★底本

第一部 p53~58

 

★手塚による要約

前章で説いた創造の道に対比して世俗的道徳にひそむ功利的精神を戯画的にえぐる。つまり、それは眠るために生きる精神である。

 

 

★解説

・「徳の講壇」は第一段落にツァラトゥストラが置かれている状況の説明があり、それ以降は一人の賢者の発言と、それに対するツァラトゥストラの見解(心中文)が配置された構成となっている。そして最終段落には「ツァラトゥストラはこう語った。」という一文がある。

 

・「まだら牛」という都市に滞在しているツァラトゥストラは或る賢者の存在と彼の名声の高さを聞く。彼は眠りと徳を青年に説くことが巧みな様子。ツァラトゥストラは彼の講義を聞きに行く。「まだら牛」という都市では、全ての青年が彼の講義を聞くために講堂へ集まっている。

 

・手塚の要約に「世俗的道徳にひそむ功利的精神」とあるが、賢者が説く世俗的道徳とは対照的に、ツァラトゥストラの一連の行為(自分の知恵を人類に広めるために下山し、民衆へ語り掛けていくなどといった行為)は、功利的でも打算的でもない。

 

・21世紀の日本で喩えるのならば、この賢者は「こんな生き方をすれば貴方は勝ち組となって高収入を狙える!」などと謳う自己啓発系のインフルエンサーに近いのかもしれない。近代社会において宗教や土着の信仰への依存が希薄化した人々は「どのような人生を送るべきなのか」という不安に駆られるようになった。

 

・賢者の教えを幾らか抜粋する。

「十度、おまえは昼のあいだに笑って、快活を保っていなければならぬ。そうしないと夜になって、憂愁の父である胃が、おまえを乱すだろう」

「神、そして隣人と平和を保て。よい眠りはそれを要求する。そして隣人のうちにひそむ悪魔とさえも平和を保て。さもないと、その悪魔は夜な夜なおまえのほとりに出没して、おまえを煩わすことだろう」

「官庁を敬って服従するを忘れるな。たとえゆがんだ官庁でも。よい眠りはそのことを要求する。権力は好んでねじけた歩き方をするが、それをわたしがどうすることができようか」

 

・これらの抜粋から分かるのは、賢者の教えは「或る行為をするよう心掛けよ。そうすれば君はこういったメリットorデメリットを享受or回避できる」といったテンプレートが多いということである。これはまさしく、手塚の言う「世俗的道徳にひそむ功利的精神」そのものであろう。「世俗的道徳」という名の「処世術」とさえ言えるのかもしれない。

 

・賢者は徳(手塚は独立心や従順などを具体例として想定している)を「しとやかな女性」と喩えている。「しとやか(淑やか)」は「慎み深い」という意味の形容動詞である。

「おまえを奪いあう、そのいがみあいがはじまったら、そのときのおまえの不幸は目に見えている」という一文は、「慎み深さの欠片も無いような気性の荒い女性がおまえ(賢者は講義を聴いている青年を念頭に置いている)という一人の男性をめぐって、いがみ合うのなら兎も角、慎み深い女性が一人の男性を奪い合うという状況は嘆かわしく、おまえにとって不幸である」という意味であろう。

 

・「官庁を敬って服従するを忘れるな。たとえゆがんだ官庁でも。よい眠りはそのことを要求する。権力は好んでねじけた歩き方をするが、それをわたしがどうすることができようか」という件(くだり)は、「権力者・権力機関はしばしば歪むが、個人の力では権力に抗い切ることは出来ない。だから権力が仮に歪んでいたとしても権力に従っておくのが良い」という発想が根底にある。

 

・この発想は、個人レベルでは妥当な場合が多い。たとえば国政選挙などのように有権者数が膨大な選挙では、自分一人が投じた一票は誤差の範囲内となってしまう可能性が高いだろう。(ただし、有権者数がそこまで多くない選挙においては数票差、数十票差で当落が決まることも珍しくはない。)一人の庶民が政治活動を行ったとしても、その政治活動が実現する保証はどこにもないし、そもそも言論活動・政治活動に大きな制限のある独裁国家の場合は、権力に批判的・懐疑的な態度を取っただけで弾圧されるリスクも生じてくる。普通に考えれば、権力者・権力機関に弾圧されたがっている人は居ない。

 

・官庁に敬うことを説いた後、賢者は「羊の群れ」「最良の牧人」という隠喩を展開する。この隠喩は「畜群」「イエス・キリストと牧人の関連性」などを想起させるが、脚注によれば快適な生活が出来るようにしてくれる政府などを褒めたたえているとのこと。

 

・賢者は、ほどほどの名誉と財宝(資産)を理想とし、そして適度な範囲での社交を理想とする。ほどほどの名誉と財宝(資産)を理想とする姿勢(p55)は「彼ら(末人)はもう貧しくなることも、富むこともない」(p31)を彷彿させ、「憂愁の父である胃」(p54)は「そうしなければ胃をそこなう」(p32)を彷彿させる。つまり、賢者の「世俗的道徳にひそむ功利的精神」は末人と共通点が多数ある。

 

・賢者は「夜になっても私は眠りを呼ぶことは避ける。昼のあいだに自分がしたこと・考えたことを考える」と説く。「四十の思い」(p56)とは、p53の最終段落、p54の第一・第二・第三段落に記されている内容のことである。

 

・p56の第四段落は対句のような文章となっている。第五段落において眠り(or眠気)は「盗人のうちの最も愛すべきこの盗人」と形容されているが、これはp53の第三段落を踏まえているのだろう。

 

・p56の第四・第五・第六段落を以て賢者の講義は終わっているが、現代社会において不眠に悩む人は少なくない。余談だが、野比のび太には特技が主に三つある。それは、射撃・あやとり・「すぐ寝れること」である。不眠症の人からみれば、寝ようと思ったときにすぐ寝れてしまう野比のび太は羨ましい存在と言えるのではないか。

 

・p56の第七段落からはツァラトゥストラの見解が語られていく。ツァラトゥストラによれば、賢者は阿呆だが、眠るすべをよく心得ているとのこと。

 

・ツァラトゥストラは「この賢者の近くに住む者は、それだけで幸福である」と述べているが、「幸福」というキーワードも末人に沿っている。それと同時に、「ある魔力がこの講壇そのものにひそんでいる」とも指摘する。

 

・ツァラトゥストラが下山したのは人々に知恵を分け与えるためである。しかし、賢者や賢者の近くに住む者にとって知恵とは「夢の無い眠り」であり、無意味であるとツァラトゥストラは感じ取った。ツァラトゥストラにとって知恵とは「よく生きること」「創造的に生きること」であるため、賢者の価値観とは真逆である。

 

・最後に、ツァラトゥストラは「眠気をもよおしている(催している)これらの者は幸いである。やがてかれらの頭は点頭(うなずき)をはじめるだろうから」と述べる。点頭(うなずき)というのは「横になっていない状態のまま睡魔に襲われる」という意味だと思われる。

 

 

 

 

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