月かげの虹 -10ページ目

憲法9条2項の意義


マスコミは日本とアメリ力の価値観が「同じだ」とか「共有している」とよく言いますが、まったく違います。

アメリ力は戦争をしている国であり、日本は平和憲法をもつ国です。「価値観がいっしょ」のはずはありません。

私自身、戦地でたたかった人間ですが、戦争になれば、自由や人権ではなく、「勝つために」ということが最高の価値になります。命のような誰もが疑わない価値でさえ、「鴻毛の軽きにおく」のが戦争です。

アメリカは戦争のために、大西洋では英米軍事同盟を100%動員しています。いまイラクで本当の意味でたたかっているのは米英軍です。

太平洋では日米安保条約をどう動員するかが、アメリ力にとっての大問題です。日々報ぜられる基地問題も、米軍と自衛隊の一体的運用も、安保条約をいかに軍事同盟化していくかというアメリ力の基本的な政策から生まれています。

しかし、アーミテージ前国務副長官が言うように日本の憲法9条2項(戦力の不保持・交戦権の否認)をなくさない限り、本格的な軍事同盟化はできません。

憲法9条2項のもとで日本はこの60年間、主権の発動によって外国人を1人も殺していません。

また日本は軍産複合体をつくらず世界第2位の経済大国になりました。これは世界史が知らなかった新しい経済モデルです。

他方、支配政党は解釈改憲で自衛隊をつくり、ついにイラクにまで派遣しました。しかし9条2項があるので、それ以上はできませ
ん。

いまや憲法9条2項の旗はボロボロです。しかし旗竿は皆さんが放していない。それをアメリカとの同盟のために「放せ」と言ってきているわけです。

経済の形も日米で違います。アメリカはたえず「グローバリズム」という言葉を使いますが、この、言葉はもはや経済用語ではなく、アメリカが戦争に勝つうえでの戦略用語です。

そしてアメリカは毎年、「年次改革要望書」で、「郵政を変えろ」「医療制度を変えろ」と迫っている。それに乗って出てきたのが小泉政権の「構造改革」路線であり、いまの「格差社会」、「不安社会」、「不信社会」に結びついています。したがって政府が言っていることには矛盾がいたるところにあります。

たとえば「市場主義」といわれるが、現在、市場は投機のための資本市場となっている。社員がいて、得意先があるなかで、金もうけの人のマーケットに顔を向けながら毎日仕事をしろと言われても、「そんなバカなことがあるか」ということになります。

「規制緩和」にしても、それは権力からの自由ではなく、権力への自由を要求すること、大企業のための規制緩和ではないのか。

こういう状況のなかで私たちは何をすればよいのでしょうか。それはアメリカとは価値観が違うことを前提に、日本の生き方はどうあるべきかを問い直し、日本としてはこの道を選ぶという、次の国家目標を明確にすることです。

その国家目標は憲法9条2項を守り抜けるか抜けないかによって、まったく変わります。守り抜いた場合は、平和憲法を持つ日本として外交や経済を運営することになるのです。

もともと経済は企業社会のものではなく、国民生活のためにあります。いまこそ国民の出番です。

日本が絶対に戦争をしない国だとなれば、まず中国と日本の関係が変わります。日中関係が変わって日米関係が変わらないことはありえません。

憲法9条2項を守ることは世界史的なとりくみです。けっして受け身の仕事ではありません。

きょうは参加させていただき、きわめて有意義な、いい刺激を受けました。私がこれからやろうとしていることにも自信を得ました。子孫のためにもいい国を残したいと思います。

品川 正治
1924年神戸生まれ。日本火災海上(現日本興亜損保)社長・会長、経済同友会専務理事などを歴任。現在、財団法人国際開発センター会長。経済同友会終身幹事。

全国革新懇ニュース
2006.5.5
No. 279

土佐人・小島祐馬


私は、「美しい生き方」という言葉がすきである。

名利に恬淡とし、悠然として高い志を貫く生き方、それが「美しい生き方」であると私はおもっている。そのひとの中心に太い鋼の精神が存在してはじめて可能となる、容易ならざる生きざまでもある。

そして「美しい生き方」という言葉を口の端にのせた瞬間、私の脳裏に即座に浮かぶ人物がいる。

土佐人、小島祐馬(おじま すけま)である。

小島は1881年高知県吾川郡春野村(現・春野町)生まれ。京都帝国大学法科と同大学哲学科を卒業後、中学校の教師などを経て京都大学教授となり、「中国学(シノロジー)」の泰斗として名を馳せた大学者である。

ベストセラー『貧乏物語』(大正6年刊)で有名な河上肇とは大学卒業後親交を深め、「最初から最後まで河上さんが一度も裏切られなかったのは、ご自分の夫人と小島祐馬先生だけ」と弟子の吉川幸次郎が記すほどの仲となった。

河上とは、こんな清々しいエピソードを遺している。

河上が京大に赴任したころ、『経済大辞典』の執筆を頼まれた。中学教師のわずかな給料のほとんどが本代に消えるという小島の清貧な生活を知っていた河上は、当時28歳の小島に代筆を頼んだのである。

「私が署名してゐるけれど、全部小島祐馬君が書いたもので、私は一字も加へて居ない。立派な原稿で、どうする必要もなかったからである」(『教師としての自画像』)と河上自身が述べている。

一切の手を加えていない原稿であるから、原稿料はすべて小島のものである。河上はそう考え小島に全額を譲ろうとしたが、「どんなに言っても同君は原稿料の半分しか受け取られなかった、已むを得ず、私は墨を買って贈りなどしたが、ともかくそういう訳で、私はただ名を貸しただけで原稿料の半分を受け取らざるを得なくなった。他人に物を書かせて只で原稿料を取ったのは、一生のうちただ此の時だけである」(同上)

小島祐馬には、若い頃から、体の中に縦に一本の鋼をスーと通したような凛とした風情がある。

その後は京都大学教授として経済学、哲学、中国学と学問の世界で名を成していったが、定年を前に、総長になってもらいたいという周りからの強い要望を受ける。小島は人望という点でも類まれな逸材となっていたのである。

しかし小島は、即座にこう言った。

「私には、土佐に、90歳になる父がおり、ひとりで暮らしている。いままではおおやけの仕事があって、父につかえる事ができなかった。さいわいこのたび、定年退官の時が来た。私は、土佐へ帰って、父の世話をする」

大学教授なら誰しもが憧れ、権謀術数をめぐらせても狙う輩が跡を絶たない帝大総長のポスト。小島はしかし、そのようなものは一顧だにしないのである。

そして弟子たちの手伝いを一切受けず、京都の貸家にうず高く積まれた万巻の書を下着姿になってひとりで荷造りし、せっせと春野村の生家に送り続けた。

「祐馬が、座敷じゅう、むやみに本を積み上げるきに、風通しが悪うてかなわん」と老父はご機嫌ななめだったようだが……。

さて、小島祐馬は京大定年後、父親とふたり土佐・春野村弘岡の生家に住み、畑を耕し、本を読むという晴耕雨読の隠棲生活に入った。農業こそがすべての基本であるという強い信念をもっていた小島にとって、俗世を離れての至福のひとときであったろう。

そんな小島のもとに、敗戦間もないある日、東京からひとりの男が訪れる。文部次官だという。

彼は、縁側に座って日向ぼっこをしている老父の耳もとに口をよせて祐馬の所在を聞いた。

「ああ、祐馬か。祐馬なら畑へ行ちょる」

そう答えて指差した畑のほうに、いかつい顔をしたもうひとりの老人が鍬をもって耕している。

それが小島祐馬だと確かめてから、文部次官は、吉田(茂)首相の要請であることを前置きして、こう言った。

「次の文部大臣をやっていただけないでしょうか」

小島は、鍬を休め、ちょっと考えてこう言ったという。

「わしは、麦を作らんならん。そんな事をしているひまは、無い。」

胸のすくような一言である。

吉田はおなじ土佐出身の小島の人望を聞いていたのであろう。しかし、大臣になるなど、小島にとっては麦をつくるほどの価値もないのである。

この話は、小島が誰かに伝えて知られたものではない。文部次官が東京に帰ってから報告したことで広がった話を、弟子たちが現在まで伝えているのである。

その弟子のひとり貝塚茂樹は、高知に隠棲した小島の深奥を肘度してこう記している。

「何の未練もなく、多年すみなれた京都の地を去られたのは、どんな動機があるのか私にはよくわからない。京都に残っていると文学部や、研究所(小島は京大人文科学研究所の初代所長)のことにとかくロを出したくなる。それはどんな善意に出ていても、若い現任者の自由をさまたげることになる。弟子たちの自由を尊ばれた先生は、それではいけないと決心され、固い意志力で退隠を断行されたのであろう。この一挙はだれも容易に出来ないことであった」

小島を身近で見ていた貝塚の推察は、おそらく的を射ている。小島にとって、たしかに老父を看つつ畑仕事をすることも大切なことであったが、それ以上に、後進の邪魔にならぬよう身を退くべきと考えたのである。美しい生き方、としかいいようがない。

小島祐馬はまた、土佐の先人では坂本龍馬と中江兆民(小島には『中江兆民』の著書もある)をひときわ高く評価していた。

このあたり、小島の鮮やかな生き方の本質がみえるが、ひとはいかに生くべきかという哲学をからだの隅々にまで叩き込んでいた小島がわれわれ土佐人に遺してくれたものの大きさは、龍馬や兆民のそれにも劣らないのではないか。

「利益社会における、経済的価値の無制限な追求は、遠からず人類を滅亡にみちびくであろう。今日の世界的危機は、要するに利益社会の行き詰まりである」(『正論雑筆』)との言葉を晩年の小島は遺しており、行き過ぎた利益社会が地球環境の破壊を招くことを高度成長期にすでに予見していたのである。まさに慧眼といえよう。

痛快で剛毅なじいさん、小島祐馬は多くの俊才を育て、1966年に85歳で人知れず世を去った。

万巻の書は「小島文庫」として高知大学に寄贈されているが、それにしても名にし負う高潔の人士を知る県民があまりにすくないのは、われわれ高知県人の怠慢とおもうがいかがであろうか。

松岡周平
まつおか しゅうへい
1956年高知市生まれ。
ジャーナリスト、環境プロデューサー。
国立京都工芸繊維大学建築学科卒。建設会社勤務を経て渡米後、英文技術誌「Techno Japan」、衛星ビジネステレビ「Space Wave」の記者、講談社「週刊現代」記者などジャーナリズム分野で活躍。1998年高知にUターンし情報誌「高知ジャーナル」編集長、企業の企画広報責任者などを経て、2004年より企画会社㈱ノブレスオブリージュ代表取締役。

風聞異説2
高潔の人士「小島祐馬」

季刊高知 No.20
Spring 2006
¥380

哀愁の坂道


昔のぼくは病院へ行くのが嫌いだった。特に歯科へ行きたくなかった。痛くてがまんできなくなってから、やっと重い腰をあげた。

おまけに歯をみがくのも面倒で、朝と夜だけだった。そして甘いものが好きだったからみごとに虫歯になり、歯周病になり、歯ぐきから出血した。

ところが50歳すぎてから突然改心して、コマメに通院するようになった。徒歩で5分のところに片倉歯科があり、3代続いて現在は夫妻そろって腕と気質の良い名医である。

歯みがきも食後には必ずする。当然のことを今までやらなかったのは実に残念 !

効果ははっきりとでた。ぼくは現在87歳だが総入れ歯ではない。自分自身の神経のある歯が10本はある。

特に上の歯は差し歯はあるが、まず健全。下は左右の奥歯を含めて合計6本の義歯をブリッジにしてはめている。

ほんの少しでも歯のぐあいが悪いと、すぐに歯医者へ行って悪くなる前に修理してもらう。

さて、ここまでが実は前説なんですね。

歯科医院までは徒歩5分だが、これが津之上坂というゆるいスロープになっている。

87歳という年齢になると、このスロープを登るのがきつい。室内作業で足が弱っている。そして雪が降って歩道につもればすべる。

ぼくの性質はみえっぱりで、ヨボヨボになっても細身のジーパンでスニーカー。弱味をみせず、背筋を伸ばしてスタスタと無理して歩く。実は息ぎれして胸がくるしい。

歯科の施術は終わって、帰るということになると「道がすべるから危ない、お宅に電話して迎えにきていただきましょう」と言われた。

「なんのこれしき、平気の平ちゃん、お茶の子サイサイ、お心づかいは無用です」とイキなことを言ってとびだしたのだが、なんと歯科のアシスタントの若いおねえさんがおいかけてきてサポートしてくれたのである。

世間からみれば、まぎれもない老人だから当然といえば当然だが、こっちの気分は複雑で「まだ老人ではない」と老人あつかいされるのが不満なのと感謝の気分が交錯する。

空港では「車椅子をご用意しましょうか」と書われ、NHKでは到着すると出迎えに来た人が「今日は高齢の方が出演するというので心配でお迎えに参りました。歩けますか」と聞かれる始末。

なさけない。泣きたくなるが、仕事となると全く容赦なく無理な注文をされる。老齢だからといってハンデはつかない。シニア部なんてない。

このとんでもない落差の中で、いたわられたり、酷使されたり、尊敬されたり、軽侮されたりしながら晩年の人生を過ごしている。

ほんの少し前まではこんなことはなかった。凍てついた残雪の坂道を若い女性にサポートされて歩きながら、ぼくは顔は笑っていたが、心には哀愁がこみあげてきたのである。

やなせたかし「哀愁の坂道」
オイドル絵っせい
2006年5月6日付け
高知新聞夕刊

米軍再編合意の裏側


在日米軍再編問題で、日米の合意達成に貢献した米側のキーマンはリチャード・ローレス国防副次官だった。

米国務省での外務、防衛担当閣僚による5月1日の日米安全保障協議委員会(2プラス2)の最終合意は"儀式"にすぎなかった。

本当のヤマ場は4月下旬、額賀福志郎防衛庁長官が訪米してローレス副次官ら、続いてラムズフェルド国防長官と行った会談である。

その結果、焦点とされた在沖縄米海兵隊のグアム移転経費の問題は、日本側の負担を59%(約61億ドル=約7千億円)とすることで決着した。

だがグアム移転は在日米軍再編の一部分だ。実は、日本側が負担する「総額は260億ドル(約2兆9500億円)」とローレス副次官は記者会見でくぎを刺した。

日本を米軍の戦略に緊密に組み込み、しかもその費用の8割以上を日本に負担させるらつ腕ぶりを示したローレス副次官。

だが、日本では彼の経歴などはほとんど知られていない。複数の国際情報筋によると、ローレス氏は1972年から87年まで、米中央情報局(CIA)工作部門のキャリア要員だった。

CIA時代、外交官を装って東京に駐在したことがある。日本の警察、公安関係者に知己が多く、日本の国内情勢にも通じていたのだ。

CIAを退職した年、「USアジア商業開発コーポレーション」という投資・コンサルタント会社を設立。

大統領の実弟ジェブ・ブッシュ・フロリダ州知事との親しい関係をテコに、日本、韓国、台湾の企業の同州への投資、さらに同州産品の輸出促進といったビジネスにかかわってきた、とフロリダ州の地元紙は調査報道で伝えている。

2002年、国防副次官補(その後副次官)に就任。イラクヘの自衛隊派遣をめぐっては「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」と陸上自衛隊の派遣を要求して、強硬派ぶりを印象付けた。

日本の負担総額が約3兆円に達することについても「それは日本の責任だ……米側負担はグアムでのわずか40億ドル」と妥協しない構えを示した。

それに対する日本側の反応は奇妙だった。安倍晋三官房長官は「その中にどういう種類のお金が含まれているか承知していない」ととぼけた。

また額賀長官は「大ざっぱな米国流」とごまかした。だが1カ月半前の3月12日、日経新聞は、日本側経費は政府試算で「3兆円を超す」と伝えた。知らないそぶりは極めて不自然だ。

ともあれ、日本人の心理を読んだローレス副次官の演出は巧みだ。ワシントンを訪問した横田めぐみさんの母、早紀江さんを国防総省に招いて懇談したのもその一環。

拉致問題は本来なら国務省の任務のはずだが、国防総省玄関で、ローレス副次官が横田さんを出迎えたのだった。

春名幹男「米軍再編合意の裏側」
(共同通信特別編集委員)

世界と日本
《随時掲載》
キーマンは元CIA要員
横田さん招く演出も

2006年5月6日付け
高知新聞夕刊

蘭学のヒポクラテス像


東洋の医神

インドのヒンズー教ではシヴァとその配偶神カ一リーを始めすべての神々が健康や病気に関わりを持つが、新しい神ダーンヴァンタリが医の守護神で、ベナリスの王の姿を借りて地上に現れ、医学を賢人たちに教えたという伝説がある。

中国では伝説上の帝王に伏犧、黄帝、神農の3人の帝王がいる。その1人、神農が医薬の守護神である。

日本には室町時代にすでに伝わり、医祖として崇拝されてきた。神農は牛の頭をして、木の葉の衣をまとい、赤い鞭で薬草を採り、百草を嘗めて、薬草を見つけたという伝説の持ち主である。

神農は江戸時代には医薬のみならず、農業、商業の守り神として祀られていた。医家では、毎年、正月に神農像を描いた掛け軸を床の間に飾って医業の無事を感謝し、発展を祈ったのである。

神農像には名画が多い。徳川家綱や著明な画家の神農図が残る。しかし、江戸後期、蘭学が入ったとき、蘭方医は神農に替えて、ヒポクラテスの画軸を作って祀った。

蘭学者たちは神農に代わる西洋医学の医神はヒポクラテスと信じた。そこで、出典不明のヒポクラテスの画像が石川大浪らによって描かれた。

いまも旧家には神農とヒポクラテスの画像が伝わる。私の夢の1つに、こうした日本の医神像を一堂に集めて、医神に医業の無事を願った人々に思いを巡らせることがある。

文献
1) Rutkow IM : Surgery : An Illustrated History , Mosby-Year Book, St.Louis 1993; 504
2) アルバート・S・ライオンズ, R・ジョセフ・ペトルセリ著, 小川鼎三監訳: 図説医学の歴史. 学習研究社, 東京, 1980; 79~83.
3)大槻真一郎訳編: ヒポクラテス全集, 第1巻. エンタープライズ社, 東京, 1985; 579(「誓い」).
4)緒方富雄: 日本におけるヒポクラテス賛美 日本のヒポクラテス画像と賛の研究序説.
日本医事新報社, 東京, 1971.

順天堂大学医学部客員教授
酒井シヅ「医の守護神」

日医雑誌 第135巻・第2号
平成18(2006)年5月号
医の歴史

医神アスクレピオス


エジプト、ギリシャの医神

古代エジプトでは、たくさんの神々が医の神として信仰されたが、なかでも大地の神イシスは長らく治療の女神として敬われた。

イシス信仰はローマ時代になって全欧に広がっていた。また、エジプトの神トートは古くから神々の中の医の神であった。

それに対して、エジプトの医神イムホテップは古王国時代の第3王朝(紀元前2650年頃)に実在した人物だといわれる。

宰相を務め、サッカラの階段式ピラミッドを設計した人ともいわれ、詩人、能筆家であり、善政を行った人として尊敬を一身に集めていた。

死後、イムホテップの墓を詣った人々の病が奇跡的に治ったことから医神として祀られ、紀元前6世紀頃にはエジプトの最高の医神となっていた。

続くギリシャ時代に登場するアスクレピオスはイムホテップ信仰の流れを継いだものといわれる。

つづくギリシャのヒポクラテスの「誓い」は「医神アポロン、アスクレピオス、ヒュギエイア、パナケイア、およびすべての男神・女神たちの御照覧をあおぎ、つぎの誓いと師弟誓約書の履行を、私は自分の能力と判断の及ぶかぎり全うすることを誓います」と、医の守護神との誓約で始まる。

医神アポロンはギリシャ神話で最高の全能の神ゼウスとレトを両親に生まれ、神々の中でもっとも美しく、竪琴の名手であり、芸術の守護神で、弓の名人でもあり、人間に初めて医術を教えた神という伝説がある。

パルナソス山の下にあったアポロンのデルフォイ神殿は巡礼の人が絶えず、岩山の裂け目から立ち上る蒸気を吸った神官がアポロンの神託を告げていた。

アスクレピオスはアポロンの息子で、母は絶世の美女コロニスであった。コロニスはアポロンを裏切って人間の愛人をつくったために、怒り狂ったアポロンに焼き殺される。

そのとき母の胎内にいた子が救い出され、ペリオン山の洞窩にいた半人半馬のケンタロウスのキロンに託され、養育された。アスクレピオスの誕生である。

博覧強記のキロンはこの子の才能を見込んですべての知識を教えた。成人したアスクレピオスは医薬の知識では養父を凌ぐまでになり、常に聖蛇が巻き付いた杖を持ち、病人ばかりか、死者まで復活させてしまうようになった。

そのことにゼウスは死者の神の領域を侵したと怒り、殺させた。アスクレピオスを慕う人々は各地に神殿を造って祀ったのがアスクレピオス信仰である。

アスクレピオス神殿に、神の救いを求めて巡礼する病人や身体障害者がつぎつぎと訪れた。疲れ切った旅人は、神殿で祈ると、用意された居間で眠りにつく。

そこにアスクレピオスの神聖な召使である聖蛇をつれた神官が病人の間を廻って歩き、夢の中で病の治療法を告げて、蛇に治療させた。その来歴から蛇が巻き付いたアスクレピオスの杖が現代医学のシンボルになっている。日本医師会の記章はそれをデザイン化
したものである。

アスクレピオス信仰は紀元前4~5世紀から、エ一ゲ海沿岸一帯にキリスト教が広がる4世紀まで続いていた。エピダウロスにはアスクレピオス神殿の遺跡で最大のものがある。

遺跡を訪れると、膨大な敷地に神殿のほかに、寝室、精神療法をする特殊な形をした建物、観覧席のある25メートルトラックの競技場、ローマ式、ギリシャ式の浴場、宿舎、マーケットの跡があった。

われわれを驚かせたのが丘陵の斜面を利用した半円形の野外劇場である。劇場には斜面に階段状に作られた数百席がそのまま残る。もっとも高い場所から舞台を見下ろすと、すり鉢状の劇場の底に舞台がある。

私が訪ねたとき、偶然にドイツからきた旅人が舞台でアヴェマリアを歌った。高く、快く響いた歌声は周辺の木々に吸い込まれていった。音響効果がすばらしい。往年の感動がよみがえった。現在でも夏期になると、演奏や演劇が行われるそうだ。

病人はアスクレピオス神殿で治療を受けて、身体を神殿で休ませ、演劇、音楽や競技を楽しみながら病を癒したのだろう。どんな効果があったのだろうか。

神殿跡からは、胸、足、乳房など病んだ部位の彫刻が発掘されている。治ったあと神に捧げたものだという。

アスクレピオスに2人の娘がいた。ヒュギエイアはその1人で、アスクレピオスとともに神殿に祀られている。名前はギリシャ語の健康を意味する言葉となり、hygieneの語源でもある。

ルーベンスの名画に「聖蛇に盃から餌を与えるヒュギエイア」がある。パナケイアはアスクレピオスの2人目の娘である。治療の女神であり、万病に効く薬をパナケイアという。

つづく

順天堂大学医学部客員教授
酒井シヅ「医の守護神」

日医雑誌 第135巻・第2号
平成18(2006)年5月号
医の歴史

祈る外科医


太古の時代から世界各地でさまざまな医の守護神が祀られてきた。また医の世界では医神を医に携わる者が崇拝し、医療者は医神の力を借りて、病に苦しむ者を助けてきた。

現代でも、病人やその家族は寺社に詣って回復を祈り、多くの人々が神仏に家内安全と無病息災を祈願している。

欧米では病院が中世にキリスト教社会の中で生まれたこともあって、当然のように病院にチャペルがある。

日本でも江戸時代まで医者の家では医の守護神を祀って医業の無事と発展を祈った。大衆もまた道ばたの地蔵から薬師、少彦名命を始めとする八百万の神々など神仏に病からの回復と健康を願って祈った。

しかし、明治に入って科学的、合理的、西洋医学が導入されると、迷信を排除することに急いだ政府は寺社での医療を禁じ、医療の場に宗教を持ち込むことを禁じた。

また、新たに西洋医学が導入されて生まれた病院では宗教色を払拭することにつとめてきた。

だが、時が移り変わり、19世紀以降、自然の解明がすすみ、神の力を借りなくても、宇宙のすべてが人の手で判明すると信じた時期もあった。

しかし、病に苦しむ病人は、神仏からの一筋の光に救いを求め、医に携わる者でも手術の前に神に祈る外科医のように、敬虔な気持ちで医療に臨む。

自然は人間の非力を自覚させ、人を超えた力の存在を信じさせる。神、信仰と医療の関係は、浮き沈みがあっても長い歴史が続いてきた。

画像:祈る外科医(Rutkow IM ; Surgery : An Illustrated History, Mosby-Year Book, St.Louis , 1993 ; 504 より引用)

順天堂大学医学部客員教授
酒井シヅ「医の守護神」

日医雑誌 第135巻・第2号
平成18(2006)年5月号
医の歴史

ゼロサム・ゲーム


医療や年金、介護など社会保障のあり方を議論する場合、人口減少をどこまで意識するかで主張は大きく異なってくる。

現行の社会保障の財源は、かなりの程度、現役世代からの所得移転によって成り立っている。この構造は、少子化が進み、財源の担い手が少なくなると機能しにくくなる。

これはよく考えると当たり前のことなのだが、ではどのようにすればよいかということになると、高齢者向けの社会保障給付を減らすしかないという話が出てくるので、なかなか良い改革案が出てこない。

社会保障改革は、すべての世代を同時にハッピーにせず、どこかにしわ寄せがくる、一種の「ゼロサム・ゲーム」である。

この「ゼロサム・ゲーム」的状況から抜けだそうとして、最近では少子化対策の重要性がさまざまなところで喧伝されている。

確かに、子どもの数が増えれば社会保障の財政的な問題はかなり解決する。財源を調達する層が再び厚みを増せば、高齢者向けの社会保障給付はこれまでの水準を維持できる。

政府は、一昔前までは子育て支援を「産めよ殖やせよ」的発想で議論することに消極的だったが、最近では出生率の回復を目指すというスタンスを明確に打ち出している。

そこまで人口減少に対する危機感が高まったということだろう。しかし、少子化という流れは、政策で簡単に反転できるものではない。

少子化の原因の多くは、結婚後ではなく、むしろ結婚前にあると考えられるからだ。実際、既婚カップルの出生力はそれほど落ちていない。

結婚後15年から19年経過した夫婦の平均的な子ども数を完結出生児数というが、その値は1970年代以降約2.2でほとんど変化していない。日本の男女は、結婚すれば平均で2人の子どもをしっかり産み育てているのである。

もちろん、最近では、夫婦が産み育てる子ども数に減少の兆しが見られる。厚生労働省の「出生動向基本調査」を見ても、結婚後しばらく経過した夫婦の子ども数に、緩やかながら減少傾向が認められる。

1人目の子どもは結婚後すぐに産んでも、2人目がなかなか産まれないという状況になりつつある。しかし、これは既婚カップルの出生力の低下というより、晩婚化の影響が大きい。

厚労省が今年3月に公表した「出生に関する統計」によると、女性の平均初婚年齢は、2004年で27.8歳、第1子を産む平均年齢は28.9歳に達している。

結婚しない若者が増え、結婚しても第1子を産む妻の年齢が30歳近くということになると、第2子を産もうと思っても体力的な問題が出てくるだろう。とにかく若者に早く結婚してもらわないと、出生率は回復できないということになる。

そう考えると、児童手当の対象年齢を引き上げたり、両立支援策を充実したりしても、あまり効果はないことが容易に予想される。それらは基本的に、既婚カップル向けの政策だからだ。

子育て支援の充実で、若者は果たして結婚を早めるだろうか。早めるかも知れないが、それほど期待できないものであろう。

以下略

小塩 隆士「人口減少時代の社会保障改革」
おしお たかし
1960年京都府生まれ。
東京大学教養学部卒業後、経済企画庁(現内閣府)勤務等を経て、2005年4月より神戸大学大学院経済学研究科教授。

日医ニュース  
No.1072
2006.5.5

科学的根拠


雪国に住む者にとっては毎年秋になるとその年の雪の程度を予想することが関心事の一つとなってくる。

〃カメムシの多い年は大雪になる"
"赤とんぼが多く出る年は大雪"
など、昔からの言い伝えを参考にするとはいえ、やはり気象庁から発表される長期予報を最も信頼している。

ところが、今年に限っては、暖冬という気象庁からの予報とは裏腹に現地では夏ごろより、かなり多くのカメムシの発生をみており、どちらが正しいのか、みんなが注目していた。蓋を開ければ、12月に近年まれにみる大雪となった。

気象庁の長期予報は、過去何10年にわたる膨大なデータと〃シベリア寒気団"や"北極振動"の動向から科学的に予想するのに対し、カメムシと大雪との関連は単に長年、人々が観察した経験そのものであり、科学的根拠は何もない。

にもかかわらず、昔からの言い伝えの方が当たったのである。医療の現場に目を転じてみよう。今はEBMに基づくガイドラインで診断・治療に当たらなければならなくなっている。

すなわち、先輩に教えてもらったことや自分の経験だけでの医療行為は、科学的根拠に乏しく、その正当性までも否定されかねない。

本来ガイドラインとは、絶対的な原理ではなく、これに準じて医療行為を行えば現段階では大きな間違いがないという性質のものであ
る。

医療が対象とする「人間=ホモ・サピエンス」とは、十人十色といわれるように、人体の 構造から薬物に対しての 反応まで千差万別であるがゆえに、その場その場において臨機応変に対処し、結果を良い方向に導き出すようにと"裁量権"が認められている。

しかし、この数年の間にガイドライン至上主義が台頭し医師の裁量権は狭められている傾向にある。

医師が長年にわたり生身の患者さんを自分の六感すべてを駆使して治療に当たって得た経験の蓄積を、もう少し正当なものとして評価してもいいのではないかと思う。

野垣秀和「力メムシと大雪」
(一部省略)
兵庫県医師会報No.628より

日医ニュース
2006.5.5

創造性の秘密


9. カルチャーを超えた共通点
ワーグナーのオペラは、なかなか日本人には歌えないというのですが、最近、日本の歌手で藤村実穂子という方がおられます。この方は、バイロイトでもよく歌っておられるすごい歌手なのです。

それこそはじめに言いましたように、文化庁長官の役得でその方と対談をしたのですが、その方が非常に面白いことを言っておられました。

「初めにドイツに行った時は、ドイツの生活とか生き方とか感じ方とか、ああいうものをどんどん身に付けないと、向こうの歌は本当に歌えない、ワーグナーなんか歌えないというので、何とかしてヨーロッパのものを自分が吸収しようと、一生懸命やってきた。

けれども、今バイロイトなどで歌うようになってくると、自分がドイツ人とまったく同じように歌っているのではないというところで評価されているように思う。

どんどんヨーロッパのものを消化し、身に付けているのだけど、先ほど言ったように、自分を深く掘り下げていくと、日本人であるということは否めない。これは否定することはできない。

だから表現するときに自分の深いところに降りていこうとすると、日本的なものに変わっていくのだ」と。これを否定するのではなくて、ぶつかっていくのだけれど、そこから非常に面白いことを言いました。

先ほどのイメージなどに続いてくると思うのですが、「作曲家が最も表現したいものというのは、ワーグナーにしろ何にしろ、要するに単純にドイツ的とか、単純にオーストリア的とか、名前の付かないものではないか。

名前の付かない「X」というところが一番creativeなところと関係するところであって、その「X」をもちろんワーグナーはワーグナーのようにだんだん表現していくのだけど、自分はその「X」に迫っていくときに、日本人であるということを否定してそれをやろうとすると、うまくいかない。

日本人であるというところにぐっ一と降りていくと、ドイツ人やほかの国の人々がワーグナーの一番表現したかったことということを、表現しようとしているところと、通じるところが出てくるのではないか。

そういうカルチャーなんかを超えた共通点みたいなものを表現するのだけれど、表現しつつろ過していく通過点の中に、やはり日本的なものがあるということによって、かえって評価されているのではないか」というような、非常に面白い表現をしておられました。

今、外国で活躍しておられるたくさんの日本のアーティストの人と話をしていると、非常に似たようなことを言われる方が多いです。

どうしてあちらのものに迫っていくかではなく、日本的なもの、日本人としてのものを出しているのだけど、どこかそれを超えたところで一致するという、そこまでいったら、きちんと向こうで評価されるというふうな、そういう言い方ができると思うのです。

そのときに日本人であることを突き抜けていくということと、日本人であることを否定してしまうのとは違います。

そこのニュアンスみたいなものを、我々はよく知っておく必要があるのではないかと思いました。これが飯田先生の言われた宿題に少し関係するところだと思います。

ちょうど時間がきましたので、これで終わりにします。

河合隼雄「創造性の秘密」
第51回日本病跡学会 特別講演

日本病跡学会雑誌
No.68 
2004年12月25日発行