過去の期待とは裏腹に、重く偏った基地負担は変わっていない。その現実を、全国民がわがこととして直視しなければならない。

 1972年5月15日、沖縄は戦後27年間の米国の占領・統治を経て本土に復帰した。それから52年。日本にある米軍専用施設の7割がなお沖縄県に集中する。

 ここ数年、政府は安全保障環境の変化を理由に防衛力強化の方針を打ち出し、沖縄本島や離島で自衛隊の部隊の新規配備、強化をしてきた。訓練場の新設計画や有事に備えた「特定利用空港・港湾」の指定も推し進める。「標的になる可能性がますます強まる」と、住民の不安は強い。

 本島最北端の国頭村(くにがみそん)の辺戸(へど)岬では、かつて鹿児島県の与論島との間で住民が互いにかがり火をたいて連帯を示した。その崖に、76年に建った「祖国復帰闘争碑」がある。

 碑文には「祖国復帰は実現した。しかし県民の平和への願いは叶(かな)えられず、日米国家権力の恣意(しい)のまま軍事強化に逆用された」と刻まれる。

 県民が願ったのは憲法のもとでの平和と国民主権の保障だったのに、今も遠くにある――。当時青年団の一員として復帰運動に加わった田場盛順(たばせいじゅん)さん(81)は考える。

 先月28日、青年団の元メンバーらは碑の前に集まり、基地固定化への抗議行動をした。52年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効で日本は独立し、主権を回復した。その一方で沖縄は引き続き米国の施政権下に置かれ、分断された。

 「復帰の意味を考える上で72年前の『屈辱の日』こそ重要。先輩たちが頑張ったのに沖縄の現状は変わらず、むしろ悪い方向に向かっている」と田場さんは憤る。

 岸田政権の沖縄への関心は低い。「丁寧な説明」という言葉だけで、県の理解を得ようとする努力は見えない。

 2年前の5月、玉城デニー知事は普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設断念などを求める「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」を岸田首相に手渡した。琉球政府による71年の建議書の理念を踏襲した上で「基地のない平和の島」は「いまだ達成されていない」と指摘。早期解決を求めた。

 だが政府は県の権限を奪う代執行までして今年1月、辺野古で工事を強行した。

 安全保障体制が沖縄の重圧の上に成り立つ現状を放置すべきではない。復帰すれば基地は縮小すると多くの県民が思っていた。なぜ変えられないのか。負担の構図を是正する責任は国民全体にある。