★底本

第二部 p186~193

 

★手塚による要約

同情するのは、他者を弱者とみなして恥じさせることで、恥ずべきことである。愛する対象を鍛え高める高い愛に進むべきである。

 

 

★解説

・この章でツァラトゥストラは羞恥や同情について論じている。前章「25 至福の島々で」にて言及されていた神の死に関する主張も含まれている。

 

・p186に「嘲りのことば」とあるが、この言葉の主は誰なのだろうか。「24 鏡をもった小児」などで言及されている「(ツァラトゥストラの)敵たち」の中の一人なのだろうか。それとも、p190などで言及されている悪魔だろうか。

 

・認識する者にとって、人間は赤い頬をした獣だとツァラトゥストラは語る。人間の頬が赤くなったのは、余りにもしばしば羞恥を感じなければならなかったからだという。

 

・「余りにもしばしば」と手塚は訳しているが、この和訳は正直なところ日本語としてはやや不自然なものとなっている印象を受ける。英語の和訳で喩えるならばvery oftenを「とてもしばしば」と訳するようなものではないだろうか。実は、副詞oftenは「しばしば」の他に「……ことが多い」と訳することができ、そのことを知っていればvery oftenを「……ことがとても多い」と自然に和訳することが出来る。「余りにもしばしば羞恥を感じなければならなかった」も「羞恥を感じなければならぬことが余りにも多かった」などと訳す方が自然なように思われる。

 

・なお、西洋世界において、人類と羞恥のつながりは深い。旧約聖書において、人類の祖先であるアダムとイヴはエデンの園で幸せに暮らしていた。だが、二人は神の教えに反して「知恵の樹」にある「禁断の果実」をかじり、善悪の知識を得たことで裸の姿を恥ずかしいと思うようになり、イチジクの葉で陰部を隠すようになった。それを知った神は二人に激怒して二人をエデンの園から追放した。このときのアダムとイヴの罪をキリスト教では「原罪」という。p188でツァラトゥストラも、このキリスト教用語に言及している。

 

・p189でツァラトゥストラは「わたしの果樹」という暗喩を用いているが、これは「知恵の樹」を念頭に置いた表現なのかもしれない。

 

・ツァラトゥストラにとって、他者に同情することは他者を弱者扱いし、他者に恥をかかせる行為である。そのため、他者への同情は、羞恥心の欠如であり、厚かましさの吐露なのだとツァラトゥストラは考えている。

 

・ツァラトゥストラは喜びや軽快を重視し、「われわれがよりよく楽しむことを学びおぼえるなら、われわれは他人に苦痛を与えるようとする気持などは、きれいに自分のなかから払い落としてしまうだろう。また他人の苦痛になることを考え出すようなこともなくなくだろう」と説く。

 

・ツァラトゥストラは「わたしは悩む者を助けたことのある自分の手を洗う」と語るが、それは助けた相手が「自分は他人から助けを受けるほど惨めなのか」と恥を感じたからである。確かに、プライドの高い者は他人から助けや施しを受けるのを不名誉に感じることがある。

 

・第一部に「23 贈り与える徳」という章があったように、ツァラトゥストラは(知恵を)贈り与える者である。そのため、自分の友には喜んで贈り与える。だが、未知な者や貧しい者たちに対しては(羞恥の念を起こさせることが少ないだろうという理由で)ツァラトゥストラが知恵を直接、彼らに贈り与えるのではなく、彼らが自らツァラトゥストラ(「わたしの果樹」)から自分の手で知恵(「果実」)を摘み取るのがいいと語る。

 

・ただし、乞食たち、罪人、良心に責められている者たちに関しては「寄せ付けるな」とツァラトゥストラは友たちに助言している。

 

・p189では「だが」という接続詞が4回も用いられている。逆接の接続詞は「だが」以外にも複数ある訳なので、手塚が「だが」を多用していることは個人的に少し気になった。

 

・ツァラトゥストラは「何よりもいけないのは、さまざまなちっぽけな考えである。まことに、ちっぽけな考えにふけるよりは、悪を行うほうがましだ」と「ちっぽけな考え」を酷評する。ツァラトゥストラは、悪い行為は腫物(はれもの)に似ているとする。腫物の語る言葉に嘘はないとする一方で、ちっぽけな考えはカビ類に似ていると語る。

 

・確かに、腫物はむずがゆくなり、痛がゆくなり、ついには破れるが、カビ類は全身よりもちっぽけなサイズなのに、最終的には全身を腐らせてしまう。確かに、ただの腫物とカビ類であれば前者のほうがましかもしれない。

 

・「自分の友人が悩んでいるときは、その友人に同情して助けるのではなく、自分自身を堅い寝床(ねどこ)や戦陣用の寝床のような安息の場所にせよ」とツァラトゥストラは説く。ツァラトゥストラは「許しや同情を乗り超えた愛」を「すべての大きい愛」と呼んでいる。ツァラトゥストラによれば、「すべての大きい愛」は対象を愛するばかりでなく、その愛する対象をさらに創造しようとするのだという。

 

・p191に悪魔がツァラトゥストラに述べた台詞が二つ登場しているが、ツァラトゥストラは語り主が悪魔であるにもかかわらず、この二つの台詞を否定的には捉えていないように感じられる。悪魔によれば、神が死んだのは人間への同情ゆえだという。

 

・苛烈(p192):「かれつ」と読む。「厳しく激しい」という意味である。

 

・p192に登場する「すべての創造者」の発する言葉では「わたしの隣人(meinen Nächsten)」と「わたしの愛(meiner Liebe)」が語られているが、キリスト教では隣人愛(Nächstenliebe)が重視される。この章は「すべての創造者は苛烈である」という一文ののちに「ツァラトゥストラはこう語った」という定型句が登場して結ばれている。

 

 

 

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