大正財界のナポレオン | 月かげの虹

大正財界のナポレオン


史上最強の企業家、金子直吉

土佐人は商売下手だというのが通説である。

たしかに政治家や思想家、ジャーナリストは多く輩出しているが、他府県に比べても企業家は少ないようだ。だから、日本史上最強の企業家が土佐から出ている、と言っても俄かには信じてもらえそうもない。

あるいは、高知県人なら三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の名を挙げるであろうか。しかし岩崎は明治維新に功績のあった坂本竜馬などの威光を背景に政治と密接に関係しながら実業界で名を成した典型的な政商、最強の企業家とは言いがたい。

ならば、その人物とは誰か。

なにもかもが桁外れ、まったくの徒手空拳で世界的な企業グループをわずか四半世紀で築き上げた男、金子直吉がその人である。

会社名は「鈴木商店」。同社は大正時代、スエズ運河を通行する船舶の1割はスズキの船だといわれるほど世界的な大企業グループを形成、当時の年商約16億円は日本のGNPの10%、現在の約50兆円に相当し、2位の三井を大きく上回るダントツの企業グループとなっていたのである。ちなみに今をときめく世界のトヨタグループですら年商は18兆円程度だから、その規模の大きさが分かろう。

神戸の小さな個人商店の経営を鈴木家から任され、大番頭としてまたたくまにこのような巨大企業グループに築き上げた男こそ、天才的企業家・金子直吉だったのである。

金子直吉は坂本竜馬が凶刃に倒れる前年、慶応2年(1866年)に土佐の吾川郡吾川村に生まれている。実家が貧しいため学校にも行けず、10歳頃から高知市内に丁稚奉公に出る。荷車を引いて紙くずを集めたり質屋に奉公したが、質屋で質物の書物をむさぼり読んで独学で経済や中国古典などを学び、神戸の砂糖問屋・鈴木商店に雇われる。明治19年、直吉21歳のときである。

ここから直吉は、すさまじいばかりの情熱とビジネスセンスを発揮して一気呵成に大企業家となっていく。

「この動乱の変遷を利用して大もうけをなし、三井、三菱を圧倒するか、しからざるも彼らと並んで天下を三分するか、これ鈴木商店の理想とするところなり。小生、これがため生命を五年や十年縮小するも厭うところにあらず」

第1次大戦中にロンドン支店の部下に送った毛筆の手紙文である。まさに鬼気迫る事業家魂といえよう。

しかし鈴木商店は金子ワンマン体制から組織経営への近代化を怠ったこと、鈴木家への忠誠からか株式上場による資金調達を拒み、台湾銀行一行に融資を依存していた体質が裏目に出て、昭和2年のいわゆる昭和大恐慌で破綻。後の神戸製鋼所、石川島播磨重工業、帝人、昭和石油、サッポロビール、日商岩井など80社を要する世界的な総合商社・企業グループは一夜にして消え去ったのである。まさに一炊の夢であった。

直吉は背も低く、強度の乱視と斜視、坊主頭で服装にもまるで頓着しないし風采は上がらない。しかし事業に専心する情熱と集中力は並外れていた。こんな逸話が残っている。

ある日、直吉が帰宅の電車に乗ったところ、挨拶する婦人がいるので挨拶を返した。ところが電車から降りてもその婦人がついてくる。そして婦人はついに家にまでついてきて、やっとそれが自分の妻であったと分かったという。目が悪いためだけではなく、直吉の事業への集中力がそんな微笑ましいエピソードを残しているのである。

事業家であり辛口の批評家でもあった福沢諭吉の娘婿・福沢桃介は金子直吉を大三菱の創始者・岩崎弥太郎よりも高く評価して、こう述べている。「人造絹糸、窒素工業、樟脳再製など、我が国の基礎工業に先べんをつけたナポレオンに比すべき英雄」

直吉は、自社の繁栄だけを求めた事業家ではなかった。旺盛な事業意欲は、日本という国家にとって必要な事業と直吉が判断したものに集中的に向けられた。三井や三菱が、ともすれば功利を求めるあまり二の足を踏むリスクも、国家のために進んでとったのである。それらの事業の多くが立派な企業として開花し、日本の産業界の基礎を築いたことはまさに英雄的な行為として特筆すべきことであろう。

また直吉を伝説的な人物にしたもうひとつの事柄。それは、彼の私生活が無欲恬淡としたものだった点である。

昭和2年に鈴木商店が破綻したとき、直吉のもとに台湾銀行など債権者たちが財産の没収のため調査に訪れた。だが、いくら調べても、金子家は一軒の家も一坪の土地も所有しておらず一切の蓄財をしていなかったことが分かり、皆心底驚いたという。

直吉はまた、酒色はおろか煙草も吸わず、崩れたところの一切ないまるで坊主頭の修行僧であった。そして彼は常に何人かの書生を養い、学費を出していたため、家計は赤字だった。

 直吉のこんな言葉が残っている。「鈴木商店はある宗旨の本山である。自分はそこの大和尚で、関係会社は末寺であると考えてやってきた。鈴木の宗旨を広めるために(店に)金を積む必要はあるが、自分の懐を肥やすのは盗っ人だ。死んだ後に金(私財)をのこした和尚はくわせ者だ」世の凡百の企業家に聞かせたい言葉である。

そんな私心のない直吉だったため、社員らに愛され心底尊敬された。リーダーかくあるべし、である。さらに言えば、直吉を育てた明治の土佐の気風は相当に硬骨で、優れたものだったであろうと思われる。

今は見る影もないこのよき伝統の残滓でもいいから、高知県人のいずれかに残っていないものだろうかと思う。嗚呼。

   初夢や太閤秀吉奈翁(ナポレオン) 白鼠
                   ※白鼠は直吉の俳号

       Text by Shuhei Matsuoka

http://nobless.seesaa.net/article/6255852.html