ケニー・ランキン「愛の序奏」
自分の生まれた街や育った場所に、その後も暮らし続けるということは、そんなに多くないでしょう。
そして自分が覚えているそうした風景は、自分の瞼のうらに焼きついたまま、永久に失われてしまったのだという感傷にふけることがあります。
私が生まれ育った東京はその最たる場所といえるかもしれません。その変化はどこかで止まることのないまま、現在も壊され新たな再生がはじまっています。
それを思うと、仕事で何度も行ったパリは変わらない。とはいえ、数年ぶりに行ってみると、ギョッとするものが建っていたり店も変わっていたりするけれど、行きつけのカフェやレストランがそのままあるのが嬉しい。
24年前、レコーディングのために初めて行ったパリ。右も左もわからず、メトロの切符も買えず、もたもたしている私に窓口の女性は、バチンッとその辺を叩いて怒りを露に……。
そのようなことが度重なり、最初の印象は最悪でした、しかし、その翌年もまた仕事で行くことになり、翌々年もまた……。
パリというのは不思議な街でます。我が儘な恋人のように、もう2度と会わないぞ! と思っても、離れると恋しくなる。
パリヘ行く目的はレコーデイングのためで、機嫌の悪いメトロの窓口嬢に遭遇する不幸はあったけれども、仕事の仲間はつねに素晴らしかった。
スタジオ・ダヴーに足を踏み入れた時のことを忘れることができません。古い木の床と高い天井。そこはかつて、あの有名な映画『男と女」をレコーデイングしたスタジオでした。そこがそのままにある。
音楽家にとって、そういう場所で仕事をすることは、ひとつの憧れなのです。ロンドンのアビーロード・スタジオもそういう場所であるように。
スタジオだけではなく、コンサート・ホールやオペラ・ハウス。数えきれないほどの演奏が行われたその場所には、音楽の女神がすんでいるのです。
そして、1999年に私は再びパリのスタジオ・ダヴーで録音をしましたが、音の素晴らしさは以前にも増していました。
ここにご紹介するケニー・ランキンは、何10年経っても色褪せないアルバム『The Kenny Rankin Album(愛の序奏)」からの一曲で、1977年の録音。
そしてこのアルバムが凄いのは、すべての演奏・歌を同時に録音していること。つまりいっぱつ録り! そしてこの完成度。演奏家も歌手もほんとに上手くなければできないことで、現在ではほとんどありえないことです。
この曲を聴くたびに、その賛沢さにうっとりしてしまう。音楽のように触ることも、持って帰ることもできないものと出会う場所。それは、私たちの心に残る風景かもしれません。そしてそれを創り出す場所というのも、失われてはならない場所だと思うのです。
大貫妙子「音の住処(すみか)」
旅する耳
SKYWARD 6月号
JALグループ機内誌
参考HP
http://www.onfield.net/hihou/contents/11.html
http://www.kennyrankin.com/