消えた鍛冶屋
労働のもつ厳粛さ
ル・ナン兄弟の「鍛冶屋」である。1640年という古い時代に描かれた。1640年といえば、スペインではベラスケスが宮廷で絵を描き、オランダではレンブラントが有名な「夜警」を描いていたころである。
要するに、絵画がまだ王侯貴族や教会、特別の金持ちの注文でしか描かれなかった時代に、フランスで農民や職人ばかり描いていたのが、ル・ナン兄弟であった。
なぜ1人1人の名前ではなく、ル・ナン兄弟と呼ばれるかといえば、いずれも画家であったアントワーヌ、ルイ、マチューの3人兄弟が、だれが描いたものでも、作品には「ル・ナン」と姓だけしかサインしなかったからである。
だから、どの作品も、3人のうちの1人が描いたのか、それとも共同で描いたのか、正確にはわかっていない。ただ、アントワーヌとルイが1648年に相次いで死んだあと、マチューだけはその後30年近くも生きていたから、マチューの作品がもっとも多いのではないかといわれているだけである。
ル・ナン兄弟は北フランスのランで農家に生まれ、ぶどう作りと畑仕事をして育ったといわれる。彼らがパリに出てきたのも遅く、30歳を過ぎてからだった。兄弟は3人で同じ家に住み、共同で制作したが、3人とも生涯独身だったというのには驚かされる。
そのうえ作品にまで共同の署名しかしなかったのだから、本当に一心同体の兄弟だった。兄弟は宗教画や都会風俗をまったく描かなかったわけではなかったが、作品の大部分は農民たちの生活を扱ったものである。
ただ、彼らの描く農民の絵には特色があり、農作業をしたりくだけた日常の動作をしている農民ではなく、静かな食事の場面や、家族が集まっている様子を、あたかも神話か歴史の一場面のようにおごそかに描いた。
そこに漂うものは、労働に生きる人間のもつ尊厳といったようなものであり、一種宗教的なまでの厳粛さなのである。ここに取り上げた「鍛冶屋」にも、同じようなものが感じられる。
仕事場に集まった鍛冶屋の家族は、記念写真でも撮るときのようなポーズをしているが、なにか鍛冶という仕事の神聖さにつつまれているように見えるのだ。
絵のなかに客がいる
ヨーロッパの鍛冶屋は、早くから武器鍛冶、道具鍛冶、蹄鉄鍛冶、小物鍛冶に分業化したといわれている。ル・ナン兄弟がこの絵で描いているのは、おそらく道具鍛冶、日本でいえば野鍛冶と呼ばれる、農具などを作る鍛冶屋だ。
だとすれば、この鍛冶屋の絵も、ル・ナン兄弟の農民絵画の一種とみていいだろう。鍛冶屋は若い夫婦である。おそらく彼らの子どもたちは左側に立っている2人だ。左端の少年は左手を上げて紐を引いているが、ふいごを動かす手伝いでもしているのだろう。
右手で腰掛け、横を向いている人物と、彼に寄り添うようにしている子どもは、これも家族の一員だろうか。どうもそうではないような気がする。まったくの想像でしかないが、筆者は彼を子ども連れでやってきた鍛冶屋の客と考えてみた。
その理由は、彼が左手にぶどう酒の瓶を持ち、右手にグラスを持っていることがひとつ。一杯やりながら、出来上がりを待っているのである。それと、彼の連れている子どもが、左端で紐を引っ張る少年の動作をもの珍しそうに見ていることだ。
鍛冶屋の家族は、全員立ってこちらを向いている。しかし、右手の腰掛けた男と子どもだけが、横を向いている。これは右端の2人だけが家族ではないことを暗示してはいまいか。
また、男がぶどう酒の瓶を持っていることは、彼が農民であることを物語っているようだ。鍛冶屋も家族なら、訪ねてきた農民とその子どもも、ひとつの家族である。
ル・ナン兄弟は、ここにふたつの家族を描いた。そして描かれたふたつの家族は、同じ労働に生きる家族同士として、一見すると一家族に見えるほど、ひとつの画面のなかで溶け合っている。
ル・ナン兄弟自身のパリでの共同生活が示したように、彼らにとっては、家族の結びつきほど大切なものはなかった。それが彼らの芸術にとっては当然の、生涯のテーマだったのである。
フランスという国は、現在でもそうだが、古くから農業国であった。この国では、パリの宮廷や上流階級とは無縁の多くの農民が、質実な暮らしを営んできているのである。
鍛冶屋も、王侯貴族に雇われる武器鍛冶などとは違って、農具などを作る鍛冶屋は地味で、日の当たらない存在だった。まさに村の鍛冶屋として、農民と歩みを共にしたのである。
消えた鍛冶屋たち
しばしも休まず鎚打つ響き……で始まる「村の鍛冶屋」という元気のよい唱歌があった。だが、村の鍛冶屋そのものがほとんど見られなくなって、歌も歌われなくなったようである。
日本でも、離島などに最後まで残っていた鍛冶屋は、どのくらい現存しているのだろうか。工業の発達が、ヨーロッパでも日本でも鍛冶屋という職業を消してしまった。それは村の鍛冶屋だけでなく、あちこちと気ままに旅をし、各地の領主に雇われては、多額の報酬にありついていた武器鍛冶、蹄鉄鍛冶なども同じである。
武器鍛冶というのは、日本式に鉄砲鍛冶といったほうがわかりやすいかもしれない。石畳の道をもつ都市で、多数の馬車を走らせていたヨーロッパでは、蹄鉄の仕事が大きな分野をなしていた。
日本ではまた、刀鍛冶が鍛冶屋のなかでも格別の存在であったことは、周知の通りである。農民や鍛冶屋の心の奥には、人間の生命を直接支える食物を作っている、あるいはそのためになくてはならない道具を作っているという、プライドと厳粛さ、あるいは喜びといったものが潜在しているものであろう。
ル・ナン兄弟が描こうとしていたものは、まさにそれであった。工業化された社会でも、それがまったく失われたわけではないが、今日のように、農業にまでおよんできたハイテク化が、労働の誇りと喜びをいよいよ稀薄なものにしてきたことは確かである。
産業の分野だけではない。実は美術の世界でも、手作りの要素は後退し続けてきた。ビデオアートのようなものが登場し、ものをつくらずに既成のものを並べるだけ、といったコンセプチュアルアートは少なくないのである。
しかし、ル・ナン兄弟の「鍛冶屋」は、手仕事によって現代人をも圧倒する。手によって描き残された鍛冶屋の精神世界は、鍛冶屋が消え、手による美術が衰えても、生き続けてきた。
磯辺勝
〈キーワードは仕事 ⑤鍛冶屋〉
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