内なる子ども | 月かげの虹

内なる子ども


子どもは文句なしに愛らしい。ヒトの子どもに限らず、犬、クマ、ライオン、アザラシ、どれをとっても子どもは無条件にかわいい。

ただし、これらの例からわたしは、鳥や昆虫、爬虫(はちゅう)類という人間から遠くにある異種のたぐいを周到に排除している。

人間の子どもたちの残虐さにもあえて眼(め)を閉ざしている。「子ども」はいつも、わたしたちのいびつな願望がひそかに深く差し込まれたイメージとして表象されるものであるらしい。

欧米の思想は「子ども」に過剰なまでに思い入れてきた。教育の世界でも、芸術の世界でも。

「子ども」は、「大人」の排他的な秩序と対比されて、社会形成のプロセスで不当に抑圧された(われわれのなかの)「高貴なる未開人」として持ち上げられてきたし、子どもが愛らしいのは、まっとうな成人になるためにそれをいったん棄(す)てたうえで、あらためて失われたものとして憧(あこが)れるという、「われわれ」の自己願望が投影されたものにすぎないと、くりかえし指摘されてきた。

「子ども」はさらに、欧米文化の自己批判のたびごとに、文化に飼いならされない「未熟」の可能性のしるしとして、あるいは文化に組み込まれない「野生」のしるしとして、想起されてきた。

社会のアウトサイダーとして、多数なるマイノリティーとして、それは思想やアートにおける革命のシンボルに祭り上げられることも多かった。

「子ども」を主題とするイベントに接するときに、まず用心しなければならないのはそのことだ。「子ども」をもてあそぶ大人の飽くことのない言説。

いま愛知県の豊田市美術館で開かれている展覧会「内なるこども」も、そういう意味でとても危うい場所にあえて立つ。

子どもを主題とした写真と絵画とオブジェ。屈託のない子どもはいても愛らしい子どもはいない。子どもを敢り巻く牧歌的な風景はないし、子どもをただ幼いものとして愛(め)でるそんな作品もない。

むしろ消すに消せない「われわれ」の傷として、あるいは「われわれ」を崩れさせる異物の怖さとして、「子ども」は表象されている。

だから、これらの作品が、「われわれ」の秩序そのものであるような美術館のホワイトキューブのうちに整然と並べられると、ひどく困惑してしまう。

イメージとして透明になることを拒む荒木経惟の初期の写真シリーズ「さっちんとマー坊」。

うつむく子ども、背を向ける少年を大胆な構図で描いた秋野不矩の日本画や香月泰男の油絵。

顔を腕のあいだに埋めているような、脚を組んでいる下半身のような、笹井史恵の、曲線だらけの漆のオブジエ。

子どもたちの集合写真をひとつひとつ拡大して淡く照らすボルタンスキーの追悼のオブジェ。

最後の部屋では背筋を静かな衝撃が走る。尻尾(しッぽ)を脚にからませ手でみずからの眼をつぶすイケムラレイコの立像、遠い記憶の小片に傷つきやすさと暴力とをにじませる奈良美智のドローイング、ヒトの進化を母胎のなかで一気にたどる胎児の異形の顔を描いた加藤泉の油絵と、壁に釘(くぎ)打ちされた木製の頭部からたよりなげに布の身体をぶらつかせる同じ加藤の人形…。

ついそう読みたくなるが、これらは、棄てられた、あるいは忘れられた、「われわれ」の過去なのではない。

むしろわたしたちが見ることを拒んできた「われわれ」の鏡像なのだ。「子ども」を取り戻すことが問題なのではない。

ましてや、失われたものとしてもういちど「内なるこども」と対面することがここで問題なのではない。

キャリアウーマンの携帯電話にぶら下がるキティちゃんのストラップ、サラリーマンが通勤の車中で読むコミックス、銀行の通帳や郵便局のポスターを飾る「かわいい」キャラクターマーク、多くの命を預かるジャンボジェットに描かれた幼児用の巨大漫画、「地球にやさしい」「ちょボラ」(ちょっとボランティア)を訴えるぬいぐるみ姿の宣伝員…。

いま都市の神経をなしているのは「子ども」なのだ。

失われたのではなく、むしろ都市を浸蝕(しんしょく)するそんな「愛らしさ」への、出口のない全面戦争として、わたしはこのたびの「内なるこども」展を観(み)た。

鷲田 清一「愛らしさへの全面戦争」
(哲学者)

2006年5月25日付け 高知新聞朝刊
夢のざわめき
アート探訪 35