感覚の世界
ふと気がつくと、世の中はずいぶん便利になっている。もはや電話とも言えないケータイ、何でもできるパソコン。どこにいようと動かすのは指先だけですんでしまう。便利になりすぎて心配だ。
そんな人もいるだろうが、僕には別に不安はない。明治生まれの僕の母は、馬に乗って小学校に通っていたが、晩年は車で外出していた。そのくらい、人間には適応力があって、すぐ慣れる。
ただ、便利を享受するだけですむのか、置いていってしまうものはないのか、考える必要はある。"IT社会" は、いわば脳と脳をつなぐことで成り立っている社会。
僕のイメージでは、海に浮いている氷山のてっぺん同士をつなぎ合わせているだけで、見えている部分よりはるかに大きな海面下の部分は忘れられがちである。
海面下、つまり意識の下にあるのは体だ。体に何が起こっているか、脳は気づかない。脳がコンピュータの画面を追うのに熱中している間も、胃や腸は一生懸命消化作業をやっている。ときにはそれを思い出してやらなくてはいけない。
個性は脳の中ではなく、体にある、というのが僕の考えだ。体に備わっている感覚も、だからひとりひとり違う。同じ場所で同じものを見ても、見え方は人によって全部違う。
世の中の大方の人は、「それはそうだけど、そんなものは小さな違いでしょ」で片づけてしまう。脳がつくり出した世界、つまり都会に暮らしていると、言葉や概念(これも脳がつくったものだ)でくくれるものだけがすべてになる。
ウチの猫もノラ猫も、白い猫も黒い猫も、すべて違う猫だが要するにみんな「猫」。「猫」という言葉で、どの人も同じ動物を思い浮かべる。このように、概念の世界は他人と共通性があるが、感覚はその人だけの独自のものだ。このことを、人間はすぐ忘れる。
たとえば、僕が腹が減ったと感じるとき、隣にいる人も空腹だとは限らない。だが文明化された社会では、12時になるといっせいにメシを食うことになっている。ひとりひとり違うはずの感覚の世界を同じにすることで、文明を成り立たせているわけだ。
僕に言わせれば、そういう思想のとどのつま
りがコンピュータ、" IT社会" なのである。パソコンを便利な道具として使い倒すならいいが、自分が情報を出し入れするだけのパソコンになってしまっている人が多い。
コンピュータは自ら変わることをしない。いつ誰が使っても同じでなければ具合が悪いからだ。個性が大切とやたら言われるのも、こうした状況の反動であろう。
感覚の世界の違いを無視していくと、個人の人生は消えてしまう。だが本当は、その他大勢の「ただの人」などはひとりもいない。あなたの人生は、あなた限りの限定品なのである。
養老孟司「"個性は体の中にあるもの」
ようろう たけし
解剖学者
1937年神奈川県生まれ
東京大学名誉教授
SKYWARD 6月号
JALグループ機内誌