★底本

第一部 p86~91

 

★手塚による要約

高みを目ざす一青年を山上の木にたとえ、電光に打たれる危険に面しながら、その志を失うなと説く。妬みに関する高貴な心理学の章。

 

 

★解説

・ツァラトゥストラは「2 三様の変化」の頃から「まだら牛」という都市にいたが、本章では「まだら牛」を囲む山々のなかにいる。

 

・その山々でツァラトゥストラは一人の青年と会う。青年はツァラトゥストラのことを知ってから、ツァラトゥストラに強い影響を受けている。

 

・揺すぶる(p86):「ゆすぶる」と読み、「ゆさぶる」と似たような意味の動詞。

 

・いよいよ(p87):ますます。より一層。まさしく。ついに。

 

・青年は山上の木に寄りかかるように座っており、疲れたまなざしで谷を見ている。疲労がたまっている様子の青年に対し、ツァラトゥストラは木と人間のアナロジーを語る。

 

・アナロジーその一。「木を両手でゆすぶってみたところで簡単に曲がるとは限らない。だが、我々の目に見えない風は木を苦しめ、大いに曲げてゆく。このように我々は目に見えない手によって最も甚だしく曲げられ、苦しめられるものだ」とツァラトゥストラは述べる。手塚の脚注によると、「目に見えない手」は無意識な不満、欲望、人に言えない嫉妬などのことである。

 

・アナロジーその二。「木は高いほうへ(周囲の木によって光が遮られず)明るいほうへ伸びていくほど、その根はいよいよ強い力で、地へ下へ暗黒へ深みへ悪のなかへ向かっていく。人間も同様だ」とツァラトゥストラは述べる。

 

・木と人間のアナロジーを聴いた青年は「そうだ、悪のなかへ」と叫び、「どうしてあなたはわたしの魂を見抜くことができたのか」と尋ねる。

 

・ツァラトゥストラは微笑し「魂はそうたやすく見抜けるものではない。見抜くことができるのは、見抜くほうでまずそういう魂を創り出しているからだ」と答える。手塚の脚注を踏まえるならば、「見抜く側の者をAとし、見抜かれる側の者をBとするならば、Bが有している心理と同様の心理をAが持っているから、AはBのその心理を見抜ける」ということなのだろう。

 

・p87で青年はツァラトゥストラに自分の今の状態を語っているが、口調がツァラトゥストラに似ている感じがする。

 

・おののかせる(p87):動詞「おののく」と助動詞「せる」からなるフレーズ。動詞「おののく」は恐ろしさ・寒さ・興奮などのために全身や手足が震えるという意味。

 

・喘ぎ(p88):せわしく(落ち着きがなく)苦しそうに呼吸すること。重圧や貧困などに苦しみ悩むこと。

 

・「わたしの成長とわたしの憧れとは、同時に成長する。わたしが高くのぼればのぼるほど、わたしはのぼってゆくそのわたしを軽蔑する」と青年は苦悩を漏らす。それに対して、ツァラトゥストラは木に目をやりながら「この木はこの山上に孤独者として立っている。これは人間と動物とを越えて、高く生い立った(おいたった)のだ。もしこれが語ろうとしても、これを理解する相手は一人もいまい。それほど高くこれは生長したのだ」と語る。

 

・青年は激しい身ぶりとともに「そうだ、ツァラトゥストラ。あなたは真実を語った。高みにのぼろうとしたとき、わたしはわたしの没落を求めていたのだ。そしてあなたは、わたしが待っていた電光なのだ。見よ、あなたがわたしらの前に現れてからは、わたしは何者であるのだろう。わたしを砕いたのは、あなたにたいする妬みなのだ」と泣き叫ぶ。

 

・ツァラトゥストラは青年をかかえて、共にその場(山上の木がある場所)を離れる。

 

・p89の途中からツァラトゥストラの独白が括弧ではなく地の文で記されている。これは「3 徳の講壇」から「8 読むことと書くこと」までと同様である。

 

・p89に「星の世界」とあるが、これは「1 ツァラトゥストラの序説」でツァラトゥストラが述べていた天上界のことであろう。

 

・p89の「かれの目はいっそう清らかにならねばならぬ」は「1 ツァラトゥストラの序説」で老隠者が「そうだ、これはツァラトゥストラだ、その目は澄んでいる」と述べていたことと関連している。

 

・p90に「善良な人々」とあるが、これはキリスト教の「善き」という形容詞の連体形を連想させる。英語であれば小文字のgoodではなく大文字のGoodが対応するようにも感じられる。

 

・ツァラトゥストラは「君は自分が高貴なことを今も感じている」と指摘する。そして「青年に悪意のまなざしを向ける者」や「青年の周りにいる善良な人々」にとって、高貴な者は妨害物すなわち「邪魔なもの」であると説く。これは新たな価値観を社会に提示する創造的な人間は、その新たな価値観を求めていない世間からすれば無駄であり邪魔に感じられるということを示唆しているのではないだろうか。

 

・ツァラトゥストラは「高貴な者」と「善い人といわれる者」の対比を説いている。ツァラトゥストラによれば、高貴な者は、習俗を破る新しいもの、新しい徳を想像しようとする一方で、善い人といわれる者は古いものを愛し、古いものが維持されることを望んでいる。青年とツァラトゥストラは本章で「悪のなかへ」というキーワードを口にしており、悪と善の対比が強調されている。

 

・高貴な者が鉄面皮な者や冷笑する者や否定する者に変節するケースもあるとツァラトゥストラは述べる。冷笑主義は英語でcynicismというが、この英単語はギリシア哲学のキュニコス派に由来する。キュニコス派は犬儒派とも呼ばれ、犬のような生き方を肯定し、社会生活に対する嘲笑や風刺をしばしば行った。p89の犬はキュニコス派と関連しているのかもしれない。

 

・ツァラトゥストラは青年に対して「わたしは君の危険を知っている。しかし、わたしの愛と希望にかけて、君に対して、君の愛と希望を投げ捨てるなと願う。君の最高の希望を神聖視せよ」と訴える。

 

 

 

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★底本

第一部 p81~85

 

★手塚による要約

ニーチェの自己告白をふくめて、著述における箴言的表現が推賞され、軽快で飛翔的なこと、重々しさにたいする笑いが説かれる。

 

 

★解説

・本章の冒頭部では血が取り上げられている。血はキリスト教で頻出の概念であると共に、ツァラトゥストラが重視する肉体の生を維持する重要な体液でもある。

 

・ツァラトゥストラは「読書する怠け者」を憎んでいる。手塚の脚注によると、これは「形は読書しているが、精神に何の能動性もない者」を指しているのだという。

 

・そらんじる(p81):暗唱する。「諳んじる」と漢字表記される動詞。

 

・ツァラトゥストラは血と寸鉄の言で書かれたものだけを愛するが、血と寸鉄の言で書く者は読まれることではなく諳んじられることを欲していると説く。ツァラトゥストラにとって、この血は精神そのものである。

 

・「読むな、諳んじろ」と説くツァラトゥストラは、「考えるな、感じろ」という台詞で知られる俳優ブルース・リーと雰囲気が似ているのかもしれない。

 

・p81の第3~5段落で、ツァラトゥストラは万人が読むようになること(万人が読者となること)は人間の精神を腐敗させてゆくと主張する。「読者とはどんなものかを知っている者は、読者のためにはもはや何事もしないだろう」という箇所は、「読者とはどんなものかを知っている者は、(世間一般の)読者に諦観・失望をしている」という意味なのだろうか。

 

・妖魔(p82):化け物、妖怪、魔物などのこと。

 

・本章の題は「読むことと書くこと」だが、ツァラトゥストラが「読むことと書くこと」について語っている箇所はp81~82の範囲に留まっており、p83~84では「重々しさへの笑い」や「重荷に耐える驢馬と軽快なもの(蝶やシャボン玉など)」などが語られている。

 

・ニーチェは「山に住んでいたツァラトゥストラが下山して多数の民衆が集まる市街地へ行くこと」を没落と表現している。このように、ニーチェは位置的な高低を価値の高低に結びつける傾向がある。p82では、その傾向が強く現れている。

 

・「その勇気は呵々大笑したいのだ」(p82)は「その勇気を呵々大笑したいのだ」でないことに注意。「その勇気を呵々大笑したいのだ」と読み間違えてしまうと「ツァラトゥストラはその勇気を呵々大笑したいのだ」という意味になってしまう。呵々は「かか」と読み、「大声で笑う様子」を意味する漢語。

 

・知恵は人間に対して「戦士であれ」と要求する。そう要求するのは日々を生きるためである。

 

・おしなべて(p83):概して。

 

・人間にとって生きることは重荷だが、ツァラトゥストラは重荷であることを辛く感じている人間に対して「そのようにかよわいさまを示すことはやめてくれ」と訴える。だが、これはツァラトゥストラが「われわれはおしなべて、荷を担う力のある、愛すべき雌雄の驢馬なのだ」と考えているからである。

 

・ツァラトゥストラは「一滴の露をのせているためにふるえているばらのつぼみ」と我々は違うと語っている。「人間には生きるという重荷を乗り越えていく力がある」と考えており、「生きるという重荷を辛く感じている人間」のことを励ましている。

 

・「まことに、われわれが生きることを愛するのは、生きることに慣れているからではない。愛することに慣れているからだ。愛というもののなかには、常にいくぶんの狂気があるが、狂気のなかには常にまたいくぶんの理性があるものだ。だから、わたしにも(わたしは生きることをたいせつに思っているのだから)、蝶やシャボン玉や、また人間のなかでそれらに似かよっている者たちが、幸福について最もよく知っているものであるように思えてくるのだ」(p83)に対して手塚は脚注で「人間は、自分がかかわりあうものは、いやなものでも、多かれ少なかれ愛するようになるものである。だから、つらい生をも愛するようになる」と補足している。

 

・そして手塚は「ツァラトゥストラは、ついさっき驢馬という重苦しい題材の暗喩を用いていたのに、今度は『蝶やシャボン玉や、また人間のなかでそれらに似かよっている者たちのほうが幸福を最もよく知っている』と語っている。重苦しい題材の直後に軽快な題材を提示しており、思想の運びに乱れがある」と脚注で主張している。だが、「蝶やシャボン玉や、また人間のなかでそれらに似かよっている者たち」はあくまで軽快さを表現するための暗喩に過ぎず、「重荷に耐える驢馬」という暗喩の直後に「軽快なもの」を指す暗喩を用いているというだけでは「思想の運びに乱れがある」とは言えない印象を受ける。

 

・手塚は脚注で「蝶やシャボン玉や、また人間のなかでそれらに似かよっている者たち」を「軽快で儚い生き方(はかない生き方)をするもの」と解釈しているが、本章でツァラトゥストラは「儚い」という形容詞を全く用いていない。p83~84におけるツァラトゥストラの主張を「人間にとって生きることは重荷だが、人間は驢馬のように重荷を乗り越えていく力を有している。生きる重荷を乗り越えた超人は軽快で踊りを愛好している。人間たちよ、重さの霊を笑いによって殺すことで軽快になっていこう」などと要約するならば、思想の運びに乱れがあるどころか、思想の運びに一貫性があるとすら感じられるのではないだろうか。

 

・「重さの霊」は「まじめで深淵でおごそかなもの」を指す暗喩であり、ツァラトゥストラは「重さの霊」を「わたしの悪魔」と呼んでいる。

 

・ツァラトゥストラは「わたしが神を信ずるなら、踊ることを知っている神だけを信ずるだろう」と語っているが、「ツァラトゥストラの序説」の★2 (p14~18)でも老翁が「今のツァラトゥストラは舞踏者のようだ」と指摘する描写がある。

 

・本章の最後に「いまわたしは軽い。いまわたしは飛ぶ。いまわたしはわたし自身をわたしの下に見る。いまわたしを通じて一人の神が舞い踊っている」とツァラトゥストラは語っている。

 

・手塚の訳文は漢字表記と平仮名表記の使い分けが読みづらく感じられる。「いまわたしは軽い。いまわたしは飛ぶ。いまわたしはわたし自身をわたしの下に見る。いまわたしを通じて一人の神が舞い踊っている」は「いま私は軽い。いま私は飛ぶ。いま私は私自身を私の下に見る。いま私を通じて一人の神が舞い踊っている」とするほうが読みやすいのではないか。

 

・また、驢馬のように難易度の高い漢字表記を行っているのだから「一滴の露をのせているためにふるえているばらのつぼみ」も「一滴の露をのせているために震えている薔薇の蕾」と表記したほうが良かったようにも感じられる。

 

 

 

 

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★底本

第一部 p75~80

 

★手塚による要約

超人を目ざす生の立場から、犯罪者を位置づける。それは、生の弱者、病者ではあるが、破滅に飛びこむ狂気、情熱はもっていた。

 

 

★解説

・ツァラトゥストラは本章で法官と青白い犯罪者の構図を比喩に用いて持論を展開している。ニーチェの犯罪観が窺える章となっている。

 

・ニーチェの感覚において、犯罪者が法官に対して頷く行為は、犯罪者が自分に疑いがかかっている罪を認めることを意味するらしい。本章に登場する青白い犯罪者は「自分自身の存在に苦しんでいる者」のことだが、ツァラトゥストラによると彼らは速やかな死以外に救い(救済)がないとのこと。

 

・法官(p75):司法の役人。裁判官。

 

・世間では、法官(裁判官や死刑執行人と言える刑務官)が「死刑判決を受けた犯罪者」を処刑する目的は被害者のための復讐だと捉えられることが多い。これは応報刑論の系譜に沿った考え方だが、ツァラトゥストラは「君たち、法官よ。君たちが犯罪者を殺すのは、同情からであるべきで、復讐からであるべきでない。そして殺すことによって、君たち自身、君たちの生の根拠を得るよう、心がけよ」と応報刑論を否定する。

 

・「死刑によって君たちが殺す者と和解するだけでは十分でない。そのときの君たちの悲哀をして、超人への愛たらしめよ」(p76)は「青白い犯罪者(君たちが殺す者)は自身のことを侮蔑しており、そのことを告白しているが、青白い犯罪者を死刑に処すことによって青ざめた犯罪者と和解するだけでは不十分だ。そうするだけではなく、更に、そのときの君たちの悲哀を超人への愛とせよ」という意味。

 

・p76の第三段落で「赤色の法衣」とあるが、法衣とは「法曹関係者や裁判所職員が法廷で着用する制服」を指す。日本や米国では黒色のものが多いが、ニーチェが生まれ育ったドイツ地域では赤色のものが多い。

 

・表象(p76):象徴。象徴的に表すこと。哲学・心理学では、直観的に心に思い浮かべられる外的対象像という意味。抽象的な事象を表す概念や理念とは異なり、知覚的かつ具象的な事象を表す名詞。

 

・犯罪者といっても殺人などの重罪もあれば、小さい額の罰金刑などのように軽微な犯罪もある。ツァラトゥストラが取り上げている犯罪者は重罪のほうである。

 

・「雌鶏(めんどり)のまわりに白墨(チョーク)で線を描けば雌鶏は呪縛されて動くことができない」というのはChicken hypnotismという現象を指している。Chicken hypnotismは17世紀の時点で既に発見されていた現象で、ドイツの学者アタナシウス・キルヒャーも報告している。

 

・ツァラトゥストラによれば、殺人などの重罪を犯し、死刑判決を受けることとなった犯罪者たちには「行為ののちの狂気」と「行為のまえの狂気」とがある。法官たちは彼ら犯罪者が殺人、強盗、(違法な手段による)復讐行為に走ったのは、「あいつを殺してやりたかったから」「物欲を満たしたかったから」「あいつが憎くて復讐したかったから」と捉えるし、彼らの大半もそれらを犯行動機として挙げる傾向にある。だが、ツァラトゥストラによると、彼らは自分自身の存在に苦しんでいるがゆえに(「自分自身の肉体からの悩み」や「生の意欲に関わる不満」を解消しようとして)犯罪に走ったのだという。

 

・匕首(あいくち):鍔 (つば) のない短刀。(p77やp78に登場)

 

・p77に「鉛のように重い」という直喩が登場しているが、このフレーズはゲルマン系の言語で見られる常套句。英語でもas heavy as leadというフレーズがある。英文学の知識に富んでいた夏目漱石も『こころ』で「空はまだ冷たい鉛のように重く見えた」と書いている。

 

・「かつては懐疑が悪であり」から「他をも悩ませようとしたのである」の段落はキリスト教の価値観が強く信じられていた時代のことを述べている。「本来のおのれ」は前章「5 肉体の軽蔑者」にて既出の用語。キリスト教で正統派とされた勢力が異端者や魔女を弾圧したのは有名な話である。

 

・「君らの善い人々」は世間で善良とされる人々であり、青白い人々はそれらの人々とは真逆の存在である。だが、ツァラトゥストラは「君らの善い人々が、あの青白い犯罪者のように、おのれの破滅のもととなりうるような狂気をもっていたならばよかろうのに」と嘆く。ただ長生きするため、しかもみじめな安逸のうちに生きようとするために徳をもっている「善い人々」よりも、ツァラトゥストラは狂気をベターと考えている。

 

・最後にツァラトゥストラは「わたしは奔流(ほんりゅう)のほとりに立つ欄干(らんかん)である。わたしをつかむことのできる者は、わたしをつかめ。だが、わたしは君らの松葉杖(まつばづえ)ではない」と結んでいる。

 

・奔流(ほんりゅう):勢いの激しい流れ

 

・欄干(らんかん):落下を防ぐための手すり

 

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★底本

第一部 p71~75

 

★手塚による要約

真の徳は個性的な刻印をもち、情熱の泉から生まれ、それゆえにそれは喜悦となる。世間的な徳と違って破滅をも招く強烈なものだ。

 

 

★解説

・冒頭の「わたしの兄弟」とは、ツァラトゥストラの教えに耳を傾ける仲間のこと。

 

・「君(わたしの兄弟)がもし一つの徳を持っていて、それが自分自身の徳であるなら、自分以外の者と共有しないだろう」とツァラトゥストラは語る。そして「いうまでもなく君はその徳に名をつけて呼び、愛撫したいと思うだろう」と語る。

 

・だが、ツァラトゥストラによると、その徳に名前をつけ愛でる(なでなでする)行為をした瞬間、その徳の名前を民衆と共有し、そのうえ君自身もその徳をもったまま民衆や畜群になってしまうという。その徳は「自分自身の魂の痛みと楽しみをなすもの」「自分の内臓の飢え」「地上の徳」「なれなれしく名で呼ばれるには余りにも高すぎる(高貴すぎる)もの」であるべきだと説く。

 

・「地上の徳」であるということは、「天上の楽園(=大地を超えた世界)への道しるべ」とは真逆の存在であることを意味する。地上の徳は世間知が含まれていることが少なく、万人共通の理性が含まれていることはもっと少ないともツァラトゥストラは説く。

 

・ツァラトゥストラは地上の徳を鳥に喩え、「その鳥がわたしのところに巣を作り、わたしはその巣を胸に抱いている。今それ(その鳥)はわたしの胸に金の卵をあたためている」と表現する。

 

・わたしの兄弟はかつて様々な情熱をもち、それを悪と呼んだが、地上の徳はその情熱から生まれたものなので、悪ではなく徳と公言してよいとツァラトゥストラは説く。徳と悪は対義語の関係にあると読める。

 

・キリスト教全盛の時代であれば悪とされた情熱をツァラトゥストラは「君は君自身の最高の目的を情熱に刻みつけた。それによってその情熱が君の徳なり喜悦となったのだ」と肯定する。p73では「猛犬→小鳥→愛らしい歌姫」「君の毒→君の香油(バルザム)」「憂愁という牝牛から甘い乳を搾り、それを吸っている」などという暗喩が登場するが、これらの暗喩は「ツァラトゥストラの序説」p13の「蜜蜂」のメタファーに似た雰囲気を感じされる。

 

・君自身の徳がただ一つなら君は幸運児だが、二つ以上あると葛藤や嫉妬や不信や誹謗が起こると説く。「人間は乗り超えられねばならぬものである。それゆえに君は君の徳を愛さなければならぬ。なぜなら、それらの徳は君を破滅させうるのだから」と最後に述べているが、ツァラトゥストラにとって破滅は必ずしも避けねばならぬことではないらしい。

 

・二つ以上あると葛藤や嫉妬や不信や誹謗が起こって自分自身の破滅に繋がりうるのであれば一つのほうが望ましいという主張になってもおかしくないが、ツァラトゥストラは「それゆえに君は君の徳を愛さなければならぬ」という逆説を展開している。「ツァラトゥストラの序説」★5 (p29~33)で示されているように「幸運や幸せをただただ追求する価値観」は末人に多くみられるもので、超人の価値観とは相容れないものがある。

 

 

 

 

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★底本

第一部 p66~70

 

★手塚による要約

魂だけを強調して肉体を軽視する彼岸的・宗教的態度を責め、肉体の根本的意義を明らかにする。精神活動はその派生物なのである。

 

 

★解説

・ツァラトゥストラは肉体の軽蔑者を学びなおさせたり、肉体を軽視する価値観を変えさせたりしようとは思っていない。ただ、ツァラトゥストラは肉体の軽蔑者が沈黙し、最終的には死滅していくことを望んでいる。肉体の軽蔑者の死滅を望む描写は、「ツァラトゥストラの序説」の「滅びゆくかれら(天上の希望を説く人々)を滅びるにまかしておくがいい」と対応している。

 

・「ツァラトゥストラの序説」で綱渡り人を見ていた群衆に語り掛けていた頃のツァラトゥストラであれば、肉体の軽蔑者を学びなおさせたり、肉体を軽視する価値観を変えさせたりすることを望んでいたかもしれない。だが、「ツァラトゥストラの序説」(p42~46)で一つの真理を見た後のツァラトゥストラは、もはや肉体の軽蔑者に見切りをつけているのか、肉体の軽蔑者が沈黙し、最終的には死滅していくことを望む境地に達している。

 

・ツァラトゥストラによれば、幼子の肉体と精神は一体となっている。この考えを更に進めてツァラトゥストラは「自分は全的に肉体であって、ほかの何ものでもない。そして魂とは、肉体のあるものを言い表すことばにすぎない」「肉体は大きい理性である」と述べている。一人の肉体の内部において脳や神経は思考を司っているが、「肉体のあるもの」とは脳や神経などを指しているのかもしれない。もしくは後述の「本来のおのれ」なのかもしれない。

 

・<君が「精神」と名づけている君の小さい理性も、君の肉体の道具なのだ。君の大きい理性の小さい道具であり、玩具である>という箇所は肉体のほうが理性よりも上位にあるというツァラトゥストラの考えを示している。大地なくして人間が生存できないように、肉体なくして理性は存在できない。

 

・p67の第五段落でツァラトゥストラは自意識と無意識に関する持論を展開している。

 

・p67の最終段落に<だが、感覚と精神は、道具であり、玩具なのだ。それらの背後になお「本来のおのれ」がある。>という一文があり、筆者は「それらの『背後』とあるが、ツァラトゥストラは、前章『4 背面世界論者』で世界の背後に神や原理を仮定して現実逃避する背面世界論者を否定したのに、感覚と精神には(神や)原理を仮定している」と感じた。ツァラトゥストラは背面世界論者のように現実逃避している訳ではないということなのだろう。

 

・ツァラトゥストラによれば、「本来のおのれ」は人の思想と感受の背後に存在している。ツァラトゥストラは「本来のおのれ」を「(人の肉体の中に住んでいる)一個の強力な支配者」や「(人の肉体の中に住んでいる)知られない賢者」と喩えている。手塚の訳では「一人の強力な支配者」ではなく「一個の強力な支配者」(p68)となっている。

 

・p68では、「本来のおのれ」が「我」に苦痛を命じたときのケースと、「本来のおのれ」が「我」に快楽を命じたときのケースが対比的に示されている。この二つのケースを通してツァラトゥストラは、「本来のおのれ」がいかに自意識に対して作用しているのかを説明している。

 

・ツァラトゥストラによれば、肉体の中にある「本来のおのれ」は「本来のおのれ」自身のために精神を創造した。つまり、人の精神の中にある敬意・軽侮・快楽・苦痛は「本来のおのれ」が創造したものだとツァラトゥストラは主張している。

 

・つまり、肉体の軽蔑者は肉体を軽蔑するという愚行に及んでいるが、その軽蔑や、その愚行においても、肉体の軽蔑者は彼ら自身の「本来のおのれ」に仕えている。

 

・ツァラトゥストラによれば、「本来のおのれ」はおのれ自身を超えて創造することを最も強く欲するが、肉体の軽蔑者にとっての「本来のおのれ」は「おのれ自身を超えて創造すること」を実行する能力がなくなっている。それゆえ、肉体の軽蔑者にとっての「本来のおのれ」は死ぬことを欲し、生に背を向けている。

 

・p69の第五段落に「だが、それを実行するには今はもう時が遅い」とあるが、これは「ツァラトゥストラの序説」でツァラトゥストラが「超人を志向しない末人の世界が来れば、人類の可能性は消えていってしまう」と警鐘を鳴らしていたことを想起させる。

 

・p70「ながし目」:顔を向けずに、ひとみだけを横に動かして見ること。また、その目つき。よこめ。

 

・ツァラトゥストラは肉体の軽蔑者に「君たちはもう手遅れだ。わたしは君たちの道を行かない。君たちは、わたしにとって超人への橋ではない」と宣告する。「超人への橋ではない」の「橋」は「ツァラトゥストラの序説」で登場した「一つの橋」(p24)に対応している。

 

 

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★底本

第一部 p58~65

 

★手塚による要約

世界の背面・背後に神や原理を仮定して現実逃避する背面世界論者(宗教者や形而上学者)の動機を突き、大地への忠実を説く。

 

 

★解説

・本章最初の段落は主語の人称がやや特殊である。前文が「かつてはツァラトゥストラも…」と3人称となっているにも拘らず、後文が「そのとき、わたしには…」と1人称になっている。

 

・ツァラトゥストラは一時期ショーペンハウアー哲学に傾倒していたようだ。当時のツァラトゥストラにとって、この世界は「不満な心的存在者の眼前に漂う多彩な煙」に見えた。ショーペンハウアー哲学が厭世主義であるのに対し、自ら俗世へ向かっていったツァラトゥストラは厭世主義の枠を超えているともいえる。

 

・創造者(p59)はキリスト教では三位一体の神を指すが、ここでは自分自身から目をそらそうとする目的でこの世界を捉えようとする人間のことを指す。

 

・この世界の象徴として「善と悪」「快と苦」「我と汝(主観と客観)」という対比が用いられている。p59の「苦悩する存在者」は若き頃のツァラトゥストラのことだと読み取れる。p59で「陶酔」というキーワードが頻出するのは、ニーチェが若い頃「ディオニソス的」「アポロン的」という対立概念に着目していたことと関連している。(詳細は『悲劇の誕生』を参照。)

 

・ツァラトゥストラは神々などというものは人間の製作品・妄念に過ぎなかったと語る。p60の「我」は前頁の「主観」のことを指す。「わたし自身の灰」とはp15の記述に対応する。「妖怪」は「自分の妄念が生み出した神」のことだろう。

 

・p60の第一・第二・第三段落を要約する。過去の生活に絶望したツァラトゥストラは30歳のときに故郷を捨て、山で暮らすようになる。本書で使われている隠喩を援用するならば、山を登っていくにあたってツァラトゥストラは過去の生活を火葬し、残った灰を山へ運んで行った。その灰から妖怪が現れた。それは神であった。神が彼岸(背面世界)からではなく、過去の自分の殘滓から現れてきたのを見て、ツァラトゥストラは「神なんて自分の妄念が生み出したものでしかない」と気づく。ツァラトゥストラは当初そのことに苦悩するが、自分の外に表象的な物(芸術作品など)をつくることで苦悩を紛らわせようとするのではなく、自分自身に打ち克ち、強い創造の意欲の道をとることで苦悩を解消した。快癒した今のツァラトゥストラにとって、妖怪を信じる行為は呵責・屈辱ですらある。

 

・ツァラトゥストラによれば、背面世界(と神々)を創り出したのは「苦悩と無能(さ)」「(最も苦悩する者だけが経験する)あのつかのまの幸福の妄想(宗教的な陶酔など)」「ひと飛びで、決死の跳躍で、究極的なものに到達しようと望む疲労感(脚注:疲労から辛抱強く進む気力を失い、一気に解決をはかり、究極のよりどころに飛びこもうとする)」「もはや意欲することをさえ意欲しない疲労感」であるとのこと。

 

・脚注も参考にしてp60の第六段落を要約するならば、現世の我々の肉体に絶望したのは我々の精神ではなく、我々の肉体であるということになる。手塚の脚注(p65)では「果ての壁」は「われわれが自力でたどりついたような究極的なよりどころ」と解釈されているが、「肉体」や「腹」(p61)との関連から体壁(body wall)のことだと考えることもできる。

 

・p61でツァラトゥストラは存在論を取り上げている。存在論は哲学において古くて新しい議論である。ツァラトゥストラは「まことに、あらゆる存在は証明しがたく、語らせがたい」と述べるが、これは脚注では「存在の問題は、けっきょく人知ではつかめない」と説明されている。個人的には、この一文は「即物的な存在(例、食器や太陽や、自分の住所付近にある自動車などが存在していること)にせよ、抽象度の高い存在(例、国家や倫理や文化などが存在していること)にせよ、我々は或る対象が存在していることを認識して生きているし、日常生活を送るにあたって、それらの存在を疑っていない。しかし、それらの存在を厳密に証明するのは難しく、それらの存在に何かを語らせることも困難を極める」という意味だと感じられる。

 

・ツァラトゥストラの展開する存在論を読み、筆者はデカルトの「我思う、故に我在り」を連想した。デカルトが『方法序説』で主張したのは、「この世の全ての事物の存在を疑ったとしても、それを疑っている自分自身の存在だけは疑い得ない」ということである。この点において論理展開が似ている。

 

・p61の最終段落でツァラトゥストラは「この我は、いよいよいつわりなく語ることを習得しつつある。そしていつわりなく語ることを習得すればするほど、いよいよ肉体と大地とをたたえ、敬うのである。」と述べ、超人としての教えを強調している。

 

・p62の第一段落でツァラトゥストラは一つの新しい誇りを説く。それは、頭を彼岸的な世界の砂に突っ込むのではなく一切の束縛を脱して頭を昂然ともたげる(自信に満ちて誇らしげに持ち上げる)ことである。

 

・第二段落でツァラトゥストラは一つの新しい意志を説く。それは、盲目的に人間が歩いてきたこの地上の道を自覚的に意欲することである。そして、その道を是認し、病人や瀕死の者たちのように、もはやその道から抜け出そうとしないことである。

 

・第四段落にある「血の飲み物」はワインを神の血とする信仰を指しているのだろう。

 

・p62~63にある「忘恩」とは、肉体と大地への恩を忘れるという意味である。

 

・p62~63で述べているようにツァラトゥストラは病める者や快癒しつつある者を全否定してはいない。

 

・哲学者カントの用語「物自体」は「不可知だが確実に存在する究極的な本質」という意味。「現在における神の類似者たち」すなわち背面世界論者の物自体(本質)ですら彼ら自身の肉体なのだから、いわんや「ツァラトゥストラが理想とする人類」は大地の意義について語る健康な肉体の声を聴くべきだとツァラトゥストラは述べている。

 

・つまり、ツァラトゥストラは「神の類似者たちですら自身らの肉体を信じている」と主張している。ただし、彼らの肉体は病んでいる(p64)。ツァラトゥストラは「健康な肉体の声を聞け」と説き、大地の意義について語る健康な肉体を強調した。

 

 

 

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★底本

第一部 p53~58

 

★手塚による要約

前章で説いた創造の道に対比して世俗的道徳にひそむ功利的精神を戯画的にえぐる。つまり、それは眠るために生きる精神である。

 

 

★解説

・この章(「徳の講壇」という章)は第一段落にツァラトゥストラが置かれている状況の説明があり、それ以降は一人の賢者の発言と、それに対するツァラトゥストラの見解(心中文)が配置された構成となっている。そして最終段落には「ツァラトゥストラはこう語った。」という一文がある。

 

・「まだら牛」という都市に滞在しているツァラトゥストラは或る賢者の存在と彼の名声の高さを聞く。彼は眠りと徳を青年に説くことが巧みな様子。ツァラトゥストラは彼の講義を聞きに行く。「まだら牛」という都市では、全ての青年が彼の講義を聞くために講堂へ集まっている。

 

・手塚の要約に「世俗的道徳にひそむ功利的精神」とあるが、賢者が説く世俗的道徳とは対照的に、ツァラトゥストラの一連の行為(自分の知恵を人類に広めるために下山し、民衆へ語り掛けていくなどといった行為)は、功利的でも打算的でもない。

 

・21世紀の日本で喩えるのならば、この賢者は「こんな生き方をすれば貴方は勝ち組となって高収入を狙える!」などと謳う自己啓発系のインフルエンサーに近いのかもしれない。近代社会において宗教や土着の信仰への依存が希薄化した人々は「どのような人生を送るべきなのか」という不安に駆られるようになった。

 

・賢者の教えを幾らか抜粋する。

「十度、おまえは昼のあいだに笑って、快活を保っていなければならぬ。そうしないと夜になって、憂愁の父である胃が、おまえを乱すだろう」

「神、そして隣人と平和を保て。よい眠りはそれを要求する。そして隣人のうちにひそむ悪魔とさえも平和を保て。さもないと、その悪魔は夜な夜なおまえのほとりに出没して、おまえを煩わすことだろう」

「官庁を敬って服従するを忘れるな。たとえゆがんだ官庁でも。よい眠りはそのことを要求する。権力は好んでねじけた歩き方をするが、それをわたしがどうすることができようか」

 

・これらの抜粋から分かるのは、賢者の教えは「或る行為をするよう心掛けよ。そうすれば君はこういったメリットorデメリットを享受or回避できる」といったテンプレートが多いということである。これはまさしく、手塚の言う「世俗的道徳にひそむ功利的精神」そのものであろう。「世俗的道徳」という名の「処世術」とさえ言えるのかもしれない。

 

・賢者は徳(手塚は独立心や従順などを具体例として想定している)を「しとやかな女性」と喩えている。「しとやか(淑やか)」は「慎み深い」という意味の形容動詞である。

 

・「おまえを奪いあう、そのいがみあいがはじまったら、そのときのおまえの不幸は目に見えている」という一文は、「慎み深さの欠片も無いような気性の荒い女性がおまえ(賢者は講義を聴いている青年を念頭に置いている)という一人の男性をめぐって、いがみ合うのなら兎も角、慎み深い女性が一人の男性を奪い合うという状況は嘆かわしく、おまえにとって不幸である」という意味であろう。

 

・「官庁を敬って服従するを忘れるな。たとえゆがんだ官庁でも。よい眠りはそのことを要求する。権力は好んでねじけた歩き方をするが、それをわたしがどうすることができようか」という件(くだり)は、「権力者・権力機関はしばしば歪むが、個人の力では権力に抗い切ることは出来ない。だから権力が仮に歪んでいたとしても権力に従っておくのが良い」という発想が根底にある。

 

・この発想は、個人レベルでは妥当な場合が多い。たとえば国政選挙などのように有権者数が膨大な選挙では、自分一人が投じた一票は誤差の範囲内となってしまう可能性が高いだろう。(ただし、有権者数がそこまで多くない選挙においては数票差、数十票差で当落が決まることも珍しくはない。)一人の庶民が政治活動を行ったとしても、その政治活動が実現する保証はどこにもないし、そもそも言論活動・政治活動に大きな制限のある独裁国家の場合は、権力に批判的・懐疑的な態度を取っただけで弾圧されるリスクも生じてくる。普通に考えれば、権力者・権力機関に弾圧されたがっている人は居ない。

 

・官庁に敬うことを説いた後、賢者は「羊の群れ」「最良の牧人」という隠喩を展開する。この隠喩は「畜群」「イエス・キリストと牧人の関連性」などを想起させるが、脚注によれば快適な生活が出来るようにしてくれる政府などを褒めたたえているとのこと。

 

・賢者は、ほどほどの名誉と財宝(資産)を理想とし、そして適度な範囲での社交を理想とする。ほどほどの名誉と財宝(資産)を理想とする姿勢(p55)は「彼ら(末人)はもう貧しくなることも、富むこともない」(p31)を彷彿させ、「憂愁の父である胃」(p54)は「そうしなければ胃をそこなう」(p32)を彷彿させる。つまり、賢者の「世俗的道徳にひそむ功利的精神」は末人と共通点が多数ある。

 

・賢者は「夜になっても私は眠りを呼ぶことは避ける。昼のあいだに自分がしたこと・考えたことを考える」と説く。「四十の思い」(p56)とは、p53の最終段落、p54の第一・第二・第三段落に記されている内容のことである。

 

・p56の第四段落は対句のような文章となっている。第五段落において眠り(or眠気)は「盗人のうちの最も愛すべきこの盗人」と形容されているが、これはp53の第三段落を踏まえているのだろう。

 

・p56の第四・第五・第六段落を以て賢者の講義は終わっているが、現代社会において不眠に悩む人は少なくない。余談だが、野比のび太には特技が主に三つある。それは、射撃・あやとり・「すぐ寝れること」である。不眠症の人からみれば、寝ようと思ったときにすぐ寝れてしまう野比のび太は羨ましい存在と言えるのではないか。

 

・p56の第七段落からはツァラトゥストラの見解が語られていく。ツァラトゥストラによれば、賢者は阿呆だが、眠るすべをよく心得ているとのこと。

 

・ツァラトゥストラは「この賢者の近くに住む者は、それだけで幸福である」と述べているが、「幸福」というキーワードも末人に沿っている。それと同時に、「ある魔力がこの講壇そのものにひそんでいる」とも指摘する。

 

・ツァラトゥストラが下山したのは人々に知恵を分け与えるためである。しかし、賢者や賢者の近くに住む者にとって知恵とは「夢の無い眠り」であり、無意味であるとツァラトゥストラは感じ取った。ツァラトゥストラにとって知恵とは「よく生きること」「創造的に生きること」であるため、賢者の価値観とは真逆である。

 

・最後に、ツァラトゥストラは「眠気をもよおしている(催している)これらの者は幸いである。やがてかれらの頭は点頭(うなずき)をはじめるだろうから」と述べる。点頭(うなずき)というのは「横になっていない状態のまま睡魔に襲われる」という意味だと思われる。

 

 

 

 

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★底本

第一部 p48~52

 

★手塚による要約

同志への教説が始まる。重荷に堪える義務精神から自律へ、さらには無垢な一切肯定のなかでの創造へ。これが超人誕生の経路である。

 

 

★解説

・「ツァラトゥストラの序説」はp47で終わり、第一部のp48~172は「ツァラトゥストラの言説」という部分に入る。

 

・「まだら牛」と呼ばれる都市に滞在しているツァラトゥストラは三様の変化について語る。三様の変化とは「精神が駱駝(らくだ)→獅子(しし)→小児(しょうに)と変化すること」を指す。

 

・駱駝は重荷に堪える義務感(「汝なすべし」)、獅子は自由を我が物とすることで新しい諸価値を立てる権利を自らのために獲得する自律性(「われ欲す」)、小児は習俗的世界を離れて自身自身に固有の世界を創り出す精神(「然り」)のこと。

 

・精神が小児の段階に達すると、善悪正邪といった世間の価値観に囚われることなく、人類の生(生命、生活)や世界を有るがままに肯定できるようになる。「然り」とは古語の動詞であり、「そうである」という意味。終止形は感動詞としても用いられる。ツァラトゥストラは「聖なる『否』」(p50)や「聖なる発語」(p51)など「聖なる」という連体詞を多用している。

 

・驕慢(p48):おごり高ぶって他人を見くだすこと。読みは「ごうまん」ではなく「きょうまん」なので注意。

 

・角逐(p50):かくちく。互いに争うこと。

 

・なまなか(p52):中途半端。

 

・精神が駱駝だったときに神と見做されていた存在をツァラトゥストラは巨大な竜と形容する。竜は東洋と西洋とで正邪に違いがある。東洋では竜は天子になぞらえるほど神霊視される存在だが、西洋では寧ろ神の恩寵を妨害する存在と見なされている。

 

・因みに、「まだら牛」は翻訳者によっては「五色の牛」や「彩牛」とも和訳されている。原文ではdie bunte Kuhとなっており、dieはドイツ語の定冠詞(英語におけるthe)で、bunteは「カラフルな」や「まだら模様の」を意味する形容詞である。Kuhは雌牛という意味の名詞なので、die bunte Kuhを直訳するならば「カラフルな雌牛」や「まだら模様の雌牛」となる。

 

 

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★底本

第一部 p12~47

 

 

 

★手塚富雄による要約 

1 (p12~14) 長い孤独の末に精神が満ちあふれてきたツァラトゥストラが山を出て人間のなかに下り、太陽のように与える者になろうとする。

 

2 (p14~18) 森のなかで出会った老隠者は、孤独のなかで悠々自適することを勧めるが、ツァラトゥストラは応じない。二人は笑って別れる。

 

3 (p19~24) はじめて「超人」の語を発して、その強烈な生き方を説く。大地に忠実であることが、その中核である。

 

4 (p24~28) 「没落」をあらゆる角度から説く。それは超人の理想への献身で、死して生きよ、という積極的な意味であることがよくわかる。

 

5 (p29~33) 民衆に超人を説いても、その耳にはいらぬから、かれら自身に鏡を突きつけるように「末人」を描写する。現代文明への批評。

 

6 (p34~36) 未来への綱を渡るにも、暴力的、誇示的に、ひとを犠牲にしてそれをする者、また真に自分の意志からするのではない者がいる。

 

7 (p37~38) 人生は一道化師(いちどうけし)によっても運命を左右されるほど他愛(たわい)のない無意味なものである。あくまで超人という意味を教えなくてはならぬ。

 

8 (p38~41) あの道化師は、つまりは俗衆の仲間であった。屍(しかばね)をあつかいながらその価値をあげつらう墓掘り人や善意に自足している老翁がいる。

 

9 (p42~45) 一般民衆を教えようとしたあやまりを悟り、少数の同志、刈入れを共にする者を選んで、おのが新しい創造の福音を伝えようとする。

 

10 (p45~47) ツァラトゥストラは、自分の道が苦難にみちていることを予感しながら出発する。自分に鷲の誇りと蛇の賢さを願いながら。

 

 

 

 

★1 (p12~14)

・手塚富雄が「長い孤独の末に精神が満ちあふれてきたツァラトゥストラが山を出て人間のなかに下り」と書いているように、ツァラトゥストラは身体的特徴こそ人間だが、10年間の隠遁生活を通して人間を超えた存在になっていたのだと読める。ツァラトゥストラ自身もp13にあるように「(今から下山することによって)ツァラトゥストラはふたたび人間になろうとしているのだ」と述べている。

 

・p12の「倦む」は「飽きて、いやになる」という意味。

 

・ツァラトゥストラは30歳から40歳のあいだ山に入って独り洞窟の中で暮らしていた。本書『ツァラトゥストラはかく語りき』の著者ニーチェは1844年に生まれ、1869年にスイスのバーゼル大学の教授となるも、1879年に同大学の教授職を辞している。ニーチェが教授職についていた期間と、ツァラトゥストラが隠遁生活を開始してから下山を決意するまでの期間は、同じく10年ほどである。

 

・太陽に向かって「おまえ」と語り掛けるツァラトゥストラ。読者の皆様の中で「太陽に向かって語り掛ける人(もしくは人のような生物)」を見たことのある方は恐らくいらっしゃらないだろう。この箇所だけでもツァラトゥストラの言動が常人のものから乖離していることが分かる。

 

・ツァラトゥストラは太陽を「偉大な天体」「あふれこぼれる豊かな天体」「やすらかな大いなる目」などと呼び、賛美する。

 

・ツァラトゥストラが太陽を「やすらかな大いなる目」と表現しているのは、太陽のことを「どんなに大きい幸福をも妬みなく眺めることのできる天体」と捉えているためである。

 

・p12~13はツァラトゥストラの台詞文が大部分を占めているが、その台詞文は鍵括弧で閉じられているにも拘らず、随所で改行されている。一般論として改行が多いほうが読者は文章を読み進めやすい。また、原文でも改行がなされているのかもしれない。

 

・台詞文では、太陽が擬人法によって語られている。ツァラトゥストラは太陽を「毎朝この山を立ちのぼって、私の住む洞窟を訪ね、毎晩下りていく天体」と捉えているが、ツァラトゥストラは日没を自身の下山に重ね合わせている。

 

・p13の「けれどもわたしたちは朝ごとにおまえを待ち、おまえの過剰を受けておまえを軽くし、そしてこういう伴侶をもつおまえを祝福した」という文を考察する。「わたし」ではなく「わたしたち」となっているのは、ツァラトゥストラだけではなく、ツァラトゥストラの鷲と蛇を含んでいるからだろう。「朝ごとに」は「朝が来るたびに」と言い換えれば分かりやすい。「おまえの過剰」は「太陽の過剰な光(と歩み)」という意味か。「こういう伴侶」とは「過剰なまでの光(と歩み)」を暗喩した表現。ツァラトゥストラは太陽を讃え、祝福している。

 

・ツァラトゥストラは自身が所有する過剰な知恵を、太陽が有する過剰なまでに輝かしい光に重ね合わせている。

 

・ツァラトゥストラは下山を決意するが、下山のことを「没落」と表現している。没落は日常生活ではネガティブな語句だが、本書ではポジティブな意味で用いられている。

 

・「あふれこぼれようとするこの杯(さかずき)」とはツァラトゥストラ自身のことであろう。「水が黄金(こがね)の色をたたえて」は日光により水が黄金色となっている様子を指す。また「たたえて」は漢字を用いて表記するなら「湛えて」となるだろうが、「湛える」とは「水などをあふれるほどいっぱいに満たす」という意味の動詞である。水は知恵の暗喩となっている。

 

 

 

 

★2 (p14~18)

・下山(没落)を始めたツァラトゥストラは森林地帯に入って、ようやく一人の老翁(ろうおう。老いた男のこと)と行き会った。手塚の解説は、老翁を老隠者(老いた隠者のこと。中島敦の「名人伝」にも用例あり。旧字体・歴史的仮名遣いのヴァージョンでは老隱者となっている)と表現している。

 

・老翁の台詞文はp12~13のツァラトゥストラの台詞文と同様に、鍵括弧内でありながら随所で改行がなされている。

 

・老翁の「火」の比喩はツァラトゥストラの別称「ゾロアスター」が拝火教の祖であることに関連している可能性がある。

 

・老翁は既存の価値観に囚われている庶民にオルタナティヴな価値観(別の価値観・新たな価値観)を提示する者を放火者と形容し、ツァラトゥストラに「君は放火者の受ける罰を恐れないのか」と語る。

 

・オルタナティヴな価値観を提示する者は常人から見れば狂人に見えることだろう。中世社会において、狂人は「神の理性に接近しすぎた存在」とみなされており、排除の対象となることは少なかった。しかし、近代化が進むにつれて、狂人は理性の乏しい非生産的な人間とみなされるようになり、迫害を受けるようになっていく。こういった狂気に関する研究はフーコーの『狂気の歴史』に詳しいが、「放火者の受ける罰」という表現には「近代化によって狂気が社会から排除されていった時代背景」が潜んでいるように思われる。

 

・老翁は十年前にツァラトゥストラが山へのぼっていくのを目撃していた。このことを老翁は「君は君の灰を山上に運んだ。きょうは君は君の火を谷々へ運ぼうとするのか」と表現している。老翁によればツァラトゥストラの目は十年前も今も澄んでいるとのこと。

 

・老翁は「十年前と違ってツァラトゥストラの口のほとりから嫌悪の情が消えている」と指摘する。「口のほとり」は「口もと」「口のあたり」などといった意味。

 

・老翁は「ああ、君は君の身体(からだ)をふたたび引きずって歩くつもりか」と問いかける。つまり、「ツァラトゥストラは10年間の隠遁生活を通して精神的に人間を超えた存在になっているものの、下山しきってしまえば肉体的な意味での人間へ元通りになってしまう」と老翁は指摘している。

 

・老翁は今のツァラトゥストラは舞踏者のようだと感じている。舞踏者はダンサーの意であり、口元に嫌悪の情を示している者がダンサーさながらであるとは考えにくい。舞踏者という表現からも、今のツァラトゥストラに憤りのような感情がないと分かる。

 

・老翁の問いかけにツァラトゥストラは「わたしは人間たちを愛する」と答える。つまり、「自分は人間たちを愛するがために、わざわざ没落しにゆくのだ」とツァラトゥストラは表明している。

 

・それに対して老翁は、自分が俗世を離れ、荒蕪の地(土が荒れて雑草が生い茂っている地のこと。荒蕪は「こうぶ」と読む)で暮らすようになった理由を話す。

 

・老翁はもともと人間を愛していた。余りに人間を愛していたからこそ、普通の人間が多数いる俗世から離れた。

 

・おそらく老翁は俗世で暮らしていた時に、普通の人間の愚かさを強く感じさせる出来事に遭遇したのだろう。このまま俗世に居続ければ、自分の意志がどうであれ、人間は愚劣なのだと認識せざるを得ない。しかし、余りにも人間を愛していた老翁は、人間への愛を失わずに済むよう、あえて普通の人間が暮らしている俗世から距離を取ったのだと考えられる。

 

・だが、やがて老翁は人ではなく神を愛するようになった。「人間は いま わたしから見れば、あまりにも不完全なものである。人間への愛はわたしを滅ぼすであろう」と老翁は語る。「人間への愛はわたしを滅ぼす」という箇所は、隣人愛を唱え、人類を愛してやまなかったイエスがユダヤ人に迫害され、処刑されたという史実を踏まえている。

 

・老翁が神を愛するようになったのは、神の完全性すなわち全知全能性に惹かれたためであろう。神は全てを知ることができ、そして全ての能力を有する。一方の人間は愚かで不完全である。それが、超俗の人すなわち老翁の価値観である。

 

・「わたしは人間たちに贈り物を与えようとするのだ」(p16)の「贈り物」とは知恵のことである。しかし、老翁は「俗世の人間たちは食べ物などといった物品(施し物)ならともかく、ツァラトゥストラの知恵を贈られても歓迎しないだろう。むしろ俗世の人間たちは隠遁者に対して疑い深い」と警告する。

 

・「熊たちのなかの一匹の熊、鳥たちのなかの一羽の鳥に」(p17)の箇所は「人間たちのなかの一人」になるくらいなら、「熊たちのなかの一匹の熊」や「鳥たちのなかの一羽の鳥」になったほうがましというニュアンスであろう。つまり、「俗界の人間たちの一員になるくらいなら自然界の野生動物の一員になったほうがまし」と老翁は考えている。個人的には、熊は「一匹」よりも「一頭」のほうが自然な助数詞ではないかと思う。

 

・老翁は独り歌を作り、独り歌っている。つまり言動が個人主義的である。一方のツァラトゥストラは第四部でも分かるように、言動が自分一人という枠組みに収まっていない。

 

・「あなたがたに与えるようなものを」(p17)の「あなたがた」は「老翁と老翁の神」を指している。

 

・老者(老翁)と壮者(一生のうち最も元気な年頃の者。ツァラトゥストラのこと)は「笑い合う二人の子供」のように笑い合って別れた。老翁とツァラトゥストラは細部の価値観に相違点こそあるものの、隠遁者同士で分かり合える部分もあったがために、笑い合いながら別れることになったのだろう。

 

・ただし、ツァラトゥストラは一人になってから「あの老翁は長らく森で暮らしていたため神が死んだことを何も聞いていないとはなあ」と自分の心に向かって呟いた。「十年間も俗世から離れていた自分ですら神が死んだことを聞いているのに、あの老翁がそのことを何も聞いていないとは、これはありうるようなことなのか」などといったニュアンスでの呟きである。

 

 

 

 

★3 (p19~24)

・p19の「森また森」の「また」は『明鏡国語辞典 第二版』にあるように「同様のものが続くさま」を表す副詞。哲学者フランシス・ベーコンにも『森また森』という著作がある。

 

・森林地帯を通過し、森のほとりの或る町に入ったツァラトゥストラは、その町の市場に多数の民衆が群がっているのを見る。それは一人の綱渡り人の演技が予告されていたからである。ツァラトゥストラは市場の群衆に語り掛けるが、この語り掛けの文章はp19からp23まで続く。

 

・群衆に「あなたがたは人間を乗り超えるために何をしたか」と問いかけるツァラトゥストラ。本書を代表する用語「超人」は「(既存の人間)を乗り超えた人間」という意味で捉えるのが自然かと思われる。

 

・「およそ生あるものはこれまで、おのれを乗り超えて、より高い何ものかを創ってきた」の「およそ」は「一般的に」という意味。ツァラトゥストラはダーウィンの影響か「虫<獣類<(猿<)人間」という高低意識(上下意識)を持っているようだ。

 

・人にとって猿が「哄笑の種」「苦痛に満ちた恥辱」であるように、超人にとって人は「哄笑の種」「苦痛に満ちた恥辱」であらねばならないとツァラトゥストラは主張する。哄笑は「その場にいる人々が無遠慮に大きな声で笑うこと」である。

 

・百科事典などで超人について調べると、『デジタル大辞泉』や『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』にあるようにツァラトゥストラ自体を超人の具体像と記述しているものが散見される。ただ、ツァラトゥストラ自身は人間を愛しており、市場の群衆を「哄笑の種」や「苦痛に満ちた恥辱」などのように見なしている訳ではない。

 

・p19~20の「あなたがたの内部にはまだ大量の虫がうごめいている」は「本書が発表された19世紀は寄生虫に苦しむ人が多かったこと」を踏まえている可能性がある。

 

・p20の「今も人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である」は「超人からすれば人間は猿よりも遥かに『哄笑の種』であり『苦痛に満ちた恥辱』である」といった意味か。

 

・「天上の希望を説く人々」すなわち「キリスト教の聖職者たち」とは逆にツァラトゥストラは「大地の意義として地上に生きる超人」を説く。ツァラトゥストラによれば「キリスト教の聖職者たち」は生命の侮蔑者であり、死滅しつつある人々である。これは自然科学の発達により、近代社会でキリスト教の影響力が低下し続けていったことを指している。ツァラトゥストラは「滅びゆくかれら(天上の希望を説く人々)を滅びるにまかしておくがいい」とまで言い切っている。

 

・冒涜は「神聖さを有する権威をけがして傷つける」という動詞である。例えば「神を冒涜する」というのは「神の権威をけがして傷つける」という意味になる。

 

・キリスト教の影響力が絶大だった時代(神が死ぬ前の時代)は神を冒涜することが最大の冒涜だったが、キリスト教の影響力が落ちた今の時代では、大地を冒涜することこそが最大の冒涜であるとツァラトゥストラは語る。確かに水上や宇宙船とかで暮らしている者を除けば、人はみな大地の上で暮らしている(高層ビルで暮らす住人にしても、その高層ビルは大地があってこそ存続できている)。

 

・原理的に探究しえない神の内面を大地の意義よりも崇める(あがめる)行為をツァラトゥストラは最も甚だしい冒涜だと主張する。

 

・「かつては魂が肉体を蔑み(さげすみ)の目で見た」というのはジョン・スチュアート・ミルの「満足した豚よりも不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿よりも不満足なソクラテスであるほうがよい」という格言で知られるソクラテスの思想が反映されているように感じられる。ソクラテスは人間生活における魂の配慮を重視した。また、キリスト教の聖職者にも霊魂を重視し、肉体を軽視する傾向があった。

 

・河流や大海という暗喩は超人という大海が「平俗さを志向してしまう庶民という河流」を包摂するという意味だと読める。

 

・p21の「大いなる軽蔑」とは「群衆自身の持つ幸福・理性・徳・正義・同情を群衆が軽蔑すること」を指す。幸福や理性などを軽蔑し、嘔吐する(捨て去る)ときに、群衆は最大のものを体験することになるとツァラトゥストラは主張する。

 

・ツァラトゥストラは群衆に向けて「あなたがたは小心者であり、罪悪な言動に及ぶときですら吝嗇(少しでもコストを減らそうとする性格)である」と指摘する。

 

・p22の「光焔」とは「光と火焔(炎)」の意。「雷電」とは「雷鳴と雷光」の意。ツァラトゥストラは超人を「雷鳴と雷光のように衝撃的な存在」「群衆に接種されるべき狂気を含んだ存在」と捉えている。

 

・ツァラトゥストラは群衆に超人という概念を教えるために演説を行っていた。しかし、群衆はツァラトゥストラの真剣な語り掛けを綱渡りの前口上に過ぎないと感じた。綱渡り人は綱渡り芸に取り掛かった。

 

 

 

 

★4 (p24~28)

・いぶかる(p24):不審に思う。

 

・最初の段落以外は全てツァラトゥストラの台詞文である。

 

・ツァラトゥストラは人間を動物と超人の間にいる存在と捉えている。もっとも、ツァラトゥストラに限った話ではないが、人間(ホモサピエンス)が動物の一種であることを見落としている者は多い。

筆者が小学生のとき「動物は脊椎動物と無脊椎動物に大別される」と知った。脊椎動物は魚類・両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類と分類され、ホモサピエンスは哺乳類なのだと学習した。そのことを学んだ翌日、筆者はクラスメートに「ヒトは哺乳類なので動物だ。君はヒトだ。だから君は動物だ」と話しかけた。筆者はそのクラスメートが「なるほど!」と目を輝かせている光景を期待していた。

しかし、実際には、その男子は急に泣き始めたのだった。筆者は当時なぜ彼が号泣したのか不思議だったが、今であれば彼が涙を流した理由は察しがつく。

 

・ツァラトゥストラは人間が超人を目指す過程を「過渡」や「没落」と表現する。これは、ツァラトゥストラが下山(p12~19)を通して再び人間になった過程のことがp14で「没落」と表現されていることと対応している。

 

・ツァラトゥストラによれば、人間の偉大な点は「何かの目的ではないこと」だという。つまり、ツァラトゥストラの価値観は、布教という目的のために生きることを説くキリスト教などの価値観と異なっている。

 

・ツァラトゥストラは以下に挙げるような人々を愛すると宣言する。

一、没落する者として生きるほかには生きるすべを持たない者たち (理由:かなたを目指して超えていく者だから)

一、俗世における幸福・理性・徳・正義・同情を軽蔑する者 (理由:卑小なものを軽蔑する「大いなる軽蔑者(p21)」は偉大なものを尊敬する「大いなる尊敬者」であり、かなたの岸への憧れの矢だから)

一、没落し、身をささげる根拠を、わざわざ天上界などに求めることなく、いつの日か大地が超人のものとなるように身をささげる者

一、超人(や大地)の意義、超人の生成過程を認識しようとする者、すなわち自分自身の没落を欲する者

一、働き、工夫して超人のために家を建て、超人を迎えるべく大地・動物・植物を整える者 (理由:自分自身の没落を欲しているから)

一、自分自身の徳を愛する者 (理由:俗世での徳と違って、ツァラトゥストラのいう徳は没落への意志のことであり、憧れの矢だから)

一、全的(全面的・全般的)に自分自身の徳の精髄(最も優れたもの)になろうとする者 (理由:徳の精髄としてp24で用いられた意味での橋を越えるから)

一、自分自身の徳を自らの愛好物・宿命とする者、すなわち自分自身の徳のために生きて死ぬ者

一、余りに多くの徳を持とうとしない者 (理由:ツァラトゥストラのいう徳は愛好物・宿命たるべきものであり、宿命はオンリーワンなものだから)

一、自分自身を浪費して物惜しみしない心を持つ者、すなわち感謝を期待せず返礼もしない者、更に言えば無償で他人に何かを与える意志に満ちているため返礼という発想を持たず、常に何かを他人に与えており、自分自身を安住させない者

一、サイコロの運が良いなどといった好運を恥じ、「自分は不正をしているのか」とさえ自問する者、すなわち破滅・没落を恐れず自分自身の意志で生きようとする者

一、自分自身の行為より先に黄金のことばを公言し、常に自分が約束した内容以上のことを果たす者 (理由:破滅・没落さえも恐れず自分自身の意志で生きようとする者だから)

一、未来の人々(来たるべき者たち)の意義を認め、過去の人々を救う者 (理由:現在の者たちを相手にして滅びようとするから)

一、自分自身の神を愛するがゆえに(自らを)奮い立たせる者、いずれ神の怒りを買って自ら滅びる者 (理由:p17でツァラトゥストラ自身が述べているように神は既に死んでいる。ここでの神は自分が奉じている理想を暗喩的に表現した語句である。理想を愛するがゆえに自分を奮起させる者はその理想の重圧によって自ら滅ぶこととなるから)

一、失敗したときも魂の深さを失わない者、小さな体験すらも自滅しうるほど深刻に受容する者

一、魂が豊か過ぎて自分自身を忘れ、一切の事物を自分自身の中に包容する者、すなわち一切の事物が自分自身の没落の機縁になりうる者

一、自由な精神と自由な心情を持つ者、すなわち「自分自身を没落へと推し進める心情」が中枢の器官となり、頭脳がその心情の臓腑(内臓のこと。中枢ではなく末梢の器官の暗喩)となっている者

一、人類の上を覆う暗黒の雲から一滴ずつ落下する重い雨つぶのような者たち、すなわち雷電(p22でも登場したメタファー)の来ることを告知し、告知者として滅びる者

 

・最初の「没落する者として生きるほかには生きるすべを持たない者たち」以外は「者」と複数形ではなく単数形で表記されている。

 

・p25の「かなたの岸」は仏教用語の彼岸と関連しているのかもしれない。なおニーチェは本書(1883~1885年)を発表した直後に『善悪の彼岸』(1886年)という哲学書を発行している。p26の「黄金のことば」も仏教用語として使用されるフレーズである。

 

 

 

 

★5 (p29~33)

・末人:まつじん。超人と対照的な存在。手塚は「現代文明の生んだ、生産性に欠く教養俗人」と解説している。ただし、末人になりたがっている市場の群衆が教養に富んでいる描写はない。

19世紀末の西欧における近代都市にはニーチェの嫌う教養俗人が多数いたのかもしれないが、21世紀の日本では教養すら軽視されている風潮さえ感じられる。そのため手塚の解説をより一般化するならば「現代文明における既存の価値観に則って生き、創造性にも欠いている俗人たち」といった定義になるかと思われる。

 

・手塚の要約に「その耳にはいらぬから」とあるが、これは「その耳には要らぬから」ではなく「その耳に入らぬから」という意味かと思われる。「耳に入る」とは「聞いて理解する」という意味の表現。

 

・p29で、ツァラトゥストラは口に出して群衆に語り掛けるのではなく、自分の心に語り掛けている。この心中文はp30の冒頭部で終わり、再びツァラトゥストラは群衆に語り始める。

 

・p29の第二段落で、ツァラトゥストラは群衆が自分の教えに耳を傾けようとしないことを過激な表現で嘆いている。

 

・p29の羊飼いという語句は、「わたしは善き羊飼いである」(ヨハネの福音書)などのように新約聖書でも登場する。

 

・ツァラトゥストラによれば、群衆は「自分は教養があるから羊飼いよりも優越している」と思っている。

 

・天上界や死後の世界での希望を説くキリスト教と対照的にツァラトゥストラは地上に希望を見出す。しかし、超人を志向しない末人の世界が来れば、人類の可能性は消えていってしまうとツァラトゥストラは警鐘を鳴らす。

 

・p31の「隣人を愛して」はキリスト教の説く隣人愛を連想させる表現。

 

・p31の「煩わしい(わずらわしい)」は「処置が面倒で不快だ」という意味。末人は貧しくなることも豊かになることもなく、統治しようとすることも服従しようとすることもないわけだが、貧困問題や独裁政権で苦しんでいる人々にとってみれば、それは願ってもいないことである。実際、既存の価値観では貧富の格差が縮小し、政治的な自由を享受できることは良いこととされる。p32で市場の群衆が「超人はお前(ツァラトゥストラ)に任せるから、我々を末人にさせてくれよ」と言った主な理由はこれであろう。

 

・末人は幸福を重視して生きる。この生き方はツァラトゥストラが説く超人の生き方とは対照的である。ツァラトゥストラは末人の群れのことを畜群と呼び、激しく軽蔑する。

 

・末人が毒を摂取するのは快楽を得られるから。末人が快楽目的での毒を愛用する一方で、健康を何よりも重視するのは幸福な人生を送りたいから。

 

・p32の人士(じんし)は「地位や教養の高い人」という意味。

 

・ツァラトゥストラはp32に至るまで、群集に超人と末人を語ってきた。これはツァラトゥストラの最初の言説であり、ツァラトゥストラの序説とも呼ばれているものである。しかし、市場の群衆は誰一人ツァラトゥストラの序説に耳を傾けなかった。ツァラトゥストラは「わたしは これらの耳に説くべき口ではない」と悟る。

 

・p33でツァラトゥストラは自分の言説が群衆に受け入れられなかったことを嘆く。

 

 

 

 

★6 (p34~36)

・市場には二つの塔があり、一本の綱が塔と塔をつないでいる。つまり群集とツァラトゥストラの頭上には綱がかかっている。綱渡り人は塔にある小さな扉から出て綱渡りをしていた。彼が綱の中央に差し掛かったとき、あの小さな扉が再び開いた。そして道化師(クラウン)も綱渡りをはじめ、綱渡り人を綱の上で追いかけ、彼の背後につくと彼を飛び越えた。

 

・道化師は綱渡り人を「足萎え(あしなえ)」と罵倒しているが、おそらく放送禁止用語なので現在の日本で当該語句を使用するのは控えたほうが無難。

 

・追い抜かされた綱渡り人は冷静さを失い、綱から落下してしまう。群衆はパニック状態となり、にげまどった。だが、ツァラトゥストラは動かない。

 

・ツァラトゥストラのわきに綱渡り人が落ちてきた。彼は身体を砕かれていたが、まだ息があった。ツァラトゥストラは彼のために身をかがめた。

 

・彼はツァラトゥストラに「あなたはここで何をしているのか」と問いかけ、「悪魔がわたしの足をすくうであろうことをわたしは前から知っていた。悪魔はわたしを地獄へ引いてゆく。あなたはこれを防いでくれるだろうか」と語る。

 

・それに対してツァラトゥストラは「わたしは誓って言う、友よ」「君が言っているようなものはすべて存在しないのだ、悪魔も地獄も。君の霊魂は君の肉体よりも早く死に就くだろう。それゆえ もう何も恐れることはない」と答える。ツァラトゥストラは綱渡り人のことを「友」と感じている様子。

 

・綱渡り人は疑わしげな目をあげた。おそらく悪魔や地獄などといった前近代的な迷信に捕らわれながら生きていたのだろう。「あなたの言うことが真実なら、わたしは生命を失っても、何も失いはせぬ。わたしは鞭と ささやかな餌で踊ることを仕込まれた一匹の動物以上のものではないのだから」と語る綱渡り人にツァラトゥストラは「そうではない」「君は危険をおかすことを君の職とした。それは、すこしも卑しむべきことではない。いま君は君の職によって滅びゆくのだ。君のために わたしは君を このわたしの手で葬ろう」と告げる。綱渡り人は声を出せないほど衰弱しており、わずかに手を動かしたに過ぎなかった。

 

 

 

 

★7 (p37~38)

・時刻は夕方から夜となった。ツァラトゥストラは独り死者のかたわらに座り、深く物思いにふけった。

 

・今日の群衆への語り掛けを「よい漁獲」と喩えるツァラトゥストラ。「人間を捕らえはしなかったが、一つの屍(しかばね。死体という意)を獲た」と振り返る。因みに、キリスト教で魚(イクトゥス)はキリスト教徒を指す。

 

・一人の道化師ごときで命を落とした者がいたように、人間にとって生きるという行為は無気味(ぶきみ)だとツァラトゥストラは感じる。また、群衆の目には自分が綱渡り人や道化師のような存在でしかないことを認識する。

 

・ツァラトゥストラは「夜は暗い。ツァラトゥストラの道も暗い。さあ、いっしょに来たまえ、冷たい、こわばった同伴者よ。わたしは君を運ぼう、そして この手で君を葬ろう」と決意する。

 

 

 

 

★8 (p38~41)

・屍を負って歩くツァラトゥストラは百歩も行かぬうちに、一人の男がツァラトゥストラに近づいてきた。その男はあの道化師であった。

 

・道化師は「この町ではあまりにも多くの者が君を憎んでいるから、この町から逃げたほうが良い」と忠告し、「市場の群衆がツァラトゥストラを笑ったのは不幸中の幸いで、このままでは町の人々(道化師を含むか)によって殺される危険がある」という。

 

・なお、道化師によれば、綱渡り人と組んだ(綱渡り人の死に際に立ち会った)お陰で、今日ツァラトゥストラは死なずに済んだとのこと。

 

・道化師はそう言い終えると去っていった。ツァラトゥストラは町筋(町の道)を歩き、町の門のところで墓掘り人と会う。

 

・墓掘り人らは屍を負っている者がツァラトゥストラだと知るや否や、「われわれの手は この腐れ肉をあつかうには、きれいすぎる」と嘲笑した。墓掘り人も、死ぬ直前の綱渡り人同様、悪魔という迷信に囚われている。

 

・ツァラトゥストラは森のほとり、沼のほとりを二時間ほど歩いた。ツァラトゥストラは飢えた狼の吠え声をおびただしく聞いた。狼と同じくツァラトゥストラにも飢えがやってきた。近くに明かりの漏れた一つの家があり、家の扉をたたく。

 

・家には老翁がいた。老翁はツァラトゥストラにパンと葡萄酒を供したが、すでに死んでいる綱渡り人にもパンと葡萄酒を与えるよう指示した。

 

・しらむ(p41):白くなる。特に、夜が明けて空やあたりが薄明るくなる。

 

・それからツァラトゥストラは道と星の光を頼り、更に二時間あるいたが、空が白みかけたとき、道がどこにも見当たらないほど自分が深い森に入っていることを察知した。ツァラトゥストラは死者が狼に捕食されないよう、とある木の空洞に死者を置いてから、その木の根元で寝た。

 

 

 

 

★9 (p42~45)

・伴侶(p42):「はんりょ」と読む。ともに連れだって行く者や配偶者という意味。

 

・正午になり、ツァラトゥストラは目覚めた。そして歓呼(喜んで大声で叫ぶこと)の声をあげ、一つの真理に至る。それは「自分には伴侶が必要だが、それは自分の思い通りに運んでいける死んだ伴侶ではなく、生きた伴侶である」ということであった。ツァラトゥストラは「わたしの必要とする生きた伴侶は、おのれに従おうとするからこそわたしに従い、わたしの行こうとするところに進む者たちである」と考える。

 

・ツァラトゥストラは一般民衆に超人という思想を説くのではなく、畜群の中で超人への理想に目覚めた者に説こうと決意する。

 

・ことほぐ(p44):祝って喜びの言葉を述べる

 

・ツァラトゥストラは、あらゆる信仰に属する信者にとって新たな価値を見出していく創造者は破壊者・犯罪者であろうと悟り、伴侶(刈入れを共にする者、ことほぎを共にする者)を求め、畜群・牧人・死骸とは無関係になろうと考える。綱渡り人と別れるにあたって「時がめぐったのだ。黎明と黎明のあいだに一つの新しい真理がわたしを訪れたのだ」と認識する。

 

・p44~45の「ためらう者、怠る者をわたしは飛び越そう」は綱渡り人を飛び越えた道化師を踏まえた表現である可能性がある。p19の「乗り超える」とp45の「飛び越そう」などというように、「越」と「超」の漢字表記の使い分けは恐らく訳者(手塚)の意図であろう。

 

 

 

 

★10 (p45~47)

・ツァラトゥストラが空を見ると一羽の鷹が一匹の蛇を友として空中を舞っていた。ツァラトゥストラは「これはわたしの生き物たちだ」「太陽のもとにおける最も誇り高い生き物と最も賢い生き物が私を偵察しに来たのだ」と考える。

 

・ツァラトゥストラは自分がまだ生きているかを偵察しに来た鷹と蛇を見て、「わたしは知った、人間たちのもとにいるのは、動物たちのもとにいるより、はるかに危険なことを。危険な道をツァラトゥストラは歩いている。わたしの生き物たちがわたしを導いてくれるように!」と喜ぶ。

 

・ちょうどそのとき、ツァラトゥストラは森で出会った超俗の人(p14~17)の言葉を思い出し、嘆息(嘆いて溜息をつくこと)して自分の心に向かって、自分の賢さと自分の誇りの関係性を述べる。ツァラトゥストラが思い出した超俗の人(p14~17)の言葉とは、「人間は いま わたしから見れば、あまりにも不完全なものである。人間への愛はわたしを滅ぼすであろう」や俗世の人間たちは隠遁者に対して疑い深い」という警告などが該当するであろう。

 

・「10 (p45~47)」は「こうしてツァラトゥストラの没落ははじまった」という一文で結ばれているが、「1 (p12~14)」も「こうしてツァラトゥストラの没落は始まった」という一文で結ばれている。

 

 

 

 

★総評

「こうしてツァラトゥストラの没落ははじまった」(p47)と「こうしてツァラトゥストラの没落は始まった」(p14)などのように、手塚の訳文は同じ単語であっても漢字表記と平仮名表記の間で表記揺れしている箇所がある。また、「わたし」「おまえ」など代名詞を平仮名で表記することが多い。ツァラトゥストラ自身、同一人物(綱渡り人)に対する二人称代名詞が「君」(p38)や「おまえ」(p44)など揺れている箇所がある。そもそも、ツァラトゥストラは一人称として「わたし」や「ツァラトゥストラ」を採用しているが、自分の名前を一人称にしているというのは、日本語としては特殊な印象を受ける。

 

 

 

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岸本斉史は『NARUTO』や『MARIO』や『サムライ8』などの作品を発表しているが、いずれも大友克洋の影響をかなり受けている。

『NARUTO』や『MARIO』など作中の重要キャラの名前をそのままローマ字で作品のタイトルにしているのは『AKIRA』と同様であり、パースペクティブに凝った作風も大友漫画と共通している。

『NARUTO』の「蒸危暴威(じょうきぼうい)」は大友の『スチームボーイ』に由来する。

また、『サムライ8』では古老ポジションのキャラの謎めいた台詞が多かったが、『AKIRA』にも「遠まわしなようで、読者に感覚的な理解を期待するような台詞回し」は見られた。

『AKIRA』第5巻で41号が科学者たちに「例えば地球の自転ってあるだろ…」と語りだすシーン等は作中の世界観を主人公に説明する猫姿のキャラを連想させる。

 

岸本は「この世界で人生に影響を与えた人物がいて、よちよち歩きの自分を導いた母が鳥山明だとすれば、威厳と大き過ぎる背中を見せてくれた大友克洋こそが父だ」(魚拓)と述べているとのことで、岸本の大友への敬意が伝わってくる。