月かげの虹 -9ページ目

内なる子ども


子どもは文句なしに愛らしい。ヒトの子どもに限らず、犬、クマ、ライオン、アザラシ、どれをとっても子どもは無条件にかわいい。

ただし、これらの例からわたしは、鳥や昆虫、爬虫(はちゅう)類という人間から遠くにある異種のたぐいを周到に排除している。

人間の子どもたちの残虐さにもあえて眼(め)を閉ざしている。「子ども」はいつも、わたしたちのいびつな願望がひそかに深く差し込まれたイメージとして表象されるものであるらしい。

欧米の思想は「子ども」に過剰なまでに思い入れてきた。教育の世界でも、芸術の世界でも。

「子ども」は、「大人」の排他的な秩序と対比されて、社会形成のプロセスで不当に抑圧された(われわれのなかの)「高貴なる未開人」として持ち上げられてきたし、子どもが愛らしいのは、まっとうな成人になるためにそれをいったん棄(す)てたうえで、あらためて失われたものとして憧(あこが)れるという、「われわれ」の自己願望が投影されたものにすぎないと、くりかえし指摘されてきた。

「子ども」はさらに、欧米文化の自己批判のたびごとに、文化に飼いならされない「未熟」の可能性のしるしとして、あるいは文化に組み込まれない「野生」のしるしとして、想起されてきた。

社会のアウトサイダーとして、多数なるマイノリティーとして、それは思想やアートにおける革命のシンボルに祭り上げられることも多かった。

「子ども」を主題とするイベントに接するときに、まず用心しなければならないのはそのことだ。「子ども」をもてあそぶ大人の飽くことのない言説。

いま愛知県の豊田市美術館で開かれている展覧会「内なるこども」も、そういう意味でとても危うい場所にあえて立つ。

子どもを主題とした写真と絵画とオブジェ。屈託のない子どもはいても愛らしい子どもはいない。子どもを敢り巻く牧歌的な風景はないし、子どもをただ幼いものとして愛(め)でるそんな作品もない。

むしろ消すに消せない「われわれ」の傷として、あるいは「われわれ」を崩れさせる異物の怖さとして、「子ども」は表象されている。

だから、これらの作品が、「われわれ」の秩序そのものであるような美術館のホワイトキューブのうちに整然と並べられると、ひどく困惑してしまう。

イメージとして透明になることを拒む荒木経惟の初期の写真シリーズ「さっちんとマー坊」。

うつむく子ども、背を向ける少年を大胆な構図で描いた秋野不矩の日本画や香月泰男の油絵。

顔を腕のあいだに埋めているような、脚を組んでいる下半身のような、笹井史恵の、曲線だらけの漆のオブジエ。

子どもたちの集合写真をひとつひとつ拡大して淡く照らすボルタンスキーの追悼のオブジェ。

最後の部屋では背筋を静かな衝撃が走る。尻尾(しッぽ)を脚にからませ手でみずからの眼をつぶすイケムラレイコの立像、遠い記憶の小片に傷つきやすさと暴力とをにじませる奈良美智のドローイング、ヒトの進化を母胎のなかで一気にたどる胎児の異形の顔を描いた加藤泉の油絵と、壁に釘(くぎ)打ちされた木製の頭部からたよりなげに布の身体をぶらつかせる同じ加藤の人形…。

ついそう読みたくなるが、これらは、棄てられた、あるいは忘れられた、「われわれ」の過去なのではない。

むしろわたしたちが見ることを拒んできた「われわれ」の鏡像なのだ。「子ども」を取り戻すことが問題なのではない。

ましてや、失われたものとしてもういちど「内なるこども」と対面することがここで問題なのではない。

キャリアウーマンの携帯電話にぶら下がるキティちゃんのストラップ、サラリーマンが通勤の車中で読むコミックス、銀行の通帳や郵便局のポスターを飾る「かわいい」キャラクターマーク、多くの命を預かるジャンボジェットに描かれた幼児用の巨大漫画、「地球にやさしい」「ちょボラ」(ちょっとボランティア)を訴えるぬいぐるみ姿の宣伝員…。

いま都市の神経をなしているのは「子ども」なのだ。

失われたのではなく、むしろ都市を浸蝕(しんしょく)するそんな「愛らしさ」への、出口のない全面戦争として、わたしはこのたびの「内なるこども」展を観(み)た。

鷲田 清一「愛らしさへの全面戦争」
(哲学者)

2006年5月25日付け 高知新聞朝刊
夢のざわめき
アート探訪 35

共謀罪


「共謀罪」創設法案の話を初めて聞いたのは2~3年前のことだった。それを知らせてくれた友人は「このままでは日本は暗黒社会になる」と危機感を募らせていたが、わたしは正直言ってあまりピンとこなかった。

いくら何でも、話し合っただけで罪に問われるなんて、そんなばかな法案がすんなり通るわけないだろうと思ったからだ。

ところが、その後の事態は友人が憂慮した通りになった。自分の不明を恥じ入るばかりである。

ご存じのように、今までこの国では、仲間うちで犯罪の相談をしても、実際に行動に踏み切ったり、その準備をしたりしなければ、原則として処罰されなかった。

ところが、与党案では「長期4年以上」の罪(殺人、強盗、窃盗、傷害、詐欺など619種)について相談しただけで犯罪となり、最長5年の懲役に服さなければならなくなる。

たとえば、市民団体が企業の社屋内での座り込みを決議しただけで組織的威力業務妨害の共謀罪になりかねない。

労働組合が「社長が譲歩するまで、徹夜も辞さない、手厳しい団交をやろう」と決めただけで組織的強要の共謀罪に問われかねない。

つまり「実際に行動に出なければ、心の中で何を考えようと、何をしゃべろうと自由だよ」という、わたしたちの社会の大前提が一片の法律で覆されるのである。

法務省の「暴力団などの組織的な犯罪集団を取り締まるもので、まじめな市民には適用されない」という説明はまやかしだと思ったほうがいい。

原案にはそんな記述はなく「団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行われるもの」とあるだけだ。

野党の批判を受け「組織的な犯罪集団に限る」と修正されたが、だからといって安心はできない。なぜなら「犯罪集団」かどうかを決めるのは捜査当局だからだ。

座り込みなどの抗議行動を繰り返す団体や組合は容易に「組織的な犯罪集団」とみなされうるし、脱税工作の相談をする企業の経営陣だって該当しないとは言えない。

こう言うと「それは考えすぎだ」と思われるかもしれない。だが、最近の治安当局の暴走ぶりを見てほしい。

例えば、2年前の2月には、東京都立川市の防衛庁官舎に「イラク反戦」のビラを入れた市民グループの3人が住居侵入容疑で逮捕され、75日も拘置された(一審・無罪、二審・有罪で上告中)。

翌月には東京都中央区のマンションで、共産党の機関紙を配った社会保険庁の職員が国家公務員法違反容疑(政治的行為の制限)で逮捕された。

同じようなケースが各地で相次ぎ、会社と対立する組合員や、「日の丸・君が代」に反対する元高校教師らが摘発された。

なぜ、当局は戦前の特高警察のような取り締まりを始めたのか。その理由はおそらく2つある。

一つは、かつての過激派やオウム教団といった摘発対象をなくした公安警察の生き残り戦略だ。行政改革という名のリストラを免れるには、新たな摘発対象をつくり、自らの存在意義をアピールするしかない。公安警察のエリート官僚たちはそう考えたのだろう。

もう一つの理由は住民意識の変化である。近所づきあいや商店街、各種組合などを通じて形作られた住民同士の連帯感が近年、急速に薄れだした。

その結果、一人一人の孤立感や不安感が増大して、見知らぬ者や不審者への警戒心が強まり、当局の取り締まり強化を望む空気が生まれた。

それが分かっているからこそ、当局は微罪逮捕に踏み切ったのである。共謀罪も同じ住民意識の変化を背景に登場してきた。

当局はこれほど使い勝手のいい"武器"を手にしたら、それをフルに使って組織の維持拡大を図ろうとするだろう。密告者奨励のための刑の減免規定もあるから、摘発材料の入手に苦労することもないに違いない。

そうなれば、わたしたちは仲間と語り合うとき、うっかり冗談も言えなくなる。自由なコミュニケーションが失われた、息苦しい社会で生きていかなければならなくなる。

魚住 昭「共謀罪の危険性」
うおずみ・あきら
1951年熊本県生まれ。
一橋大卒。共同通信記者から96年フリーに。著書に「特捜検察」など。

2006年5月21日付け
高知新聞朝刊
識者評論
自由のない社会へ
  住民意識変化も背景

猫神社


ほこらの扉を開けると…。えっ、招き猫がいっぱい? 須崎市箕越(みのこし)地区に猫神様を祭った「猫神社」がある。

須崎市民にもあまり知られていない存在だが、一部の人々の間では相当に有名らしく、「ぜんそくなど首から上の病気を治す」とされる御利益を求めて県外から訪れる人も。

病気が治ったお礼にと「招き猫」を奉納する習慣が数十年前から続いている。

箕越は、8世帯約20人が暮らす須崎港に面した小集落。山際の小道脇に戦後建立された小さな鳥居とほこらがある。鳥居に掛かった木製の額には「猫神社」の字。

ほこらの中には、木彫りの猫と石の御神体が祭られており、その周囲には参拝客らが「願いがかなったお礼に」と奉納した約60体の招き猫がひしめいている。

神社に神主はおらず、地元住民が大切に管理している。ほぼ毎朝、同神社に供え物をする浜口倖子さん(64)は「地元では昔から『猫さん』言うて、皆が心のよりどころにしています」。

毎年4月には、別の神社の神主、戸田七五三一(しめいち)さん(94)=同市東古市町=を招き、祝詞を奉納している。

戸田さんや須崎市史によると、「猫さん」はもともと江戸中期、現在の吾川郡仁淀川町(旧吾川村)の寺で飼われていた。年齢を重ねた大猫だったらしい。

この大猫、毎夜毎夜、和尚の衣をまとって僧に化け、集めた猫らと河原で踊り興じていた。あるとき和尚がそれに気付き、大猫は追放される。そして、流れ流れて箕越にたどり着いたという。

猫さんの「霊力」にまつわる話もある。追放後のある夜、和尚の夢に猫さんが現れ「長年お世話になったお礼に、自分の力で和尚様にお手柄を立てていただきます」と告げた。

ほどなく近隣の領主だった深尾公が亡くなったが、不思議なことに祭礼会場に置かれたひつぎが少しも動かせなくなった。参会した僧らは困り果てたが、この和尚が祈るとひつぎは軽々と動き、和尚は高徳をうたわれるようになったという。

その霊力を慕ってか、箕越の人々はこの地で死んだ猫さんを祭るようになった。同市史には「諸病、特に婦人の病や脳病に顕著な御利益」と記されているが、参拝者らに評判なのは「ぜんそくが治る」という御利益。

しかし、その由縁は定かではない。「昔、ぜんそくの女性が海でおぼれた猫を助けて祭ったら、ぜんそくが治った」「猫はのどがゴロゴロなるからでは?」 と諸説ある。

同様に祈願成就のお礼になぜ招き猫を置くかも不明。いつ、だれが始めたのか。浜口さんは「何代も管理者が代わっているので分からない」と首をかしげている。

同神社は住民らがひっそりと守っており、観光名所でもなく、ガイドブックにも掲載されていない。

しかし御利益がうわさになり、いつごろからか県内外から参拝客が訪れるようになった。遠くは東京、広島からも訪れ、数年前にはわざわざ大型バスでやって来た団体も。近年では安産や合格祈願、中には迷い猫を探すために参拝する人もいるという。

約30年前、小児ぜんそくで夜も寝られない長男のために参拝した女性(60)=高知市=は「参拝後、息子は扁桃腺(へんとうせん)をはらして5日間も高熱にうなされましたが、ぜんそくは治りました。引っ越しによる環境の変化もあったでしょうが、病気が治ったお礼に神社へ招き猫を持っていきました」。

今、長男は31歳で県職員として元気に仕事をなしている。

こうした快方祈願に限らず、「猫神社? 珍しい」と県外から訪れる人々も。インターネット上では猫愛好家らによる「死ぬまでに一度は参らないといけないエル一サレムみたいな…」という記述もある。つまり猫好きの聖地になりつつある。

参拝客が「幸運になれば」と持ち帰るケースもあるものの、招き猫は年々増え続けている。住民らは数年前、ほこらからあふれた招き猫を戸田さんに拝んでもらって処分。

「願いがかなった喜びはよく分かるし、だから持って来るなとは言えないが…」と少々困惑している。

小さなほこらから須崎の海と箕越の人々を見守ってきた「猫さん」。御利益を求める人々とお礼の招き猫は当分後を絶ちそうにもない。(芝野祐輔)

2006年5月19日付け
高知新聞夕刊

猫愛好家にとってもはや聖地
御利益の宝庫 ?「猫神社」
ぜんそくに定評 参拝客絶えず
須崎市箕越地区

90の手習い


物持ちがよい。これは昔から美徳の一種と考えられていることなのですが、昨今は多少事情が変わってきたみたい。

昨年の暮れ、物持ちのよさでは人後に落ちぬお姑さんから、いきなりこんな電話がかかってきました。

「実は、おとうさまが、ちょっとね、ついにお釈迦(しゃか)に…」

慌てましたね。舅(しゅうと)、齢(よわい)90歳。いつなにがあってもおかしくないお年です。

ついに来るべきモノが来たかなと一瞬覚悟をきめました。ところが、「お釈迦」になったのは、お舅さん自身ではありません。

「あらやだ、あなた、おとうさまのワープロのことよ」

えっ! よくよく聞いてみると、大事に使ってきたワープロ、ついに事切れちゃったらしいのです。

自らの心身だけではなく、機械も大事に使う。テレビも白黒テレビ、まだ健在。それはそれでリッパな心がけと言えましょう。

でも、ワープロの場合、新しいのを買おうとしたら、今時あんまり見かけません。

自立心の強いお舅さんは、困りながらも知恵をしぼって、数年前ウチからもらわれていったまま放置されていたコンピュータを使ってみようとしました。

が、ひとりではぜんぜん歯が立たなかった、
とのこと。それはそうですね。ワープロ(ワードプロセッサー)は、文章を書くための専用の機械。

コンピュータは、それだけではなくて、インターネットやらゲームやらいろいろな機能がついているマルチな機械。そもそもシステムがぜんぜんちがいます。

しかも、お舅さんが使っていたワープロは、キーボードがかなり待殊なタイプで、一般に使われているものとは違います。

困りました。テレビや掃除機みたいに、本人の努力をそれほど必要としていない電気機器とちがって、AV関係の機器は、使用者がいろいろ学習しなければならないことがあり、中年の我々でさえ、はげしい変化についてゆけず、まごつくことが多いのです。

それでも背に腹はかえられないお舅さん。ついにコンピュータの練習を始めました。90の手習い。がんばってーという家族の黄色い声援にもかかわらず、これがかなりの難儀。

とくに一番の苦労はキーボードについている、マウスと呼ばれている部分。かたちがネズミ(マウス)に似ているので、そう呼ばれている部位ですが、それをもってパシパシッと二回ボタンをおさなければならないのです。

これが、お年寄りにはそうとう難しかったようです。「ワープロがなくなる。これって老人いじめではないのかね?」と、練習のあいまに手を休めてお舅さんはこぼしました。

「そういえば、わたしの友人の神父は、電動式ではないタイプライターを買いたがっていたな」

これは、古道具屋やネットオークションを巡回するしかないかなとの心配をよそに、お舅さんは「まずは、この機械を愛し、ネズミをいじめることに慣れなければならないのだね」という境地に達したようでした。

ものは大事に使わなければ。今あるもので充分です。そういうご決意のもと、以後、地道に毎日、ねずみ小僧のレッスンです。

ところが、そんな彼の苦闘ぶりがお友達に伝わりはじめたのか、知り合いから旧いワープロをゆずっていただくことになりました。友人の神父さんも、やはり古いタイプライターをゆずりうけた、とのこと。

捨てる神あれば、拾う神あり。平均寿命が延びて長寿大国になったニッポンと、世界に冠たる電脳国家ニッポンとが、ヘンなところで衝突したわが家の事件です。

が、結局、お友達ネットワークで解決いたしました。長持ちは人間関係にも反映されていた、というわけですね。

小谷真理「長寿国家と電脳国家」
こたに まり
SF&ファンタジー評論家。
著書『女性状無意識』で日本SF大賞受賞。『星のカギ、魔法の小箱』『テクノゴシック』ほか。

2006年5月22日付け
赤旗新聞より

天岩戸はなぜ開く


ミディアムレアに焼き上げられた赤みを残すステーキに添えられているのは、ボイルしたほくほくのじゃがいもと人参、緑が目にも新鮮なブロッコリー。

その上にたっぷりとかけられた濃厚なソースは香り立つ赤茶のデミグラスです。お気に召しませんか? では桜のチップでしっかり薫製した香ばしいスモークサーモンのオープンサンドに、白身魚のフリッターはいかがでしょう。

飲み物にはいっそう食欲を刺激する赤ワイン、もしくはビールをお好みで。どうです?なかなか趣向をこらしたメニューだと思いませんか?

ではこのメニュー、いったいどこで出されたものなのでしょう。多くの方は、少し気の利いたレストランか、自宅ならば何かの記念日にでも出されたものなのでは、と考えられたのではないでしょうか。

ですが実はこのメニュー、北欧の高齢者介護施設で出された、なんの記念日でもないある日のランチメニューなのです。

総合リハビリテーション学部、医療リハビリテーション学科の備酒助教授の専門は高齢者ケア。デンマークヘの視察の際に訪れた高齢者介護施設で見たその「なんでもない昼食」に、驚きを隠せなかったそうです。

なぜなら、同じ時期、日本で一般的に出されていた介護食との間にあまりに大きな差を感じたからです。

北欧の食事には、作り手に「楽しんでもらう」という強い意識があって、食べる側に「食べたい」と思える気特ちを十分に感じさせるものがあったからです。

これは、日本におけるこれからの福祉や介護の制度を考え創りだす上で、真理とも言うべき大事なこと。

つまり福祉や介護の制度とは、「仕方なく使う」のではなく、「使いたい」と思えるものでなくてはならないということです。

誰にも後ろめたい思いをすることなく、いやいやながら利用するものでもない。介護保険料という義務を果たすことで許された当然の権利。それが介護であり福祉なのです。

食事はもちろん、このことは介護福祉制度全般にあてはまります。備酒助教授があるおとしよりのお宅に在宅介護へ赴いた時のこと。

その方はベッドでの起き上がりや立ち上がって1~2歩なら歩くことができるという身体機能のある方でした。

身体機能の維持・回復のために「少し動いてみませんか」と言うと、「わしは麻庫があるから動けない」と言う。

ならば、ということで、おじいさんが50年来もの間続けてきた牛の世話にお誘いしたところ、言い終わらないうちにベッドから起き上がり、歩き出そうとしたと、備酒助教授は微笑みます。

これはいわば、「天の岩戸」のようなもの。天照大神が閉じこもった岩戸を開くのは、屈強な男達の腕力ではなく、楽しく明るい宴と踊りなのです。

天照大神が「出たい」と思ったからこそ、重い岩戸は開いたわけです。介護や福祉の本質は、岩戸を開くことによく似ています。

つまり、なによりもまず「心」を開くこと、そこが介護福祉のスタート地点になるわけです。

「介護や福祉は、押し付けるものではなく、支えるものである」総合リハビリテーション学部の学生たちを前に、備酒助教授は何度も繰り返します。

理学療法士として、23年間現場を見続けた上でのひとつの答え。その答えが学生たちに受け継がれ、新たな日本の介護福祉を創造する。

その日を夢見て、備酒助教授は今日も教壇へと向かいます。

備酒 伸彦「天岩戸はなぜ開く」
びしゅ のぶひこ

神戸学院大学
総合リハビリテーション学部
医療リハヒリテーション学科助教授

SKYWARD 3月号
JAL機内誌

ヒュームの情念論


人は情念のおもむくままに生きているのに、知性に基づいて行動を制御すべきという考えも捨てきれない。情念に流され続ける自分を弱い存在だと自戒する。

しかし、18世紀イギリスの哲学者ヒュームはこうした知性主義に抵抗した。「知性は情念の奴隷であって、しかもそうあるべきであり、知性は決して、情念に仕え従う以上の任務を要求できない」。

疲れきった朝、会社をさぼりたくなる。しかし今日休めば仕事が間に合わずクビになると知性は計算する。寝ていたいという情念を押さえ込んでしぶしぶベッドを出る。

この出社という選択は知性の教えであるように見えるが、その選択を支えているのはクビになりたくないという情念である。

もちろん、クビを恐れる単純な情念ではなく、クビになれば家族を養えないという知的判断が、出社の選択を支えているのかもしれないが、その場合でも、家族を守りたいという情念がさらに根底に働いていることになろう。

家族を守りたいという情念を満たすためには出社するほうがよいと知性が判断しているのである。知性の役割は、「情念の奴隷」として、情念の求めを実現する有効な手段を、情念のために見つけることにすぎない。

18世紀ヨーロッパ、人類は、科学的合理性を信じ、従来の学問や制度に知性のメスを入れ、知性で確認できることのみを頼りに進み始めた。

その時代にあってヒュームは訴えた。知性が機能するために必要な足場がある。たとえば情念である。すべてを知性で裁き、知性を支える土台までも知性の審判にかけようとする考えは、土台である情念を知性の吟味にさらし、情念への不信を芽生えさせ、その感覚を鈍らせる。

現代は知性の勝利を謳歌する時代である。天体現象や気象現象が科学的に解明され、宇宙へ人類が飛び出し、地球の周りを飛行機が飛び交う。神秘とされた生命現象にも先端技術が導入される。

しかし同時に、どう生きるかには指針がもてず、人を殺してはならぬという規範には確信がもてないニヒリズムの時代でもある。

こうした知性によって答えの出ない問いかけに途方に暮れる人が増えているとしたら、それは、人類が知性の勝利に酔って、知性を支える様々なものたとえば情念の声を聞きその熱を感じる力が一時的に麻痺しているからかもしれない。

情念を知性で裁くのではなく、逆に知性を情念に基づける、このヒュームの考え方に現代の歪みを和らげるためのヒントがあると思う。

久米 暁
くめ あきら
関西学院大学文学部
専任講師

関西学院大学スカイセミナー
SKYWARD  5月号
JAL機内誌

ソースカツ丼


いわゆる「洋食」の定義を「西洋で生まれた料理を元にして日本国内でアレンジし、ご飯と相性のよい一品に仕上げたもの」とするならば、「ドミグラスソースカツ丼」は断然その陣営に組み入れられる。

ドミグラス・ソース(Demi-glace Sauce)は、フランス語で半分を意味するドミ(デミ)と、煮詰めた煮汁を表すグラスが合わさった言葉。

一般的には小麦粉をバターで色がつくまで炒めてからいったん冷まし、仔牛の肉や骨、野菜を煮込んでつくったダシと合わせ、丹念にアクを除きながら元の分量の半分ほどまで煮詰めていく。仕上げの風味づけとしてワイン加えることも多い。

路面電車が走る大通りから少し入った一角に、麻の暖簾が揺れている。岡山のドミグラスソ一スカツ丼発祥の店『味司(あじつかさ)野村」。

玄関口には水が打たれていた。引き戸を開ける。揚げられたばかりのカツの匂いと、食欲中枢を直接刺激するドミグラスソースの香りが、鼻腔を一気に開かせる。7卓のテーブルは満席だった。

創業1931(昭和6)年。当初は品目を取り揃えた食堂としてスタートしたが、初代店主の野村佐一郎さんは「ドミグラスソースをふんだんに使ってご飯と相性のよい料理を極めたい」との思いから研究を重ね、いつしかメニューを絞り込んだ。

その時代、ドミグラスソースはハイカラな西洋の食文化の代名詞でもあった。初代店主は東京の帝国ホテルまで足を運んで教えを請うたこともあるという。

調合したドミグラスソースの味は、2代目を経て、現在の店主である3代目宏司さんが受け継いだ。一子相伝。詳細なレシピは、この春に高校を卒業したばかりの息子さんにしか伝えられていない。

味司野村には卵とじカツ丼もメニューにあるが、注文する人は2割に満たない。この店では「カツ丼」とオーダーすれば、褐色のトロリとしたソースがかかったものが運ばれる次第。

主人が3代目なら客側も同様で、3世代のファミリー揃って訪れる姿もある。通常のサイズのほかに、小ぶりな「子カツ丼」、さらに少量の「孫カツ丼」が用意されているから、食が細い人でも気後れせずに頼める。

来ました来ました。見た目にも重量感あふれる丼。カツの全面を覆い隠す、光沢を帯びた深い茶色のドミグラスソース。本来ならば主役であるはずのカツを抑えて、ソースそれこそが主役の座に君臨している。

表面には5粒のグリーンピース。一片のカツを箸で持ち上げれば、その下からは茄でたキャベツが顔を覗かせる。丼と口の間でしばし箸を止め、ためつすがめつ、ソースをまとった一片のカツを見る。

湯気だけでも美味しい。囓りつく。あああああ。極上の温泉に浸かった時に似た無言の法悦。コクがあり、焦げるか焦げないか絶妙の折り合いで仕込まれたとわかる濃厚なドミグラスソースが、味蕾にまんべんなく行きわたる。

さっくりとした衣を割って、カツの肉汁が新たに染み出してくる。茄でキャベツを箸休めにつまみ、その底に埋蔵されたご飯を口に運ぶ。あとはもう、その循環、リピート、繰り返し。

岡山の人は幸せである。市内にはこのほかにも『やまと』『だてそば』など、ドミグラスソースカツ丼の繁盛店がある。その2店は中華スープをベースにしたソースを使う。

腕によりをかけたドミグラスソースカツ丼を知ってしまった身を、岡山以外のどこが救ってくれるだろうか?

ソースカツ丼は国内のいくつかの街の名物になっているが、岡山のそれは洋食ソースの王道ドミグラスソースをたっぷりとかけた魅惑の一品として一目置かれている。

一度はまると癖になる。卵でとじたカツ丼だけの食文化では満たされなくなる。岡山に行かれる人は、その覚悟をもって、お臨みあれ。

立山 弦「ドミグラスソースカツ丼」
SKYWARD 5月号
JAL機内誌

水戸黄門と肛門科


自宅の近所の街道ぞいに、ある巨大な看板が立っている。白地に黒の太文字で、「多摩肛門科」と縦に書かれており、電話番号のほかに余分な添え書きは何もない。

実に潔い。義のあるところ火をも踏む、という決意さえ感じさせる大看板である。

私は痔主であるから、この看板の下を通るたびに神の顕現を見たかのような感動をする。ただし、まだこの医院の世話にはなっていない。ここまで堂々たる看板を出すからには、お寺でいうなら大本山格の名医であろうし、私のごとき小痔主など相手にされないのではなかろうかと思うのである。

ほとんど毎日のように、私は街道ぞいのこの大看板の下を通るのだが、あるとき車の運転をしながらふと魔が差して、あらぬ想像をしてしまった。

多摩肛門科があるのなら、茨城県の県庁所在地には、「水戸肛門科」があるのではなかろうかと考えたのである。

おかしい。ものすごくおかしい。ここまでおかしい連想をすると、どうしてもてめえひとりで笑っているわけにはいかず、家に帰るとただちに104に電話をした。

水戸肛門科が本当に存在したなら、その事実を知ったとたんに笑い死ぬのではなかろうかと危倶した。書斎から104に通話をしたままの姿で変死したら、世の人々はさぞ首をかしげるであろうと思った。

「あの、ちょっとお訊ねします。茨城県水戸市の、水戸肛門科という病院をお願いします」

係員はたぶんうら若き女性である。玉を転がすような美声で、「水戸肛門科ですね、少々お待ち下さい」とこともなげに言った。

鈍感なのか、それとも職業意識に燃えているのか、女性は笑わなかった。

「あいにくですが、水戸肛門科という名前では見当たりません。肛門科でしたら、水戸中央病院にその診療科目がございますが、そちらをお教えしましょうか」
「いいえ、けっこうです」
と、私は電話を切った。

ともかく変死体を晒さずにすんだのは幸甚と言うべきであろう。命永らえたものの、何となくつまらなかった。

かつて同じ発想により「ダスキン多摩」を探したことがあった。これはさすがに存在しなかったが、かわりに「ダスキン玉川」「ダスキン玉堤」を発見して、大いに溜飲を下げたものである。

惜しい。実に惜しい。水戸に肛門科医院がないはずはない。ならばなぜ、水戸肛門科という秀逸なネーミングを避けたのであろう。国道ぞいに墨痕あざやかな水戸肛門科の大看板を立て、余分な添え書きは一切せずに、三葉葵の紋所を描いてほしかった。実に惜しい。

それはさておくとして、水戸黄門様について知るところを少し書いておくとしよう。

俗に「黄門」は「中納言」の唐名であるとされているが、これは正しい説明ではない。唐代に門下省という官庁があって、そこの次官を「黄門侍郎」と称した。

けっして「肛門痔瘻」ではない。このセクションは天子の詔勅も役人からの上奏も、一切を管掌したというから相当の権力を持っていたのであろう。

「黄門」はこれに由来するのだが、わが律令官制の「中納言」とはあまり関連がないように思える。したがって「黄門は中納言の唐名」とする一般的な常識は甚だ疑問である。

そこで私の痔論、じゃなかった、持論を述べておく。

幕末の時点で、徳川御三家のうち尾張と紀伊は大納言であるが、水戸家当主の官位は中納言のままである。

初代頼房は家康の末子で、2代将軍秀忠とは24歳も年が離れていた。「黄門様」光圀はこの頼房の子である。

水戸家は官位こそ尾張や紀伊の下だったが、そのかわり2つの特典が与えられていた。ひとつは在府大名として江戸に常住し、参勤交代を免ぜられた。

もうひとつは常に江戸にあって、将軍の職務を補弼(ほひつ)した。つまり、これは公式名称ではないが、「副将軍」と言えばそうである。

江戸時代の初めには、おそらく水戸徳川家の当主が常に将軍のかたわらにいて、相当の権勢を誇っていたのであろう。その職掌が唐代の門下省における黄門侍郎に似ていたので、水戸の殿様を称して「黄門様」と呼んだのではあるまいか。

「中納言の唐名が黄門」という学説には根拠がない。「黄門侍郎のような権力を持つ水戸中納言」が正解であろうと私は考える。

ちなみに、律令官制と中国の官制を強引に比定するのなら、詔勅の審議という職掌から考えて「中務輔(なかつかさのすけ)」が黄門侍郎ということになる。

おそらく光圀が黄門様を自称したのではあるまい。周囲の学識者たちがその権威ぶりを評して、「まるで黄門だよな」と陰口を叩いたのがそもそもの発端ではなかろうか。

それを耳にした光圀が「おい、どういう意味だ」と詰問したところ、学者は答えに窮して、「黄門とは中納言の唐名です」などと言った。かくして「水戸黄門」なる妙な名前が誕生したのである。

3代将軍家光が実は愚者であったという、興味深い学説がある。これを事実と仮定すれば、黄門様の実像が何となく浮かび上がってくるではないか。

もっとも、秀忠、家光、家綱の3代にわたって将軍を補佐したのは光圀の父の頼房であったから、黄門様と陰口を叩かれたのはこちらで、光圀はその渾名(あだな)まで世襲したのかもしれない。

黄門様が住んでいた江戸上屋敷は、現在の東京ドームを中心にして、南は水道橋、北は中央大学理工学部のキャンパスまで呑みこむ約10万坪の敷地を有していた。小石川後楽園の庭園はその遺構である。

15代将軍徳川慶喜は水戸家の出身である。水戸家は副将軍であるかわりに宗家の相続権を持たなかったから、苦肉の策で一橋家の養子に入り、そこから将軍となった。

一枚格下の中納言家としては悲願を達成したわけだが、同時に悲劇まで達成してしまったことになる。

あまり知られていないことだが、尊皇攘夷のスローガンをまっさきに掲げて、明治維新の原動力となったのは水戸藩であった。

しかしさきがけとなった志士たちはみな維新前に死に絶えてしまい、明治政府の顕官と呼ばれる人は出なかった。水戸は近代国家の

礎となったと言っても過言ではない。

水戸肛門科も惜しいけれど、維新を見ずに死んでいった水戸の志士たちには、実に惜しむべき人材が多かった。

浅田次郎「黄門伝説」
あさだ じろう

作家。日本ペンクラブ理事。1951年、東京都に生まれる。『地下鉄(メトロ)に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員(ぽっぽや)』で直木賞、『壬生義士伝』で柴川錬三郎賞」を受賞。壮大なスケールで描く『蒼穹の昴』、琴線揺さぶる短編集『霞町物語』等、多彩な作風で多くの読者を魅了し続けている。近著は『天切り松 闇がたり』(第4巻)昭和侠盗伝」(集英社)、「憑神(つきがみ)」(新潮社)、『お腹召しませ』(中央公論新社)

SKYWARD 3月号
JALグループ機内誌

今年は医療崩壊元年か


小児科では若手女性医師が4割、産婦人科では5割です。にもかかわらず、月平均の時間外労働は100時間以上、それに更に加えて、月平均4,5回の当直。その際には、ほとんど仮眠もとれず、2日連続の32時間連続勤務。

このような実態で、女性医師が果たして働き続けることができるでしょうか。結婚や出産、あるいは、体力の衰えを機に、小児科や産婦人科の医師を辞めたり、開業したりする女性医師が増えるのは当然です。

しかし、厚生労働省は女性医師の雇用継続について有効な支援をしてきませんでした。院内保育所の設置や、短時間労働の選択、そして、3交代のシフト制など、やるべきことは多いのに、対策は進んでいません。小児科、産婦人科の医師不足問題は、女性医師問題とさえ言えます。
 
今まで日本の医療は病院の勤務医の方々の献身的な過重な労働基準法を完全に違反した労働により成り立ってきました。しかし、女性医師が増えた今日、そのような「根性主義」では、もう制度が持たないのです。地方の病院が医師不足が原因で閉鎖され、小児科、産婦人科、麻酔科などの医師不足が深刻化しています。

医師は各分野で不足しています。しかし、その実態を表に出せば、医師を増やさねばならなくなります。そうすれば、今回、政府が提出した「医療費抑制」を第一目的とした医療制度改革法案が、成り立たなくなるのです。だから、政府は、最新の実態を出さないのです。

どこの病院でもいいです。病院に行けば、医師不足の実態がわかります。にもかかわらず、全く実態から目をそむけている政府には、医療の未来を語れません。実際、看護師や薬剤師をはじめ、医療従事者すべてが過重労働に苦しんでいます。

そして医師が過酷な医療現場を立ち去ることにより、医療現場がいま、各地で崩壊しているからです。医師が「過重労働だからおかしい」と労働組合をつくって主張するでしょうか? 「労働時間を短くしろ」と要求しても、そもそも医師がいないのですから、無理なのです。それに、「高い給料もらっているし、患者の命を預かっているのだから、過重労働に不平を言うのはおかしい。医師は聖職だ」という批判もあります。

だから、今まで病院の勤務医は大きな声では、自らの労働条件の過酷さを訴えることはしませんでした。病院勤務医の悲鳴はなかなか国会には届いていませんでした。 その結果、過酷な労働はずっと放置されてきました。しかし、もう限界です。いま、病院で起こっているのは、「立ち去り型サボタージュ」別名「逃散(ちょうさん)」と、呼ばれる現象です。

つまり、文句を言っても労働条件は良くならないので、病院を辞める。あるいは、開業医になる。楽な診療科に移る。そもそも医学生が、過酷な労働条件の産婦人科、麻酔科、小児科、へき地などを選ばない。という傾向です。これは、形を変えた勤務医のストライキとも言えるものです。

厚生労働省が、労働基準法違反の現状を黙認している。もし、おかしいと指摘すれば、医師不足が明らかになってしまう。また、何よりも1つの救急病院を労働基準法違反で摘発しても、実は、ほとんどすべての救急病院が、労働基準法違反の実態があり、労働基準法違反を摘発すれば、日本の医療体制が崩壊してしまう。これを黙認している厚生労働省の責任は大きい! 

逆に、病院も正確に労働基準局に労働実態を届け出たら、違反になるので、違反にならないような書類しか出さない。その結果、病院も厚生労働省も過重労働の医師を守ってくれない。それどころか、ますます事態は深刻化し、医師が逃げていく。
医師が逃げれば逃げるほど、残った医師は、過酷な労働を強いられる。こんな医療崩壊スパイラルが、今すごいスピードで進んでいます。

安心してお産ができない国、安心して子どもが医療を受けられない国、地方では十分な医療が受けられない国に、日本はなろうとしている。しかし、その「医療崩壊」の現実をわざと見ようとしない政府。そして、患者や家族も医師への要求はエスカレートするが、病院の勤務医の労働条件の向上にはほとんど関心を示しません。そして、医療訴訟が最近、増えています。小児科や産婦人科を志望する若手医師が減るのも当然かもしれません。

今ここで、救急病院や産婦人科、小児科をはじめとする過酷な病院勤務医の労働条件を改善しないと日本の医療は崩壊します。患者も過労状態の医師からは良い医療を受けることができません。

そして、今、多くの医師が過酷な医療現場から「立ち去ろう」としている時、それを食い止めるのは、医師を増やすこと、開業医や他の診療科から援助を受けることなどのために、多くの予算を集中的に投入せねばならないのです。

すべての医師が過重労働なわけではないです。地域によって、病院によって、診療科によって、また、開業医か勤務医かによって、仕事の大変さと収入に大きな差があります。それをある程度、平均化することが必要ですし可能です。

しかし、そのためには多くの予算が必要になるため、政府は「医療崩壊」を防ぐ具体的な政策を今回の医療制度改革案には盛り込んでいません。今年、この法案が成立すれば、2006年は「医療崩壊元年」として歴史に残るでしょう。

クロネコヤマトの宅急便


小倉昌男という生き方
             
2005年7月1日の朝刊を開いて、驚いた。「宅急便」の創始者で元ヤマト運輸社長の小倉昌男さんの訃報が出ていたのである。

80歳という年齢だからそのこと自体は不思議でもないのだが、この数日前に、以前にお世話になった会社社長を久しぶりに訪ねた際、手土産として小倉さんの著書『「なんでだろう」から仕事は始まる』(講談社)を持参し、おまけに小倉さんが亡くなった当日(6月30日)もオフィスで同書を読み返していた矢先の報道だったため、ただならぬ奇遇を感じたのだ。

小倉さんがヤマト運輸の二代目社長になったのは1971年、46歳のときだった。
当時、関東を本拠に置く大手運送会社であった同社は時代の波に乗り遅れ、ジリ貧の状態。何か手を打たねば、会社の存続すら危ぶまれるというときに創業者で父の小倉康臣さんが突然の脳梗塞で倒れ、息子の昌男さんが社長に就任したのである。
新米社長にはまことに厳しい船出と言えた。

しかし同社はこの五年後、民間企業としてはじめて小口宅配便の分野に進出し、「クロネコヤマトの宅急便」の名で未曾有の大成功を収めるのである。文字通り、これは戦後産業史に残る快挙と言っていいだろう。

当時国鉄と郵便局が独占していた小荷物分野は民間会社が手をつけても絶対に採算が合わないと信じられていた。すでに強大な全国ネットワークがある役所だからできるので、いつどこから発生するかわからない家庭からの小口需要を小さな規模の民間運送会社がビジネスにできるわけがない、誰しもそう思っていたのだ。

だから小倉さんが、大口商業貨物から手を引き、小口宅配便一本に絞る方針を役員会に諮ったときに、全役員が猛反対したのもうなずける。あまりに無謀な、自殺行為にしか思えなかった。

しかし小倉さんは、一般家庭から出る小口荷物について論理的に考え抜き、大口商業貨物と小口宅配便の比較を行い、新業態の発明に自信を深めていった。

牛丼一本に絞って成功を収めつつあった吉野家にヒントを得て、小口宅配便一本に絞る戦略を採用したことも功を奏した大きな要因となった。

小倉さん自身、「清水の舞台から飛び降りる気持ちで宅急便を開始した」と述懐しているが、これは決して誇張ではない。初日の取り扱い荷物はわずか11個、「かならず家庭の主婦が支持してくれる」という固い信念のもとに一歩を踏み出した、まさに“背水の陣”の船出だったのである。

小倉さんはまた、運輸省や郵政省の官僚と正面から対決した「戦う経営者」としても知られている。

当時のトラック運送業は「道路運送法」という、まるで時代遅れの法律で規制されていた。利用する道路ごとに路線免許が必要だったのである。全国展開を目指すヤマト運輸は、いちいち運輸省に免許申請をせざるを得なかったが、東北の路線で地域業者からの反対を理由に申請を5年も放置されてしまったのである。

そして運輸省役人は日参するヤマト社員にこううそぶいたという。「既存業者の反対を抑えてくれれば何時でも免許をやる」。

宅急便の全国展開に社運を賭けていた小倉さんは、堪忍袋の尾を切った。1986年に当時の運輸大臣・橋本龍太郎を提訴したのである。これにあわてた運輸省は、すぐに免許を交付した。

「幸いにしてヤマト運輸はつぶれずにすんだ。しかし役人のせいで、宅急便の全国展開が少なくとも5年は遅れている。規制行政がすでに時代遅れになっていることすら認識できない運輸省の役人の頭の悪さにはあきれるばかりであったが、何より申請事案を5年も6年も放っておいて心が痛まないことのほうが許せなかった。与えられた仕事に最善を尽くすのが職業倫理ではないか。倫理観のひとかけらもない運輸省などない方がいいのである。」(「小倉昌男-経営学」日経BP社)

小倉さんは晩年もじつにすばらしい。ヤマト運輸の経営から身を引いてのち、時価24億円のヤマト運輸株を寄付して福祉財団を設立、「いまの時代に障害者の月給が一万円というのは納得がいかない」とパンのチェーン店を展開するなど、障害者の自立を手助けする福祉事業に専心したのである。見事のひとことに尽きる生涯であった。

小倉さんは、私たちに会社のあり方や経営、さらには人生というものを教えて、静かに去っていった。そして、こんな言葉も遺している。

「私は、経営者には『論理的思考』と『高い倫理観』が不可欠だと考えている。経営は論理の積み重ねである。論理的思考のできない人に、経営者となる資格はない。併せて経営者は高い倫理観を持ってほしい。社員は経営者を常に見ている。トップが自らの態度で示してこそ企業全体の倫理観も高まると、私は信じている」

企業経営者に限らずとも、あらゆる組織のリーダーはこの言葉に耳を傾けるべきだろう。

         Text by Shuhei Matsuoka

http://nobless.seesaa.net/article/4824880.html