つれづれに、w杯
ワールドカップ開催を祝して……というわけじゃないのだが、今回はまずサッカーにちなんだ旅行記を。
近藤篤著『サッカーという名の神様』は、16カ国(日本も含む)を巡り歩いた世界サッカー紀行。
檜舞台で脚光を浴びるスター選手よりも、市井の民衆がボールを蹴る風景を撮り続けるサッカー写真家である著者は、そんな「路地裏のサッカー文化」を旅情とユーモアに溢れる珠玉の文章で写し取っている。
ワールドカップだって、そんな無名のおっさんや子供たちの「球蹴りゴッコ」に支えられているのだ。
〈そんな南の小さな島でも、やっぱり人々はボールを蹴り、得点を喜び、失点を悔しがり、オフサイドをめぐって口論する。子供たちはボールの向こうに夢を見て、大人たちは子供たちの背中を押してやろうとする〉(モルディブの章より)。
この球蹴りゴッコが世界の共通言語になってしまったわけを、感覚的に理解できる旅行記だ。あなたのワールドカップの見方もちょっと変わるかもしれない。
ブラジルでもイタリアでもベトナムでもケニアでも、サッカーをきっかけに現地の人々といきなり打ち解けることができた奇跡のような体験が、僕自身にも何度かあった。
「サッカーという名の神様」の存在を、日本人はもっと知っておいて損はないと思う。ワールドカップで日本が勝ち進むためにも、だ。
さて、ワールドカップから話は思わぬ方向へと向かう。8年前、フランス・ワールドカップの機会に初めてマルセイユという街を訪れた。さまざまな民族と文化が混交する港町を歩きながら、昔読んだ金子光晴の『ねむれ巴里」の冒頭シーンを思い出した。
そこに描かれているのは4分の3世紀も前のマルセイユだけれど、当時の著者があの街の空気を見事に活写していたことを「実感」することができた。
不思議な気分だった。おそらくあの天才詩人は街とそこに生きる人間の本性を、時空を超えて見抜いていたのだろう。
さて、僕の連載最後の1冊は、やや唐突に十返舎一九著『東海道中膝栗毛』。実は先日、生まれて初めて原文で読んだのだが、これが江戸、いや日本文学史上空前のベスト&ロングセラーになった理由がよくわかった。
物見遊山、人間模様、トラブル、カルチャーショック、道連れのドタバタ……旅のエッセンスがすべてぶち込まれている。
200年前の大衆がこんな木を楽しんでいたのだから、やはり日本の旅行文化も捨てたものじゃないのである。
山崎浩一「つれづれに、W杯」
やまざき こういち
コラムニスト
1954年神奈川県生まれ
SKYWARD 6月号
JALグループ機内誌