沖縄県知事は「極左暴力集団が支えている」大浜一郎・沖縄県議発言 とんでもないデマ発言 「極左」?
「極左暴力集団が全部支えている」玉城デニー知事支持者巡り大浜一郎県議(自民)が発言 知事後援会が古謝玄太氏側に抗議【沖縄県知事選挙】9月に行われる沖縄県知事選挙をめぐり、自民党の県議が玉城知事の支持者について「極左暴力集団が全部支えている」などと発言していたことが分かりました。玉城知事の後援会は発言の撤回と謝罪を求めています。発言があったのは、8日に石垣市で開かれた古謝玄太さんの支援者の集会です。玉城知事の後援会などによりますと、自民党の大浜一郎県議が玉城知事の支持者について「警察も認めた。極左暴力集団なんかが全部支えている」などと発言したということです。これを受け玉城知事の後援会は9日、古謝さんの後援会を通して大浜県議に抗議したうえで、発言を撤回し謝罪するよう求めました。古謝さんの後援会側は事実関係を確認するとしています。玉城知事「切り取り発言はいかがなものか」一方、大浜県議はRBCの取材に対し「警察が認めていることを発言した。決して支持者全体を指しているものではない」と釈明しています。大浜県議の発言を受け玉城知事はー。玉城知事(10日午前):「多分、県警本部長の議会の答弁の一部を切り取って発言したと思いますけれども、切り取り発言はあらぬ誤解を招いてしまうので、そこはいかがなものかと言わざるを得ない」県議会では歴代の県警本部長が「基地反対運動を行っている者の一部には極左暴力集団も確認している」などと繰り返し答弁しています。これについて玉城知事は、「警察の調査なので、どういう場面で紛れ込んでいるのか知るすべがない。当然(そうした集団には)参加していただきたくない」と述べています。沖縄県知事は「極左暴力集団が支えている」 自民県議発言が波紋時代の流れが怪しくなると、必ずこの様なまるっきり嘘の発言を堂々としでかす輩が誕生する。沖縄に米国軍はいらない、沖縄の海・陸・空を荒らすなという声が「極左」というなら、自民党の何でも米国の言いなり状態はなんと表現するのだ。既視感あり! 先の杉並区長選で、門ひろこ議員が対立候補の支持者らを「左派系市民団体」「左派活動家」と呼んでいたことを思い出す。意に沿わない人達を「左」とレッテル貼りするのは、自民党のお家芸なのか。 沖縄県知事選(9月13日投開票)に向けた政治集会で、自民党の大浜一郎・沖縄県議が玉城デニー知事について「極左暴力集団が支えている」と発言したことが波紋を広げている。 3選を目指して立候補を表明している玉城氏は10日、発言について「事実無根だ。誤解を広げることがないようにしてほしい」と批判した。しかし、大浜氏は「事実を述べたのみだ」として発言を撤回しない方針だ。「そのような方いない」玉城氏は否定 10日付の琉球新報などによると、大浜氏は8日、地盤とする沖縄県石垣市で、知事選への出馬を表明している元那覇市副市長の古謝玄太氏への支援を呼びかける集会に登壇。玉城氏について「彼を支えている勢力はいったい何なんだ、といつも思っている。最近になって分かった。警察も認めた。極左暴力集団なんかが全部支えている」と述べた。 古謝氏本人は、台風13号接近の影響で、集会に出席していなかった。知事選ではこれまでに、自民の他、日本維新の会、国民民主、参政の各党が古謝氏の推薦…1945年8月11日 『歓喜に沸く連合国』歓喜に沸く連合国 / 知らぬは国民ばかり / 降伏受諾後の特攻出撃命令 / ボーロー飛行場の完成 / 一人ぼっちの通信隊 / 「皇国の道」の教育日本の降伏に世界が歓喜知らぬは国民ばかり8月10日の日本ポツダム宣言受諾のニュースは世界をかけめぐる。 日本政府の対外情報発信を担う「同盟通信社」が8月10日、対外放送で、日本の降伏受け入れ意思を表明した。翌11日のアメリカ新聞各紙には「日本、降伏受け入れ」の活字が大きく踊った。連合国は歓喜に沸いた。しかしこのニュースは、日本国民には伏せられた。 【戦後70年】日本国内で伏せられた降伏 1945年8月11日はこんな日だった | ハフポスト American troops on leave in Paris (France) wave copies of the extra editions of the Paris Post and Stars and Stripes published August 10, 1945, bearing the news that Japan was prepared to accept the surrender terms decided on by Allies at the Potsdam Conference. (Photo by Photo12/UIG/Getty Images)【訳】パリ(フランス)で休暇中のアメリカ軍兵士が、1945年8月10日に発行された『パリ・ポスト』と『星条旗』の号外のコピーを振っている。この新聞には、ポツダム会談で連合国が決定した降伏条件を日本が受け入れる用意があるというニュースが掲載されている。 US troops stop the traffic in the Rue Royale in, Paris, after hearing the unofficial news August 10, 1945, that Japan was prepared to accept the Allied terms of the Potsdam ultimatum of July 20, The Madeleine church may be seen in background. (Photo by Photo12/UIG/Getty Images)【訳】1945年8月10日、日本が7月20日のポツダム最後通牒の連合国の条件を受け入れる用意があるという非公式のニュースを聞いた後、米軍はパリのロワイヤル通りで交通を止めた。背景にはマドレーヌ教会が見える。 VJ Day In London,10th August 1945: Crowds of Londoners gather around Piccadilly Circus to celebrate the news of Japan's surrender. (Photo by Express/Express/Getty Images)【訳】1945年8月10日、ロンドンの VJ デー。ロンドンの群衆がピカデリーサーカスに集まり、日本の降伏のニュースを祝った。 Chinese Rejoice.10th August 1945: Joyful Chinese waiters join Londoners in celebrating the news of Japan's surrender. (Photo by William Vanderson/Fox Photos/Getty Images【訳】中国人は歓喜する1945年8月10日: 喜びにあふれた中国人のウェイターたちがロンドン市民とともに日本降伏のニュースを祝った。国内の報道 -「神州護持の聖戦」11日の日本の新聞では、降伏受け入れ意思の報道は完全に伏せられた。 戦時下、情報は厳しく統制され、国民に対して士気を下げるような報道、発言は禁じられていました。… 1つは下村宏・内閣情報局総裁の談話。「新型爆弾」やソ連侵攻で、戦況は「最悪の状態」と認め、国民に「国体の護持」、つまり天皇を中心とする社会体制の維持を呼びかけた。降伏が近いことを暗示し、戦時体制から新体制への移行が冷静に行われることを求めたとみられる。 「今や真に最悪の状態に立至ったことを認めざるを得ない。正しく国体を護持し民族の名誉を保持せんとする最後の一線を守るため、政府は固より最善の努力を保持しつつあるが、1億国民にありても国体の護持のためにはあらゆる困難を克服して行くことを期待する」 これに対し、阿南惟幾・陸軍大臣の談話は「全軍将兵に告ぐ」と題し、徹底抗戦を呼びかける内容だった。 「断乎神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ。たとえ草を喰み土を囓り野に付するとも、断じて戦うところ死中自ら活あるを信ず」 朝日新聞社内では、若手を中心に「阿南陸相の訓示を没にすべきだ」という意見が上がり、大激論になったという。 「政府がすでに宣言受諾に決定し、連合国に通告という段階で、徹底抗戦の陸相訓示を掲載するのは誤りだ。もしこの報道によって、さらに原爆が投下されることになったらどうするか」(部員・団野信夫ら) 「載せたいと思う。この際の新聞の使命は、国全体がスムーズに終戦になるような役割を果すことで、急激に紙面の調子を変えることは、かえって思わぬ刺激を軍や世間に与えて、国内動乱などを引き起こさぬとも限らぬ」(政経部長・長谷部忠) 【戦後70年】日本国内で伏せられた降伏 1945年8月11日はこんな日だった | ハフポスト宣言受諾後の特攻攻撃宣言受諾の情報は、政府と報道機関によって5日間にわたって国民に知らされなかった。戦争犠牲を一旦停止する措置はとられず、知らされないまま、若者たちは陸軍と海軍によって特攻に送り出された。7月に減じた出撃命令は、8月から再び急激に増える。*18月11日にも海軍喜界島飛行場に待機する神風特攻隊「第二神雷爆戦隊」に出撃命令が下された。「国内動乱など」を避けるためという理由で報道規制された5日間、何も知らされず出撃させられた若者たちは、いったい何のために命を捧げ、奪われたのだろうか。 島に暮らす栄ヤエさん(96)は隊員たちと交流があり、實さんのことを覚えていた。自宅は兵舎の近くにあり、實さんはヤギを見るのを楽しみに毎日のように半袖シャツ姿で訪れた。稲刈りを手伝い、生家 (京都伏見区) での農作業の様子を伝えた。柔らかな物言いで妹の話をしきりにしていたという。8月11日、出撃命令が下る。實さんら隊員は1人ずつ計5機で出撃。家の外で見送った栄さんの上空で、何度も左右の翼を上下に振るゼロ戦が1機あった。「優しい顔をしていてね、男前だった」と栄さんは、照れるように笑った。同史料館の説明では、出撃した5機のうち3機は機体の不具合で引き返し、實さんらの2機がそれぞれ500キロの爆弾を積んで敵艦に向かった。日没45分後の午後7時50分、實さんは「我敵空母に必中突入中」と打電した後、消息を絶った。突入したのは後に、空母ではなく揚陸艦とみられることが分かった。 《「「俺は先に行く、弟に宛てた手紙 終戦2日前にゼロ戦で突入」19歳特攻隊員」京都新聞 2020年8月11日》国外にはポツダム宣言受諾の受諾を伝え、一方で特攻で攻撃する。日本の宣言に歓喜の声をあげ、祝賀ムードに溢れていた米軍側は、不意打ちを食らった形となった。米軍の動向ボーロー飛行場の完成4月1日に日本軍の北飛行場と中飛行場が占領されて以降、読谷村全域が米軍基地化された。米軍が新たにB-29大型爆撃機用の滑走路として建設していた残波岬のボーロー飛行場は、この時期に完成する。 米軍は日本軍が建設した北飛行場 (読谷) と中飛行場 (嘉手納)を拡張し、加えて大型爆撃機用のボーロー飛行場の建設を始めた。当初の計画では、ボーロー飛行場は瀬名波にまで達する巨大な飛行場、また長浜にはB-29の航空基地が計画されていたが、日本の敗戦により建設は左側の滑走路のみで打ち切られる。戦後は遊休化するも、読谷には各種の核兵器と各対応ミサイルサイトが配備されていた。 【左】沖縄のボロポイントを1インチ/1500 フィートのスケールで示した「最後の日報のコピー」を手描き。第78ノースカロライナ大隊が作成し、CCM のエドモン V. アダムスが署名。地図には、ボロポイントのアメリカ海軍飛行場の詳細が示されており、その中にはドゥーリットルB-29ボロ航空基地、および隣接する第87および第78シービー基地の場所も含まれる。 43rd U.S. Naval Construction Regiment Progress Report, Bolo Point, Okinawa. Project #2301 – Works – Digital Collections 【右】1970年撮影の空中写真。黒塗り地域はナイキ、ホーク、メースのそれぞれの核ミサイルサイト。国土地理院航空写真から。 現在、アリビラなどのリゾートホテルを貫く直線道路は返還後の旧滑走路である。第87海軍建設大隊の記録によると、ボーロー飛行場が完成して初めての着陸は、8月11日、損傷したB-29の緊急着陸だった。 The first Boeing B-29 Superfortress “Look Homeward Angel“ to land on Bolo Strip, Okinawa, Ryukyu Retto. Based at Guam, the plane was returning from a bombing mission over Japan when it was forced down by damage to the #4 engine. (Flak cut the oil line, damaging elevator and stabilizer).【訳】ボロ飛行場[残波岬] に着陸した最初のボーイングB-29スーパーフォートレス「ルック・ホームワード・エンジェル」。グアム駐屯だが、日本への爆撃*2の際に第4エンジンに損害を受けたため飛来した(対空砲火によってオイルラインを切られ、昇降舵と安定装置もやられた)。1945年8月11日撮影 写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館ボーロー飛行場を建設した海軍建設大隊は、残波岬に巨大なボーロー・キャンプを展開していた。 Bolo Point 【訳】残波岬8月10日の夜、勝利の喚起に酔いしれた第87海軍建設大隊は、翌日、日本軍の攻撃がまだ続いていることを知り驚く。 翌日、まだ興奮していた兵士たちは、前夜の早すぎる祝賀会のあいだにも、6人が死亡、30人が負傷したこと、そして戦争がまだ続いていることを知って驚いた。 第87海軍建設大隊 (87th NCB) - Basically Okinawa第32軍の敗残兵捕虜収容所の高級参謀沖縄の少年兵たちが終わらない戦いを強いられている一方、本土決戦を引き延ばすため、沖縄を「寝技戦法」の土俵として利用した第32軍の作戦参謀八原博通は、6月26日に民間人になりすまし投降、7月26日頃、取調べ中に高級参謀であることがばれ、越来村の捕虜収容所に一軒家を与えられ破格の待遇で収容されていた。 八原参謀の回想: 私は心中深く脱走を期しつつ、表面は何食わぬ顔で皆と接触していた。苦しい日々であったが、間もなく驚天動地の大事件が相ついで勃発した。広島、ついで長崎に原爆投下、ソ連の参戦、皆機を逸せずアメリカ第10軍の機関紙『バックナー』が報じた。さらに10日同紙は日本が皇位の問題を除いて無条件降伏を申し込んだ旨、大々的に報じた。ラモット中尉、それに衛兵たちは狂喜した。この夜沖縄全島に亘り銃砲声が鳴り響いた。欣喜雀躍したアメリカ軍が祝砲のつもりでめちゃくちゃに乱射乱撃したのである。「ホームタウン」「故郷の町」の歓声が銃砲声の間に間に絶えなかった。私は、祖国日本とその指導層が音もなく崩壊するさまを想像した。もう本土決戦に参加する必要はなくなった。 《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 481頁より》アメリカ軍を最もよく知る参謀の一人として、本土決戦のための持久戦を沖縄に強いた八原博通は、高級将校用の収容所で何を思索し、どのような心境でこの日を迎えたのか、手記からはほとんどうかがうことはできない。戦場の学徒隊 - ひとりぼっちの通信隊作戦参謀が越来の一軒家に収容され、日本の降伏を知るあいだも、多くの兵が終わらぬ戦場を生きていた。日本軍は沖縄の21の旧制中学から上級生を鉄血勤皇隊に、下級生を通信隊として召集した。通信隊は14歳前後からに配属された。中には13歳の学徒もいた。また陸軍中野学校直属の護郷隊に配属された学徒もいた。女子生徒は15歳から19歳で、従軍の看護助手として配属された。 十代半ばで連絡や偵察などを担わされた通信隊は、引率教師もつくことなく、危険な戦場で軍の連絡係として利用され、多くの学徒が亡くなった。沖縄県立第一中学校 -一中通信隊 宮平盛彦さん「女の子なんかが、ところどころ潮だまりがあるでしょ、そこに浮いていたりして、本当に痛ましい状況でした」 糸満市の喜屋武岬に立ち複雑な思いで海を見つめるのは、宮平盛彦さん。沖縄戦当時、わずか14歳で「通信隊」に編入された宮平さんは、8月になっても戦争が終わったことを知らず、南部の険しい海岸べりや、アダンの林を必死に逃げ惑っていました。 宮平さんにはいまも忘れられない体験があります。北部を目指して、西原辺りを逃げていた8月中旬、突然、海の方から大きな音が聞こえたのです。宮平さん「打ち上げ花火みたいにずっと上空に大砲も撃つし、サーチライト、あれを上空に照らしていた、乱舞していた」後で振り返るとそれは8月15日。戦争の勝利を祝うアメリカ軍のセレモニーでした。多くの仲間たちが捕虜になる中、彼が終戦を知ったのは11月のこと。しかし、そのときには彼の両親も兄弟も仲間の多くも戦死。宮平さんは一人ぼっちになっていました。 65年前のきょうは1945年8月11日(土) – QAB NEWS Headlineそのとき、住民は・・・「皇国ノ道」の教育 -神州不滅論 石垣島 大浜村立青年学校の校長の証言 わたしも、戦争が終る前まで、日本国の神州不滅論を生徒にとうとうと説き、励げましていました。そうしたら二、三日で終戦となりました。あの時の気持は複雑怪奇で自分でどう整理していいかわからない状態でした。今考えると恥しい、おかしい話ですが、ほんとにそう思っておりました。 終戦となり、もう一度教職に就こうとは思いませんでした。軍隊の手先となり、若い青年をだまして二度と教地に立つことができるのかと毎日良心の呵責をうけ、とうとう教員をやめることにしました。今は農業をしていますが、あの成長盛りに十分栄養もとらされることなく、炎天下でツルハシをふらされ、飛行場つくりに一生懸命になり、日本国の神州不滅を信じ、牛馬のように働かされた青年たちに、何とわびをしてよいやら、わびのしようもありません。いくら過ぎ去ったこととはいえ二度とあの悲惨な戦争をおこしてはならないと思います。 教育は人を殺すことも出来るし、また人々を愛させることも出来るものだと、今つくづくそう思います。どうかこれからの教育者は科学的真理に基づき真の歴史を教えてもらいたいと思います。そしてほんとうに平和を求める青少年を勇気をもって育ててほしいと思います。 青年学校生徒の白保飛行場建設『沖縄県史』9-10巻 戦争証言 八重山 ( 1 ) - Battle of Okinawa軍作業 - 死体処理 米軍の軍作業は、収容所生活の開始とほぼ同時期に始まった。つまり、日米最後の地上戦闘と同時平行的に実施されたのである。したがって、日本軍の敵情視察を目的とする潜伏斥候(米軍占領地の様子に日本兵が忍び込んでいき情報収集する行為)要員の目には、米軍保護下の沖縄住民はまさに “非国民” と写ったのである。そして、特に南部戦線では、沖縄人はみなスパイであるという噂が飛び交い、住民が日本軍にスパイ視されて虐殺される一因にもなった。 《戦後沖縄の社会史ー軍作業・戦果・大密貿易の時代ー(石原昌家/ひるぎ社) 32頁より》 米海兵隊: These five Nip POW's are busily engaged in burying their dead. Marines, rifles in hand, keep a watchful eye.【訳】死亡した仲間を埋葬するのに忙しい5人の日本兵捕虜。ライフルを手にした海兵隊員が監視の目を光らせている。 1945年 写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館 米軍は、捕虜となった日本兵や民間人を様々な作業に起用したが、そのひとつが死体処理だった。死体処理の作業に駆り出された捕虜は、配られた藁縄、DDT、手袋を持って米軍のトラックに乗せられ、目的地まで連れて行かれた。目的地に着くと銃を構える米兵数名の前を歩かされ、一帯を歩き回った。米兵たちは、鼻をくんくんさせて死体を見つけていった。 死体の手足を藁縄で縛り引っ張って運ぼうとすると、その手足がズルッと抜けてしまう。そうなると、捕虜たちは米兵からDDTをまき、手袋をつけて死体を直接手で運ぶように命令された。たくさんの蛆がわいている死体を目の当たりにした捕虜たちに吐き気が襲う。それを見た1人の米兵は、自ら死体を運んでみせたので、その後は、いやでも死体の後片付けをさせられた。 大抵、一ヶ所に穴を掘り、見つけた幾つもの死体を埋めた。しかし、破壊された民家の内外に30体の死体を発見した時などは、一体一体運び出すのは大変な作業となるため、米兵がガソリンをまき、火をつけて一度に火葬した。 《「沖縄の慟哭 市民の戦時 戦後体験記/戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 380-381頁より》■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■