月かげの虹 -5ページ目

金色に輝く山々


往年の光景を思い出すかのように老人は言った。

「山が、金色に輝いていたんですよ」

視線の先には緑の山々。老人と山との間には深い谷が横たわっている。静寂の中、ゆっくりと時が流れていたと記憶している。

あれからもう12年たつ。が、話の内容は今もよく覚えている。そして、金色に輝く山々が白日夢のように脳裏に浮かんだことも。

山を金色に染め上げたのはミツマタの花だった。

話をうかがったのは仁淀村(現仁淀川町)だが、本県の山間部ではごく普通にミツマタが栽培されていたらしい。

中国原産の落葉低木で、高さは1.5mほど、枝が3つに分かれることから名が付けられた。この茎を切って蒸し、荒皮を削る。それが加工されて和紙になる。

山の人々は主に百円札の原料としてミツマタを国(造幣局)に納入していた。苗を植えて3年後に収穫できるので、山の作物としては極めて効率的。明治中期に導入され、以来現金収入の王座を占めてきた。

花が咲くのは春だった。斜面いっぱいに植えたミツマタが一斉に黄色の花をつける。その情景を、老人は懐かさを込め、多少誇らしげに「山が金色に輝いた」と表現した。

昭和20年代、ミツマタなどの和紙原料は全国の4割を高知県の山村が賄っていたといわれている。

そのミツマタが、一夜にして没落する。30年代の初め、ミツマタで作っていた板垣退助の百円札に代わって国は百円硬貨を発行した。やがて百円のお札は消え、山々が金色に輝く光景も消え去った。

和紙原料だけではない。時を同じくして石油による燃料革命で木炭産業も廃れた。現金収入がなくなった山は急速に衰亡し、若者たちは集団就職で都会へ出る。

この時代の物語が、映画「ALWAYS 3丁目の夕日」だ。集団就職で東京に来たあの東北の子と同じような体験を、土佐の山奥に育った15~16歳もしていた。

彼ら田舎からの集団就職組は安価で良質な労働力として高度成長を担った。今考えると、労働力確保のため国が政策として田舎からの「追い出し」を図ったのかもしれない。いずれにしろ田舎の若者たちが大量に都会へ出て、懸命に働いた。

彼らのおかげで日本は輸出を伸ばし、国が目指す経済大国への道を進む。だが皮肉にも、輸出立国となったがゆえに田舎にはさらなる困難が降りかかった。

輸出するということは、輸入も求められる。一次産品が大量に輸入され、林業も漁業も、そしてコメを始めとする農業も壊滅への道
をたどった。

増大するエネルギー需要を満たそうと適地には水力発電が計画された。巨大なダムの建設によって少なからぬ山の人々が住むべき士地をも失った。

かろうじて一時は土建産業が山間部の現金収入を担ったが、それも急速に衰退中。

お堅い話をつい長々と書いてしまった。読みにくかろうと思いながら書き連ねた背景は、今の政治状況へのちょっとした反発だ。

小泉政治の特徴の1つは敵の創出だと思っている。つまり敵を悪役にすることで自らを正義の味方に見せる。

小泉政治が悪役にした1つが「地方」だろう。「無駄遣い」「甘えている」と指弾し、「地方への力ネはまだまだ削れる」と展開する。

おかげで公共事業に依存してきた土建産業が没落のときを迎えている。確かに無駄な工事はあったに違いない。しかし政治家や官僚に声高く批判する資格があるのだろうか。

何より醜悪なのは土建業界と政官の癒着であり、そこで働く人々に責任はない。加えて田舎にカネを回すシステムとして土建が機能した側面もある。

なぜ土建がそういうシステムを担うようになったのか、に目を向ける必要がある。没落する一次産業に代えて国が土建をその立場に就けたからにほかならない。国による産業構造の転換と言ってもいい。

山の民を始め、田舎の人々は数百年、数千年にわたって営々と生を紡いできた。その暮らしが破壊された代償に土建という収入の途が供されたということではないか。

土建産業をなくすのがいけないと言っているのではない。なくすのなら、土建産業に代わるシステムを構えるのが国としての責任だと思っている。

トヨタの年間売上高は20兆円を超えたらしい。だがその栄華は国に支えられている面もある。対米輸出超過による円高を防ぐため、日本政府がひたすら米国債を買っているからだ。時には1日に1兆円以上も買ったことがある。

円高になれば輸出企業は大きな損を被る。つまり円高防止に巨額の資金を使うということは、見方によっては輸出企業への補助となる。

つまり農業や公共事業への補助をやり玉に挙げる一方、壮大なスケールで輸出企業を保護している図式。

金色に輝いたミツマタの山にはスギ、ヒノキが植えられた。しかし外材の流人による林業不況で原木価格は低い。手入れすらできず、山は荒れている。国に対してもの申すはずの県も今ひとつ元気がない。

依光 隆明「猛者のつぶやき」
地方悪玉論
高知新聞社 社会部長

この男のエッセイが高知を動かす(3)

プロフィール
57年高知市生まれ
81年高知新聞入社
01年夕刊特報部副部長
02年社会部副部長
03年東京支社編集部長を経て、05年4月より社会部長。

季刊高知  No.21
2006 Summer

悪女な時計


ジュエリーは、女が本能のおもむくままに選んでしまっていいもの。しかし腕時計は、逆に理性なしで選んでしまってはいけないもの……今までずっとそう思っていた。

宝石は100%女のものだが、時計は本来が社会性ある男の道具。女にとっても時計は "自分が誰であるか?" を語る名刺のようなものだった。

だからある種意図的に、折目、正しい印象の時計を選ぶための理性が必要だったのである。

ところが近ごろとても気になるのは、明らかに理性ではなく本能で、ドキドキしながら手にしてしまいそうな時計……。自己主張の強い、ちょっと悪女な顔をした時計だったりするのだ。

時計って、どんなにデザインが凝っていても、どんなに贅を尽くしていても、どこかで人の腕に自らなじもうとするのに、そういう時計は "曖昧な配慮" など無意味だと言わんばかりに、強烈な存在感を突きつけてくる。

そのフェイスには大胆不敵なアイディアがたっぷり盛りこまれ、ベルトは女の手首をすっぽり覆ってしまうほど幅広い。なのに素材はあくまで最高級。

とことん高級品なのに、そういう適度なスキが、その派手さを "けれん味" のないものに仕上げてる。

つまりまったく規格外の高級品……そういうものに今、妙に心惹かれるのだ。

今までは、たとえば清楚な服には清楚な時計しか合わなかったのに、最近は逆に清楚同士じゃ全然物足りない。あえて派手な時計を合わせたくなっている。

それも今はオシャレにおいて、ひとつの体に "エロカワイイ" 的に "天使と悪魔" を両方併せもつのが洗練の決め手となったから。

名刺としての時計もただ折目正しいだけではつまらない。どこか悪女っぽいくらいの危うさが、プロフィールの奥ゆきとなる時代なのである。

ましてや一日何度となく、意識的に目にする時計のフェイスは、いっそそこまで力強いほうが面白い。時計を見るたび、目が覚めて、表情が冴えて、何か勇気づけられる。

そんなインパクトあるデザインこそ、新しい "時計効果" と言っていいのだろう。だから今、少し悪女な時計が眩しい、欲しい時代なのである。

齋藤 薫「少し悪女な時計が眩しい時代」
さいとう かおる

女性誌編集者を経て美容ジャーナリストヘ。美容記事の企画、化粧品の開発・アドバイザーなど幅広く活躍。
『こころを凛とする196の言葉」(ソニーマガジンズ)、『女のひとを楽にする本』〔主婦の友社)、『素敵になる52の "気づき"」、『「美人」へのレッスン』(ともに講談社プラスアルファ文庫)など女性の "美" についての著書が多数。

SKYWARD
2006年6月号
JALグループ機内誌

トム・クルーズ


トム・クルーズは "チャレンジ" という言葉が好きでよく使う。不可能、無理だといわれることにチャレンジし、努力してそれを克服することが大好きなのだ。

映画でアクションシーンを演じる時も、一切、スタントマンを使わない。『ミッション・インポッシブル」の1作目では、ロケ先のホテルの一室をジムに改造したと評判になった。

そのトレーニングの甲斐あって、ブランコに腹ばいに乗るような形で吊り上げられた体を、床面と水平に保って観客を驚かせた。

2作目では何100メートルもの断崖をロッククライミング。シリーズ最新作の3作目でも、道路に横たわったトムの体の上を、片側の車輪を上げて傾いたトラックが通過するという、危険きわまりないシーンを撮影している。

どうしてそんなに危険なことをやるのか。もちろん、「チャレンジが好きだから」だ。

「高いハードルを目の前にして、自分はこれを飛び越えられるんだろうかと思う瞬間が好きなんだ。そんな時は、自分にできるかどうか確かめたくなる。そして、チャレンジしようと決めるとアドレナリンがバッと吹き出す。あのエキサイティングな感覚が好きなんだ」

チャレンジについて話し出すと、それでなくてもキラキラしているトムの目が、熱を帯びてさらに輝きを増す。

「この性格は生まれつきだと思う。子供の頃は本当に無茶だった。4歳の時に、屋根から飛び降りて気絶したことがあるんだ。パラシュートで落下するG・1・ジョー人形を持っていたんだけど、ある時テレビでパラシュートの映像を見たら自分でもやってみたくなって、シーツを傘にして飛び降りてしまった。飛ぶほうにばかり気がいって、危険かどうかなんて考えもしないんだから、子供だよね。それからは、危険なことをやる前にきちんと情報を仕入れなくちゃって反省した(笑)」

「人生にはいろんなことがあるってことだよね。でも、僕はすごく忙しいからね。父親で、プロデューサーで、俳優で、婚約中の身であり、息子でもあるし、次から次へ選択と決断が押し寄せてくる。だから他のことはあまり気にならないんだよ。

それに腹を立てることも少ない。怒っていると……疲れるし(笑)、時間が無駄になるだけで、問題の解決にはならない。怒っている暇があったら、問題を修復するために何をしたらいいかと考えているほうがいいなあ。

人間は誰でも失敗することがあるけど、肝心なのはその失敗から学んで先に進むことなんだ。僕の人生で重要なことは、いい人間であること。いい父親、いや最高の父親になりたい。それにいい夫にもなりたい。そして何より、いい映画をつくりたい。周囲の騒ぎより、そうしたことのほうが、僕には重要なんだ」

このインタビューで、「もうじき生まれてくる子供のことで興奮しっぱなしだよ」と笑っていたトムだが、4月18日に無事に女の子が生まれ、スリ(Suri)と名付けられた。

初めて我が子の誕生に立ち会った感想は、「神秘的で力強くて、言葉で言い表せないほど感動した。まさしく願っていたとおりの体験だった」ということ。その赤ちゃんを連れての結婚式は秋に予定されている。

森山 京子「トム・クルーズ」
Focus on People
仕事という冒険、家族との幸せ
Challenging Life
Tom Cruise

SKYWARD
2006年6月号
JALグループ機内誌

よこすか海軍カレー


京浜急行の横須賀中央駅前とJR横領賀駅前には、カレーライスの皿を捧げ持った水兵姿のカモメ像が据えられている。ヨコスカの「スカ」と「カレー」を合体させてその名も「スカレー」。

横須賀は7年前に「カレーの街」を宣言した。そこにはこの街の在りように起因する必然的な意味合いがある。

アメリカ海軍の基地にほど近いドブ板通りを歩く。背中に虎と龍が刺繍されたテカテカの素材のジャンパー、通称スカジャンが店頭に掲げられ、在住の外国人(おそらくほぼ全員アメリカ人)が行き交い、タコスやホットドッグ店の看板が色を競っている。

『ホテルニューヨコスカ』の脇を上った『よこすか海軍カレー館」に行った。この店の母体である『魚藍亭』の女将・大河原晶子さんは料理研究家として知られる。

7年前、彼女の元に、明治時代の『海軍割烹術参考書』に載っているカレーを再現してほしいと市役所、商工会議所、海上自衛隊から合同の依頼があった。食による街おこしの一環だった。

そもそもカレーライスが広く普及したきっかけは、旧日本海軍にある。明治時代の海軍食は、ご飯に味噌汁、漬物というシンプル極まりない献立だった。

このメニューで長く洋上生活を続ければ、ビタミン不足から脚気に罹る乗組員が続出するのは自明の理。食事の改善が急務と思い至った上層部は、西洋食を取り入れた。

規範となったのはイギリス海軍の食事。イギリス海軍は肉と野菜を食材にカレーシチューをつくり、それをパンと一緒に食べていた。

日本の海軍も当初はサラサラのカレーシチューをパンと共に食していたが、どうも今ひとつ腹持ちがしない。そこでカレーシチューに小麦粉を加え、とろみをつけてご飯にかけて食べるスタイルが生み出された。

1908(明治41)年に書かれた海軍割烹術参考書には牛肉(鶏肉)、人参、玉葱、馬鈴薯、塩、むぎカレイ粉、姿粉、米の材料のあとに、詳細なレシピが載っている。

全文を示すと長くなるので抜粋にとどめるが、「初メ米ヲ洗ヒ置キ」から、材料を「賽ノ目ノ如ク細ク切リ」に至り、「麦粉ヲ入レ狐色位二煎リ」「煮込ミシモノニ塩ニテ味ヲ付ケ飯二掛ケテ供卓ス」とある。

そのレシピを忠実に再現した「元祖よこすか海軍カレー」を注文した。キャビン仕立ての店内。オープンキッチンからは香ばしいカレーの匂い。深めの皿に粒の立ったご飯、やや色の浅いカレーがかかって登場した。

傍らにはコップ1杯の牛乳と、小ぶりのボウルに収まったサラダ。漬物兼薬味役のチャツネの小皿も寄り添う。実の味わいよりもメニュー復刻の妙にこそ価値があると、さしたる期待もせずにスプーンですくひと掬いすれば、オー……コクと深みが舌から鼻へ心地よく抜けていく。

へット(牛の脂)を使って丹念に妙ったカレイ粉が見事に効いている。チャツネを加えてまたひと口。味の階層が一段と深まっていく。

スイマセン、明治の海軍割烹術を見くびってました。ヘットやチャツネを用いるのも、ちゃあ一んとその書に記されている事柄。

当時の味は平成の今にあっても古ぼけてはいない。むしろ思いがけなく正統な洋食のルーツに出会えた驚きがある。温故知新の喜びがある。

ちなみに現在、海上自衛隊の金曜日の昼食はカレーライスが定番メニューだという。

店を出て、腹ごなしに海沿いの三笠公園まで歩いた。まだ舌と鼻にカレーの香りの余韻が残っていた。海風の匂いは廿く、チャッネのそれに似ていた。

ペリーの黒船来航に端を発し、横須賀は異国と日本の文化が交じり合い、独自のテイストのファッションや流行を発信してきた。同時にこの街は、食の意外なルーツも今に伝えている。横須賀はカレーの街である。

立山 弦「よこすか海軍カレー」
ニッポン
御当地ランチ
食遊記 第15回

SKYWARD 
2006年6月号
JALグループ機内誌

6月の光


「さあ、できましたよ」
介添え人の声にはっとして顔を上げると、鏡の中には純白のウエディングドレスに身を包んだ花嫁姿の自分がいた。

あと数分で式が始まろうとしている。だが、智子の表情はどこか浮かない。

両親に反対されたままの結婚式。自分が言い張ったことだから覚悟はしていたものの、父も母もいない結婚式はやはり寂しいものだった。

「映画なんて、どうやって食べていくつもりなんだ」

智子の夫となる賢治は、大学時代から一緒に映画をつくり続けてきた仲間。会社員となってもやはり映画を捨て切れず、ニューヨークの大学で映画を学び直したいという賢治の夢に、智子は賛同した。

会社をやめ結婚、そして留学という道を選ぽうとしている娘に、真面目一本槍でひとつの会社に長く勤めてきた堅実な父が反対するのも無理はなかった。

「この結婚を俺は認めない。式も当然出ないぞ」

あまりに頑(かたくな)な父に、母も何も言えないまま。智子はふたりの出席をあきらめていた。そのとき、ドアの開く音がした。

「お母さん !」
母は微笑んでゆっくりと智子のそばへ歩み寄り、ほれぼれと眺めた。

「やっぱりきれいねえ、花嫁さんって」

思いがけないこの状況を理解するのに、智子は暫くかかった。

「お父さんがね、お前だけでも出てやれって」
「お父さんが ? そう言ったの ?」
やっと智子は言葉を発した。

「昨夜はやけにお父さん弱気でね。何を言うのかと思ったら、お前、俺と一緒になったことを後悔してるんじゃないかって、突然言うのよ」

何の話だろう。そんなことを言う父を智子は想像できなかった。

「実はね、お母さん、お父さんと結婚する前、別の好きな入がいたの。絵を描いている人でね、自由そのものの人だった。お父さんはそれを知っててプロポーズしてくれたの。悩んだ挙句、お母さんはお父さんと一緒になることを選んだ。でもお父さんはあのときお母さんがその人と一緒になっていたらもっと違う入生があったんじゃないかと今でも思うって言うのよ。自分との平凡な人生をお母さんが後悔してるんじゃないかって」

父と母にそんな過去があったなんて。智子は息をのんだ。

「だからせめて智子には好きなように人生を選ばせてやるべきだ、って。智子には智子にしかわからない世界や生活があるんだろう、それを俺は尊重してやらなくちゃいけないなあって」

智子は何も言えずただ胸が熱くなった。

母は青い箱を取り出した。中には真っ白に輝くパールのネックレスが入っていた。ブルーのチャームも付いている。

「サムシングブルーっていってね、嫁ぐときに花嫁がブルーのものを身につけていると幸せになれるっていうおまじないが、ヨーロッパにはあるんですって」

母が智子の首にそっとネックレスをつけると、ブルーのチャームが奥ゆかしく揺れた。

「これ、お父さんからなのよ。式にはやっぱり行けないからって」

さっきまで曇っていた空が突然明るくなり、白い光が窓から差し込んできた。ドアの向こうからは友人たちのざわめきが聞こえてきて、廊下を足早に駆けてくる式場スタッフの気配がする。

「花嫁さん、そろそろお願いします」

スタッフの声に、智子は立ち上がった。

「お母さん、お父さんと結婚したこと、後悔してる ? もっと別の人生があったんじゃないかって、思ってる ?」

堰(せき)を切ったように智子は言い、母の顔をじっと見つめた。

「お母さんは、不器用なやり方だけどいつも家族を守ってきたお父さんを誇りに思ってるの。だから別の人生なんて考えなかった。お父さんと智子との生活がお母さんには宝物だったのよ」

穏やかななかにも潔さのある母の顔を、智子は美しいと思った。

「さあ、智子。行きなさい。あなたの人生は誰のものでもない。あなたが選ぶのよ」

智子はドアを開けた。天窓からの陽光がまっすぐひと筋の道のように廊下を照らしていた。胸元の青いチャイムをぎゅっと握りしめ、智子は自分が選んだ人生への最初の一歩を踏み出した。

Mikimoto Pearl Story

SKYWARD
2006年6月号
JALグループ機内誌

中村梅玉


前名の中村福助時代から、口跡の爽やかさと風姿の良さには定評のある役者だ。二枚目の白塗りが似合う人で、芸の品格の良さは父親の6世中村歌右衛門譲りだろう。

こうした魅力をそのまま保ちながら、だんだんに芸が深くなってきたのが最近の梅玉だ。

「引窓」は、親子の情を描いた芝居で、わかりやすい上に実に巧みに構成されている。明かり取りの窓が大きなポイントになっているのでこの名で呼ばれているが、長い通し狂言の一幕である。

梅玉演じる南方十次兵衛という役は、いわゆる「気のいい」役だ。演じていておそらく気持ちが良いだろうな、と観客が感じる役で、見せ場も十分に用意されている。

継母との義理、自分の職責とのせめぎ合いに悩んだ挙句、情を取るという男の心がいっそ爽やかである。だからこそ、梅玉にはこの役が似合うのだろう。

罪を犯して逃げて来た義理の弟を逃がすために、さりげなく逃げ道を教える聞かせどころの科白など、見事な調子である。

歌舞伎では科白を「張る」と言うが、朗々と科白を謳い上げる梅玉は姿も良く、観てい
て気持ちが良い。

いやらしさやあざとさがないのである。素直な気持ちで役に挑んでいるからだ。

芸格がきちんと形作られていながら、硬さがないのがこの役者のもう1つの魅力でもあろう。

硬軟を使い分けながら役の心情を情感と肚で表現する時期に入ってきたのだ。厳しい修行を重ねてきた上で、こうして花が開く。

父・歌右衛門の歩んだ通り、ただただ、歌舞伎一筋に脇目もふらずその道を歩んでいる。

演劇のジャンルがボーダーレス化している今、ある意味では不器用な役者かもしれない。しかし、芝居の神様はちゃんとご存じなのだ。

この役者がより大きな華を繚乱と咲かせる日はそう遠くはないような気がする。

中村義裕「南座顔見世の役者たち」
百人百役
私が惚れた役者たち
中村梅玉
「引窓」の南方十次兵衛

大塚薬報 6月号
2006/No.616
大塚製薬工場

写真提供:松竹株式会社

いれずみ物語


つかの間の休みを、患者のことは忘れて思いきり楽しもうと、その若い看護師は友人と一緒にバリ島へ飛んだ。

そこで開放感を存分に味わい、旅の思い出の印としてtattooshopで左上腕にヘナによるいれずみをしてもらった。いわゆるhenna tattooである。

それはー時の旅の思い出として、いずれははかなく消える秘やかなアヴァンチュールであった。

デザインとして選んだ富と吉祥の女神ラクシュミ Lakshmi の出来栄えも良く、結構満足して帰国した。

最近、若者がファッションとしていれずみを入れるのが流行している。いれずみには踏み切れないまでも、その華やかさ、個性を訴えるインパクトの強さにあこがれる若者も少なくない。

それでヘナあるいはシールなどを用いて描くいれずみもはやっている。これらはbodypainting,body ornament(身体装飾)あるいはpseudotattoo(偽いれずみ)などと呼ばれるが、これだってれっきとしたいれずみである。

江馬 務は、いれずみ(剳青)を3種に大別できるとし、瘢痕として図様を描くもの、色彩を皮膚に塗るもの、およびいわゆるいれずみ(江馬はこれを刺青と記載)を挙げている。

また白川静も文身の方法に、朱や黒などで一時的に文様を描き加える絵身、狭義のいれずみを意味する黥涅、および傷痕を文様化する瘢痕の3つに分けている。

そのうち絵身は儀礼的な目的をもって描かれることが多いことも指摘している。

さて、ヘナhennaはミソハギ科に檎し、日本名では指甲花であるが、本邦でもヘナが一般的である。

学名はLausonで、Lauson inermisなど4種の亜種がある。ヘナの葉の発色物質ナフトキノン系色素を分離した学者 Lauson の名が冠せられている。

ヘナ色素はヘナの葉を乾燥し粉にして用いるが、モロッコ、スーダン、エジプトなど、北アフリカ、西南アジア、インド、パキスタンなどで産生される。特にインドのラジャスタン Rajasthanのブランドものが名高い。

ヘナ利用の歴史はきわめて古く、聖書にも雅歌(1.1-14)のr†1に、「おとめの歌」で  "恋しい方は薫り高いコフェル(ヘブライ語Kopher : ヘナのこと)の花房 エン・ゲディのぶどう畑に咲いています" とある。

500O年以上も前からgiving treeとして健康・身体装飾・化粧あるいは悪霊除けなどなど、きわめて多くの目的に用いられた。

クレオパトラの香水としても知られ、彼女は爪もヘナで染めていたと言われている。

ヘナは主としてイスラムやヒンズー教の人びとの間でそれは利用されてきた。インドではMehandiと呼ばれ、伝承医学であるアーユル・ヴェーダの薬として、あるいは結婚の際にヘナは花嫁の手足を飾ってきた。

ヘナ色素はヘナの木の亜種によって、その色調は異なるが、オレンジ・赤が基調で黒のニュァンスはない。黒っぽい色調が望みであれば、ヘナに他の何らかの物質を混ぜることになる。それがblack hennaである。

タンニンを含んだお茶の葉、インスタントコーヒー、炭粉などが加えられるが、しばしば髪染めに川いられるβ一phenylenediamine (PPD)が混ぜられ黒い色素になる。

ヘナ自体ではあまり皮膚にカブレは起こさないが、これら添加された物質でしばしばカブレすなわちアレルギー性接触皮膚炎が発生する例が増えてきた。

件の看護師のいれずみは、帰国後秘かに白衣の下に留まっていたが、10日目の深夜勤務のことであった。静かな病棟で体温表を記入していた折、彼女はひょっと左上腕にかゆみを覚えた。

手をやるとなにやら少し皮膚がおかしい。そっと白衣の袖をたくしあげて見てみると、いれずみの部分の、あの女神ラクシュミがその格好のまま線状に赤く腫れ上がっていた。

触っているうちにかゆみが増し、ほっとけなくなって、翌日しぶしぶ皮膚科外来の知り合いの医師に相談した。まぎれもない「接触皮膚炎」であった。いれずみの染料ヘナによるカブレである。

幸いステロイドによる治療でそれはもとのいれずみに戻った。そのいれずみもバリの思い出とともに薄れてしまった半年後のこと、同僚の結婚披露宴に出席するために美容院で髪を染めたところ、またぞろ左腕のラクシュミが暴れ出し、同じ皮膚炎に苦しんだ。

皮膚科医はカブレの原因を明らかにするために、純粋なヘナ色素とPPDを材料にして皮膚貼付試験をした。その結果PPDにのみ皮膚は紅く反応し、検査陽性を示した。

彼女のいれずみにはblack hennaが用いられていたのである。それにしても2度目のカブレはなぜ起こったのだろうか。

black hennaの成分は、皮膚の角層と反応していれずみとなるわけであるが、その角層が垢となって消えるのと運命を共にする。すなわち、いれずみの局所にはヘナもPPDも普通は残らない。

それでヘナいれずみは一時的なものなのである。彼女の場合、最初のカブレで皮膚が炎症を起こした際、ヘナ成分が皮膚に侵人し残留していた可能性が強い。

それでPPDに反応する準備状態(これを感作されたと専門用語でいう)になったのではないか。そのような状態の皮膚に、髪染めに含まれていたPPDがf乍用して局所皮膚がカブレたのであろう。

今日、日本においてヘナは医薬部外品あるいは化粧品としても認可されていないので、雑品として輸入されたものが用いられる。自然のヘナ色素ばかりでなくいろいろなものが混ざっていることがある。特にblack hennaによるトラブルが今後増えるかもしれない。

植物によるいれずみは何もヘナの専売特許(この言葉はすでに死語?)ではない。斎藤茂吉の自伝小説『念珠集』に漆によるいれずみ話が出てくる。

小学校の帰り道の出来事である。
「漆の芽を摘み取ると芽の摘口から白い汁が出てきた。……前膊の内面のところに漆の汁で女陰と男根を描いた。……次の日の朝みんなが集まって腕の絵を見せ合って大声で笑った。絵のところだけが黒くなっで乾いたから、きのうに較べてはっきりして来ている」

それはヘナよりもっと強い色であったろう。ウルシオールという物質が空気に触れ、酸化されて暗褐色に変色し秘密の絵が浮き出たのである。

もっとも茂吉だけは漆カブレの前歴があり、黒いどころか、その男根は赤く腫れて、かゆくなってしまったという話である。

茂吉の男根図はかさぶたとなり、父親に治療してもらうこととなった。その後、この小さな男根は瘢痕となり高校のころまで残り、やがておぼろになって消えたという。漆による絵身いれずみに瘢痕いれずみが加わった稀有な例ではある。

人が植物からの染料で皮膚にいれずみをする話をしてきたが、逆に人が、植物の葉にいれずみをする話もある。

「多羅葉(タラヨウ)」という木がある。モチノキ科の」常緑樹で、当大学の本部玄関の横にも一本の大きなタラヨウがある。木の葉はやや厚く、その裏は白っぽい。そこに少し力を入れて、尖ったもので文字を書くと、やがて褐色から、黒に変じて文字が浮かんでくる。まさにいれずみである。

昔、戦国時代に武士が留守家族に便りを出す時に、この木の葉を用いたという。それでこの木には「ジカキシバ」「エカキシバ」の名もあり、「葉書の木」ともいわれ、それは葉書の語源とされている。

そういう訳で、平成9年から「郵便局の木」にもされている。

また江戸時代には「はしか」の御守りの一つとして、タラヨウに「麦殿は生まれたままにはしかして、かせたるのちは我がみなりけり」と書き、患者の名前と年齢を加えて川に流したという。

この文字を浮かび上がらせる黒い色素は、おそらくタンニンを含む植物の防御タンパクの一つだろうと知り合いの理学部教授が教えてくれた。

たしかに傷つけた文字の部分から、日ごとに黒い部分が緑を押しのけて広がっていく。タラヨウの葉にとってもいれずみは痛いのである。

小野 友道「ヘナによるいれずみ」
(熊本大学理事・副学長)
いれずみ物語 5

主要文献
1)井上雄二、横山真為子、行徳貴志、小野友道:西日皮膚、64;284、2002
2)江馬務:「剳青の史的研究」「江馬 務著作集 第四巻」、中央公論社、1976
3)木村裕、角田孝彦: 皮膚臨床、43; 216, 2001
4)酒井シヅ:「はしか絵」「CLINICIAN」、51(526);5, 2004.
5) Norma P.Weinberg: Henna from head to toe!, STORY BOOKS, Vermont, 1999.
6)Le Coz CJ, Lefebvre C, Keller F, Grosshans E: Arch Dermatol, 136; 1515, 2000.
7) Lestringant GG, Bener A、Frossard PM: Brit J Dermatol, 141+573.1999.

大塚薬報 6月号
2006/No.616
大塚製薬工場

自然的思考


「ソクラテス以前の思想家たち」については、この人たちが「自然(フユシス)について」という同じ題で本を書いたという、少しあやしい伝承があります。

これが事実かどうかはともかくとして、この人たちの思想の主題が「自然」だったことは確かなようです。彼らにとっては万物が自然であり、超自然的な原理などまったく念頭にありませんでした。

しかも、この「フユシス」という言葉が「なる」「生える」「生成する」といったような意味の「フユエスタイ」という動詞から派生したということから、古い時代のギリシア人は、万物は「成り出でたもの」「生成してきたもの」として受けとっていたということが分かります。

こうした古代ギリシア早期の自然観は、万物を「葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に因りて成る」と見ていた『古事記』の古層に見られる古代日本人の自然観と深く通じるものがありそうです。

そこに登場する「高御産巣日神・神産巣日神(かみむすひのかみ・かみなすひのかみ)」といった神名にあらわれる「ムスヒ」も、「ムス」は苔ムス・草ムスのムス、つまり生成のことであり、「ヒ」は霊力・原理のことであって、生成の原理を神格化したものです。

古代ギリシア人や古代日本人の自然観は、アニミズムの洗練されたもので、そう珍しいものではありません。こうした自然観のもとでは、自分もまた生成消滅する自然の一部にすぎません。

人は、自然のなかから生まれ出て、また自然にかえっていく存在と考えられていたにちがいないわけで、その中で、自分だけが特権的な位置に立って、自然のすべてが何であるか、と問うたり知ったりすることができる、などという事を考えることなどないでしょう。

そのような「自然」を芭蕉は「造化」と呼び、その中で人間にできることは「造化にしたがい、造化にかへる」(「笈の小文」)ことだとしています。

超自然的原理を設定して、それを参照にして自然を見るような考え方、つまり哲学を「超自然的思考」と呼ぶとすれば、「自然」に包まれて生き、その中で考える思考を「自然的思考」と呼んでもよさそうです。

わたしが「反哲学」と呼んでいるのはそうした「自然的思考」のことなんです。だから、「哲学」といっても、ソクラテス/プラトンのあたりからへーゲルあたりまで。

いわゆる超自然的思考としての「哲学」と、ソクラテス以前の自然的思考や、そしてそれを復権することによって「哲学」を批判し解体しようと企てる二ーチェ以降の「反哲学」とは区別して考える必要があります。それを一緒くたにして考えようとするから、なにがなんだか分からなくなる。

しかし、それを区別して考えれば、超自然的思考としての「哲学」には決定的に分からないところがあるが、二一チェ以降の「哲学批判」「反哲学」ならわれわれ日本人にもよく分かるということが分かってくる。

といっても、いわゆる表現の問題ではなく、考え方の根本に関してなのですが。
(つづく)

木田 元「反哲学入門」
哲学は西欧人だけの思考法である
波 2006年6月号
新潮社
¥100

超自然的原理


西洋という文化圏の特殊さ

哲学を不幸な病気だと考えることが、わたしにとっては「哲学とは何か」を考えてゆく上での出発点になっているかもしれません。

よく、日本には哲学がないからだめだ、といったふうなことを言う人がいますね。しかし、わたしは、日本に西欧流のいわゆる「哲学」がなかったことは、とてもいいことだと思っています。

たしかに日本にも、人生観・道徳思想・宗教思想といったものはありました。そして、西洋でもこうしたものが哲学の材料にはなっていますが、これがそのまま哲学だというわけではありません。

「哲学」という言葉の由来や性格や意味についてはあとでゆっくり考えなければなりませんが、いまは哲学とは、そうした人生観・道徳思想・宗教思想といった材料を組みこむ特定の考え方だということにしておきましょう。

あるいは、哲学とは、「ありとしあらゆるもの(あるとされるあらゆるもの、存在するものの全体)が何であり、どういうあり方をしているのか」ということについてのある特定の考え方、切り縮めて言えば「ある」ということがどういうことかについての特定の考え方だと言ってもいいと思います。

こうした考え方が、西洋という文化圏には生まれたが、日本には生まれなかった。いや、日本だけではなく、西洋以外の他の文化圏には生まれませんでした。

というのも、そんな考え方をしうるためには、自分たちが存在するものの全体の内にいながら、その全体を見渡すことのできる特別な位置に立つことができると思わなければならないからです。

いま、「存在するものの全体」を「自然」と呼ぶとすると、自分がそうした自然を超えた「超自然的な存在」だと思うか、少なくともそうした「超自然的存在」と関わりをもちうる特別な存在だと思わなければ、存在するものの全体が何であるかなどという問いは立てられないでしょう。

自分が自然のなかにすっぼり包まれて生きていると信じ切っていた日本人には、そんな問いは立てられないし、立てる必要もありませんでした。

西洋という文化圏だけが超自然的な原理を立てて、それを参照にしながら自然を見るという特殊な見方、考え方をしたのであり、その思考法が哲学と呼ばれたのだと思います。

そうした哲学の見方からすると、自然は超自然的原理……その呼び名は「イデア」「純粋形相」「神」「理性」「精神」とさまざまに変わりますが……によって形を与えられ制作される単なる材料になってしまいます。

もはや、自然は生きたものではなく、制作のための無機的な材料・質料つまり物質になってしまうのです。超自然的原理の設定と物質的自然観の成立は連動しています。

しかし、自然とは、もともとは文字どおりおのずから生成してゆくもの、生きて生成してゆくものです。

それが、超自然的原理を設定し、それに準拠してものを考える哲学のもとでは、死せる制作の材料になってしまう。

そういう意味で哲学は自然の性格を限定し否定して見る反自然的で不自然なものの考え方ということになります。

先ほど、わたしは「哲学」を否定的なものとしてしか考えられないと言いました。いったい、哲学は何を否定しているのでしょうか。

やはり、自然に生きたり、考えたりすることを否定しているのだと思います。ですから、日本に哲学がなかったからといって恥じる必要はないのです。むしろ日本人のものの考え方の方がずっと自然だったということになりそうです。

むろん、西洋でもはじめからそんな反自然的な考え方をしていたわけではありません。

古代ギリシアの早い時期、通常「ソクラテス以前の思想家」と呼ばれているアナクシマンドロスやヘラクレイトスらの活躍した時代のギリシア人は、そんな反自然的な考え方はしていなかったようです。自然がすべて、万物は自然だと見ていました。

ところが、ソクラテスやプラトンの時代に、たとえばプラトンの言う「イデア」のような自然を超えた原理を軸にする発想法に転換します。

プラトン以来、西洋という文化圏では、超自然的な原理を参照にして自然を見るという特異な思考様式が伝統になりました。

先ほど言ったように超自然的原理の呼び名は、さまざまに移り変わりますが、その思考法だけは連綿と承け継がれます。その発想法が哲学と呼ばれ、西洋における文化形成の軸になってきたわけです。

19世紀後半、二ーチェがこのことに気づきました。彼はもともと、古典文献学の勉強をした人で、その主要な研究テーマはギリシア悲劇の成立史でしたが、このギリシア悲劇の成立期は「ソクラテス以前の思想家たち」の活躍した時期でもあったので、彼の関心はこの思想家たちにも向かいます。

一方で二ーチェは、彼の時代のヨーロッパ文化がゆきづまりにきていると見て、その原因をさぐります。彼はその原因が、超自然的原理を立て、自然を生命のない、無機的な材料と見る反自然的な考え方自体にあると見ぬきます。

二ーチェは、西欧文化形成の根底に据えられたそうした思考法が無効になったということを「神は死せり」という言葉で宣言しました。ここでは、「神」とは「超自然的原理」を意味しています。

そして彼は、万物をおのずから生成する自然と見ていたギリシアの古い思想を復権することによって、目前にあったヨーロッパ文化の危機を打開しようとしました。

ハイデガーやメルロ=ポンティやデリダといった20世紀の思想家はすべて、多少なりとそうした二ーチェの志向を承け継ごうとしています。

二ーチェにとって「哲学」は超自然的思考を意味し……二ーチェは「プラトニズム(プラトン主義)」とも呼んでいます……その批判が彼のほんとうのねらいでした。

つまり、彼は「哲学批判」「哲学の解体」「反哲学」を提唱しようとしていたのです。もっとも、「反哲学」なんていう言葉を使うのは、後期のメルロ=ポンティだけですがね。

こうした「哲学批判」「反哲学」なら、われわれ日本人にもよく分かるのです。超自然的原理を設立してものを考えるなんて習慣はわれわれにはありません。ですから、「哲学」を理解することはムリでも、「反哲学」なら分かるということになるのだろうと思います。

木田 元「反哲学入門」
哲学は西欧人だけの思考法である
波 2006年6月号
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哲学という麻薬


「哲学」についてのわたしの考え方は、かなり変わっているかもしれません。わたしはどうも「哲学」というものを肯定的なものとして受けとることができないのです。

社会生活ではなんの役にも立たない、これは認めなけれぱいけないと思います。

しかし、それにもかかわらず、100人に1人か、200人に1人か、あるいは1000人に1人か割合ははっきりしませんが、哲学というものに心惹かれて、そこから離れることのできない人間がいるのです。

わたしもそうでした。答えの出そうもないようなことにしか興味がもてないのです。

わたしも、やる前から、なんの役にも立たないことは分かっていました。それじゃあ、哲学から離れて、世の中の役に立つような人生を歩めるかというと、これができないのです。

ほかの職業を選んだとしても、たぶん、ずっと哲学が気になって気になって仕方がなく、中途半端な生き方をすることになったと思います。

哲学科に入ってくる学生や、哲学書の愛読者などにはこうした性向を持っている人が多いわけでしょうね。哲学から抜け出せないことは、とても不幸なことなのですがね。

わたし自身、後悔はしていませんが、哲学に取り憑かれなければ、もう少し楽な生き方ができたと思います。

哲学は不治の病のようなものですよ。わたしのばあいは、哲学を自分の仕事としたために、哲学が持つ毒をよく理解することができました。

だから、人に哲学をすすめることなど、麻薬をすすめるに等しいふるまいだと思っています。

しかし、哲学という病にとりつかれた人はもう仕方がありませんから、せめてそういう人たちを少しでも楽に往生させてやろう、哲学に導き入れてやろうと、そんなふうに考えて本を書いているのです。

わたしの書く入門書は、同じような不幸を抱える人を読者に想定して書いています。同病相憐れむですね。

だから、「子どものための哲学」なんて、とんでもない話です。無垢な子どもに、わざわざ哲学の存在を教える必要はありません。哲学なんかと関係のない、健康な人生がいいですね。

木田 元「反哲学入門」
哲学は西欧人だけの思考法である
波 2006年6月号
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