されているが、この章でニーチェは「ツァラトゥストラが老婆との対話について本書の読者に語っているという形式」を採用している。

 

 

 

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★底本

第一部 p134~139

 

★手塚による要約

孤独のうちに真の創造者の道を取ろうとする者の苦難と覚悟を説く。きびしく自分自身を乗り超えて創造することが求められる。

 

 

★解説

・手塚は動詞「入る」をしばしば「はいる」と平仮名表記する。だが、「入る」と「はいる」であれば前者のほうが読みやすいと思われるため、本記事では一部を漢字表記に直している。

 

・この章の冒頭部で、ツァラトゥストラは君(ツァラトゥストラが「わたしの兄弟」と呼んでいる者たちの一人)に「わたしの兄弟よ、君は孤独に入ろうとするのか。君自身への道をさがし求めようとするのか。それならもうしばらく足をとめて、わたしの言うことを聞くがよい」と語っている。そして、この章の最後で「わたしの兄弟よ、わたしの涙をたずさえて、君の孤独のなかへ行け。わたしは愛する、おのれ自身を超えて創造しようとし、そのために滅びる者を」と語っている。つまり、この章は孤独に入ろう(君自信の道を歩もう)としている君に対して、ツァラトゥストラが出発前の助言のようなものを告げているという構図になっている。

 

・ツァラトゥストラによれば、群衆は「さがし求めて歩く者は、道に迷いやすい。孤独にはいる者は常に罪だ」と言っており、君もその群衆の一人であった。

 

・p134の第五段落の「しかし」は「それでも」というニュアンスで捉えると分かりやすい。

 

・p135でツァラトゥストラは「ああ、世には高みを求める欲念が、なんと多いことだろう。野心家たちの痙攣が、なんと多いことだろう。わたしに示してくれ、君がそういう欲念にとらわれた者、そういう野心家の一人ではないということを」と嘆いている。その一方で、p136以降では「君は彼らを超えてゆく。しかし君が高みへのぼればのぼるほど、妬みの目は君を小さい者と見る」などと述べている。ツァラトゥストラは「君が、高みを求める欲念ゆえではなく、孤独に入ることで結果的に高みへのぼってゆくこと」を期待しているのだろう。

 

・ふいご(p135):火をおこすための送風機。英語で愚か者のことをfoolというが、foolは元々ふいごの意味であった。

 

・ツァラトゥストラは「何からの自由か」ではなく「何を目ざしての自由か」を君に問うている。そのことを述べる際にツァラトゥストラは「くびき」という名詞を用いているが、この名詞は「16 千の目標と一つの目標」でも登場している。

 

・p135の最終段落にツァラトゥストラの考える孤独者の定義の一部が書かれている。その次の段落でツァラトゥストラは「君が孤独のなかに身を置き、君とともにいるのは、ただ君自身の掟(おきて)に従う裁判官、復讐者だけだということは、恐ろしいことである。それは荒涼とした空間と、氷のような孤立の気圏へ投げ出された一つの星と同じことである」とも語っている。

 

・気圏(p136):大気圏ともいう。地球を包んでいる大気の存在する範囲のこと。

 

・「恒星や惑星って気圏には存在していないのでは」と不思議に感じ、原文を調べたところ、手塚が「気圏」と訳している箇所は、原文ではAthemとなっていることが分かった。Athemは息や呼吸や息吹(「いぶき」と読み、「息を吐く」や「生気や活気がある」という意味)という意味の単語なので、「気圏」は意訳なように思う。原文は「Also wird ein Stern hinausgeworfen in den öden Raum und in den eisigen Athem des Alleinseins」であり、「氷のような孤立の気圏へ」は「孤立した氷のような息吹の中へ」という意味なのだろう。

 

・p135に「君は星たちにも支配の力をおよぼして君の周囲を回らせることができるか」とあるが、この「星たち」は「氷のような孤立の気圏へ投げ出された一つの星」の「星」と関連しているのかもしれない。p137にも「君が一つの星であろうとするなら」という一節がある。「9 山上の木」のp89にも「星の世界を君の魂は渇望している」という一文がある。

 

・p136の第二段落にある「一者」は「ひとつもの」とも「いっしゃ」とも読む。前者の場合は「ただひとりの者」や「唯一絶対の者」などといった意味の普通名詞で、後者の場合は哲学者プロティノスが提唱した哲学用語となる。後者はto hen(ト・ヘン)とも言い、「一なるもの」とも表現される。文脈から考えて、この段落における「一者」は「ただひとりの者」や「唯一絶対の者」という意味だろう。

 

・ツァラトゥストラによれば、君(すなわち「孤独に入ろうとする者」)は「多数者から離れるも、多数者のことを憂いている段階」から「孤独に疲れ果て、誇りと勇気を失う段階(「わたしはただ独りだ」と叫ぶ段階)」となり、最後に「君の崇高ささえ、幽霊のように君を恐れさせ、虚無的な感情に至る段階(「一切はまやかしだ」と叫ぶ段階)」となる。現時点で君は「多数者から離れるも、多数者のことを憂いている段階」であるとのこと。

 

・p136の第五段落で、孤独な人間には自分自身を殺して死に至らせる感情(諸虚無的な感情)があるとツァラトゥストラは語る。孤独な人間の精神内では、自分自身を殺すか(自殺するか)、諸虚無的な感情を殺すか(諸虚無的な感情を克服するか)の戦いが展開されているという。

 

・p137でツァラトゥストラは「不公正と汚物を、かれら(君に妬みの目を向ける多数派たち)は孤独者に向かって投げかける。しかし、わたしの兄弟よ、君が一つの星であろうとするなら、かれらがそうするからといって、君がかれらを照らすことを少なくしてはならぬ」と諭す。

 

・ツァラトゥストラは「善い者たち、正しい者たち(日常的な意味における善人たちや正義感の強い者たち)」に警戒せよと説く。「善い者たち、正しい者たち」は自分自身の徳を創り出す者を好んで十字架にかけるほど孤独者を憎んでいるからだという。「ツァラトゥストラの序説」のp38~39にも「この町ではあまりに多くの者が君(ツァラトゥストラ)を憎んでいる。善良で正しい者も君を憎んでいて、君を敵、侮辱者と呼んでいる」とある。

 

・「神聖な単純さ」や「君の愛の発作」にも警戒せよとツァラトゥストラは説く。前者は1415年に刑死したヤン・フスの故事が元と踏まえている。フスは「異端の主謀者」と記された紙帽子を頭にかぶせられ、火刑に処されていたが、フスを悪魔とみなす敬虔なキリスト教徒が更に薪をくべると、“O, Sancta simplicitas”(おお、神聖な単純さよ)と叫んだ。このように、神聖な単純さ(に囚われている者)は、複雑なものには神聖さを感じることが出来ず、火刑の火をもてあそぶという。後者は「孤独者は道で出会った者にあまりにも早く(発作的に)手をさしのべるが、(孤独者を目指す)君には、手をさしのべてはならぬ人間が多くいるのだ」ということを指摘している。

 

・「手をさしのべてはならぬ人間には、手ではなく前足だけをさしのべよ」とツァラトゥストラは説く。ただし、その前足には「猛獣の爪がそなえられてあるように」とも追記されており、「前足だけをさしのべるときも断固たる厳しさを忘れるな」という趣旨のことが語られている。

 

・p138に「君の七つの悪魔」とあり、手塚は「この七つという数字はあくまで修辞的なものである」と解釈しているが、「七つの大罪」のパロディと捉えることも可能だろう。七つの大罪はラテン語ではseptem peccata mortalia(七つの死に至る罪)と表現され、同ページの「君は君自身を君自身の炎で焼こうと思わざるをえないだろう」や「いったん灰になる」といった箇所からは「死」のニュアンスが感じ取れる。因みに、ツァラトゥストラは七つの悪魔として「異端者」「魔女」「予言者」「道化」「懐疑者」「不浄の者」「悪漢」を列挙している。

 

・「君は君自身を君自身の炎で焼こうと思わざるをえないだろう。いったん灰になることがなくて、どうして新しく甦る(よみがえる)ことが望めよう。孤独な者よ、君は創造者の道を行く。君は君の七つの悪魔から、一つの神をみずからのために造り出そうと欲すべきだ」というツァラトゥストラの教えは、不死鳥(フェニックス)を連想させる。不死鳥は西洋の伝説上の鳥であり、「火の鳥」とも呼ばれる。不死鳥は寿命を迎えると、自ら炎に飛び込んで死ぬが、その灰から復活するとされる。死んだ後に復活することから、キリスト教徒の間では「処刑されたのち復活したイエス・キリスト」と関連づけて捉えられ、不死鳥はキリストの復活を象徴するものとなった。

 

・「灰と火」というモチーフは、「ツァラトゥストラの序説」でも用いられている。p15で老翁は「君は君の灰を山上に運んだ。きょうは君は君の火を谷々へ運ぼうとするのか」とツァラトゥストラに述べていた。

 

・実は、新約聖書には七つという数字がよく出てくる。『ヨハネの黙示録』にも「七つの教会」「七つの封印」「七つのラッパ」「七つの災い」という語句が登場する。

 

・軽蔑は「いやしい、くだらない、劣っている、つまらないなどと感じて馬鹿にすること」であり、その対象はしばしば他人であるため、軽蔑と孤独は、世間一般では関連性が薄いと考えられるだろう。しかし、ツァラトゥストラは「深い愛をもつ者は、軽蔑するからこそ創造しようとするのだ」と説いている。

 

・「君の愛と君の創造の力をたずさえて、君の孤独のなかへ行け」と「わたしの兄弟よ、わたしの涙をたずさえて、君の孤独のなかへ行け」は対句となっている。p138~139の段落にある「君の愛と君の創造の力をたずさえて、君の孤独のなかへ行け。時を経てようやく、公正は不自由な足をひきずりながら、君についてくるだろう」は、君の創造を後世の者(未来の者)は公正に評価するだろうという意味である。

 

 

 

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★底本

第一部 p130~133

 

★手塚による要約

キリスト教の根幹をなす隣人愛に矛先を向け、それを自分自身から逃避する態度という。遠い未来への愛に生きなければならぬ。

 

 

★解説

・「隣人(りんじん)を愛すること」や「隣人への愛」を隣人愛といい、キリスト教は隣人愛を重視している。p130の第一段落の「美しい名」は隣人愛のことである。

 

・没我(p130):「ぼつが」と読む。物事に熱中して自分自身への意識が薄れること。

 

・ツァラトゥストラは、p130の第三段落で、自分自身への意識(「我」)は他者への意識(「汝」)よりも確立が遅れたため、人間は自分自身よりも他者(隣人)に殺到すると説く。「他者(隣人)に殺到する」というのは隣人愛に他ならない。

 

・ツァラトゥストラは隣人愛よりも「最も遠い者、未来に出現する者」への愛を高く評価する。「最も遠い者、未来に出現する者」は超人を指しており、p132で「わたしの兄弟たちよ、わたしは君たちに隣人愛を勧めない。私は君たちに遠人愛を進める」と自説を要約している。また、ツァラトゥストラは人間への愛よりも「事業と目に見えぬ幻影とへの愛」を高く評価する。

 

・p130~131に「君に先だって歩んでゆくこの幻影、それは、わたしの兄弟よ、君よりも美しいのだ。なぜ君はそれに君の血肉を授けないのか」とあるが、『新約聖書』の「コリント人への手紙」にも血肉という語句が登場する。現代の日本語でも「血となり肉となる」という表現が「知識や経験などが身につく」という意味で用いられている。

 

・ツァラトゥストラはp131で「君たちはおのれ自身に堪えることができない、またおのれ自身を十分に愛していない。それで君たちは隣人を愛へと誘い、誘いに乗った隣人のその過ちによっておのれを鍍金(めっき)しようとするのだ」と語っている。君たちに対して、ツァラトゥストラは隣人を愛へと誘うのではなく独立独歩であれと説く。

 

・たぶらかしおおせる(p131):「完全に人をだまして惑わす」という意味。動詞「たぶらかす」は「誑かす」と漢字表記され、補助動詞「おおせる」は「果せる」と漢字表記される。「果せる」を「はたせる」と読む方がいるかもしれないが、「はたせる(果たすことが出来る)」は「果たせる」と表記するのが一般的である。

 

・ツァラトゥストラによれば、道化師も「人間との交流は性格をそこなう。ことに性格のないやつの性格を」と述べているとのこと。「ことに」は「特に」という意味。

 

・p132の冒頭のほうに「君たちの隣人への愛によって損害をこうむるのは、その場にいない者たちだ。君たちが五人集まると、いつも第六番目の者が犠牲の祭壇にのぼらなくてはならぬ」という段落がある。手塚の脚注では「(第六番目の者が)悪口の的(まと)となる。」と解釈されている。

 

・個人的には「第六番目の者が犠牲の祭壇にのぼらなくてはならぬ」の「祭壇」は、次の段落の「君たちの祝祭」の「祝祭」における「祭壇」という意味で捉えることも可能なように思う。ドイツ語で祝祭はFestというが、Festは神聖な饗宴を意味するラテン語festumに由来する。漢字「祭」も「古代の祖先が先祖の神々に犠牲を払うために殺されたばかりの新鮮な肉を用いた儀式」が成り立ちである。もともと祝祭は祭壇上に犠牲を供えたり原始宗教における神をまつったりする集団儀式であった。

 

・因みに、原文は「schon wenn ihr zu fünfen mit einander seid, muss immer ein sechster sterben」であり、これを直訳するならば「君たちが五人一緒にいると、いつも第六番目の者が死なねばならない」などとなる。つまり、「君たちが五人集まると、いつも第六番目の者が犠牲の祭壇にのぼらなくてはならぬ」は手塚による意訳である可能性が高い。

 

・ツァラトゥストラはp132で隣人よりも友を重視している。「15 友」で、ツァラトゥストラは友人や友情について論じていた。

 

・海綿(p132):スポンジ。

 

・「ニーチェは来世よりも現世を重視した」と説明する哲学の解説書は少なくないが、p132などのツァラトゥストラの台詞から分かるように、ニーチェは来世を否定する一方で「現世における未来」は否定していない。むしろ「事業」という語句が示しているように、「現世における未来」を超人と関連づけている。

 

 

 

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★底本

第一部 p124~129

 

★手塚による要約

各民族はそれぞれ独自の目標、価値観を立てて生存を戦いとってきた。だがいまや人類的に一つの価値観をもつ時が来たのではないか。

 

 

★解説

・冒頭に「どんなに多くの国と多くの民族をツァラトゥストラは見てきたことだろう」とあるが、この章では主に民族について言及されており、国家に関する言及は殆どない。

 

・「ツァラトゥストラは地上において、善と悪以上に大きい力をもつものを見いださなかった」は善悪二元論を唱えたゾロアスター教の始祖ゾロアスター(ツァラトゥストラ)らしい一文である。p124の第二段落の「評価」は「何を善や悪と評価するのか」という意味で捉えると分かりやすい。

 

・異なる文化を比較していくと、個別性と普遍性の両方が見えてくる。前者は或る文化圏から別の文化圏へ移り住んだ人にカルチャーショックをもたらすものなどが該当し、後者は感謝や結婚など(どの文化圏でも感謝を表す言葉は存在するはずだし、父系や母系等の違いはあっても大半の文化圏には結婚という制度が存在するはずである)といった「世界中のどんな文化圏でも広くみられる価値観やシステム」が該当する。この章で、ツァラトゥストラは個別性に重きを置いている。

 

・ツァラトゥストラによれば、あらゆる民族の頭上には、善についてのそれぞれの表が掲げられている。それは「その民族が克服してきたものの表」であり、「その民族の力への意志が発した声」であるという。

 

・ツァラトゥストラは「まことに、人間はおのれの奉ずる善と悪との一切を、おのれの手でおのれ自身に与えたのである」と説く。具体例として、ギリシャ人、古代ペルシャ人、ユダヤ人、古ゲルマン人が列挙されている。

 

・ゾロアスターは古代ペルシャ人である。19世紀後半、「ゾロアスター(ドイツ語読みではツァラトゥストラ)は『金の星』を意味する」という説があり、現在その説は疑問視されているが、1883年4月にニーチェがペーター・ガストへ送った手紙に<ツァラトゥストラは「金の星」という意味です。たまたま今日このことを知って私は甚だ嬉しく感じました。この語源に基づいて拙作の着想が得られたと思う人もいるかもしれませんが、今日に至るまで私はこのことを全く知りませんでした>とあることから、ニーチェ自身はその説を正しいと認識していたようである。

 

・p126では「人間」(Der Mensch)すなわち「評価する者」(Der Messende)というダジャレが登場しており、手塚の脚注に「語原的根拠はない」とある。この脚注を見て筆者は高校の化学の授業を思いだした。教科書では「酸化被膜」と書かれている用語を一人の化学教師が「酸化皮膜」と表記していたのである。21世紀の日本語では、語原よりも語源という漢字表記のほうが一般的であり、もし手塚が21世紀の人間であったならば「語源的根拠はない」と記していたように思う。

 

・ツァラトゥストラは「もろもろの価値の根源は人間である。人間が、おのれを維持するために、それらの価値を諸事物に賦与したのである」と語り、「評価は創造である」や「評価することによって、はじめて価値が生まれる。評価されることがなければ、生存はうつろであろう。このことを耳にとどめよ、君たち創造する者よ」という教えを君たちに説く。

 

・ツァラトゥストラにとって価値の変動は創造する者たちの変動である。ツァラトゥストラは「はじめは、もろもろ(諸々)の民族が創造者であった。のちになってはじめて個人が創造者となった。個人そのものが最近の所産なのだ」と語っており、これまでツァラトゥストラが民族に重点を置いていた背景には、そういった事情があった。

 

・「個人そのものが最近の所産なのだ」は手塚の脚注にある通り、「個人という概念自体が近代(ルネサンス)以降に成立したものであるということ」を意味している。つまり、それまでの人間社会は個人単位よりも民族単位で動いていたと言える。

 

・群居(p127):むらがり住むこと。群れをなしていること。

 

・やましい(p127):後ろめたい

 

・p127の「群居を喜びとすること」から始まる段落は、個人(「我」)と集団(群衆など)のコントラストに関連した内容となっている。

 

・<まことに、私の見るところはこうである。おのれの利益のためという動機から多数者の利益をはかる、狡猾な愛のない「我」は、群居する群衆の起原ではなくて、その没落である>に関しては、ツァラトゥストラも下山のときに没落していたよなと思った。なお、ここで手塚は「起源」ではなく「起原」という漢字表記を採用している。「語原」の箇所と同様、21世紀の日本語では、起原よりも起源という漢字表記のほうが一般的であろう。

 

・ツァラトゥストラによれば、善と悪を創造した者は、つねに愛をもつ者である。「いっさいの徳の名のうちには、愛の火と怒りの火とが灼熱している」ともいう。徳は善悪と強い繋がりのある名詞であり、「善悪の基準を持つがゆえに、その基準に沿う者への愛と、それに反する者への怒りが湧く」というニュアンスで読むと分かりやすい。

 

・p128の第一段落の「かれ」は文脈からツァラトゥストラ本人のことであるが、自分のことを「わたし」ではなく「かれ」と呼ぶのは通常の日本語の感覚からは乖離している。この段落でツァラトゥストラはp124の「地上において、善と悪以上に大きい力をもつものを見いださなかった」を「地上において、愛をもつ者たちの行なう事業以上に大きい力をもつものを見なかった。『善』と『悪』とは、その事業の名である」と言い換えている。

 

・くびき(p128):牛や馬などの大きい家畜と、牛車や馬車や梶棒(かじぼう)や犂(すき)などを繋ぐために用いる木製の棒状器具。転じて、「自由を束縛するもの」という意味。

 

・この章は、「まことに、これらのさまざまの善および悪を生んだ力は、怪物である。言え、わたしの兄弟たちよ。この怪物を克服しうる者はだれか。この怪物の千の頭にくびきをかけうる者はだれか。千の目標が今までに存在した。千の民族があったからである。ただその千の頭を一体とするくびきが、今もなお欠けているのである。一つの目標が欠けているのだ。人類はまだ目標をもっていない。だが、答えてくれ、わたしの兄弟たちよ。人類にまだ目標が欠けているなら――まだ人類そのものが欠けているのではないか。――」というツァラトゥストラの独白で結ばれている。この締めの文章は「千の目標と一つの目標」という章におけるタイトル回収(「小説やドラマや漫画やアニメなどのタイトルにある言葉の意味が、劇中で明らかになったり、タイトルの文言を登場人物が発言したりする状況」を指すネットスラング)と言えるのかもしれない。

 

 

 

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★底本

第一部 p118~123

 

★手塚による要約

友情論として屈指のもの。超人思想の当然の帰結だが、友のうちに敵を愛し、共に向上を目ざす生産的立場が実に美しい。

 

 

★解説

・隠栖(p118):「いんせい」と読む。俗世間を逃れて静かに住むこと。「隠棲」とも表記される。

 

・10年ほど山の上で隠栖していたツァラトゥストラによれば、隠栖者は「わたしのところには、いつも一人だけ余分の者がいる」「いつも一かける一(いちかけるいち)なのだが――それが長期にわたると二になってくる」と考える。

 

・内省的な人が長い間、独りでいると、心の中で自分の考えなどに関する対話(仮想的な討論)が展開される場合がある。たとえば、A案とB案のどちらを採用すべきか悩んでいる人が、自身の脳内でA案支持者とB案支持者を登場させて、A案支持者「俺はA案を採用すべきだと思う」B案支持者「いや、A案には多くのリスクがある。自分ならB案を採用するね」A案支持者「いやいや、確かにA案はリスクも大きいが、それ以上にリターンがある。だからA案を採用すべきだ」などといった対話を繰り広げるのは珍しくない光景である。

 

・「いつも一かける一(いちかけるいち)なのだが――それが長期にわたると二になってくる」を見て、ジョージ・オーウェルの『1984年』に登場する「2足す2は5」や東條首相(東条英機首相)の算術「2+3=80」を連想する方がいるかもしれないが、「2足す2は5」も「2+3=80」も発表されたのは1940年代であり、本書は『1984年』や東條首相から影響を受けていないと考えられる。

 

・ただし、余談となるが、1943年に東條首相らが出席した大東亜会議を報じる日本ニュース第179号ではBGMとして『ツァラトゥストラはかく語りき』という交響詩が使用されている。この交響詩は、リヒャルト・シュトラウスという音楽家が本書にインスピレーションを得て1896年に発表した作品であり、映画『2001年宇宙の旅』でもBGMとして使用された。これまた余談となるが、ニーチェには作曲家としての側面もあり、Manfred Meditation(マンフレッド瞑想曲)などの作品を遺している。

 

・ツァラトゥストラの意見では、隠栖者にとって友は常に第三者である。そして、友は隠栖者の脳内で展開される対話(仮想的な討論)が深みに沈んでしまうのを防ぐ浮き袋である。

 

・p118の第四段落や、p120の「なぜなら、君は友にとって、超人を目ざして飛ぶ一本の矢、憧れの熱意であるべきだから」などのようにツァラトゥストラは「憧れ」を否定的には捉えていないように見える。「憧れは理解から最も遠い感情」という価値観とは異なっているようだ。

 

・この章でツァラトゥストラは友情論を展開しているが、その友情論は「友と敵を真逆の存在と捉える世間一般の価値観」から乖離している。p119の「おのれの友のうちに、おのれの最善の敵をもつべきである。君がかれに敵対するときこそ、君の心はかれに最も近づいているのでなければならぬ」などのように、友と敵は表裏一体の関係にあるとツァラトゥストラは捉えている。

 

・p119の「君は君の友の前にいるとき、衣服を脱いでいたいと思うのか」や「君は君の友のために、自分をどんなに美しく装っても、装いすぎるということはない」のように、この章は一文あたりの文字量が多くないにも拘らずインパクトの強いセンテンスが多い。

 

・ツァラトゥストラによれば、友が寝ているときの顔は友が起きているときの顔と大きく異なっており驚愕するという。そのことを指摘した直後、ツァラトゥストラは「6 喜悦と情熱」や「11 戦争と戦士」でも前述した「人間とは、乗り超えられるべきものである」という言説を繰り返す。

 

・p120に「君の確固たる目と、永遠を見すえているまなざし」とあるが、「まなざし」には傍点がつけられている。「9 山上の木」などのように、本書では「まなざし」という名詞がよく登場する。ニーチェは目や眼差し(まなざし)に思い入れがあるようだ。

 

・なおp120では友情と同情について語られているが、同情は第四部などでも深く語られることとなる。

 

・「君は君の友にとって、濁りのない空気であり孤独でありパンであり薬剤であるだろうか。自分自身の鎖を解き放つことができなくとも、友を解き放って救うことのできる者は、少なくないのだ」など、この章は読んでいて印象に残る文章が多い。

 

・ツァラトゥストラの価値観では、奴隷は友になれず、専制者は友をもつことが出来ない。「あまりにも長いあいだ、女性の内部には、奴隷と専制者とがかくされていた。それゆえに、女性にはまだ友情を結ぶ能力がない。女性が知っているのは愛だけである」という。「女性にはまだ友情を結ぶ能力がない」というフレーズはp121で3回も登場する。だが、p121の最終段落の一つ前の段落などでも窺えるように、ツァラトゥストラは「男性は女性よりも優れているから友情を容易に結ぶことができる」などと考えている訳ではない。

 

・よしみ(p121):「縁」や「親しい付き合い」という意味。漢字では「好み」や「誼み」と表記する。

 

・p121の最終段落は「世間には仲間の縁ということがある。真の友情があることを願う」という意味である。

 

・この章を読んで気になったのだが、隠栖者にとっての友と、そうでない者にとっての友は性質とかに違いがあってもおかしくないのではないだろうか。また、女性であっても友情を結ぶ能力は普通に備わっているのではないだろうか。ただし、前述した「君は君の友にとって、濁りのない空気であり孤独でありパンであり薬剤であるだろうか。自分自身の鎖を解き放つことができなくとも、友を解き放って救うことのできる者は、少なくないのだ」のように、この章におけるツァラトゥストラの友情論は大部分が隠栖者にとっての友なのか否かに関係なく妥当な内容である。

 

 

 

 

 

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★底本

第一部 p114~117

 

★手塚による要約

性的な純潔を論ずる。淫蕩を憎むが、禁欲を勧めず、官能の浄化を言う。肉体を軽蔑せず、創造を重んずる考えが予感される。

 

 

★解説

・30歳の頃から10年近く山で暮らしていたツァラトゥストラは山での暮らしを好んでおり、「都市は淫蕩(いんとう)な者が多すぎて住むに堪えない」という。

 

・淫蕩(p114):酒や博打や異性に没頭すること

 

・「この地上で、女と寝るより、ましなことを何も知らない男」をツァラトゥストラは動物にもなれない存在だと酷評する。「1 ツァラトゥストラの序説」★4 (p24~28)でも述べたように、ツァラトゥストラは人間(ホモサピエンス)が動物の一種であることを見落としているようだ。

 

・ツァラトゥストラは淫蕩な者を酷評する一方で、「官能を殺せ」とは勧めない。あくまで官能の無邪気さを勧めているに過ぎない。人間以外の動物はいわゆる野生の本能に動かされて交尾しており、快楽追及にも精神(知性)を用いる淫蕩な者と比べて無邪気であると言える。

 

・p115の「貞潔(ていけつ)は、ある人々にとっては徳である」の「ある人々」はp116の「まことに、根本的に純潔な人々がいるものだ」以降の箇所で詳しく述べられている。

 

・貞潔(p115):貞操が固く、行いが潔白である

 

・この章からは「リビドーを抑えようとすると多くの者は悪徳になってしまう」というニーチェの発想が感じられる。本書は1880年代に書かれたが、ジークムント・フロイトによるリビドー論は19世紀末から20世紀初頭にかけて発達していった。

 

・ツァラトゥストラのいう「肉欲の雌犬(めすいぬ)の妬みの目」や手塚の脚注にある「淫欲からの復讐心」は「淫欲が満たされない現状が、淫欲が満たされている状態に対する妬みや復讐心を産む」というニュアンスなのだろう。

 

・禁欲の苦行をした結果、かえって極端に堕落した例をツァラトゥストラは指摘するが、禁欲の苦行を6年続けた末に「極端な苦行はかえって心身を駄目にして真理から遠ざかってしまう」と考えて禁欲の苦行を辞めた仏陀に近いものがある。

 

・厭う(p116):嫌がる

 

・p116でツァラトゥストラは「認識を志す者は浅薄な問題を除き、真理が淫欲のように汚らわしい場合であっても、その真理の問題に触れるのを厭わない(いとわない)」と説く。

 

・この章でのツァラトゥストラの主張は「38 無垢な認識」でも展開されてゆく。

 

 

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★底本

第一部 p107~113

 

★手塚による要約

愚衆と愚衆相手に演技している者たちの社会を避けて、孤独のうちに創造への道を歩めという。愚衆の「市場」のもろもろの害悪。

 

 

★解説

・この章で、ツァラトゥストラは「わたしの友」に語り掛けている。p109で「わたしの友」は「真理の求愛者」と言い換えられている。

 

・ツァラトゥストラにとって市場は孤独すなわち孤高と対照的なものである。確かに、市場は売る側の人々と買う側の人々がいて初めて成立するはずのものであり、大抵の市場には人が沢山いるだろう。ツァラトゥストラは「わたしの友」に対して「君自身の孤独の中に逃れよ」と呼びかけ、市場から距離を取るよう助言する。

 

・「わたしは見る、君が世の有力者たちの引き起こす喧噪(けんそう)によって聴覚を奪われ、世の小人たちのもつ針に刺されて、責めさいなまれていることを」という一文がp109~110にある。喧噪は「騒がしさ」という意味で、責め苛む(せめさいなむ)は「むごく責め、苦しめる」という意味。君(わたしの友)は、「世の有力者たち」という有害な大物と、「世の小人たち」という有害な小物の両方に苦しめられているとツァラトゥストラは述べている。

 

・p110の「市場のはじまるところ、そこにまた大俳優たちの喧噪と、毒ある蠅どものうなりがはじまる」という一文の「大俳優」はリヒャルト・ワーグナーを念頭に置いている。ワーグナーは楽劇(オペラ)の創始者であり、若き頃のニーチェはワーグナーの熱烈なファンであったが、のちにワーグナーの反ユダヤ主義などを理由に決別している。

 

・「世間では最善のもの(であって)も、演出する者がいなければ、何のたしにもならない。この演出者を民衆は偉大な人物と呼ぶ」と述べ、民衆は真に偉大であるもの(創造する力)への理解が乏しい一方で、規模の大きい演出者や俳優は受け入れると指摘する。確かに、業界や専門家の内部では大して評価されていない学者が世間では何故か持ち上げられているという実例は枚挙にいとまがない。そのような学者は新たな学説を見出したり大発見をしたりするような創造力こそ乏しいものの演出の能力は高いがゆえに世間で持ち上げられている。

 

・ツァラトゥストラによると、市場は道化役者たちによって満たされている。そして道化役者たちは民衆にとって「刻下」の主君である。

 

・刻下(p109):目下、たったいま

 

・「主君」という語句は政治を連想させるが、近代国家でしばしば行われる選挙では大々的なマーケティング戦略が展開される。近代国家において、政治は市場と密接な関係にある。

 

・ツァラトゥストラによれば、道化役者たちに影響を受けた民衆は、「刻下」の主君について「賛(ヤー)」か「否(ナイン)」かを答えさせようと君(わたしの友)に迫る。Ja(ヤー)は英語のYESに相当し、Nein(ナイン)は英語のNOに相当する。ツァラトゥストラは君(わたしの友)に対して、「これらの性急な者たちを避けて、君は君の安全な場所に帰れ。市場においてだけ、人は『賛』か『否』かの問いに襲われるのだ」と助言する。

 

・p110の「市場と名声とを離れたところ」から始まる段落は「1 ツァラトゥストラの序説」におけるツァラトゥストラの境遇を連想させる。

 

・ツァラトゥストラはp110とp113で「蠅たたきになることは君の運命ではない」と告げ、なるべく膨大な数いる「世の小人たち」に構うなと説く。

 

・ツァラトゥストラによると、無数の蠅(世の小人たち)は君に賞賛したり、媚びたり、優しい愛嬌のある顔を見せたりするが、彼らは君のあらゆる徳をとがめて君を罰する。君とは対照的に彼らは創造する力が低いということを、ツァラトゥストラは創造する力を血に喩えて表現している。

 

・<君は柔和で、正しい心を持っているから、「かれらの存在が小さいことは罪過ではない」と言う。しかし、かれらの狭い魂は言う、「大きい存在はすべて罪過である」と。>からは、蠅(世の小人たち)がいかにひねくれているのかが伝わってくる。p113の第一段落で、ツァラトゥストラは君(わたしの友)の偉大さを讃えている。

 

 

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★底本

第一部 p101~106

 

★手塚による要約

超人への道、創造的生をはばむものとして近代国家を痛罵する。その功利性や虚偽など。ビスマルクのドイツ帝国に触発された声。

 

 

★解説

・痛罵(つうば):痛烈に非難する

 

・ツァラトゥストラは国家(より正確に言えば「近代国家」のこと)を「すべての冷ややかな怪物のうち、最も冷ややかなもの」「新しい偶像」「冷血の怪獣」「善い者たちも悪い者たちも、すべての者たちが毒を飲むところ」「善い者たちも悪い者たちも、すべての者たちがおのれを失うところ」などと形容し、「かれ(国家)における一切は贋物(にせもの)である。盗んだ歯で噛みつく、この噛み犬は。その臓腑(内臓)さえ贋物である」と痛罵する。

 

・<国家は冷ややかに「このわたし、国家は、すなわち民族である」と称しているが、これは虚言である。国家は善と悪についてのあらゆる言葉(ことば)を使って嘘をつく>とツァラトゥストラは主張する。ツァラトゥストラによれば、「善と悪についてのあらゆる言葉の混乱」は国家の目印(めじるし)であり、その目印は「死への意志」を示している。なおニーチェは「力への意志」という概念を提唱しており、「35 自己超克」にも「力への意志」(p250)という語句が登場する。「16 千の目標と一つの目標」にも「その民族の力への意志」(p125)という語句がある。

 

・p101~102で、ツァラトゥストラは「従来の民族(国家)」と「(近代)国家」を対比している。前者における「一つの信仰と一つの愛」(p101)と、後者における「一本の剣と百の欲望の餌」(p102)は対句となっている。「創造者たち」(p101)と「殲滅者たち」(p102)も対句となっている。

 

・既にツァラトゥストラは「1 ツァラトゥストラの序説」で「神の死」について言及しているが、この章では「民族の死」(p101)について語っている。

 

・p102の第一段落の「多数者」は、p102の第七段落の「多数の、あまりにも多数の者」を指している。簡潔にいえば「国家のもとで普通の暮らしを送っている国民や庶民」のことだろう。

 

・ニーチェは『反キリスト者』でも民族について論じている。<自信を有している民族は自分たちの神を有している。民族が神を崇拝するのは自分たちの誇りのためである。誇りを有している民族は犠牲を捧げるために神を必要とし、実のところ自分自身に感謝している。こういった神は単純なものではない。人間にとって、有益でもあり有害でもある。善悪に関係なく必要とされ、人間の味方でも人間の敵でもある。本当の神の姿とは、そういうものなのだ。>と『反キリスト者』にあり、「地上にわたし(近代国家)より大きいものはない。わたしは神の指として秩序を与えるのだ」と虚言を吐く近代国家は(既に死んでいる)神の姿をゆがめているとニーチェは考えている。

 

・ツァラトゥストラがこの章で語っている相手は、「11 戦争と戦士」同様に「君たち」である。「君たち」は「大いなる魂の所有者」や「古い神を征服した者たち」とも言い換えられている。ツァラトゥストラによると、国家は君たち(のような優秀な人々)を囮(おとり)にして、あの「多数の、あまりにも多数の者」をおびき寄せようとしている。

 

・p104の「死の馬」は、トロイア戦争における「トロイの木馬」を連想させるメタファーである。

 

・ツァラトゥストラによれば、「多数の、あまりにも多数の者」は余計な者どもであり、発明者たちの諸作品と賢者たちの数々の宝を盗んで、それをわがものとし、その窃盗を教養と名づけている。ツァラトゥストラは「1 ツァラトゥストラの序説」でも教養を否定的に捉えていた。

 

・近代国家や新聞や教養を否定視するツァラトゥストラは「多数の、あまりにも多数の者」が多額の金銭を欲し、玉座を上ろうとしているのを嫌っている。近代国家と強い繋がりのある死の説教者(「10 死の説教者」参照)も痛罵している。

 

・人身御供(p105):「ひとみごくう」と読む。人間が神への生贄(いけにえ)となること。

 

・濛気(p105):「もうき」と読む。もうもうと立ちこめる霧(きり)のこと。「朦気」とも表記される。

 

・p105に「ただ一人の孤独者、ただ二人の孤独者」という言い回しがある。原文では「二人の孤独者」に対してZweisameというニーチェによる造語が用いられているが、ドイツ語で2を表すZweiをもじった造語はp44の「二人して隠れ住んでいる者たち(Zweisiedler)」でも用いられている。

 

・p105の最終段落でツァラトゥストラは「少ない所有に安んじている貧しさを讃えよう」と君たちに訴えている。これは、「1 ツァラトゥストラの序説」の冒頭で独り山に住んでいたツァラトゥストラの境遇を連想させる。多額の金銭を欲する偶像崇拝者(国家崇拝者)と対照的な姿勢である。

 

・最後にツァラトゥストラは「国家が終結するとき、はじめて、余計な人間ではない真の人間がはじまる。そのとき、なくてはならぬ人間のうたう歌がはじまる。一回限りの、まにあわせのきかない歌が。国家が終結するとき、――そのとき、かなたを見よ、わたしの兄弟たちよ。君たちはそこに見ないか、あの虹を、あの超人への橋を。――」と語り、近代国家の終結の先に超人の誕生を展望している。

 

 

 

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★底本

第一部 p96~100

 

★手塚による要約

超人誕生を目ざして絶えず戦わねばならぬこと、そしてその戦士の心的態度を説く。敵を敵として戦うのが、敵を愛するゆえんだ。

 

 

★解説

・この章もツァラトゥストラの独白で構成されている訳だが、最初の段落の文章は主語が「わたし」ではなく「われわれ」となっている。これは、ツァラトゥストラ本人に加えて「9 山上の木」で登場した青年のようにツァラトゥストラの教えを学ぼうとする者も含まれているからであろう。「われわれ」は「わたし(ツァラトゥストラ本人)」と、p99~100にある「わたしと共に戦っている兄弟」のことなのかもしれない。

 

・いたわる(p96):漢字では「労わる」と書く。「弱い立場にある人などに同情の気持ちをもって親切に接する。気を配って大切に世話をする。慰労する」などの意味。

 

・この章で多用されている「君たち」は「われわれの最善の敵」や「われわれが真に愛している者たち」を指しているようだ。ツァラトゥストラは「われわれは君たちに労わられたい訳ではない」と述べている。

 

・先触れ(p97):「さきぶれ」と読む。前触れという意味。

 

・ツァラトゥストラによれば、最高の認識に達した人は「認識の聖者」であり、「君たちは認識の聖者になれないにせよ、認識の戦士であれ」と語る。認識の戦士は認識の聖者の伴侶であり、先触れなのだという。

 

・この章では、「兵卒よりも戦士のほうが良い」や「労働よりも戦闘のほうが良い」という価値観が提示されている。兵卒が「単一型の制服に包まれている者」と表現されていることを踏まえると、兵卒は戦士よりも近代的だと言える。労働も、戦闘と比べれば近代的な名詞である。ニーチェは近代よりも古代のほうに好感を持っていたのかもしれない。

 

・なお、ドイツ語や英語では制服のことをUniformという。Uni-は「単一の」という意味の接頭辞であり、ツァラトゥストラは「単一型」とわざわざ表現することで、制服を着た兵卒の単一性や無個性さを示唆している。

 

・ツァラトゥストラは「君たちは敵を探し求め、自身の思想のために戦わねばならない。そして万一(万が一)君たちの思想が敗北しても、その敗北に対する君たちの誠実さが勝利の声をあげうるようにしなければならない」と説く。これは学問の世界で考えると分かりやすいかもしれない。優れた学者は、自分の学説に否定的な学者と論争することを必ずしも嫌がらない。それどころか、自分の学説が正しくないと分かった場合は素直に誤りを認めるだろう。このように優れた学者は真実に対して誠実である。

 

・ツァラトゥストラは「平和を愛するにしても、君たちはそれを新しい戦いへの手段として愛さねばならぬ。そして長期の平和よりも短期の平和を愛さねばならぬ」と説き、平和を全否定しない一方で平和よりも戦いを重視している。

 

・<君たちは「よい理由は、戦争を神聖にする」と語る。ツァラトゥストラは君たちに「よい戦争は、あらゆる理由を神聖にする」と語る。>という箇所がある。前者は「大義があるか否かによって、戦争は侵略戦争にも自衛戦争にもなる」というような意味なのだろう。後者は「よい戦争は、理由として列挙される事柄を神聖なもの(尊ぶべきもの)にする」というような意味なのだろう。いずれにしても、ツァラトゥストラが良い戦いや良い戦争を肯定しているのは明白である。

 

・ツァラトゥストラは隣人愛を説くキリスト教よりも、戦争と勇気を支持する。今まで危機に陥った者たちを救ったのは君たちの憐れみではなく勇敢さであったとも主張する。

 

・何を「良い」とするのかは人によって意見が分かれるだろうが、ツァラトゥストラは勇敢なことを良いと考えている。ツァラトゥストラによれば、「愛らしく、同時に心に触れるもの」(可憐で、それと同時に感動してしまうようなもの)を良いと考えるのは、小娘たちの発想であるという。

 

・世間一般の価値観では、「憎むべき敵」と「軽蔑すべき敵」はしばしば同じである。だが、ツァラトゥストラにとって両者は大きく異なっており、「君たちは憎むべき敵のみを持ち、軽蔑すべき敵を持つな。君たちは君たちの敵を誇りうるようであれ。そうすれば、君たちの敵の成功は君たちの成功でもある」と説く。

 

・戦士は「我欲す」よりも「汝なすべし」を快く(こころよく)感じるとツァラトゥストラはいう。ビジネスやマーケティングの世界では「マスト(必須)」「ニード(必要)」「ウォント(希望)」という概念があり、「他者の心を動かしたい場合は、マストよりニードを、ニードよりウォントを強調すべきだ」と説かれているようだが、戦士の価値観はこれとは真逆なようだ。

 

・p99の「我欲す」や「汝なすべし」は「2 三様の変化」の「精神が駱駝(らくだ)→獅子(しし)→小児(しょうに)へ変化する」という比喩を連想させる。駱駝は重荷に堪える義務感(「汝なすべし」)、獅子は自由を我が物とすることで新しい諸価値を立てる権利を自らのために獲得する自律性(「われ欲す」)、小児は習俗的世界を離れて自身自身に固有の世界を創り出す精神(「然り」)を表している。

 

・ツァラトゥストラは反抗を奴隷にとっての高貴さと捉え、君たち戦士にとっての高貴さは服従であると説く。「君たちは生についての最高の思想を、わたしから命令として受け取るべきだ――その命令はこうである。人間とは、乗り超えられるべきものである」とツァラトゥストラは語る。

 

・ツァラトゥストラは長く生きることよりも、(この命令に対する)服従と戦いに生きろと君たちに説く。「およそ(そもそも)、労わられることを望む戦士があるだろうか」は、この章の冒頭にある「われわれは君たちに労わられたい訳ではない」を踏まえている。

 

・「人間とは、乗り超えられるべきものである」という超人思想は、「6 喜悦と情熱」でも語られている。このように、ツァラトゥストラは一つの主張を複数の箇所で繰り返し述べていることが多い。

 

 

 

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★底本

第一部 p92~95

 

★手塚による要約

現世の生を軽んじ、死を説く宗教者や厭世主義者たちを生の向上に無用な者だと断定する。また真の生を逃避する勤勉をも指摘する。

 

 

★解説

・ツァラトゥストラは死の説教者を嫌悪する。ツァラトゥストラによれば、大地は不用な者たちに満ちているのだという。

 

・不用(p92):「ふよう」と読む。無用、不要などといった意味。

 

・p92の「生から離脱せよという説教を受けてしかるべき者たち」は「『生から離脱せよという説教』を受けるのが当然な者たち」という意味。このような者たちをツァラトゥストラは「不用な者たち」と表現している。

 

・死の説教者は「黄色い者」や「黒い者」と呼ばれており、これは手塚の解説によれば厭世につながる色とのこと。確かに青空の色や金色などと比べて、胆汁の色である黄色や、「暗黒」というイメージがある黒色は厭世的な色と言えるかもしれない。ツァラトゥストラは「かれらをさらにほかの色で示そう」と語っているが、「ほかの色」というのは暗喩であり、本章で黄色や黒色以外の色が具体的に提示されるという訳ではない。

 

・なお、黄色や黒色というのは古代ギリシャの四体液説を反映している可能性がある。近代に入るまで信じられていた四体液説によると、人体は血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁からなるとされ、どの体液が多いかが個人の性格や体質を左右すると考えられていた。黄胆汁が多い者は「大食で消化機能が亢進しており、やつれて見える」とされ、黒胆汁が多い者は「神経質で口数が少なく自殺傾向がある」とされた。

 

・死の説教者たちのなかには、恐るべき者たちがいるとツァラトゥストラは語り、彼らは人間未満であるともいう。彼らのなかには魂の結核患者がいるとも語っているが、本書が記された当時、結核は不治の病であった。

 

・p93の「死人の眠りを妨げないように」の段落は、「3 徳の講壇」で登場した「眠るために生きるすべを説く賢者」を連想させる。

 

・病者、老者、または死骸に出会うと、かれら(死の説教者)は「生は否定された」とすぐに言うが、ツァラトゥストラからすれば否定されたのはただかれら自身である。生存のただ一つの面をしか見ないかれらの目、それが否定されただけであるとツァラトゥストラは指摘する。

 

・生すなわち生命や人生は「誕生し、成長や老化の後に死を迎えるもの」である。ツァラトゥストラは病気や老化や死を「生存のただ一つの面」と捉えている。

 

・本章からは「死にたい」と「生き続けたくない」の違いなどといったものが伝わってくるように思う。「単に自殺したい」という心理と「積極的に死にたい訳ではないが、生き続けることが辛いので、この辛さから離脱したい」という心理は似ているようで結構ちがっていると言えるのではないだろうか。

 

・「厚い憂鬱の毛皮につつまれて、死をもたらす小さな偶然を、かれらは待ちこがれている、歯を噛みあわせながら」(p93)は「積極的に死にたい訳ではないが、生き続けることが辛いので、この辛さから離脱したい」という心理を巧みに表現しているように感じられる。

 

・藁しべ(p93):「わらしべ」と読む。稲藁の芯や、藁の屑などといった意味。

 

・ツァラトゥストラによれば、死の説教者は生の藁しべにしがみついており、そのことを自嘲している。いずれにせよ、死の説教者は生きることを愚劣と捉えている。

 

・ツァラトゥストラは「生は悩みにすぎぬ」や「肉欲は罪である」や「産むことは労苦である」や「憐れみこそ、必要である」と論じる者を死の説教者と見なし、これらを否定する。生きることを全肯定するのがツァラトゥストラの価値観である。

 

・「生は悩みにすぎぬ」は厭世主義者で、「肉欲は罪である」は生殖と直結するエロスを否定する禁欲主義者で、「産むことは労苦である」は反出生主義者(はんしゅっしょうしゅぎしゃ)で、「憐れみこそ、必要である」はマタイ福音書の「憐れみ深い人々」のように敬虔なキリスト教徒に対応するのだろう。

 

・ツァラトゥストラは「生を激しい労働と激動とみなしている君たちも、実は甚だしく(はなはだしく)生に倦んでいるのではないか」と問いかける。

 

・はなはだしい(p95):甚大(じんだい)である、程度が凄まじいという意味。

 

・ツァラトゥストラは「君たちの勤勉さは生きるということ自体からの逃避であり、自分自身を忘れようとする意志にすぎない」と語り、勤勉さには死の説教者に近づく危険性があると語る。確かに、現代社会で見かけるような仕事人間のことを想像するとき、仕事に没頭するあまり自分の健康や家庭などを顧みない傾向にある。

 

・p95の「もし君たちが、もっと生を信じていたら、君たちはこれほど瞬間に身をゆだねはしないだろうに」は落ち着くことの大事さを説いているのかもしれない。

 

・最終段落の「永遠の生」は新約聖書を揶揄しているようにも感じられる。新約聖書の「ガラテヤの信徒への手紙」に「自分の肉に蒔く者は肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は霊から永遠の生を刈り取るだろう」という記述があるように、新約聖書では「永遠の生(永遠の生命)」というフレーズが複数の箇所で用いられている。

 

 

 

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