よこすか海軍カレー | 月かげの虹

よこすか海軍カレー


京浜急行の横須賀中央駅前とJR横領賀駅前には、カレーライスの皿を捧げ持った水兵姿のカモメ像が据えられている。ヨコスカの「スカ」と「カレー」を合体させてその名も「スカレー」。

横須賀は7年前に「カレーの街」を宣言した。そこにはこの街の在りように起因する必然的な意味合いがある。

アメリカ海軍の基地にほど近いドブ板通りを歩く。背中に虎と龍が刺繍されたテカテカの素材のジャンパー、通称スカジャンが店頭に掲げられ、在住の外国人(おそらくほぼ全員アメリカ人)が行き交い、タコスやホットドッグ店の看板が色を競っている。

『ホテルニューヨコスカ』の脇を上った『よこすか海軍カレー館」に行った。この店の母体である『魚藍亭』の女将・大河原晶子さんは料理研究家として知られる。

7年前、彼女の元に、明治時代の『海軍割烹術参考書』に載っているカレーを再現してほしいと市役所、商工会議所、海上自衛隊から合同の依頼があった。食による街おこしの一環だった。

そもそもカレーライスが広く普及したきっかけは、旧日本海軍にある。明治時代の海軍食は、ご飯に味噌汁、漬物というシンプル極まりない献立だった。

このメニューで長く洋上生活を続ければ、ビタミン不足から脚気に罹る乗組員が続出するのは自明の理。食事の改善が急務と思い至った上層部は、西洋食を取り入れた。

規範となったのはイギリス海軍の食事。イギリス海軍は肉と野菜を食材にカレーシチューをつくり、それをパンと一緒に食べていた。

日本の海軍も当初はサラサラのカレーシチューをパンと共に食していたが、どうも今ひとつ腹持ちがしない。そこでカレーシチューに小麦粉を加え、とろみをつけてご飯にかけて食べるスタイルが生み出された。

1908(明治41)年に書かれた海軍割烹術参考書には牛肉(鶏肉)、人参、玉葱、馬鈴薯、塩、むぎカレイ粉、姿粉、米の材料のあとに、詳細なレシピが載っている。

全文を示すと長くなるので抜粋にとどめるが、「初メ米ヲ洗ヒ置キ」から、材料を「賽ノ目ノ如ク細ク切リ」に至り、「麦粉ヲ入レ狐色位二煎リ」「煮込ミシモノニ塩ニテ味ヲ付ケ飯二掛ケテ供卓ス」とある。

そのレシピを忠実に再現した「元祖よこすか海軍カレー」を注文した。キャビン仕立ての店内。オープンキッチンからは香ばしいカレーの匂い。深めの皿に粒の立ったご飯、やや色の浅いカレーがかかって登場した。

傍らにはコップ1杯の牛乳と、小ぶりのボウルに収まったサラダ。漬物兼薬味役のチャツネの小皿も寄り添う。実の味わいよりもメニュー復刻の妙にこそ価値があると、さしたる期待もせずにスプーンですくひと掬いすれば、オー……コクと深みが舌から鼻へ心地よく抜けていく。

へット(牛の脂)を使って丹念に妙ったカレイ粉が見事に効いている。チャツネを加えてまたひと口。味の階層が一段と深まっていく。

スイマセン、明治の海軍割烹術を見くびってました。ヘットやチャツネを用いるのも、ちゃあ一んとその書に記されている事柄。

当時の味は平成の今にあっても古ぼけてはいない。むしろ思いがけなく正統な洋食のルーツに出会えた驚きがある。温故知新の喜びがある。

ちなみに現在、海上自衛隊の金曜日の昼食はカレーライスが定番メニューだという。

店を出て、腹ごなしに海沿いの三笠公園まで歩いた。まだ舌と鼻にカレーの香りの余韻が残っていた。海風の匂いは廿く、チャッネのそれに似ていた。

ペリーの黒船来航に端を発し、横須賀は異国と日本の文化が交じり合い、独自のテイストのファッションや流行を発信してきた。同時にこの街は、食の意外なルーツも今に伝えている。横須賀はカレーの街である。

立山 弦「よこすか海軍カレー」
ニッポン
御当地ランチ
食遊記 第15回

SKYWARD 
2006年6月号
JALグループ機内誌