水戸黄門と肛門科
自宅の近所の街道ぞいに、ある巨大な看板が立っている。白地に黒の太文字で、「多摩肛門科」と縦に書かれており、電話番号のほかに余分な添え書きは何もない。
実に潔い。義のあるところ火をも踏む、という決意さえ感じさせる大看板である。
私は痔主であるから、この看板の下を通るたびに神の顕現を見たかのような感動をする。ただし、まだこの医院の世話にはなっていない。ここまで堂々たる看板を出すからには、お寺でいうなら大本山格の名医であろうし、私のごとき小痔主など相手にされないのではなかろうかと思うのである。
ほとんど毎日のように、私は街道ぞいのこの大看板の下を通るのだが、あるとき車の運転をしながらふと魔が差して、あらぬ想像をしてしまった。
多摩肛門科があるのなら、茨城県の県庁所在地には、「水戸肛門科」があるのではなかろうかと考えたのである。
おかしい。ものすごくおかしい。ここまでおかしい連想をすると、どうしてもてめえひとりで笑っているわけにはいかず、家に帰るとただちに104に電話をした。
水戸肛門科が本当に存在したなら、その事実を知ったとたんに笑い死ぬのではなかろうかと危倶した。書斎から104に通話をしたままの姿で変死したら、世の人々はさぞ首をかしげるであろうと思った。
「あの、ちょっとお訊ねします。茨城県水戸市の、水戸肛門科という病院をお願いします」
係員はたぶんうら若き女性である。玉を転がすような美声で、「水戸肛門科ですね、少々お待ち下さい」とこともなげに言った。
鈍感なのか、それとも職業意識に燃えているのか、女性は笑わなかった。
「あいにくですが、水戸肛門科という名前では見当たりません。肛門科でしたら、水戸中央病院にその診療科目がございますが、そちらをお教えしましょうか」
「いいえ、けっこうです」
と、私は電話を切った。
ともかく変死体を晒さずにすんだのは幸甚と言うべきであろう。命永らえたものの、何となくつまらなかった。
かつて同じ発想により「ダスキン多摩」を探したことがあった。これはさすがに存在しなかったが、かわりに「ダスキン玉川」「ダスキン玉堤」を発見して、大いに溜飲を下げたものである。
惜しい。実に惜しい。水戸に肛門科医院がないはずはない。ならばなぜ、水戸肛門科という秀逸なネーミングを避けたのであろう。国道ぞいに墨痕あざやかな水戸肛門科の大看板を立て、余分な添え書きは一切せずに、三葉葵の紋所を描いてほしかった。実に惜しい。
それはさておくとして、水戸黄門様について知るところを少し書いておくとしよう。
俗に「黄門」は「中納言」の唐名であるとされているが、これは正しい説明ではない。唐代に門下省という官庁があって、そこの次官を「黄門侍郎」と称した。
けっして「肛門痔瘻」ではない。このセクションは天子の詔勅も役人からの上奏も、一切を管掌したというから相当の権力を持っていたのであろう。
「黄門」はこれに由来するのだが、わが律令官制の「中納言」とはあまり関連がないように思える。したがって「黄門は中納言の唐名」とする一般的な常識は甚だ疑問である。
そこで私の痔論、じゃなかった、持論を述べておく。
幕末の時点で、徳川御三家のうち尾張と紀伊は大納言であるが、水戸家当主の官位は中納言のままである。
初代頼房は家康の末子で、2代将軍秀忠とは24歳も年が離れていた。「黄門様」光圀はこの頼房の子である。
水戸家は官位こそ尾張や紀伊の下だったが、そのかわり2つの特典が与えられていた。ひとつは在府大名として江戸に常住し、参勤交代を免ぜられた。
もうひとつは常に江戸にあって、将軍の職務を補弼(ほひつ)した。つまり、これは公式名称ではないが、「副将軍」と言えばそうである。
江戸時代の初めには、おそらく水戸徳川家の当主が常に将軍のかたわらにいて、相当の権勢を誇っていたのであろう。その職掌が唐代の門下省における黄門侍郎に似ていたので、水戸の殿様を称して「黄門様」と呼んだのではあるまいか。
「中納言の唐名が黄門」という学説には根拠がない。「黄門侍郎のような権力を持つ水戸中納言」が正解であろうと私は考える。
ちなみに、律令官制と中国の官制を強引に比定するのなら、詔勅の審議という職掌から考えて「中務輔(なかつかさのすけ)」が黄門侍郎ということになる。
おそらく光圀が黄門様を自称したのではあるまい。周囲の学識者たちがその権威ぶりを評して、「まるで黄門だよな」と陰口を叩いたのがそもそもの発端ではなかろうか。
それを耳にした光圀が「おい、どういう意味だ」と詰問したところ、学者は答えに窮して、「黄門とは中納言の唐名です」などと言った。かくして「水戸黄門」なる妙な名前が誕生したのである。
3代将軍家光が実は愚者であったという、興味深い学説がある。これを事実と仮定すれば、黄門様の実像が何となく浮かび上がってくるではないか。
もっとも、秀忠、家光、家綱の3代にわたって将軍を補佐したのは光圀の父の頼房であったから、黄門様と陰口を叩かれたのはこちらで、光圀はその渾名(あだな)まで世襲したのかもしれない。
黄門様が住んでいた江戸上屋敷は、現在の東京ドームを中心にして、南は水道橋、北は中央大学理工学部のキャンパスまで呑みこむ約10万坪の敷地を有していた。小石川後楽園の庭園はその遺構である。
15代将軍徳川慶喜は水戸家の出身である。水戸家は副将軍であるかわりに宗家の相続権を持たなかったから、苦肉の策で一橋家の養子に入り、そこから将軍となった。
一枚格下の中納言家としては悲願を達成したわけだが、同時に悲劇まで達成してしまったことになる。
あまり知られていないことだが、尊皇攘夷のスローガンをまっさきに掲げて、明治維新の原動力となったのは水戸藩であった。
しかしさきがけとなった志士たちはみな維新前に死に絶えてしまい、明治政府の顕官と呼ばれる人は出なかった。水戸は近代国家の
礎となったと言っても過言ではない。
水戸肛門科も惜しいけれど、維新を見ずに死んでいった水戸の志士たちには、実に惜しむべき人材が多かった。
浅田次郎「黄門伝説」
あさだ じろう
作家。日本ペンクラブ理事。1951年、東京都に生まれる。『地下鉄(メトロ)に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員(ぽっぽや)』で直木賞、『壬生義士伝』で柴川錬三郎賞」を受賞。壮大なスケールで描く『蒼穹の昴』、琴線揺さぶる短編集『霞町物語』等、多彩な作風で多くの読者を魅了し続けている。近著は『天切り松 闇がたり』(第4巻)昭和侠盗伝」(集英社)、「憑神(つきがみ)」(新潮社)、『お腹召しませ』(中央公論新社)
SKYWARD 3月号
JALグループ機内誌