旅の朝は早い | 月かげの虹

旅の朝は早い

日頃は朝寝坊で、とりわけ胃袋の寝覚めが悪い私だが、旅に出るとにわかに早起きになり朝から食欲も満開になる。 そんな私をいつも完膚なく迎え撃ってくれるのが中国の朝飯屋である。数百年の昔にタイムスリップするような北京の胡同(フードン)をそぞろ歩きながら、賑やかな人だかりに割り込んで立ち喰いする朝食ほど嬉しいものがあるだろうか。 私はまず刻み青葱を焼き込んだ香ばしい葱餅にかぶりつく。北京の主食は米ではなく小麦粉だから、餅というのは小麦粉を練って焼いたり揚げたりしたものである。 それから盛大に湯気を上げている蒸籠(せいろ)から、小ぶりの肉饅頭も幾つか貰う。仕上げは、豆腐脳という凄い名前の一品で、丼いっぱいの汲み上げ豆腐に醤油味の熱々の餡(あん)がどっぷりとかかっているのを、レンゲで掬ってフウフウ吹きながら平らげる。 さらに余力があれば麺にも手をのばす。青葱をどっさり入れたつゆそばがあっさりしてスルッと胃におさまる。 広大な中国だから朝食も地方によって違い、南方に行くと米の粥が中心になる。私は苦手だがさまざまな臓物入りの粥も多く、朝からしっかりと精力がつきそうだ。 上海では必ず小籠包を注文する。薄い皮の中からピュッと溢れる熱い汁で上顎を火傷しそうだが、このスリリングな美味で、どんな寝坊すけでも必ず目が覚めるだろう。 イスラム圏の蘭州では豚肉が姿を消すが、かなり濃厚な牛肉麺や羊肉麺でズシリと栄養をつけて、過酷な砂漠の旅に備えるのである。 朝食の充実度では英国も中国といい勝負だろう。気楽なB&Bでも朝食は重厚で、昼食は、要らないほど朝に鱈腹(たらふく)食べて出掛けられるから、お金も時間も節約できる。 幽霊が出そうに古ぼけたロンドンのホテルで、この爺さんももしかして幽霊の一味ではと思わせるよぼよぼの老給仕長が、レトロなフロックコートで恭しくサーヴィスしてくれた正調イングリッシュ・ブレックファーストは忘れられない。 まず暖炉の前に跪き火加減をチェックした給仕長が、金網のパン焼き籠を火にかざして微妙に動かしながら実にほどよく焦がしたトーストは、その上にバターを置くなりじゅわじゅわと小気味よく溶けて拡がっていく。 それに鰊(にしん)の生っぽい燻製をこんがりとバター焼きにしてレモンを絞りかけたのをあしらって食すのだ。まさに英国の醍醐味である。 紅茶も淹(い)れ方によってこれほど味が違うのかと驚嘆するほど、彼のまろやかなミルク・ティーは絶品で、女王様が召し上がる紅茶はこういうものなのだろうと、思わず背筋を伸ばしてしまうのだ。 以来日本でロイヤル・ミルク・ティーと称するものを飲む度に、何がロイヤルよ、これだけの値段にするなら、あの爺さんでも連れて来てほしいわと悪態をつきたくなる。 桐島洋子「旅の朝は早い」 きりしま ようこ 作家 1937年東京都生まれ。 SKYWARD 6月号 JALグループ機内誌