母親の育児不安
このように育児ネットワークが貧弱な日本で、育児不安という現象が1970年代から生じてきました。育児不安ということばを初めて聞く人はほとんどいないほど、現在では普通に使われる言葉になっています。
雇用者化が進み、仕事を持たない専業主婦が増え、「男は仕事、女は家事育児」という性別役割分業タイプの家族が広く行き渡るとともに、育児ノイローゼだとか、育児不安というような現象が取りあげられるようになったのです。
育児不安はまさに日本社会のしくみの変化とともに現れてきました。そこで、このような問題に対処するために、どのような母親に育児不安が生じるのかという研究が、80年代から盛んに行われるようになりました。
その結果わかってきたことは、「夫との関係」「育児援助ネットワーク」「母親が母親役割以外のものを持つこと」などが、育児不安に関連しているということでした。
つまり、夫は家事育児を手伝ってくれない、親族や友人の援助ネットワークも得られない、そして、母親役割以外の自分の生活を持たないといった、家庭のなかで孤軍奮闘する母親に育児不安が高いという結果が見られました。
ところで、先ほど紹介したアジアの調査で興味深かったことは、育児不安というものが日本以外の社会ではあまり社会問題化していない印象を受けたことです。これはなぜなのでしょうか。
それは、性別役割分業が弱く、母親は父親と協同で子育てを行っていたり、多くの育児援助ネットワークを持っていたり、また、仕事という生産労働の役割を担っている人が多いという、日本とは逆の状況にある母親が多いことと関係しているものと思われます。
子どもと離れることの大切さ
それでは、日本における子育てはどのように変わっていけば良いのでしょうか。そのヒントになると思われる研究を紹介しましょう。
それは、子どもと離れる時間と母親の育児不安の関係をみたものです。2001~2002年に行われた「育児をめぐるジェンダー関係とネットワークに関する実証研究」(研究代表者木脇奈智子)という筆者も参加した研究プロジェクトで、1歳半もしくは3歳の子どもがいる世親を対象に、子育て状況について調査をしました。
その結果、子どもと離れる時間が短い母親ほど、育児不安が強い傾向がみられました。また、子どもと離れる時間の短い母親は、夫の家事分担割合が低く、母親が遊びやリフレッシュのために出かけるためのサポートネットワークを持たないという特徴がありました(中谷奈津子「母親が子どもから離れる時間とその関連要因」上述の科学研究費補助金研究成果報告書、2003)。
さらに驚くことに、仕事をもたない専業母親の3割は毎日子どもと離れる時間を全く持たないというのです。これらのことから、専業母親の母子密室で行われる育児がどれほど大変なものかを理解することができます。
厚生労働省の調査(「出生前後の就業変化に関する統計」平成15年度人口動態特殊報告)でも、特に専業母親の子育て負担感がよくあらわれています。
母親の出産前から出産後の就労パターン別に子育ての状況をみたものですが、「子育てによる身体の疲れが大きい」とか、「目が離せないので気が休まらない」といった意識は、ずっと無職できた母親に多くなっていました。
それに対して、仕事をもつ母親は、親族や保育園などとのネットワークを多く持ち、そのような意識を持つ人は少ないという傾向がみられました。
「子育て」と「働く」ということを両立させるのは今の日本では非常に難しい状況にありますが、どうも「働く」ことが子どもと離れる時間を確保することにつながっているようです。
子育てをする人のメンタルヘルスのために
このようにみてくると、現在の日本の子育て状況は、特に専業母親のメンタルな面での大変さが浮上してきます。今後、子育てをする人のメンタルヘルスを考えると、次の3つのことが重要になってくると思われます。
第1に母親と父親との協力体制の確保、第2に家族外の育児援助ネットワークの確保、第3に母親の子育て以外の生活部分を拡充していくことです。
これらを実現させるためには、個人の側も社会の側も、まず子育ては母親が担うのが一番良いというような母親規範にしばられないで、性別役割分業を超えていくことが必要です。
そして、子育ては社会全体の問題であるということを再認識し、母親も父親も性別にかかわらず、一人一人がさまざまな生活の側面をもつことができる社会を構築していくこと、これがこれからの日本に求められるのではないでしょうか。
華頂短期大学
斧出節子「子育てとメンタルヘルス」
財団法人 日本精神衛生会
こころの健康 シリーズIII
メンタルヘルスと家族
2005年10月20日発行の小冊子より