ヒュームの情念論 | 月かげの虹

ヒュームの情念論


人は情念のおもむくままに生きているのに、知性に基づいて行動を制御すべきという考えも捨てきれない。情念に流され続ける自分を弱い存在だと自戒する。

しかし、18世紀イギリスの哲学者ヒュームはこうした知性主義に抵抗した。「知性は情念の奴隷であって、しかもそうあるべきであり、知性は決して、情念に仕え従う以上の任務を要求できない」。

疲れきった朝、会社をさぼりたくなる。しかし今日休めば仕事が間に合わずクビになると知性は計算する。寝ていたいという情念を押さえ込んでしぶしぶベッドを出る。

この出社という選択は知性の教えであるように見えるが、その選択を支えているのはクビになりたくないという情念である。

もちろん、クビを恐れる単純な情念ではなく、クビになれば家族を養えないという知的判断が、出社の選択を支えているのかもしれないが、その場合でも、家族を守りたいという情念がさらに根底に働いていることになろう。

家族を守りたいという情念を満たすためには出社するほうがよいと知性が判断しているのである。知性の役割は、「情念の奴隷」として、情念の求めを実現する有効な手段を、情念のために見つけることにすぎない。

18世紀ヨーロッパ、人類は、科学的合理性を信じ、従来の学問や制度に知性のメスを入れ、知性で確認できることのみを頼りに進み始めた。

その時代にあってヒュームは訴えた。知性が機能するために必要な足場がある。たとえば情念である。すべてを知性で裁き、知性を支える土台までも知性の審判にかけようとする考えは、土台である情念を知性の吟味にさらし、情念への不信を芽生えさせ、その感覚を鈍らせる。

現代は知性の勝利を謳歌する時代である。天体現象や気象現象が科学的に解明され、宇宙へ人類が飛び出し、地球の周りを飛行機が飛び交う。神秘とされた生命現象にも先端技術が導入される。

しかし同時に、どう生きるかには指針がもてず、人を殺してはならぬという規範には確信がもてないニヒリズムの時代でもある。

こうした知性によって答えの出ない問いかけに途方に暮れる人が増えているとしたら、それは、人類が知性の勝利に酔って、知性を支える様々なものたとえば情念の声を聞きその熱を感じる力が一時的に麻痺しているからかもしれない。

情念を知性で裁くのではなく、逆に知性を情念に基づける、このヒュームの考え方に現代の歪みを和らげるためのヒントがあると思う。

久米 暁
くめ あきら
関西学院大学文学部
専任講師

関西学院大学スカイセミナー
SKYWARD  5月号
JAL機内誌