金色に輝く山々
往年の光景を思い出すかのように老人は言った。
「山が、金色に輝いていたんですよ」
視線の先には緑の山々。老人と山との間には深い谷が横たわっている。静寂の中、ゆっくりと時が流れていたと記憶している。
あれからもう12年たつ。が、話の内容は今もよく覚えている。そして、金色に輝く山々が白日夢のように脳裏に浮かんだことも。
山を金色に染め上げたのはミツマタの花だった。
話をうかがったのは仁淀村(現仁淀川町)だが、本県の山間部ではごく普通にミツマタが栽培されていたらしい。
中国原産の落葉低木で、高さは1.5mほど、枝が3つに分かれることから名が付けられた。この茎を切って蒸し、荒皮を削る。それが加工されて和紙になる。
山の人々は主に百円札の原料としてミツマタを国(造幣局)に納入していた。苗を植えて3年後に収穫できるので、山の作物としては極めて効率的。明治中期に導入され、以来現金収入の王座を占めてきた。
花が咲くのは春だった。斜面いっぱいに植えたミツマタが一斉に黄色の花をつける。その情景を、老人は懐かさを込め、多少誇らしげに「山が金色に輝いた」と表現した。
昭和20年代、ミツマタなどの和紙原料は全国の4割を高知県の山村が賄っていたといわれている。
そのミツマタが、一夜にして没落する。30年代の初め、ミツマタで作っていた板垣退助の百円札に代わって国は百円硬貨を発行した。やがて百円のお札は消え、山々が金色に輝く光景も消え去った。
和紙原料だけではない。時を同じくして石油による燃料革命で木炭産業も廃れた。現金収入がなくなった山は急速に衰亡し、若者たちは集団就職で都会へ出る。
この時代の物語が、映画「ALWAYS 3丁目の夕日」だ。集団就職で東京に来たあの東北の子と同じような体験を、土佐の山奥に育った15~16歳もしていた。
彼ら田舎からの集団就職組は安価で良質な労働力として高度成長を担った。今考えると、労働力確保のため国が政策として田舎からの「追い出し」を図ったのかもしれない。いずれにしろ田舎の若者たちが大量に都会へ出て、懸命に働いた。
彼らのおかげで日本は輸出を伸ばし、国が目指す経済大国への道を進む。だが皮肉にも、輸出立国となったがゆえに田舎にはさらなる困難が降りかかった。
輸出するということは、輸入も求められる。一次産品が大量に輸入され、林業も漁業も、そしてコメを始めとする農業も壊滅への道
をたどった。
増大するエネルギー需要を満たそうと適地には水力発電が計画された。巨大なダムの建設によって少なからぬ山の人々が住むべき士地をも失った。
かろうじて一時は土建産業が山間部の現金収入を担ったが、それも急速に衰退中。
お堅い話をつい長々と書いてしまった。読みにくかろうと思いながら書き連ねた背景は、今の政治状況へのちょっとした反発だ。
小泉政治の特徴の1つは敵の創出だと思っている。つまり敵を悪役にすることで自らを正義の味方に見せる。
小泉政治が悪役にした1つが「地方」だろう。「無駄遣い」「甘えている」と指弾し、「地方への力ネはまだまだ削れる」と展開する。
おかげで公共事業に依存してきた土建産業が没落のときを迎えている。確かに無駄な工事はあったに違いない。しかし政治家や官僚に声高く批判する資格があるのだろうか。
何より醜悪なのは土建業界と政官の癒着であり、そこで働く人々に責任はない。加えて田舎にカネを回すシステムとして土建が機能した側面もある。
なぜ土建がそういうシステムを担うようになったのか、に目を向ける必要がある。没落する一次産業に代えて国が土建をその立場に就けたからにほかならない。国による産業構造の転換と言ってもいい。
山の民を始め、田舎の人々は数百年、数千年にわたって営々と生を紡いできた。その暮らしが破壊された代償に土建という収入の途が供されたということではないか。
土建産業をなくすのがいけないと言っているのではない。なくすのなら、土建産業に代わるシステムを構えるのが国としての責任だと思っている。
トヨタの年間売上高は20兆円を超えたらしい。だがその栄華は国に支えられている面もある。対米輸出超過による円高を防ぐため、日本政府がひたすら米国債を買っているからだ。時には1日に1兆円以上も買ったことがある。
円高になれば輸出企業は大きな損を被る。つまり円高防止に巨額の資金を使うということは、見方によっては輸出企業への補助となる。
つまり農業や公共事業への補助をやり玉に挙げる一方、壮大なスケールで輸出企業を保護している図式。
金色に輝いたミツマタの山にはスギ、ヒノキが植えられた。しかし外材の流人による林業不況で原木価格は低い。手入れすらできず、山は荒れている。国に対してもの申すはずの県も今ひとつ元気がない。
依光 隆明「猛者のつぶやき」
地方悪玉論
高知新聞社 社会部長
この男のエッセイが高知を動かす(3)
プロフィール
57年高知市生まれ
81年高知新聞入社
01年夕刊特報部副部長
02年社会部副部長
03年東京支社編集部長を経て、05年4月より社会部長。
季刊高知 No.21
2006 Summer