自然的思考
 
「ソクラテス以前の思想家たち」については、この人たちが「自然(フユシス)について」という同じ題で本を書いたという、少しあやしい伝承があります。
これが事実かどうかはともかくとして、この人たちの思想の主題が「自然」だったことは確かなようです。彼らにとっては万物が自然であり、超自然的な原理などまったく念頭にありませんでした。
しかも、この「フユシス」という言葉が「なる」「生える」「生成する」といったような意味の「フユエスタイ」という動詞から派生したということから、古い時代のギリシア人は、万物は「成り出でたもの」「生成してきたもの」として受けとっていたということが分かります。
こうした古代ギリシア早期の自然観は、万物を「葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に因りて成る」と見ていた『古事記』の古層に見られる古代日本人の自然観と深く通じるものがありそうです。
そこに登場する「高御産巣日神・神産巣日神(かみむすひのかみ・かみなすひのかみ)」といった神名にあらわれる「ムスヒ」も、「ムス」は苔ムス・草ムスのムス、つまり生成のことであり、「ヒ」は霊力・原理のことであって、生成の原理を神格化したものです。
古代ギリシア人や古代日本人の自然観は、アニミズムの洗練されたもので、そう珍しいものではありません。こうした自然観のもとでは、自分もまた生成消滅する自然の一部にすぎません。
人は、自然のなかから生まれ出て、また自然にかえっていく存在と考えられていたにちがいないわけで、その中で、自分だけが特権的な位置に立って、自然のすべてが何であるか、と問うたり知ったりすることができる、などという事を考えることなどないでしょう。
そのような「自然」を芭蕉は「造化」と呼び、その中で人間にできることは「造化にしたがい、造化にかへる」(「笈の小文」)ことだとしています。
超自然的原理を設定して、それを参照にして自然を見るような考え方、つまり哲学を「超自然的思考」と呼ぶとすれば、「自然」に包まれて生き、その中で考える思考を「自然的思考」と呼んでもよさそうです。
わたしが「反哲学」と呼んでいるのはそうした「自然的思考」のことなんです。だから、「哲学」といっても、ソクラテス/プラトンのあたりからへーゲルあたりまで。
いわゆる超自然的思考としての「哲学」と、ソクラテス以前の自然的思考や、そしてそれを復権することによって「哲学」を批判し解体しようと企てる二ーチェ以降の「反哲学」とは区別して考える必要があります。それを一緒くたにして考えようとするから、なにがなんだか分からなくなる。
しかし、それを区別して考えれば、超自然的思考としての「哲学」には決定的に分からないところがあるが、二一チェ以降の「哲学批判」「反哲学」ならわれわれ日本人にもよく分かるということが分かってくる。
といっても、いわゆる表現の問題ではなく、考え方の根本に関してなのですが。
(つづく)
木田 元「反哲学入門」
哲学は西欧人だけの思考法である
波 2006年6月号
新潮社
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