知床の小さな番屋
エンジンを止めた舟が静かに海を漂っている。音のない青い海の上で、ぼくは目の前に迫る風景に圧倒されていた。
相泊の漁港を過ぎて崩浜に来ると、視界いっぱいに大自然がある。海から急激に盛り上がった半島の崖は目にしみるような緑で覆われていた。
壁の谷間には滝があり、巨大で荒々しい黒い岩がいくつも海から突き出ていた。アラスカや北欧で観るような風景が日本にあるとはとても不思議な気がした。
昔、同じように舟でここにやってきた松浦武四郎も、この風景に圧倒されたにちがいない。そう思った。
「北海道」の名付け親である松浦武四郎は幕末の探検家である。伊勢須川村に仕まれた彼は、16歳で江戸へ旅をしてからというもの生涯旅をし続けた人だった。
旅の途中で長崎にいたころ、ロシアが蝦夷地(今の北海道)を狙っているという情報に危機感を抱いた武四郎は、自分の目で確かめようと蝦夷地へ向かった。それから都合6回、蝦夷地をくまなく探検調査し、すぐれたルポタージュを水戸藩を通じて幕府に献上した。
日本が蝦夷地を外国に奪われることなく日本固有の領土として守れたのは、この武四郎の功績が大きかったといわれている。その武四郎は安政5年(1856)現在の根室市を出発し、海岸沿いを舟で北上し、羅臼を通り知床半島の先端に来ている。
いま自分がいる場所をちょうど彼も148年前に通っているわけだ。季節も同じころ、彼もこの初夏のしみとおる緑に覆われた地の果てを観て圧倒されたにちがいない。
タケノコ岩、ペキンノ鼻を過ぎると、海の様子が変わった。うねりが出てきたのだ。舟はうねりに乗って大きく揺れはじめた。そのうねりを上手に縫いながら、舟は全速力で知床岬を目指した。
「ほら、沖のほうを見て。潮同士がぶつかってるしょ。アレ、潮のタテガミっちゅうんだ」とトッチ船長がいった。水しぶきと潮風にあおられながらそちらを見ると、色の違う潮同士がぶつかり合って白波を立てていた。それが太く白い線になって続いていた。
たしかにそれはタテガミのようにも見えたが、ぼくには龍が泳いでいるように見えた。うねりがますます大きくなっていた。舟はカブト岩を越えた。その先は知床岬。とうとう知床半島の先端までやってきたのだった。さきほどまで晴天だった空には低い霧が立ちこめ、その合間から白い灯台が見え隠れしていた。
霧に包まれた知床半島の先端は、それまでの鮮やかな緑から一転して墨色一色の姿をみせている。それは人を寄せつけない聖域であるかのようだった。
羅臼のことについて少し触れてみたい。
羅臼は日本の最北東にある知床半島の、東側にある。羅臼という地名はアイヌ語のラウシの転訛といわれている。
ラウシとは動物の死骸があったところという意味で、昔アイヌたちが鹿狩り、熊狩りをしたときに必ずここで屠ったことからきている。羅臼に暮らす人々の大部分は漁業で生計を立てている。
羅臼とロシア統治領の国後島はわずか25キロメートルほどしか離れていない。海は中間線で領域を区切られていて、羅臼の漁師は知床半島側の12.3キロメートル内で漁をしている。
ただ、この猫のひたいほどの海はまさしく豊穣の海である。海は羅臼と国後島の間でちょうどすり鉢のようなかたちをして、急に深くなっている。いちばん深いところで2,000メートル、魚たちはそれぞれに適した水深に層のように棲んでいる。
急に深くなっている海は深いところから湧き上がってくるように昇ってくる海流が発生し、栄養分豊富な海水が海面近くまで上ってくる。そこでは多くのプランクトンが発生し、小さな魚から大きな魚までの食物連鎖がスムーズに行われる。
さらに羅臼の海は1年中水温が低く、魚は体に多く脂肪を蓄えるためにおいしい魚になる。羅臼の魚が格別おいしいといわれる理由はそこにある。
実際にこの海で舟から釣り糸を垂れてみると、針が海底に届く前に、ホッケやチカが釣れていて、海底に届くとカレイが釣れるという具合だ。それが糸を垂れるたびにそうなるから、10分ほどで釣るのに飽きてしまうほどだった。それほど、羅臼の海は魚の宝庫なのである。
釣りをしながら「国後島がもし日本に返還されて、もっと魚が獲れるようになるといいと思う?」とトッチにきいてみた。トッチは針に餌をつけながらいった。「そんなことになったら、日本の大型船がやってきて、魚を根こそぎ獲っていくだろうな。……たぶん羅臼の漁師は終わりかもな」
昆布浜に帰ってきた。舟板で百たたきに遭ったお尻の痛みは、舟から降りてもしばらく消えなかった。もしかすると青アザになっているかもしれない。この歳で蒙古斑があるのは恥ずかしいなあ、とお尻をさすっていたら、「おい、風呂いくべ」と、トッチがやってきた。
頭にはしっかり風呂用のタオルが巻かれていた。知床半島は上質の天然温泉が多く点在することでも有名である。半島の西側のウトロも温泉があるし、ここ羅臼にもある。熊ノ湯、セセキ温泉、相泊温泉。
なかでもトッチがお気に入りなのは相泊温泉だ。昆布浜からクルマで10分ほど北へ走った海岸にある。露天に小屋掛けされた温泉で、男女別になっていて1日中人ることができる。海岸から湧き出るこの温泉はお湯を舐めると塩味がした。
相泊温泉の手前にはテレビドラマ「北の国から」ですっかり有名になった露天のセセキ温泉がある。海面すれすれにあるこの温泉は満潮時になると海に沈んでしまう。
お尻を隠しながら温泉にさぶんと浸かると、海ですっかり冷え切った体が急速に温められてジンジン痺れた。トッチとぼくはその痛気持ちよさに野獣のようなうなり声を上げた。
温泉には先客がひとりいた。東京からやってきたという50代半ばの人だった。ナベさんという。クルマでひとり旅をしていた。今年リストラに遭い会社を追われ、学生時代に一度訪れた羅臼に来た。
最初のうち、この人は死に場所を求めてここにやってきたのではないだろうか、とぼくは邪推していた。彼のクルマがベンツのセダンだったことも、想像を増幅させていた。アウトドアの旅にベンツはまったく不釣り合いだと思ったからだった。
しかし、話をしているうちに、ナベさんは長年のサラリーマン生活で疲れた心と体をこの大自然の地で癒しに来たということがわかった。とにかく羅臼の美味しい魚が食べたい、と彼は眼を子どものように輝かせながらいった。
ナベさんは、ただの食いしん坊だったのだ。「そんなに食べたいのなら、夕方、バーベキューやるから、来るかい」とトッチが誘った。ナベさんは突然ガバッと湯舟から立ち上がり、トッチに向かって、ありがとうといった。ぼくの目の前にナベさんの萎れたお尻があった。蒙占斑はなかった。
夕暮れの海がバラ色に染まっていた。浜辺から見える国後島は黒いシルエットになっている。番屋から漏れる灯りが軒先の浜辺を明るく照らし、軒先にあるバーベキューの台から赤い墨の粉がパチパチと爆ぜていた。
バーベキューの網の上には鎧をまとったキタガザエビをはじめ、タラバガニやホッケなど海の幸がならんでいた。「ほら、どんどん食え。吐くまで食えよ」とトッチが焼けたエビをせっせとこちらへ寄せた。
ぼくが少しでも口に入れるのを止めると、「あれ、もう食わねえのかい」といって、ムキになって余計に寄せてきた。ぼくはトッチにわからないように、エビの山を隣にいるナベさんの方へずらしていた。
彼は、おう、といいながら嬉しそうに片っ端から平らげていた。ナベさんは大食漢だった。
トッチの番屋は昆布漁の番屋だ。番屋の前の浜辺は丸い小石が敷き詰められている。昆布の天日干しをするためである。小石の上だと水がよく切れて乾燥も早い。小石をひとつ拾って鼻につけてみると、昆布の匂いがかすかにした。
羅臼の昆布は「羅臼昆布」とよばれ、真昆布と同格の最高級品である。主に高級だしとして東京・大阪などの一流料亭で使われている。
昆布漁は、毎年7月の20日前後に始まり、8月中続けられる。漁はひとりで行う。「箱メガネ」を口にくわえ、足で櫨を巧みにあやつり、「ねじり」とよばれるカギのついた棒で昆布をひっかけてねじりとる。
ただ、採るだけではない。それから大変な作業が待っている。採った昆布はキレイに洗って、一枚一枚天日に干し、重しをかけてしわをのばす。それから不要な葉をハサミで切って、等級ごとに選別しなければならない。それからようやく出荷となる。じつに手間のかかる仕事だ。
そんな苦労のある昆布漁でも、トッチはこの漁が好きだという。漁の期間はずっとひとりで番屋に泊まり込む。「寂しかねえよ。チッカも遊びに来るしな」と番屋に遊びに来た漁師のチッカの肩を叩いた。
漁師仲間のチッカは昆布漁はしない。ホッケ船に乗っている。まだ若いがキャリアがあり実力もあるので船ではNo.2の存在である。
以下省略
北崎二郎「知床の小さな番屋」
大塚薬報 2004年12月号
No.601
大塚製薬工場
京名物にしんそば
とにかく何でもよく食べる。食べ物の好き嫌いは、ほとんどないといっていい。
味はどうであれ、出されたものは残さずに食べる。これは田舎に今も残っている美徳のおかげである。それほど腹が減っていなくても、旨いと思ったものは喉のあたりまで詰まるくらいによく食べる。しかし、いったん嫌だと思ったものはぜったい口にしない。考えてみれば贅沢な人間である。
わたしの記憶に残っている旨かったものといえば、まずは、北海道で食べたソフトクリームである。え、ソフト?というなかれ。広大な牧場で放し飼いしているニュージャージー種の絞りたてのミルクで作る、あの甘さと濃厚さを味わいに、もう一度北海道まで行きたくなるしろものだ。それから、いきなり海外になるけれど、サン・ディエゴの日本人街でやっていた寿司屋の江戸前寿司。日本から直送したというササニシキと太平洋近海で採れた新鮮な魚介類で握った寿司を、北島三郎の歌を聴きながらぱくぱくと食べた。
ところで、京都の旨いものってなにがあっただろう?
通信課程の大学に学んでいたわたしたちの夏の楽しみは、京都で、懐かしい友だちと再会することと、旨いものを探して町中を散策することにあった。その合間に勉強をするというのが常だった。限られた青春という季節は、まことにうつろなものである。
ある時、食堂の陳列ケースの中に異様なメニューを見つけた。かけ蕎麦の上になにやら魚のひらきらしきものが乗っかっている。まったく未知の食べ物だったので、わたしの好奇心がさっそくその《鰊蕎麦》なるものを注文していた。
不安と期待に腹を鳴らせながら待つことしばし。はい、お待ちどうさま、という威勢のいいかけ声とともに出てきたのは、その名のとおりの鰊蕎麦である。鰊のでっかいやつが一尾、丼の上で昼寝をしている。とりあえず食べてみた。不味かった。すかすかした鰊の身に、だし汁みたいな蕎麦つゆがからんで、一口でわたしは嫌になってしまった。それでもしっかり完食してから、こんな不味いものを商品にするなよ、と怒りながら店を出た。
後日、違う店なら・・・と、懲りもせずにまたしても《鰊蕎麦》を注文するという暴挙に出たのは、これもわたしの好奇心である。一軒目の店のより不味かった。京都の方にはたいへん失礼だが、なぜあんなけったいなものを京都の名物と呼んでいるのか、わたしみたいな田舎者には今もって理解できない。《名物に旨いものなし》ということばがあるが、その見本みたいな食べ物だった。
酒も刺身も、京都では、わたしの口にはあわなかった。酒は甘口で、刺身の色もよくない。深夜までやっている呑み屋があったので、ある夜、おやじにさんざん文句を言ったら「お客さん、どちらの方ですか」と尋ねられ、高知だよ、と答えたら、「そりゃあ、お口に合わないのも無理はない」と笑って、勘定を安くしてくれた。あの店は、今もやっているだろうか・・・。
講義が終わる時間には、気が遠くなるくらい腹がすいている。不味い名物は食べたくないから、おんな友だちと連れだって大学の目と鼻の先にあるちいさな食堂に入って、お茶漬けセットというのを何度か食べた。梅や、おかかや、はりはり漬け(これは旨かった)を熱いご飯に乗せて、そこにやはりくらくらと熱い煎茶をぶっかけ、一気にすすった。こんな旨いものがあっただろうかと感動しながら、ふうふう言いながら梅茶漬けを頬ばっている少女の頬がほんのりと赤らんでくるのをこっそり見つめた。
近澤有孝「京都夢幻」
うつろ草紙
SPACE No.67
ふたば工房
2006年5月1日発行
非売品
http://homepage2.nifty.com/futabakoubou/space.htm
母親の育児不安
このように育児ネットワークが貧弱な日本で、育児不安という現象が1970年代から生じてきました。育児不安ということばを初めて聞く人はほとんどいないほど、現在では普通に使われる言葉になっています。
雇用者化が進み、仕事を持たない専業主婦が増え、「男は仕事、女は家事育児」という性別役割分業タイプの家族が広く行き渡るとともに、育児ノイローゼだとか、育児不安というような現象が取りあげられるようになったのです。
育児不安はまさに日本社会のしくみの変化とともに現れてきました。そこで、このような問題に対処するために、どのような母親に育児不安が生じるのかという研究が、80年代から盛んに行われるようになりました。
その結果わかってきたことは、「夫との関係」「育児援助ネットワーク」「母親が母親役割以外のものを持つこと」などが、育児不安に関連しているということでした。
つまり、夫は家事育児を手伝ってくれない、親族や友人の援助ネットワークも得られない、そして、母親役割以外の自分の生活を持たないといった、家庭のなかで孤軍奮闘する母親に育児不安が高いという結果が見られました。
ところで、先ほど紹介したアジアの調査で興味深かったことは、育児不安というものが日本以外の社会ではあまり社会問題化していない印象を受けたことです。これはなぜなのでしょうか。
それは、性別役割分業が弱く、母親は父親と協同で子育てを行っていたり、多くの育児援助ネットワークを持っていたり、また、仕事という生産労働の役割を担っている人が多いという、日本とは逆の状況にある母親が多いことと関係しているものと思われます。
子どもと離れることの大切さ
それでは、日本における子育てはどのように変わっていけば良いのでしょうか。そのヒントになると思われる研究を紹介しましょう。
それは、子どもと離れる時間と母親の育児不安の関係をみたものです。2001~2002年に行われた「育児をめぐるジェンダー関係とネットワークに関する実証研究」(研究代表者木脇奈智子)という筆者も参加した研究プロジェクトで、1歳半もしくは3歳の子どもがいる世親を対象に、子育て状況について調査をしました。
その結果、子どもと離れる時間が短い母親ほど、育児不安が強い傾向がみられました。また、子どもと離れる時間の短い母親は、夫の家事分担割合が低く、母親が遊びやリフレッシュのために出かけるためのサポートネットワークを持たないという特徴がありました(中谷奈津子「母親が子どもから離れる時間とその関連要因」上述の科学研究費補助金研究成果報告書、2003)。
さらに驚くことに、仕事をもたない専業母親の3割は毎日子どもと離れる時間を全く持たないというのです。これらのことから、専業母親の母子密室で行われる育児がどれほど大変なものかを理解することができます。
厚生労働省の調査(「出生前後の就業変化に関する統計」平成15年度人口動態特殊報告)でも、特に専業母親の子育て負担感がよくあらわれています。
母親の出産前から出産後の就労パターン別に子育ての状況をみたものですが、「子育てによる身体の疲れが大きい」とか、「目が離せないので気が休まらない」といった意識は、ずっと無職できた母親に多くなっていました。
それに対して、仕事をもつ母親は、親族や保育園などとのネットワークを多く持ち、そのような意識を持つ人は少ないという傾向がみられました。
「子育て」と「働く」ということを両立させるのは今の日本では非常に難しい状況にありますが、どうも「働く」ことが子どもと離れる時間を確保することにつながっているようです。
子育てをする人のメンタルヘルスのために
このようにみてくると、現在の日本の子育て状況は、特に専業母親のメンタルな面での大変さが浮上してきます。今後、子育てをする人のメンタルヘルスを考えると、次の3つのことが重要になってくると思われます。
第1に母親と父親との協力体制の確保、第2に家族外の育児援助ネットワークの確保、第3に母親の子育て以外の生活部分を拡充していくことです。
これらを実現させるためには、個人の側も社会の側も、まず子育ては母親が担うのが一番良いというような母親規範にしばられないで、性別役割分業を超えていくことが必要です。
そして、子育ては社会全体の問題であるということを再認識し、母親も父親も性別にかかわらず、一人一人がさまざまな生活の側面をもつことができる社会を構築していくこと、これがこれからの日本に求められるのではないでしょうか。
華頂短期大学
斧出節子「子育てとメンタルヘルス」
財団法人 日本精神衛生会
こころの健康 シリーズIII
メンタルヘルスと家族
2005年10月20日発行の小冊子より
育児援助ネットワーク
それでは、日本の子育て状況をより客観的にみるために、外国と比較してみましょう。
2001年より3年にわたって、筆者を含む総勢15名の国内外の研究メンバーによる研究プロジェクトで、アジアの家族について調査研究を行いました(研究代表者宮坂靖予「アジア諸社会におけるジェンダーの比較研究」科学研究費補助金研究成果報告書、2004)。
これをもとにした育児援助ネットワークの研究を少し紹介したいと思います。まず、調査が行われた中国・韓国・タイ・台湾・シンガポールで子どもを持つ母親はどのような働き方をしているのかについてみておきたいと思います。
年齢別にどれだけの割合の女性が働いているのかという労働力率をみると、中国、タイは出産育児によって仕事をやめず、多くの女性が中高年期まで仕事を継続していることがわかります。
シンガポール、台湾も出産育児によって仕事をやめる人が少なく、少し子どもが大きくなってから徐々に仕事をやめていくようです。
韓国は日本と同様、出産育児のために仕事をやめる女性が多い国です。このように出産育児によって女性が仕事を続けるか否かは各地域で違いがあり、日本は韓国とともに専業母親になる女性が多い国として位置づけられます。
そこで、各地域の育児援助ネットワークがどのようになっているのかをみたものが上の表です。育児援助者を夫、親族、家事労働者、施設というように考え、それらがどれだけ母親にとって効果的であるかということを示したものです。
家事労働者というのは日本ではあまり考えられませんが、メイドさんや子守といった人たちを指します。これをみますと、日本は特に育児援助ネットワークが貧しいところだということがわかります。
夫は仕事で忙しくあまり頼りにならないし、親族に関しても援助を得られる人はラッキーですが、みんなが得られるわけではありません。
保育所は整備されてはいますが、待機児の多いことが問題になっていたり、3歳未満の子どもを持つ専業主婦では、親族や施設保育など育児ネットワークがほとんど機能していません。これに比べて他の地域ではそれぞれ特徴はありますが、複数の育児ネットワークが有効に働いていることがわります。
また、日本で育児援助が得られない背景には強い「母性愛神話」が存在することも見逃せません。
これにより、母親はみずから母親役割に縛りつけることになり、他方、母親以外の人も「母親がするべき」という考え方を強いたり、夫の子育ての当事者としての役割意識を弱めたり、はたまた母親以外の人や施設に援助ネットワークを広げていくことを妨げていくことにもつながっていきます。
日本は産業化する以前は子育ては家族の中に閉じこめられたものでなかったと先に述べましたが、社会の変化とともに子育てに専念する専業母親が増加し、育児援助ネットワークは消失していきました。
そして、それに代わる援助体制が再構築されていないというのが日本の現在の状況であると考えられます。
華頂短期大学
斧出節子「子育てとメンタルヘルス」
財団法人 日本精神衛生会
こころの健康 シリーズIII
メンタルヘルスと家族
2005年10月20日発行の小冊子より
子育てのいまむかし
10数年前、東南アジアのタイで、おじいさんとおばあさんにインタビューをしたときのことです。
ご夫婦のおじいさん、おばあさんは若い頃中国からタイに移り、バンコクで結婚されました。裸一貫からはじめられましたが、苦労の末、息子さんは会社の社長となり、裕福な生活を手に入れておられました。
その時のおばあさんの、「私が7人の子どもを育てたより、息子が2人の子どもを育てる方が大変」という言葉はとても印象に残っています。
彼らは7人の子どもをいかに苦労して育て上あげたかを話してくれた最後に、この言葉を発したのでした。貧しさから豊かさへの変化、つまり、産業化・近代化を経て、子育てが大変になっているというのは、ある意味どこも同じ状況だといえるでしょう。
そこで、子育ての昔と今の違いを考えてみましょう。
農業中心であった産業化以前の「昔」と、工業化・サービス化を経て雇用者が多くなった産業化以降の「今」を比べると、子育てのあり方には、大きな違いが2つあると思います。
まず、なぜ子どもを育てるのかといった「子育ての意味」が異なってきました。昔の子育ては、家業(農業)をつぐ生産労働者をつくり、また、老後の親の面倒をみてもらうための要員を得るものでありました。
しかし、多くの人が雇用者(サラリーマン)へと変化するなかで、子どもは家にとっての手段ではなく、「家族との結びつきを強める」「子どもを育てることによって自分が成長する」「子どもを育てるのは楽しい」といった、いわば家族にとって子どもは精神的支えの役割をになうようになってきました。
したがって、子どもは親にとって愛情の対象物となり、子どもにできるだけのことをしてやりたいという気持ちが強くなってきました。
しかし同時に、サラリーマン家庭では、子どもに家業を継承させることができません。それで例えば将来の子どもの生活の安定を願うために、できるだけ良い学歴を身につけさせたいと考えるのも無理ないことです。
このような子どもへの関わり方の違いが、子育ての大変さを生んできたひとつの理由として考えられます。
もう一つ異なる点は、昔の子育ては地域の共同体の中に埋め込まれていたということです。そのため、子育ては家族のみが責任を持つものではなく、さまざまな人々がかかわっていました。
お年寄りの「親よりも近所の大人の方が怖かった」という話を聞くことがありますが、まさに地域ぐるみで子育てをしていたということがわかります。
しかし、産業化とともに地域ぐるみの子育ては消失していき、子育ては家族によって囲い込まれていきました。現代では家族が排他的に子育てを担い、性別役割分業のもとで、家族の中でも特に母親が集中的に子育ての担い手としてその責を強く負っています。
しかも、以前とは子育ての意味が異なってきており、「より良い子育て」をめざす母親の精神的負担は、これまでの歴史のなかで、最も大きくなっていると言っても過言ではないでしょう。
華頂短期大学
斧出節子「子育てとメンタルヘルス」
財団法人 日本精神衛生会
こころの健康 シリーズIII
メンタルヘルスと家族
2005年10月20日発行の小冊子より
消えた鍛冶屋
労働のもつ厳粛さ
ル・ナン兄弟の「鍛冶屋」である。1640年という古い時代に描かれた。1640年といえば、スペインではベラスケスが宮廷で絵を描き、オランダではレンブラントが有名な「夜警」を描いていたころである。
要するに、絵画がまだ王侯貴族や教会、特別の金持ちの注文でしか描かれなかった時代に、フランスで農民や職人ばかり描いていたのが、ル・ナン兄弟であった。
なぜ1人1人の名前ではなく、ル・ナン兄弟と呼ばれるかといえば、いずれも画家であったアントワーヌ、ルイ、マチューの3人兄弟が、だれが描いたものでも、作品には「ル・ナン」と姓だけしかサインしなかったからである。
だから、どの作品も、3人のうちの1人が描いたのか、それとも共同で描いたのか、正確にはわかっていない。ただ、アントワーヌとルイが1648年に相次いで死んだあと、マチューだけはその後30年近くも生きていたから、マチューの作品がもっとも多いのではないかといわれているだけである。
ル・ナン兄弟は北フランスのランで農家に生まれ、ぶどう作りと畑仕事をして育ったといわれる。彼らがパリに出てきたのも遅く、30歳を過ぎてからだった。兄弟は3人で同じ家に住み、共同で制作したが、3人とも生涯独身だったというのには驚かされる。
そのうえ作品にまで共同の署名しかしなかったのだから、本当に一心同体の兄弟だった。兄弟は宗教画や都会風俗をまったく描かなかったわけではなかったが、作品の大部分は農民たちの生活を扱ったものである。
ただ、彼らの描く農民の絵には特色があり、農作業をしたりくだけた日常の動作をしている農民ではなく、静かな食事の場面や、家族が集まっている様子を、あたかも神話か歴史の一場面のようにおごそかに描いた。
そこに漂うものは、労働に生きる人間のもつ尊厳といったようなものであり、一種宗教的なまでの厳粛さなのである。ここに取り上げた「鍛冶屋」にも、同じようなものが感じられる。
仕事場に集まった鍛冶屋の家族は、記念写真でも撮るときのようなポーズをしているが、なにか鍛冶という仕事の神聖さにつつまれているように見えるのだ。
絵のなかに客がいる
ヨーロッパの鍛冶屋は、早くから武器鍛冶、道具鍛冶、蹄鉄鍛冶、小物鍛冶に分業化したといわれている。ル・ナン兄弟がこの絵で描いているのは、おそらく道具鍛冶、日本でいえば野鍛冶と呼ばれる、農具などを作る鍛冶屋だ。
だとすれば、この鍛冶屋の絵も、ル・ナン兄弟の農民絵画の一種とみていいだろう。鍛冶屋は若い夫婦である。おそらく彼らの子どもたちは左側に立っている2人だ。左端の少年は左手を上げて紐を引いているが、ふいごを動かす手伝いでもしているのだろう。
右手で腰掛け、横を向いている人物と、彼に寄り添うようにしている子どもは、これも家族の一員だろうか。どうもそうではないような気がする。まったくの想像でしかないが、筆者は彼を子ども連れでやってきた鍛冶屋の客と考えてみた。
その理由は、彼が左手にぶどう酒の瓶を持ち、右手にグラスを持っていることがひとつ。一杯やりながら、出来上がりを待っているのである。それと、彼の連れている子どもが、左端で紐を引っ張る少年の動作をもの珍しそうに見ていることだ。
鍛冶屋の家族は、全員立ってこちらを向いている。しかし、右手の腰掛けた男と子どもだけが、横を向いている。これは右端の2人だけが家族ではないことを暗示してはいまいか。
また、男がぶどう酒の瓶を持っていることは、彼が農民であることを物語っているようだ。鍛冶屋も家族なら、訪ねてきた農民とその子どもも、ひとつの家族である。
ル・ナン兄弟は、ここにふたつの家族を描いた。そして描かれたふたつの家族は、同じ労働に生きる家族同士として、一見すると一家族に見えるほど、ひとつの画面のなかで溶け合っている。
ル・ナン兄弟自身のパリでの共同生活が示したように、彼らにとっては、家族の結びつきほど大切なものはなかった。それが彼らの芸術にとっては当然の、生涯のテーマだったのである。
フランスという国は、現在でもそうだが、古くから農業国であった。この国では、パリの宮廷や上流階級とは無縁の多くの農民が、質実な暮らしを営んできているのである。
鍛冶屋も、王侯貴族に雇われる武器鍛冶などとは違って、農具などを作る鍛冶屋は地味で、日の当たらない存在だった。まさに村の鍛冶屋として、農民と歩みを共にしたのである。
消えた鍛冶屋たち
しばしも休まず鎚打つ響き……で始まる「村の鍛冶屋」という元気のよい唱歌があった。だが、村の鍛冶屋そのものがほとんど見られなくなって、歌も歌われなくなったようである。
日本でも、離島などに最後まで残っていた鍛冶屋は、どのくらい現存しているのだろうか。工業の発達が、ヨーロッパでも日本でも鍛冶屋という職業を消してしまった。それは村の鍛冶屋だけでなく、あちこちと気ままに旅をし、各地の領主に雇われては、多額の報酬にありついていた武器鍛冶、蹄鉄鍛冶なども同じである。
武器鍛冶というのは、日本式に鉄砲鍛冶といったほうがわかりやすいかもしれない。石畳の道をもつ都市で、多数の馬車を走らせていたヨーロッパでは、蹄鉄の仕事が大きな分野をなしていた。
日本ではまた、刀鍛冶が鍛冶屋のなかでも格別の存在であったことは、周知の通りである。農民や鍛冶屋の心の奥には、人間の生命を直接支える食物を作っている、あるいはそのためになくてはならない道具を作っているという、プライドと厳粛さ、あるいは喜びといったものが潜在しているものであろう。
ル・ナン兄弟が描こうとしていたものは、まさにそれであった。工業化された社会でも、それがまったく失われたわけではないが、今日のように、農業にまでおよんできたハイテク化が、労働の誇りと喜びをいよいよ稀薄なものにしてきたことは確かである。
産業の分野だけではない。実は美術の世界でも、手作りの要素は後退し続けてきた。ビデオアートのようなものが登場し、ものをつくらずに既成のものを並べるだけ、といったコンセプチュアルアートは少なくないのである。
しかし、ル・ナン兄弟の「鍛冶屋」は、手仕事によって現代人をも圧倒する。手によって描き残された鍛冶屋の精神世界は、鍛冶屋が消え、手による美術が衰えても、生き続けてきた。
磯辺勝
〈キーワードは仕事 ⑤鍛冶屋〉
世界の名画は、ただその前に立つだけでも、人を感動させる。しかし、キーを使ってその内部にまで入っていく人には、さらにさまざまな、描かれた世界のドラマを見せてくれる。もっと深い絵画への旅をめざして、扉を開こう。
名画の扉を開く
大塚薬報 2005年12月号
大塚製薬工場
¥300
役者・奈良岡朋子
1989年にジェシカ・ダンディの主演で映画になり、話題になった作品である。05年の9月に能登で初日を開け、先日の東京公演を経て、2月末までの旅公演が続く。
プライドの高い未亡人・デイジーと黒人の運転手・ホークの25年間にわたる物語である。人種差別の激しいアメリカで黒人を寄せ付けもしないほどプライドの高いデイジーが、いつしかホークなしでは生きていられなくなる。大人のラブ・ストーリーだ。
デイジーが奈良岡朋子。ホークが仲代達矢。新劇界の大御所が、舞台での初共演である。2人が今まで同じ舞台を踏んでいなかったというのはいささか驚いたが、ほとんど二人芝居のこの舞台、奈良岡朋子という女優のしたたかなまでの巧さと、女優としての鬼気迫るとも言うべき演技を観た。
彼女の巧さは今さら改めて注釈するまでもなく世間の認めるところだが、ふとした表情や仕草、科白の間に、瀧澤 修や字野重吉から吸収した演技のエッセンスを感じた。
そして、それを土台に自分で工夫に工夫を重ね「役になる」ことの追求。実に細かいところまでを計算し、それをあざとくなく自然な演技として見せるところにこの人の魅力がある。
この芝居で言えば、老婆になってからの仕草が実に巧みだ。歩き方やしゃべり方は誰でも工夫はするが、彼女はもう一段上を行く。老人特有の不随意運動が織り交ぜられていて、気が付かなければそれで見過ごす程度のものだ。しかし、そこが彼女の役者としての魂なのである。
初共演の仲代達矢とまさにつばぜり合いのような芝居をしている。名だたる名優同士、そこに勝敗はない。ただ、ひたすらに芸の道を歩んできた二人の、自己満足ではない、誇らかな充実感があった。こういうのを名舞台と言うのだ。
何より嬉しいのは、彼女が仲代とともにほぼ全国、この舞台を半年かけて上演してくれることだ。すでに再演を楽しみにしている、と、言ったら、彼女に酷だろうか。
中村義裕「どうしても書きたい役者」
百人百役 その33
~私が惚れた役者たち~
奈良岡朋子
「ドライビング・ミス・デイジー」のミス・デイジー
大塚薬報 2005年12月号
No.611
大塚製薬工場
サスペンス映画
ポリティカル・サスペンスというジャンルがある。日本ではなかなか踏み込めない分野である。大統領や要人の暗殺、CIAやFBIの陰謀を堂々と描く。よく当局が許したなと思うほど、政治、あるいは政治世界の裏側に踏み込んでみせる。
例えば、日本映画で小泉首相暗殺計画の物語や、内閣情報局が裏で陰謀を重ねて実行しているなんて、とてもじゃない。映画にしたらもう大変だろう。
しかし、アメリカ映画では平気でそれをやってみせる。また、当局側も、あくまでフィクションだからとケロリとしたものである。われわれから見ると、たとえフィクションであっても、ある程度下敷きがあると考えながら見るとすごくおもしろい。
過去で一番おもしろかったのは、オリヴァー・ストーン監督の『JFK」であろう。ケネディ大統領暗殺事件の隠された裏側を、命を懸けて探ろうとする地方検事の姿をドキュメンタルに描いた傑作だった。
現実に迫る地方検事のケヴィン・コスナー。すごく現実的なサスペンスに興奮させられたものである。オリヴァー・ストーンはその勢いに乗って『ニクソン」を作った。
こちらはアンソニー・ホプキンスのニクソン、その性格描写が実に優れて、やがてあのウォーターゲート事件に落ち込んでいく姿がこれもポリティカル・ドラマならではのサスペンスで引き込んでいく。
最近の映画で胸をときめかせたのは、前回も少し取り上げた『ザ・インタープリター』。国連で女性同時通訳者が、夜忘れ物を取りに帰った時、人変なことを知ってしまう。
ある国の大統領が国連で演説のために来米するのだが、その演説の只中に暗殺しようという陰謀が練られているのだ。その陰謀を調査しているCIAの捜査官。
彼女の過去に奇妙な暗い影があることを知る。彼女の行動、陰謀の行方、ここで見事なスリルが盛り上がる。いやこれはおもしろい。国連の内部まで撮影しているのだから、国連の協力があったことも間違いない。
大統領暗殺といえば、フランスのドゴール大統領暗殺を描いた『ジャッカルの目」は傑作だった。暗号名"ジャッカル"と呼ばれる殺し屋が、ドゴール大統領を暗殺するためにさまざまなテクニックを使ってフランスに侵入し、狙撃しようとするのだが……。
この映画のリメイクが『ジャッカル」であった。こちらの方はブルース・ウィリスがジャッカルを演じ、リチャード・ギアが追う刑事ということで、ターゲットは大統領ではなく、政治上の要人ということになっていたが、かなり派手な映画になっていた。
リメイクであるとともに、要人暗殺の話としては、『クライシス・オブ・アメリカ」が新作として心に残る。これはデンゼル・ワシントンの軍人が、洗脳されていて要人の暗殺に走るというサスペンスフルな映画である。
実はこの映画、かつてフランク・シナトラやローレンス・ハーヴェイで映画化された『影なき狙撃者』のリメイクなのである。
この『影なき狙撃者』は朝鮮戦争で中国共産軍に捕らえられた兵士が洗脳され、アメリカヘ帰ってから要人暗殺に走るという物語。ともにかなり心理映画めいているが、実はサスペンスを存分に楽しめる作品になっていた。怖い話である。
私が好きな作品はジョン・グリシャム原作による『ペリカン文書』と『ザ・クライアント依頼人』の2本である。
『ペリカン文書』は、環境汚染につながる政治の汚名と、それを隠そうとする悪い存在が暗躍を続ける物語である。ジュリア・ロバーツがある法曹関係者の死を推理し、理論づけた論文を書いたところから彼女の先生が殺され、彼女も命を狙われる。
救援を求めてジャーナリストのデンゼル・ワシントンに連絡。そこから政財界の汚点が明るみに出ることになる。かなりリアリティーの高い密度の濃い作品で、それだけにスリルが盛り上がる。
一方の『ザ・クライアント依頼人』は、マフィアの弁護士の自殺を目撃した少年がFBIに追われ、マフィアに狙われ、細腕でやっている女性弁護士のところへ助けを求めて飛び込む。
FBIの手練手管のすごい調査ぶりが実にあざやかに見られて興味津々。さあこの女性弁護士がどう少年を守るか。このスリルはたまらない。
アル・パチーノの『リクルート』もFBIの内部を描いた作品だった。一種の内部告発的な映画で、突然スカウトされた青年がいかにFBIの内部を知るかという構成。
『マーシャル・ロー』はテロ発生に大統領が戒厳令を発する。さあその是か非か。ニューヨーク全土が兵士で埋まるのだが……。
日本映画でも、『宣戦布告』や『亡国のイージス」といった、北朝鮮の脅威を描いた映画があり、結構おもしろい。
これからも、政治や経済、戦争の危機をどう避けるかといったポリティカル・サスペンスでもっと楽しませてもらいたいと思う。
水野晴郎の超特急的映画論
「ポリティカル・サスペンス映画のおもしろさ」
大塚薬報 2005年12月号
No.611
大塚製薬工場
¥300
恋はさじ加減

『素晴らしい一日』で、平安寿子(たいらあすこ)がデビューした時のことは、ちょっと忘れられない。その一風変わったペンネーム(ヘイアントシコ? タイラアンジュコ?)は勿論だが、何よりもオール讀物新人賞受賞作である表題作が良かったのだ。
この作者、何者? と作者プロフィールをすかさずチェックしたことを覚えている。そして、彼女の生年を知って、ああ、私が待っていた「大人の女の書き手だ」と嬉しくなったことも。
「素晴らしい一日」は、勤めている会社が倒産した主人公が、かつてつき合っていた男に貸した20万円を取り立てに行く、というそれだけの話なのだが、その取り立てる相手の男というのが、もう、どうにもこうにもダメな男で、昔の女からの惜金を返すのに、さらに借金して返そうとするような、しかもその借金先に主人公を同伴!するようなダメっぷりなのだ。
にもかかわらず、このダメ男、何とも言えず愛敬がある。男の「借金行脚」につき合っているうちに、最初は頑なだった主人公の心がほぐれていく。
この、何とも言えない男女の機微、微妙な心の動きが絶妙に描かれていて、平安寿子は私の中で要チェック作家の一人となったのだ。
平安寿子というペンネームは、アメリカの作家アン・タイラーからとったものだという。あるインタビューで「アン・タイラーが最終目標ですから。初心を忘れないように、という決意表明と、お守りのようなつもりで」と作者自身が語っている。
アン・タイラーといえば、そのストーリーテリングの巧みさもさりながら、登場人物たちそのものの魅力、彼らが織りなすドラマで、多くの読者を魅了している作家である。ペンネームの由来を知って『素晴らしい一日』を読み返すと、また味わい深いものがある。
さて、本書である。6編からなる短編集は、どれも主人公は女性。タイトルからも分かるように、6編に共通のテーマは恋、だ。
そこに今回作者が絡ませたものは「食べもの」である。もちろん、作者流のスパイスがたっぷり効いていて、それぞれに味わいの異なる物語を堪能できる。
ところで、作者流のスパイス、と書いたけれど、それは本書に出てくる食べものをみるとよく分かる。
ヤモリにサソリ!(「野蛮人の食欲」)に、手作りポテトサラダ(「きみよ、幸せに」)に、カレーうどん(一番好きなもの」)に、バターご飯(「とろける関係」)、このラインアップを見るだけでも、作者の企みが透けて見える、というか、え? どういう話なの? ヤモリにサソリって何よ? それと恋がどう絡むのよ? と私なぞはわくわくしてしまうのだ。
もう一つ、これぞ平安寿子、とでもいうべきなのが、登場人物たちのキャラクタだ。6人の主人公全員が、ひとクセある、というか、タフでしたたかでちゃっかりしていてメゲないキャラクタなのだ。それでいて、どこか憎めない、嫌みがない。
これは本書に限らず、平安寿子の物語に出てくる登場人物たちに共通していることで、平安寿子の物語を味わうための肝にもなっている。
例えば、「野蛮人の食欲」の主人公沙織が、どうしてヤモリやサソリを食べるはめになったのか、といえば、前カレがその美味しさを吹聴していた「焼き蛤」食べたさ一心で、焼き蛤を食べに行かないか、と勤め先に出入りしている営業マンに誘われて、ほいほいとついて行ったその結果、前菜として出てきたのが、中国産のヤモリだったのだ。
しかもご丁寧に、そのヤモリにはセミノコやコオロギまで添えられていたのである。前カレヘの当てつけの意味もあった「焼き蛤」デートが、ふたを開けてみるとゲテモノ食いデートだった(勿論、メインは焼き蛤なのだけど)、というあたりで、もうくつくつと可笑しいのだけど、この物語の妙味は、ようやく辿り着いたお目当ての焼き蛤を食べてから、の展開にあるのだ。
そう来たか! という感じで、読み終るとすっかり作者のぺースにはまっていることに気がつくのだ。他の5編も作者ならではの物語であるけれど、6編中唯一、既婚の典子を主人公にした「愛のいどころ」が、しみじみとした味わいでいい。
この物語を〆に持ってくるあたりの、短編集としての構成も心憎い。恋はもちろん、食べものと人生は分かちがたくあるのだ。読後、大事な人と食事がしたくなる一冊だ。
吉田伸子「大事な人と食事がしたくなる一冊」
よしだ・のぶこ 書評家
平安寿子『恋はさじ加減』
4-10-301751-1
波 2006年4月号
新潮社
¥100
べっぴんぢごく
さて、困った。読了したばかりの、『べっぴんぢごく』のゲラを前に、いま私は途方に暮れている。
場所は地元駅前のドトールコーヒー。女子大生だろうか、向かい側の席では若い娘が数人、ドラマかなにかの話で盛り上がっている。華やいだ笑い声が、時折店内を席巻する。私は娘のバレエ教室の待ち時間。
近頃私は、本はなるべく外で読むようにしている。家にいるとなにかと雑事に追われ、集中できないせいもあるが、ランチしながら、或いは待ち時間にお茶しながら読むことで、味覚を楽しませつつ同時に思考をも楽しませることによって、ただでさえ贅沢な楽しみが2倍3倍……至高の楽しみとなる。
そう。私は根っからのながら族。食べながら、飲みながら、或いは音楽聞きながら、なにかしていたい。
とまれ、見ず知らずの他人と同じ空間を共有しながらも、一人の世界にどっぷり浸るというのはなんとも贅沢で心地よい。散漫になるかと思いきや、これが意外に集中できる。さしずめ本なら、通常の倍くらいのスピードで読み進む。そして、読み終え、私は途方に暮れる。
女子大生たちの笑い声が耳に喧しい。一つの
世界が私の中で完結した途端、周囲の雑音が俄に気になりはじめた。全体、なんという違いだろう。物語に描かれた、暗く、おぞましくも美しい世界と、この日常のありふれた明るさとは。
相変わらず、岩井志麻子さんの小説は怖い。ぼっけえ、きょうてえ。
恐怖小説とか怪奇小説とか呼ばれるジャンルの小説を、実は私は一番苦手としている。自分で書くのも、読むのも。しかし、今回の岩井さんの新作は、どうやらそういうジャンルに組み込まれるべき作品ではない気がする。
では、一体なんなのだろう?
タイトルが示すとおり、物語に登場する「べっぴん」たちは皆、暗く湿った因果を背負っている。もとより、「べっぴん」じゃない女たちもなのだが。
「母親と気違いにしか抱きしめられたことがない」乞食の子・シヲが、村一番の分限者の養女になったところから、因果ははじまる。べっぴんのシヲは醜い娘を産み、醜い娘は美しい娘を……そして、その娘は……。
因果は綿々と受け継がれてゆく。
だが、岩井志麻子という作家は、やはり一筋縄でゆく人ではない。明治・大正・昭和、そして平成。母から娘へ、娘から更にその娘へ……。
過去から未来へと流れてゆく物語の中に、彼女は見事な仕掛けを施した。そのことによって、因果はより深い陰影を帯びることになる。そして、その重要なキーワードとなるのが、「小説新潮」連載時のタイトルである「乞食(ほいと)隠れ」だ。
入り口から3尺ほど入った土間に、1本だけ孤立した、乞食柱と呼ばれる柱があり、乞食は、その柱のところまでなら入ることが許されている。だが、玄関の脇に張った板のせいで、その乞食柱まで辿り着けぬ家もある。それが、乞食隠れと呼ばれるものだ、と本文中にはある。
シヲが母に手を引かれてその前に立ち、醜女(しこめ)のふみ枝が、美男の乞食とまぐわって美しい小夜子を身籠もる。
……数々の因果の発端として描かれる乞食隠れこそ、実は物語の裏主人公と言ってもいいほどの存在であるということを、その名が章題に冠せられた終章近くまで読まずとも、私たちは知ることになる。
それにしても。
しばし途方に暮れたあとで、私は無意識にほくそ笑んだ。
ドトールで笑いさんざめく若い娘たちの明るい声。この、暗く因果な小説世界とは最も縁遠く思われた現実の明るさこそが、実は「ぢごく」に最も近しいのではないか。
彼女たちの残酷な無邪気さは、たぶん無意識のうちに、自分の周囲にあるものを色分けしているに違いないから。即ち、ぢごくとごくらく。自分にとって役に立つものと立たないもの、に。
『べっぴんぢごく』。
言い得て妙なタイトルだ。
何故なら、ドロドロの因果の中に生きたはずのヒロインたちの中で、実はただ一人、幸福な生涯を送った女がいるから。
「男を好きになったら、女は生き地獄」
だと言う。ならば、生涯男には惚れなかったけれど、肉体の歓びは知り、百歳近い老婆になってもなお男をその気にさせる色香を保ちつつ大往生を遂げる彼女の中にこそ、女の幸せのすべてが集約されていると思うのは私だけだろうか。
藤 水名子「男に惚れたら、女はぢごく?」
ふじ・みなこ 作家
岩井志麻子『べっぴんぢごく』
4-10-451303-2
波 2006年4月号
新潮社
¥100