月かげの虹 -7ページ目

旅の朝は早い

日頃は朝寝坊で、とりわけ胃袋の寝覚めが悪い私だが、旅に出るとにわかに早起きになり朝から食欲も満開になる。 そんな私をいつも完膚なく迎え撃ってくれるのが中国の朝飯屋である。数百年の昔にタイムスリップするような北京の胡同(フードン)をそぞろ歩きながら、賑やかな人だかりに割り込んで立ち喰いする朝食ほど嬉しいものがあるだろうか。 私はまず刻み青葱を焼き込んだ香ばしい葱餅にかぶりつく。北京の主食は米ではなく小麦粉だから、餅というのは小麦粉を練って焼いたり揚げたりしたものである。 それから盛大に湯気を上げている蒸籠(せいろ)から、小ぶりの肉饅頭も幾つか貰う。仕上げは、豆腐脳という凄い名前の一品で、丼いっぱいの汲み上げ豆腐に醤油味の熱々の餡(あん)がどっぷりとかかっているのを、レンゲで掬ってフウフウ吹きながら平らげる。 さらに余力があれば麺にも手をのばす。青葱をどっさり入れたつゆそばがあっさりしてスルッと胃におさまる。 広大な中国だから朝食も地方によって違い、南方に行くと米の粥が中心になる。私は苦手だがさまざまな臓物入りの粥も多く、朝からしっかりと精力がつきそうだ。 上海では必ず小籠包を注文する。薄い皮の中からピュッと溢れる熱い汁で上顎を火傷しそうだが、このスリリングな美味で、どんな寝坊すけでも必ず目が覚めるだろう。 イスラム圏の蘭州では豚肉が姿を消すが、かなり濃厚な牛肉麺や羊肉麺でズシリと栄養をつけて、過酷な砂漠の旅に備えるのである。 朝食の充実度では英国も中国といい勝負だろう。気楽なB&Bでも朝食は重厚で、昼食は、要らないほど朝に鱈腹(たらふく)食べて出掛けられるから、お金も時間も節約できる。 幽霊が出そうに古ぼけたロンドンのホテルで、この爺さんももしかして幽霊の一味ではと思わせるよぼよぼの老給仕長が、レトロなフロックコートで恭しくサーヴィスしてくれた正調イングリッシュ・ブレックファーストは忘れられない。 まず暖炉の前に跪き火加減をチェックした給仕長が、金網のパン焼き籠を火にかざして微妙に動かしながら実にほどよく焦がしたトーストは、その上にバターを置くなりじゅわじゅわと小気味よく溶けて拡がっていく。 それに鰊(にしん)の生っぽい燻製をこんがりとバター焼きにしてレモンを絞りかけたのをあしらって食すのだ。まさに英国の醍醐味である。 紅茶も淹(い)れ方によってこれほど味が違うのかと驚嘆するほど、彼のまろやかなミルク・ティーは絶品で、女王様が召し上がる紅茶はこういうものなのだろうと、思わず背筋を伸ばしてしまうのだ。 以来日本でロイヤル・ミルク・ティーと称するものを飲む度に、何がロイヤルよ、これだけの値段にするなら、あの爺さんでも連れて来てほしいわと悪態をつきたくなる。 桐島洋子「旅の朝は早い」 きりしま ようこ 作家 1937年東京都生まれ。 SKYWARD 6月号 JALグループ機内誌

土佐学のすすめ



地域学という言葉がある。
英語では、グローカロジー(Glocalogy)というらしい。

“世界を視野に入れた、地域に根ざした学問”という意味であるが、単なるローカロジー(Localogy)でない点がミソである。

地域と海外が東京を介さず直接、かつ容易につながるあり方を示唆した言葉であり、たとえていえば江戸期、徳川幕府は鎖国を標榜していたが、平然とアジア各国と盛んに貿易と交流を行って力と富と情報を蓄えていた薩摩がその好例である。

「地方」と違い、「地域」はそもそも「東京」の反意語ではない。
東京も関東地方の一地域であり、他の地域と対等の関係にあることはいまさらいうまでもないことだが、これからの地域のあり方を考えるとき、この地域学という概念はきわめて重要な意味をもつことになるだろう。

明治維新以来、一般に「学」といえば、西洋からやってきたものをそっくり真似て、発電所である東京から、配線によって全国津々浦々に広げてきた。しかしそんなやりかたはすっかり陳腐化してしまった。

また外からの大手資本による一時的投資によらない、いわば内発的発展こそが地域の本当の自立を可能ならしめるという点でも、地域の学問、つまり地域学の力が必要となる。

奈良法隆寺の名工・西岡常一(故人)しかり、「森は海の恋人」で有名な気仙沼の牡蠣漁師・畠中重篤しかり、大分の湯布院に奇跡をもたらした中谷健太郎しかり。こういった地域の風土に根ざした地域学は、軽佻浮薄なる頭だけの「学」とは一線を画して、隆として起立しているようにわたしにはおもえる。

土佐の場合の「土佐学」、これをあえて「土佐派」と呼ぼう。
「土佐派」とは、いい言葉である。たとえば京都には学問や芸術・文化の世界に独自の「京都派」「京都学派」があり、東京、あるいは東京的なもの、官僚的なものや権威へのアンチテーゼとして存在する。

この伝でいえば、土佐派の特長は、異端だがかなりの実力があり、野性的で華美を好まず、本質を鋭く衝く野太さ、力強さが際立つ点だろうか。

さて、土佐には「土佐派の家」という建築家の一派があり、かれらの伝える伝統的な技や手法がすでに「学」の領域にまで達しつつあることは高知の皆さんならご存知のはず。土佐の漆喰、和紙、杉・檜など土着の素材をふんだんに使った完全自然派住宅、百年住める野太くモダンな木造住宅である。

地域の建築家たちがひとつの派を形成して、それも地域に深く根ざしながら普遍的な価値を生み出している例は、おそらくほかにないだろう。

住宅とは、ひとが住む容れものにとどまらない。風土をまもり、景観をかたちづくり、地域の経済に影響をおよぼし、歴史や文化をきちんと伝承する、きわめて重要な役割を担っている。

わたしなどは映画のセットのような白々しく嘘っぽい何とかハウスは、ごめん蒙りたい。が、しかしこれが世の主流なのである。そしてこの歪んだ風潮にきちんと反旗をひるがえす運動が、「土佐派の家」なのである。

ほかにも、もっともっといろんな分野で「土佐派」がなければいけないとおもう。
そういうところに人材があつまり、みなが議論しつつ切磋琢磨し、「学」にまで高めてゆくことで地域学が確立される。そしてそれらが地域の内発的発展を導き出してゆくことだろう。

もちろん同時に、大事な「地域の誇り(プライド)」も醸成される。いいことづくめなのである。

 さて、土佐派私案。
 「土佐派の食」というのはどうだろう。
土佐の食のありようは、気候風土にほぼすべてを負っている。
温暖で、ものなりのよい肥沃な大地と豊かな海を抱え込んだ長い海岸線にめぐまれ、そのせいか繊細さや優美さを発展させなかったが、天然、素朴な食材を多く産し、加工に知恵をしぼり、あるいは豪快にさばいてみせる技が発達した。
それはまさに土佐派と呼ぶにふさわしい独特の食文化といえる。

また「土佐派の志」はどうか。
幕末から明治、大正、昭和初期ごろまでの土佐から出た傑物の「志」である。
「志」こそ、いまの日本人が失ったもっとも大きなものであり、土佐はこの専売特許といっていい。まさに宝庫なのだ。

坂本竜馬、中岡慎太郎、武市半平太、中江兆民、小野梓、植木枝盛、幸徳秋水、板垣退助、黒岩涙香、金子直吉、牧野富太郎、寺田寅彦、浜口雄幸、吉田茂、小島祐馬…。ああ、枚挙にいとまはない! 

もういちど、これをきちんとした「学」として体系化して地域の人々が共有し、発展させなければいけないと、切実におもう。

そんなわたしの気持ちが伝わったのか、じつはいま、これら3つの土佐派を、大手出版社と共同でシリーズとして本にする企画が浮上している。実現できれば、「土佐学」の絶好のテキストになることだろう。
 
       Text by Shuhei Matsuoka

http://nobless.seesaa.net/article/16803961.html

ケニー・ランキン「愛の序奏」


自分の生まれた街や育った場所に、その後も暮らし続けるということは、そんなに多くないでしょう。

そして自分が覚えているそうした風景は、自分の瞼のうらに焼きついたまま、永久に失われてしまったのだという感傷にふけることがあります。

私が生まれ育った東京はその最たる場所といえるかもしれません。その変化はどこかで止まることのないまま、現在も壊され新たな再生がはじまっています。

それを思うと、仕事で何度も行ったパリは変わらない。とはいえ、数年ぶりに行ってみると、ギョッとするものが建っていたり店も変わっていたりするけれど、行きつけのカフェやレストランがそのままあるのが嬉しい。

24年前、レコーディングのために初めて行ったパリ。右も左もわからず、メトロの切符も買えず、もたもたしている私に窓口の女性は、バチンッとその辺を叩いて怒りを露に……。

そのようなことが度重なり、最初の印象は最悪でした、しかし、その翌年もまた仕事で行くことになり、翌々年もまた……。

パリというのは不思議な街でます。我が儘な恋人のように、もう2度と会わないぞ! と思っても、離れると恋しくなる。

パリヘ行く目的はレコーデイングのためで、機嫌の悪いメトロの窓口嬢に遭遇する不幸はあったけれども、仕事の仲間はつねに素晴らしかった。

スタジオ・ダヴーに足を踏み入れた時のことを忘れることができません。古い木の床と高い天井。そこはかつて、あの有名な映画『男と女」をレコーデイングしたスタジオでした。そこがそのままにある。

音楽家にとって、そういう場所で仕事をすることは、ひとつの憧れなのです。ロンドンのアビーロード・スタジオもそういう場所であるように。

スタジオだけではなく、コンサート・ホールやオペラ・ハウス。数えきれないほどの演奏が行われたその場所には、音楽の女神がすんでいるのです。

そして、1999年に私は再びパリのスタジオ・ダヴーで録音をしましたが、音の素晴らしさは以前にも増していました。

ここにご紹介するケニー・ランキンは、何10年経っても色褪せないアルバム『The Kenny Rankin Album(愛の序奏)」からの一曲で、1977年の録音。

そしてこのアルバムが凄いのは、すべての演奏・歌を同時に録音していること。つまりいっぱつ録り! そしてこの完成度。演奏家も歌手もほんとに上手くなければできないことで、現在ではほとんどありえないことです。

この曲を聴くたびに、その賛沢さにうっとりしてしまう。音楽のように触ることも、持って帰ることもできないものと出会う場所。それは、私たちの心に残る風景かもしれません。そしてそれを創り出す場所というのも、失われてはならない場所だと思うのです。

大貫妙子「音の住処(すみか)」
旅する耳

SKYWARD 6月号
JALグループ機内誌

参考HP
http://www.onfield.net/hihou/contents/11.html
http://www.kennyrankin.com/

つれづれに、w杯


ワールドカップ開催を祝して……というわけじゃないのだが、今回はまずサッカーにちなんだ旅行記を。

近藤篤著『サッカーという名の神様』は、16カ国(日本も含む)を巡り歩いた世界サッカー紀行。

檜舞台で脚光を浴びるスター選手よりも、市井の民衆がボールを蹴る風景を撮り続けるサッカー写真家である著者は、そんな「路地裏のサッカー文化」を旅情とユーモアに溢れる珠玉の文章で写し取っている。

ワールドカップだって、そんな無名のおっさんや子供たちの「球蹴りゴッコ」に支えられているのだ。

〈そんな南の小さな島でも、やっぱり人々はボールを蹴り、得点を喜び、失点を悔しがり、オフサイドをめぐって口論する。子供たちはボールの向こうに夢を見て、大人たちは子供たちの背中を押してやろうとする〉(モルディブの章より)。

この球蹴りゴッコが世界の共通言語になってしまったわけを、感覚的に理解できる旅行記だ。あなたのワールドカップの見方もちょっと変わるかもしれない。

ブラジルでもイタリアでもベトナムでもケニアでも、サッカーをきっかけに現地の人々といきなり打ち解けることができた奇跡のような体験が、僕自身にも何度かあった。

「サッカーという名の神様」の存在を、日本人はもっと知っておいて損はないと思う。ワールドカップで日本が勝ち進むためにも、だ。

さて、ワールドカップから話は思わぬ方向へと向かう。8年前、フランス・ワールドカップの機会に初めてマルセイユという街を訪れた。さまざまな民族と文化が混交する港町を歩きながら、昔読んだ金子光晴の『ねむれ巴里」の冒頭シーンを思い出した。

そこに描かれているのは4分の3世紀も前のマルセイユだけれど、当時の著者があの街の空気を見事に活写していたことを「実感」することができた。

不思議な気分だった。おそらくあの天才詩人は街とそこに生きる人間の本性を、時空を超えて見抜いていたのだろう。

さて、僕の連載最後の1冊は、やや唐突に十返舎一九著『東海道中膝栗毛』。実は先日、生まれて初めて原文で読んだのだが、これが江戸、いや日本文学史上空前のベスト&ロングセラーになった理由がよくわかった。

物見遊山、人間模様、トラブル、カルチャーショック、道連れのドタバタ……旅のエッセンスがすべてぶち込まれている。

200年前の大衆がこんな木を楽しんでいたのだから、やはり日本の旅行文化も捨てたものじゃないのである。

山崎浩一「つれづれに、W杯」
やまざき こういち
コラムニスト
1954年神奈川県生まれ

SKYWARD 6月号
JALグループ機内誌

感覚の世界


ふと気がつくと、世の中はずいぶん便利になっている。もはや電話とも言えないケータイ、何でもできるパソコン。どこにいようと動かすのは指先だけですんでしまう。便利になりすぎて心配だ。

そんな人もいるだろうが、僕には別に不安はない。明治生まれの僕の母は、馬に乗って小学校に通っていたが、晩年は車で外出していた。そのくらい、人間には適応力があって、すぐ慣れる。

ただ、便利を享受するだけですむのか、置いていってしまうものはないのか、考える必要はある。"IT社会" は、いわば脳と脳をつなぐことで成り立っている社会。

僕のイメージでは、海に浮いている氷山のてっぺん同士をつなぎ合わせているだけで、見えている部分よりはるかに大きな海面下の部分は忘れられがちである。

海面下、つまり意識の下にあるのは体だ。体に何が起こっているか、脳は気づかない。脳がコンピュータの画面を追うのに熱中している間も、胃や腸は一生懸命消化作業をやっている。ときにはそれを思い出してやらなくてはいけない。

個性は脳の中ではなく、体にある、というのが僕の考えだ。体に備わっている感覚も、だからひとりひとり違う。同じ場所で同じものを見ても、見え方は人によって全部違う。

世の中の大方の人は、「それはそうだけど、そんなものは小さな違いでしょ」で片づけてしまう。脳がつくり出した世界、つまり都会に暮らしていると、言葉や概念(これも脳がつくったものだ)でくくれるものだけがすべてになる。

ウチの猫もノラ猫も、白い猫も黒い猫も、すべて違う猫だが要するにみんな「猫」。「猫」という言葉で、どの人も同じ動物を思い浮かべる。このように、概念の世界は他人と共通性があるが、感覚はその人だけの独自のものだ。このことを、人間はすぐ忘れる。

たとえば、僕が腹が減ったと感じるとき、隣にいる人も空腹だとは限らない。だが文明化された社会では、12時になるといっせいにメシを食うことになっている。ひとりひとり違うはずの感覚の世界を同じにすることで、文明を成り立たせているわけだ。

僕に言わせれば、そういう思想のとどのつま
りがコンピュータ、" IT社会" なのである。パソコンを便利な道具として使い倒すならいいが、自分が情報を出し入れするだけのパソコンになってしまっている人が多い。

コンピュータは自ら変わることをしない。いつ誰が使っても同じでなければ具合が悪いからだ。個性が大切とやたら言われるのも、こうした状況の反動であろう。

感覚の世界の違いを無視していくと、個人の人生は消えてしまう。だが本当は、その他大勢の「ただの人」などはひとりもいない。あなたの人生は、あなた限りの限定品なのである。

養老孟司「"個性は体の中にあるもの」
ようろう たけし
解剖学者
1937年神奈川県生まれ
東京大学名誉教授

SKYWARD 6月号
JALグループ機内誌

はり1000本


体内の毒素を出すデトックス、免疫力を高めるヨガや気功など、美容と健康のための東洋医学が人気らしい。

そんな中、女性誌で鍼灸ダイエットや美容鍼が取り上げられるなど、鐵灸への関心の高まりも、日々感じている。

しかし、実際に鍼灸を受けるとなると、不安と恐怖が先だって尻込みしてしまう人が多いらしい。確かに、たまの注射もできれば避けたいと思うのが人情だ。体に何本も鍼を刺すことに、抵抗感を抱かない人のほうが少なくて当然だろう。

それでも私は一人でも多くの人に鍼灸をお勧めしたい。鍼灸を生活の一部に組み込んでほしいと願っているのだ。

腰が痛い、肩が凝る、胃がもたれるという症状に現れていなくても、なんとなく気分がすぐれない、慢性的に疲れが抜けない、何時間寝ても寝不足など、どこが悪いというわけではないが、体調がよくないという人は多いと思う。

雑誌やインターネットには、名鍼灸師が数多く紹介されているが、遠くの名人のところに、新幹線や飛行機を使ってまで通う必要はない。治療のために無理をすることほど、むなしいことはない。

私がお勧めしたいのは、自分の生活圏内にある鍼灸師を見つけること。主治医を持つのと同じように、自宅の近所に主治鍼灸師を持ってほしいのだ。

ぜひ勇気を出して、鍼灸院に飛び込んでほしい。最初は直感で選んでもよいし、何軒か、はしごをしてもよいと思う。

鍼灸師の人柄、相性、治療院の明るさ、清潔さなど、自分の感性に従い、「見た目」で判断してもよい。話を聞いてくれるか、痛い時には「痛い」と声を出せる雰囲気か、も重要だ。

また、鍼灸師の手が温かく感じられることも、実は大事だ。一回の治療で判断できるものではないが、必ず自分にあった鍼灸師がいるはずだ。

鍼灸師が見つかったら、どう生活のリズムに鍼灸を組み込むか考えてほしい。鍼灸は、性別、年齢、治療を受ける時間帯によって、効き方が違ってくる。朝、昼、夕方と、何度か変えて治療を受け、自分にあった時間を見つけることが大切だ。

そして、なにより大事なのは、続けること。鍼灸は、劇的に効く場合と、徐々に効く場合がある。たとえばぎっくり腰では、一回の治療でぴたりと痛みが治まることがある。しかし、これは痛みがとれただけで、根本的に治ったわけではない。鐵灸は、魔法ではないのだ。

鍼灸は自然治癒力を高めることにより、身体を甦らせるのだが、それだけではないようだ。鍼灸によって身体だけでなく、心までが甦るのか、人生を力強く切り開いていく患者を、私は何人も見てきた。

一人でも多くの人に、鍼灸を受けてほしいと願う理由の一つは、そこにもある。


竹村文近「主治鍼灸師のすすめ」
(たけむら・ふみちか 鍼灸師)
『はり100本 鍼灸で甦る身体』
新潮新書

波 6月号
¥100
新潮社

大正財界のナポレオン


史上最強の企業家、金子直吉

土佐人は商売下手だというのが通説である。

たしかに政治家や思想家、ジャーナリストは多く輩出しているが、他府県に比べても企業家は少ないようだ。だから、日本史上最強の企業家が土佐から出ている、と言っても俄かには信じてもらえそうもない。

あるいは、高知県人なら三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の名を挙げるであろうか。しかし岩崎は明治維新に功績のあった坂本竜馬などの威光を背景に政治と密接に関係しながら実業界で名を成した典型的な政商、最強の企業家とは言いがたい。

ならば、その人物とは誰か。

なにもかもが桁外れ、まったくの徒手空拳で世界的な企業グループをわずか四半世紀で築き上げた男、金子直吉がその人である。

会社名は「鈴木商店」。同社は大正時代、スエズ運河を通行する船舶の1割はスズキの船だといわれるほど世界的な大企業グループを形成、当時の年商約16億円は日本のGNPの10%、現在の約50兆円に相当し、2位の三井を大きく上回るダントツの企業グループとなっていたのである。ちなみに今をときめく世界のトヨタグループですら年商は18兆円程度だから、その規模の大きさが分かろう。

神戸の小さな個人商店の経営を鈴木家から任され、大番頭としてまたたくまにこのような巨大企業グループに築き上げた男こそ、天才的企業家・金子直吉だったのである。

金子直吉は坂本竜馬が凶刃に倒れる前年、慶応2年(1866年)に土佐の吾川郡吾川村に生まれている。実家が貧しいため学校にも行けず、10歳頃から高知市内に丁稚奉公に出る。荷車を引いて紙くずを集めたり質屋に奉公したが、質屋で質物の書物をむさぼり読んで独学で経済や中国古典などを学び、神戸の砂糖問屋・鈴木商店に雇われる。明治19年、直吉21歳のときである。

ここから直吉は、すさまじいばかりの情熱とビジネスセンスを発揮して一気呵成に大企業家となっていく。

「この動乱の変遷を利用して大もうけをなし、三井、三菱を圧倒するか、しからざるも彼らと並んで天下を三分するか、これ鈴木商店の理想とするところなり。小生、これがため生命を五年や十年縮小するも厭うところにあらず」

第1次大戦中にロンドン支店の部下に送った毛筆の手紙文である。まさに鬼気迫る事業家魂といえよう。

しかし鈴木商店は金子ワンマン体制から組織経営への近代化を怠ったこと、鈴木家への忠誠からか株式上場による資金調達を拒み、台湾銀行一行に融資を依存していた体質が裏目に出て、昭和2年のいわゆる昭和大恐慌で破綻。後の神戸製鋼所、石川島播磨重工業、帝人、昭和石油、サッポロビール、日商岩井など80社を要する世界的な総合商社・企業グループは一夜にして消え去ったのである。まさに一炊の夢であった。

直吉は背も低く、強度の乱視と斜視、坊主頭で服装にもまるで頓着しないし風采は上がらない。しかし事業に専心する情熱と集中力は並外れていた。こんな逸話が残っている。

ある日、直吉が帰宅の電車に乗ったところ、挨拶する婦人がいるので挨拶を返した。ところが電車から降りてもその婦人がついてくる。そして婦人はついに家にまでついてきて、やっとそれが自分の妻であったと分かったという。目が悪いためだけではなく、直吉の事業への集中力がそんな微笑ましいエピソードを残しているのである。

事業家であり辛口の批評家でもあった福沢諭吉の娘婿・福沢桃介は金子直吉を大三菱の創始者・岩崎弥太郎よりも高く評価して、こう述べている。「人造絹糸、窒素工業、樟脳再製など、我が国の基礎工業に先べんをつけたナポレオンに比すべき英雄」

直吉は、自社の繁栄だけを求めた事業家ではなかった。旺盛な事業意欲は、日本という国家にとって必要な事業と直吉が判断したものに集中的に向けられた。三井や三菱が、ともすれば功利を求めるあまり二の足を踏むリスクも、国家のために進んでとったのである。それらの事業の多くが立派な企業として開花し、日本の産業界の基礎を築いたことはまさに英雄的な行為として特筆すべきことであろう。

また直吉を伝説的な人物にしたもうひとつの事柄。それは、彼の私生活が無欲恬淡としたものだった点である。

昭和2年に鈴木商店が破綻したとき、直吉のもとに台湾銀行など債権者たちが財産の没収のため調査に訪れた。だが、いくら調べても、金子家は一軒の家も一坪の土地も所有しておらず一切の蓄財をしていなかったことが分かり、皆心底驚いたという。

直吉はまた、酒色はおろか煙草も吸わず、崩れたところの一切ないまるで坊主頭の修行僧であった。そして彼は常に何人かの書生を養い、学費を出していたため、家計は赤字だった。

 直吉のこんな言葉が残っている。「鈴木商店はある宗旨の本山である。自分はそこの大和尚で、関係会社は末寺であると考えてやってきた。鈴木の宗旨を広めるために(店に)金を積む必要はあるが、自分の懐を肥やすのは盗っ人だ。死んだ後に金(私財)をのこした和尚はくわせ者だ」世の凡百の企業家に聞かせたい言葉である。

そんな私心のない直吉だったため、社員らに愛され心底尊敬された。リーダーかくあるべし、である。さらに言えば、直吉を育てた明治の土佐の気風は相当に硬骨で、優れたものだったであろうと思われる。

今は見る影もないこのよき伝統の残滓でもいいから、高知県人のいずれかに残っていないものだろうかと思う。嗚呼。

   初夢や太閤秀吉奈翁(ナポレオン) 白鼠
                   ※白鼠は直吉の俳号

       Text by Shuhei Matsuoka

http://nobless.seesaa.net/article/6255852.html

自殺なくせ救いの手


7年連続で自殺者が3万人を超え、政府は今年度予算に自殺総合対策費を盛り込んだ。秋には自殺予防総合対策センター(東東都小平市)が置かれ、「遺族の気梼ちを逆なでする」とタブー視されてきた自殺原因の個別調査も本格化する。

今年度は将来、我が国の「自殺予防元年」と呼ばれるかもしれない。コツコツ積み上げられてきた民間や自治体の対策を取材した。

「変調」早期に発見

21年間、自殺予防に取り組む新潟市の精神科医高橋邦明さんには1つの確信がある。「村と企業は、実はよく似ている」
高齢者自殺が多かった新潟県旧松之山町(現十日町市)で、自殺を3分の2近くまで減らす成果を上げた。

うつ病で自殺の恐れがある高齢者を見つけ、治療につなげるのが「松之山方式」。うつ病予防の講演会を公民館で開くなど、地道な啓発活動も欠かさなかった。各地の自殺予防事業に受け継がれた手法だ。

旧松之山町では、町民の健康状態を知る町のかかりつけ医が、うつ病の発見と初期治療に大きな役割を果たした。「企業では産業医が社員のかかりつけ医になれる」。高橋さんはそう思う。

千葉県君津市、京葉工業地帯のほぽ南端にある新日鉄君津製鉄所で、中間管理職に昇任した人向けの恒例行事がある。

まる1日かけた「メンタルヘルス講習会」。同社の産業医、宮本俊明さんらが始めた。「社員の変調を見つけるのは誰か。私は管理職を重視します」と宮本さん。講習会では部下や同僚の「話を聞く」ことの大切さ、変調を発見した時の対応などを説く。

東邦大医療センター佐倉病院(同県佐倉市)の黒木宣夫助教授の研究結果がある。「過労やストレスで自殺し、労災認定された人の約7割は自殺前に医療機関にかかっていなかった」

宮本さんはこれを肝に銘じた。管理職らとの情報交換ネットワークを作り、自殺の恐れのある人の早期発見を目指す。健康診断では関連会社を含めた約4千人の社員全員との面談を手がける。

未遂者ケア救急と連携

「自殺予防なんて、自殺行為じゃないか」日本の自殺予防の草分け、防衛医科大学校(埼玉県所沢市)の高橋祥友教授はそんな言葉を思い出す。自殺予防に奔走する高橋さんの将来を案じ、仲間の医師がなげかけた言葉だ。

80年代当時、山梨医大(現・山梨大医学部)助手。近くには、宮士山のすそ野に広がる青木ケ原樹海があった。死に揚所を求めて、多くの人が樹海に足を踏み入れる。

高橋さんは絶命寸前で保護された人の精神的なケアに当たった。その体験が精神科医としての生き方を決定づけた。「山梨に来る前、自殺は100%意志を固めた『覚悟の死』と思っていた。

だが、違った。何かに追い詰められ、人は生と死の間でさまよっている。ならば、『考え直してみませんか』と声をかけるのが、精神科医の務めだと思った」

今では大学病院も自殺未遂者のケアに乗り出している。盛岡市の岩手医大神経精神科に5年前から、精神科医1人を1年交代で併設された県高度救命救急センターに常駐させている。救急と精神科の一体化を目指した全国的にも珍しい試みだ。

24時間態勢。4月からは6代目の医師(27)が勤務している。自殺を図り、搬送されてくる人は年間150~190人。

9割ほどは一命を取り留めるが、体の傷が癒えて退院しても、未遂者が改めて自殺を図るケースは多く、繰り返したあげくに死に至るケースも少なくない。

搬送直後から精神科医が未遂者の精神的ケアにかかわり、退院後も相談にのって連鎖を断ち切ろうと取り組みが続いている。

「安心して悩める場を」

神戸市須磨区の写真家・原伊佐夫さんは「写真修復」に取り組んでいる。破れた写真、水浸しの写真を復元する。阪神大震災で被災した人からの依頼が多い。「1枚の写真が人の命を救うことがある」と原さん。

昨年暮れ、震災後に音信不通になっていた友人の会社員男性と明石市で再会し、彼の厳しい状況を聞いた。

彼は震災で家を失った。父親と兄の3人暮らしだったが、父親は負傷し、3年ほどで亡くなった。兄は父親の年金をパチンコに入れあげたあげく、行方不明になった。

彼は孤立し、深いうつ状態となった。取材で「何度も自殺を考えた」と明かした。

立ち直りのきっかけが写真だった。倒壊した家の下で雨にぬれ、グシャグシャになったが、手放せずにいた大切な「思い出」。それを原さんに復元してもらった。

「きれいになった写真を仏壇に飾った。母の笑顔の一番いい写真でね。本当にうれしかった」

10年連続で、自殺率が全国ワースト1となった秋田県。秋田市の精神科医、稲村茂さんは主に一般の入向けに「ロールプレー」を各地で指導している。

「死にたい」と、身近な人から打ち明けられた時どう受け止めるか。対話形式の模擬訓練でシナリオを読み上げる。

「相談とは自分も一緒にうつに入り苦しさを共有すること。それが一番のサポートです」「安心して悩める場、悲しめる場をつくることが予防につながる」。稲村さんは確信を語った。

政府の主な自殺予防総合対策
1)実態分析の推進
自殺遺族、友人などからの聞き取りなど原因の個別調査を含め、実態や要因の分析を多角的に進める
2)相談体制の充実
児童生徒、労働者、高齢者などライフステージ別に
3)相談員の育成支援
自殺予防総合対策センターなどで研修を行い、公的機関や民間団体の相談員の資質向上を目指す
4)自殺未遂者のケア
民間とも連携し、救急病院に搬送された未遂者が退院後もフォローアップされる体制の充実など
5)自殺遺族・周囲の人のケア遺族のケアのあり方などを研究機関を中心に検討する
6)目標・推進スケジュール
2年以内をめどに全都道府県に自殺対策連絡協議会の設置を促す
自殺率20%減少、未遂者の再企図率30%減少のための対応方法を5年以内に確立、全国に展開
今後10年間で自殺者数を急増以前の水準に戻す

自殺なくせ救いの手
7年連続3万人超 政府が総合対策

2006年5月28日
朝日新聞
三井アーバンホテル・ベイタワー
保団連地域医療部 医科歯科合同部会

おめこ巧者


まず紹介されるのは、江戸の遊女の性技指南書。「門外不出の秘伝書として、綿々と語り継がれ、密かに筆写され続けた、最高機密の書」なり。それだけでもう、腿の辺りにサワサワ這い上がってくるものがあるというのに。

第一章の目次を見れば、いきなり「まら巧者の処理技法」だの「半立まらに応じる法」だの「萎えたまらの扱い方」だの、先走り汁がほとばしる勢い。

中盤に差し掛かれば、「絶大な馬まらには口と舌を使う」「けつ取りの場合の対処技法」「交合以外の女陰の曲技」……我がおめこにも、直接ウニウニと感じる確かな体温。いやはやもう、目次やを見ているだけで気を遣ってしまいますわ。

さらに「凍りこんにゃくや高野豆腐を使う秘法」「芋の皮を巻いて行う秘法」とくれば、そこまでやってくれなくてもアアアと恥らいつつも、遣る瀬ない余韻に浸れる。

江戸の秘伝書は、タイトルからして要い。『おさめかまいじょう』。これそのものが途方もない技ではと、期待したが。意味はしごく真面目なものなのであった。そこんとこを知りたければ本書をお読みくださいと、チクチク焦らしておく。

『おさめかまいじょう』はしかし、古(いにしえ)の江戸の人々の助平さに思いを馳せ、エロいひとときを共有できるだけではない。平成の世にも充分すぎるほど通じる、いっそエチケットとマナーの書、といってもいい書だ。

現代の風俗嬢と客にとってもかなり参考になるし、平成の風俗店経営者が真面目に読み込めば、女の子達に実に正しい指導ができよう。

助平さに感心するだけでなく感動したのが、江戸の遊女屋は女達を大切にしつつ徹底的に商品にしているところだ。といっても、女を物扱いするのではない。女をとことんプロフェッショナルであるべし、と躾け育て上げているのだ。

売られてくるのは貧しい家の娘ばかりなので、遊女屋に来たときは痩せこけている。そんな彼女らに決して手荒な扱いはせず、飯は欲しがるだけ食べさせるとも書いてある。

この本を読むまでは、遊女はさぞかしひどい扱いを受け、ろくに食べさせてもらっていなかっただろうと想像していたのだが。経営者も商品を大事に扱うからこそ、遊女達も苦界(くがい)にありながらプロフェッショナルとしての衿持はあったのだ。

無論、平成の一部の女のように、遊びたいからホストクラブ行きたいからブランド物のバッグ欲しいからといった理由ではなく、家の貧しさ故に泣く泣く売られてくる女が大半だった遊女屋が、楽しい就職先や居心地のいい職場であるはずがない。

経営者とて、道楽でやっているのではなく、厳しい経営と競争に勝負を賭けていたのだ。

見事な通解と解説をなされた渡辺信一郎氏も、こう書いておられる。「何とも壮絶で、凄惨な書なのであろうか」「おのれの肉体を酷使し、それで生計を立てる女郎という境涯の辛さが偲(しの)ばれる。その女郎を監督・管理しながら経営する女郎屋の経営者もまた、並大抵ではなかったであろう」。

だからこその、徹底した心構えと管理とプロ意識。特大の男根を受け入れる心得、ふにゃチンや包茎の扱い、口でのやり方にお尻の穴の使い方、いわゆる3Pの手順、もう何から何まで網羅してある。

添えられた図版もまた、身も蓋もないのに芸術に迫る出来栄え。どうやったって、興味本位のエロ本になどなりはしない。

それにしても平成の『江戸の性愛術』も、江戸の『おさめ~』に負けず至れり尽くせり。

350年前に女性によって書かれた秘録『秘事作法』の、張形を使って自慰で達するに至る手順など、渡辺氏の簡潔な要約でも充分長いのだから、原文の丁寧さはいかほどか。

張形もこの頃は海亀の甲を煮たものや、水牛の角、革、黄楊(つげ)などでなんとも典雅であったと知れる。大型、楕円筒、上反りと、型も様々。

さらに、現代のバイアグラといってもいい精力剤、女の性感を増進させる薬まで紹介している。平成日本人よ"勒平だった江。戸日本人。

「当時の数多くの艶本や色道指南書を繙くと、飽くなき実践と観察という臨床的(経験的)な処方が絢欄と述べられ、その深奥さに驚かされる」。助平は何時の肚も真面目だ。

岩井志麻子「おめこ巧者」
いわい・しまこ 作家

渡辺信一郎『江戸の性愛術』(新潮選書)

波 6月号
新潮社
¥100

憲法改悪にものもうす


憲法改正に疑問の声を挙げる経済同友会終身幹事、品川正治さん(81)=東京都杉並区=の講演「憲法改悪にものもうす」がこのほど高知市本町3丁目の高新文化ホールで開かれた。

市民グループ「サロン金曜日@高知」の主催。講演内容を上下二回に分けて紹介する。

「敗戦」と「終戦」
私は大正13年生まれ。戦中派の戦中派だ。旧制高校に入ると、「勉強できるのはあと2年。兵隊に行き戦地で死ぬ」という思いが頭から離れなかった。

国が起こした戦争で、国民としてどう生き、どう死ぬのが正しいのか。それが最大の疑問だった。

前線の戦闘部隊で中国・洛陽から西安に進んだ。途中、部隊はほぼ全滅。私も迫撃砲の直撃で四発の破片を受け、一発は今も足に残っている。

捕虜収容所で、軍事指導者だった人たちは、日本政府が敗戦を「終戦」と呼んだことを「ひきょう」と訴えた。

対して私たちのような兵隊は、「これだけ苦しい目に遭い、これだけ大陸を荒らした。もう二度と戦争をしない。その意味で、終戦で構わない」だった。大論争の末、「終戦」で意見が一致した。

翌年、日本に戻ると既に憲法草案が発表されており、われわれは歓呼の声を上げた。(軍備および交戦権を否認する)9条2項を見て「国民の声。アジアの人に対する贖罪(しょくざい)の誓いだ」と喜んだ。

ぼろぼろの"旗"
日本は経済大国となったが、軍需産業中心の産業構造ではない。アメリカ、ヨーロッパの先進国は軍産複合体が中心だ。

日本の支配政党はずっと戦争ができる国になれないか、を考えてきた。自衛隊が生まれ、ガイドラインが論議され、特措法でインド洋やイラクに自衛隊を出し、有事立法ができた。

そんな意味で、既に9条2項の"旗"はぼろぼろ。それでも国民は旗ざおを離さない。それを離せ、と支配政党が言っているのが今の憲法改正問題だ。

9条2項は、「正義の戦争」を含め「戦争そのもの」を否定している。そんな国は世界でただ一つ。旗ざおを手放せば、地球上からこの思想が消えてしまう。

戦争を起こすのも人間なら、戦争を許さず止めようと努力するのも人間。確かに紛争は絶えないだろう。それを戦争にするかしないかは人間が選ぶこと。戦争にしないのが日本の思想だ。

紛争の種は人為的につくられる。ダイヤ、石油、ウラン……。何かが取れるところで紛争が起きれば、戦争になる。武器商人が猛烈に売り込み、戦争にしようとする強い力が働く。その後ろには、国際的な大資本の影が必ずある。

なぜ戦争が起きるかと考えれば、私は9条2項が21世紀においても普遍的な価値を持つ

と信じている。

価値観の違い
戦争とは一体、何か。論理的に説明すると三つの意味があると思う。

一つは「勝つための価値が、あらゆる価値に優先する」。平時には自由、人権と言うが、戦時には「勝ってから」。最も大切な命の価値さえ、勝つためには犠牲にせざるを得ない。

第二に、「あらゆるものを動員する」。労働力や科学、医学、生理学などすべてを動員する。

そして「戦争指導部門が最高権力になる」。勝つために、ほかの権力との均衡は崩れる。米国は今、戦争をしている。すべてを動員し外交、経済などを徹底的に押さえている。

「日本は米国と価値観を共有している」とマスコミも含め、ずっと言い続けてきた。小泉首相に至っては「米国の国益を守るのが日本の国益を守ること」と言っている。

そうだろうか。国の安全保障上、「日米安保条約」があるが、同じ価値観を持つからではない。同じ価値観という考えで間題を見ようとすると、混乱する。「価値観が違う」ということを基本に考えた方がいい。

品川正治「憲法改悪にものもうす」
戦争の後ろには大資本の影
米の国益が日本の国益 ?

「戦争を起こすのも人間なら、戦争を許さず止めようと努力するのも人間」と話す品川正治さん(高知市の高新文化ホール)
2006年5月31日付け
高知新聞朝刊




憲法改正に反対している経済同友会終身幹事、品川正治さん(81)=東京都杉並区=の講演の後半を紹介する。

「権力への自由」
資本主義も、米国と日本では違う。日本は米国のような覇権主義的な経済の在り方を取れない。平和憲法を持つ国として、アジアの覇権を中国と争うことは誤りだ。

冷戦後、クリントン大統領は次の敵を日本と言った。それから毎年、米側が「年次改革要望書」を出し、郵政、年金、医療をはじめとして、日本の資本主義を変えようとしている。

これまでの日本は経済大国を目指しながらも、資本家のための大国ではなく、格差をできるだけ作らない社会だった。

だがバブルが崩壊し、国民が閉塞(へいそく)感に包まれる中で、「改革」という言葉に乗ってしまった。

市場がすべて正しいという「市場原理主義」を経済政策の基本とし、規制緩和で「官から民へ」となだれ込んだ。

一番大きな問題は、資本家のための改革となっていること。

そもそも、市場にできないことはたくさんある。福祉や教育は人間の努力で行うものであり、市場がやるという話ではない。その点では市場原理主義は大変問題がある。

規制緩和も、「誰のため」という問題がある。通常、自由とは「権力からの自由」のこと。だが今の規制緩和は、大企業側が「権力への自由」を求めている。

日本の格差とは都市と農村、中央と地方のことだった。これまでは財政的に無理を重ねながらも国土の均衡ある発展を目指してきた。だが、それも切り捨てた。これが日本の置かれた現状だ。

支配政党は、改憲に向け国民投票を行おうとしているが、国民が改憲ノーと言うなら、今までの日本の支配政党がやってきたことが、ほぼ否定される。同時に日中、日米関係も変わるだろう。

日本は国民主権の国。「誰かが戦争を起こした」「誰かが改憲したからこうなった」という逃げ口上は許されない。

だから今、世界史的な大きな運動をしているという自覚を持ち、活動を続けてほしい。そうなれば、平和憲法を持つ国としての経済、外交を追求する形になる。そんな国を、子や孫に残したい。本当に世界に尊敬される国として残したい。

背景に中国の台頭
現在の経済界リーダーはほとんどみんな米国への留学経験があり、ほれ込んでいることは事実。確かに、かつての米国は他国のリーダーとして恥ずかしくない行動が多かった。
だが冷戦後は、私たちが承服できない価値観となっている。

9条2項に関しては、中国の台頭が背景にある。私は平和憲法を持つ以上、ヘゲモニー(主導権)を取り合うような経済を改めてほしいのだが、経済人には日本がアジアを仕切るという考えが根強い。

「中国になめられるのは軍がないから」で、軍隊がないことが欠陥という意識が財界主流にある。

しかし、経済人がすべて改憲賛成とは思わないでほしい。日本経済界には完全なヒエラルキー(階級制)があり、大手業者に対抗して出入り差し止めになるとやっていけない企業がたくさんある。

だが、(改憲に反対する)私自身は孤独感や孤立感はない。経済のトップで、もっと言ってくれという連中は多くいる。

教育基本法の改正問題もあいまいにできない。実利的、市場主義な発想、功利的な形で問題を解決する教育があるか、と思う。

企業に教育をうんぬんされるような状況はあり得ない。経済人としてではなく、人間としてそう思っている。

品川正治「憲法改悪にものもうす」
経済同友会終身幹事
「改革」は資本家のため
改憲ノーで日本が変わる

「市場にできないことはたくさんある」。品川さんの話に参加者は聞き入った(高知市の高新文化ホール)

2006年6月1日付け高知新聞朝刊