べっぴんぢごく
さて、困った。読了したばかりの、『べっぴんぢごく』のゲラを前に、いま私は途方に暮れている。
場所は地元駅前のドトールコーヒー。女子大生だろうか、向かい側の席では若い娘が数人、ドラマかなにかの話で盛り上がっている。華やいだ笑い声が、時折店内を席巻する。私は娘のバレエ教室の待ち時間。
近頃私は、本はなるべく外で読むようにしている。家にいるとなにかと雑事に追われ、集中できないせいもあるが、ランチしながら、或いは待ち時間にお茶しながら読むことで、味覚を楽しませつつ同時に思考をも楽しませることによって、ただでさえ贅沢な楽しみが2倍3倍……至高の楽しみとなる。
そう。私は根っからのながら族。食べながら、飲みながら、或いは音楽聞きながら、なにかしていたい。
とまれ、見ず知らずの他人と同じ空間を共有しながらも、一人の世界にどっぷり浸るというのはなんとも贅沢で心地よい。散漫になるかと思いきや、これが意外に集中できる。さしずめ本なら、通常の倍くらいのスピードで読み進む。そして、読み終え、私は途方に暮れる。
女子大生たちの笑い声が耳に喧しい。一つの
世界が私の中で完結した途端、周囲の雑音が俄に気になりはじめた。全体、なんという違いだろう。物語に描かれた、暗く、おぞましくも美しい世界と、この日常のありふれた明るさとは。
相変わらず、岩井志麻子さんの小説は怖い。ぼっけえ、きょうてえ。
恐怖小説とか怪奇小説とか呼ばれるジャンルの小説を、実は私は一番苦手としている。自分で書くのも、読むのも。しかし、今回の岩井さんの新作は、どうやらそういうジャンルに組み込まれるべき作品ではない気がする。
では、一体なんなのだろう?
タイトルが示すとおり、物語に登場する「べっぴん」たちは皆、暗く湿った因果を背負っている。もとより、「べっぴん」じゃない女たちもなのだが。
「母親と気違いにしか抱きしめられたことがない」乞食の子・シヲが、村一番の分限者の養女になったところから、因果ははじまる。べっぴんのシヲは醜い娘を産み、醜い娘は美しい娘を……そして、その娘は……。
因果は綿々と受け継がれてゆく。
だが、岩井志麻子という作家は、やはり一筋縄でゆく人ではない。明治・大正・昭和、そして平成。母から娘へ、娘から更にその娘へ……。
過去から未来へと流れてゆく物語の中に、彼女は見事な仕掛けを施した。そのことによって、因果はより深い陰影を帯びることになる。そして、その重要なキーワードとなるのが、「小説新潮」連載時のタイトルである「乞食(ほいと)隠れ」だ。
入り口から3尺ほど入った土間に、1本だけ孤立した、乞食柱と呼ばれる柱があり、乞食は、その柱のところまでなら入ることが許されている。だが、玄関の脇に張った板のせいで、その乞食柱まで辿り着けぬ家もある。それが、乞食隠れと呼ばれるものだ、と本文中にはある。
シヲが母に手を引かれてその前に立ち、醜女(しこめ)のふみ枝が、美男の乞食とまぐわって美しい小夜子を身籠もる。
……数々の因果の発端として描かれる乞食隠れこそ、実は物語の裏主人公と言ってもいいほどの存在であるということを、その名が章題に冠せられた終章近くまで読まずとも、私たちは知ることになる。
それにしても。
しばし途方に暮れたあとで、私は無意識にほくそ笑んだ。
ドトールで笑いさんざめく若い娘たちの明るい声。この、暗く因果な小説世界とは最も縁遠く思われた現実の明るさこそが、実は「ぢごく」に最も近しいのではないか。
彼女たちの残酷な無邪気さは、たぶん無意識のうちに、自分の周囲にあるものを色分けしているに違いないから。即ち、ぢごくとごくらく。自分にとって役に立つものと立たないもの、に。
『べっぴんぢごく』。
言い得て妙なタイトルだ。
何故なら、ドロドロの因果の中に生きたはずのヒロインたちの中で、実はただ一人、幸福な生涯を送った女がいるから。
「男を好きになったら、女は生き地獄」
だと言う。ならば、生涯男には惚れなかったけれど、肉体の歓びは知り、百歳近い老婆になってもなお男をその気にさせる色香を保ちつつ大往生を遂げる彼女の中にこそ、女の幸せのすべてが集約されていると思うのは私だけだろうか。
藤 水名子「男に惚れたら、女はぢごく?」
ふじ・みなこ 作家
岩井志麻子『べっぴんぢごく』
4-10-451303-2
波 2006年4月号
新潮社
¥100