★底本

第一部 p58~65

 

★手塚による要約

世界の背面・背後に神や原理を仮定して現実逃避する背面世界論者(宗教者や形而上学者)の動機を突き、大地への忠実を説く。

 

★解説

・本章最初の段落は主語の人称がやや特殊である。前文が「かつてはツァラトゥストラも…」と3人称となっているにも拘らず、後文が「そのとき、わたしには…」と1人称になっている。

 

・ツァラトゥストラは一時期ショーペンハウアー哲学に傾倒していたようだ。当時のツァラトゥストラにとって、この世界は「不満な心的存在者の眼前に漂う多彩な煙」に見えた。ショーペンハウアー哲学が厭世主義であるのに対し、自ら俗世へ向かっていったツァラトゥストラは厭世主義の枠を超えているともいえる。

 

・創造者(p59)はキリスト教では三位一体の神を指すが、ここでは自分自身から目をそらそうとする目的でこの世界を捉えようとする人間のことを指す。

 

・この世界の象徴として「善と悪」「快と苦」「我と汝(主観と客観)」という対比が用いられている。p59の「苦悩する存在者」は若き頃のツァラトゥストラのことだと読み取れる。p59で「陶酔」というキーワードが頻出するのは、ニーチェが若い頃「ディオニソス的」「アポロン的」という対立概念に着目していたことと関連している。(詳細は『悲劇の誕生』を参照。)

 

・ツァラトゥストラは神々などというものは人間の製作品・妄念に過ぎなかったと語る。p60の「我」は前頁の「主観」のことを指す。「わたし自身の灰」とはp15の記述に対応する。「妖怪」は「自分の妄念が生み出した神」のことだろう。

 

・p60の第一・第二・第三段落を要約する。過去の生活に絶望したツァラトゥストラは30歳のときに故郷を捨て、山で暮らすようになる。本書で使われている隠喩を援用するならば、山を登っていくにあたってツァラトゥストラは過去の生活を火葬し、残った灰を山へ運んで行った。その灰から妖怪が現れた。それは神であった。神が彼岸(背面世界)からではなく、過去の自分の殘滓から現れてきたのを見て、ツァラトゥストラは「神なんて自分の妄念が生み出したものでしかない」と気づく。ツァラトゥストラは当初そのことに苦悩するが、自分の外に表象的な物(芸術作品など)をつくることで苦悩を紛らわせようとするのではなく、自分自身に打ち克ち、強い創造の意欲の道をとることで苦悩を解消した。快癒した今のツァラトゥストラにとって、妖怪を信じる行為は呵責・屈辱ですらある。

 

・ツァラトゥストラによれば、背面世界(と神々)を創り出したのは「苦悩と無能(さ)」「(最も苦悩する者だけが経験する)あのつかのまの幸福の妄想(宗教的な陶酔など)」「ひと飛びで、決死の跳躍で、究極的なものに到達しようと望む疲労感(脚注:疲労から辛抱強く進む気力を失い、一気に解決をはかり、究極のよりどころに飛びこもうとする)」「もはや意欲することをさえ意欲しない疲労感」であるとのこと。

 

・脚注も参考にしてp60の第六段落を要約するならば、現世の我々の肉体に絶望したのは我々の精神ではなく、我々の肉体であるということになる。手塚の脚注(p65)では「果ての壁」は「われわれが自力でたどりついたような究極的なよりどころ」と解釈されているが、「肉体」や「腹」(p61)との関連から体壁(body wall)のことだと考えることもできる。

 

・p61でツァラトゥストラは存在論を取り上げている。存在論は哲学において古くて新しい議論である。ツァラトゥストラは「まことに、あらゆる存在は証明しがたく、語らせがたい」と述べるが、これは脚注では「存在の問題は、けっきょく人知ではつかめない」と説明されている。個人的には、この一文は「即物的な存在(例、食器や太陽や、自分の住所付近にある自動車などが存在していること)にせよ、抽象度の高い存在(例、国家や倫理や文化などが存在していること)にせよ、我々は或る対象が存在していることを認識して生きているし、日常生活を送るにあたって、それらの存在を疑っていない。しかし、それらの存在を厳密に証明するのは難しく、それらの存在に何かを語らせることも困難を極める」という意味だと感じられる。

 

・ツァラトゥストラの展開する存在論を読み、筆者はデカルトの「我思う、故に我在り」を連想した。デカルトが『方法序説』で主張したのは、「この世の全ての事物の存在を疑ったとしても、それを疑っている自分自身の存在だけは疑い得ない」ということである。この点において論理展開が似ている。

 

・p61の最終段落でツァラトゥストラは「この我は、いよいよいつわりなく語ることを習得しつつある。そしていつわりなく語ることを習得すればするほど、いよいよ肉体と大地とをたたえ、敬うのである。」と述べ、超人としての教えを強調している。

 

・p62の第一段落でツァラトゥストラは一つの新しい誇りを説く。それは、頭を彼岸的な世界の砂に突っ込むのではなく一切の束縛を脱して頭を昂然ともたげる(自信に満ちて誇らしげに持ち上げる)ことである。

 

・第二段落でツァラトゥストラは一つの新しい意志を説く。それは、盲目的に人間が歩いてきたこの地上の道を自覚的に意欲することである。そして、その道を是認し、病人や瀕死の者たちのように、もはやその道から抜け出そうとしないことである。

 

・第四段落にある「血の飲み物」はワインを神の血とする信仰を指しているのだろう。

 

・p62~63にある「忘恩」とは、肉体と大地への恩を忘れるという意味である。

 

・p62~63で述べているようにツァラトゥストラは病める者や快癒しつつある者を全否定してはいない。

 

・哲学者カントの用語「物自体」は「不可知だが確実に存在する究極的な本質」という意味。「現在における神の類似者たち」すなわち背面世界論者の物自体(本質)ですら彼ら自身の肉体なのだから、いわんや「ツァラトゥストラが理想とする人類」は大地の意義について語る健康な肉体の声を聴くべきだとツァラトゥストラは述べている。

 

・つまり、ツァラトゥストラは「神の類似者たちですら自身らの肉体を信じている」と主張している。ただし、彼らの肉体は病んでいる(p64)。ツァラトゥストラは「健康な肉体の声を聞け」と説き、大地の意義について語る健康な肉体を強調した。

 

 

 

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