知床の小さな番屋
エンジンを止めた舟が静かに海を漂っている。音のない青い海の上で、ぼくは目の前に迫る風景に圧倒されていた。
相泊の漁港を過ぎて崩浜に来ると、視界いっぱいに大自然がある。海から急激に盛り上がった半島の崖は目にしみるような緑で覆われていた。
壁の谷間には滝があり、巨大で荒々しい黒い岩がいくつも海から突き出ていた。アラスカや北欧で観るような風景が日本にあるとはとても不思議な気がした。
昔、同じように舟でここにやってきた松浦武四郎も、この風景に圧倒されたにちがいない。そう思った。
「北海道」の名付け親である松浦武四郎は幕末の探検家である。伊勢須川村に仕まれた彼は、16歳で江戸へ旅をしてからというもの生涯旅をし続けた人だった。
旅の途中で長崎にいたころ、ロシアが蝦夷地(今の北海道)を狙っているという情報に危機感を抱いた武四郎は、自分の目で確かめようと蝦夷地へ向かった。それから都合6回、蝦夷地をくまなく探検調査し、すぐれたルポタージュを水戸藩を通じて幕府に献上した。
日本が蝦夷地を外国に奪われることなく日本固有の領土として守れたのは、この武四郎の功績が大きかったといわれている。その武四郎は安政5年(1856)現在の根室市を出発し、海岸沿いを舟で北上し、羅臼を通り知床半島の先端に来ている。
いま自分がいる場所をちょうど彼も148年前に通っているわけだ。季節も同じころ、彼もこの初夏のしみとおる緑に覆われた地の果てを観て圧倒されたにちがいない。
タケノコ岩、ペキンノ鼻を過ぎると、海の様子が変わった。うねりが出てきたのだ。舟はうねりに乗って大きく揺れはじめた。そのうねりを上手に縫いながら、舟は全速力で知床岬を目指した。
「ほら、沖のほうを見て。潮同士がぶつかってるしょ。アレ、潮のタテガミっちゅうんだ」とトッチ船長がいった。水しぶきと潮風にあおられながらそちらを見ると、色の違う潮同士がぶつかり合って白波を立てていた。それが太く白い線になって続いていた。
たしかにそれはタテガミのようにも見えたが、ぼくには龍が泳いでいるように見えた。うねりがますます大きくなっていた。舟はカブト岩を越えた。その先は知床岬。とうとう知床半島の先端までやってきたのだった。さきほどまで晴天だった空には低い霧が立ちこめ、その合間から白い灯台が見え隠れしていた。
霧に包まれた知床半島の先端は、それまでの鮮やかな緑から一転して墨色一色の姿をみせている。それは人を寄せつけない聖域であるかのようだった。
羅臼のことについて少し触れてみたい。
羅臼は日本の最北東にある知床半島の、東側にある。羅臼という地名はアイヌ語のラウシの転訛といわれている。
ラウシとは動物の死骸があったところという意味で、昔アイヌたちが鹿狩り、熊狩りをしたときに必ずここで屠ったことからきている。羅臼に暮らす人々の大部分は漁業で生計を立てている。
羅臼とロシア統治領の国後島はわずか25キロメートルほどしか離れていない。海は中間線で領域を区切られていて、羅臼の漁師は知床半島側の12.3キロメートル内で漁をしている。
ただ、この猫のひたいほどの海はまさしく豊穣の海である。海は羅臼と国後島の間でちょうどすり鉢のようなかたちをして、急に深くなっている。いちばん深いところで2,000メートル、魚たちはそれぞれに適した水深に層のように棲んでいる。
急に深くなっている海は深いところから湧き上がってくるように昇ってくる海流が発生し、栄養分豊富な海水が海面近くまで上ってくる。そこでは多くのプランクトンが発生し、小さな魚から大きな魚までの食物連鎖がスムーズに行われる。
さらに羅臼の海は1年中水温が低く、魚は体に多く脂肪を蓄えるためにおいしい魚になる。羅臼の魚が格別おいしいといわれる理由はそこにある。
実際にこの海で舟から釣り糸を垂れてみると、針が海底に届く前に、ホッケやチカが釣れていて、海底に届くとカレイが釣れるという具合だ。それが糸を垂れるたびにそうなるから、10分ほどで釣るのに飽きてしまうほどだった。それほど、羅臼の海は魚の宝庫なのである。
釣りをしながら「国後島がもし日本に返還されて、もっと魚が獲れるようになるといいと思う?」とトッチにきいてみた。トッチは針に餌をつけながらいった。「そんなことになったら、日本の大型船がやってきて、魚を根こそぎ獲っていくだろうな。……たぶん羅臼の漁師は終わりかもな」
昆布浜に帰ってきた。舟板で百たたきに遭ったお尻の痛みは、舟から降りてもしばらく消えなかった。もしかすると青アザになっているかもしれない。この歳で蒙古斑があるのは恥ずかしいなあ、とお尻をさすっていたら、「おい、風呂いくべ」と、トッチがやってきた。
頭にはしっかり風呂用のタオルが巻かれていた。知床半島は上質の天然温泉が多く点在することでも有名である。半島の西側のウトロも温泉があるし、ここ羅臼にもある。熊ノ湯、セセキ温泉、相泊温泉。
なかでもトッチがお気に入りなのは相泊温泉だ。昆布浜からクルマで10分ほど北へ走った海岸にある。露天に小屋掛けされた温泉で、男女別になっていて1日中人ることができる。海岸から湧き出るこの温泉はお湯を舐めると塩味がした。
相泊温泉の手前にはテレビドラマ「北の国から」ですっかり有名になった露天のセセキ温泉がある。海面すれすれにあるこの温泉は満潮時になると海に沈んでしまう。
お尻を隠しながら温泉にさぶんと浸かると、海ですっかり冷え切った体が急速に温められてジンジン痺れた。トッチとぼくはその痛気持ちよさに野獣のようなうなり声を上げた。
温泉には先客がひとりいた。東京からやってきたという50代半ばの人だった。ナベさんという。クルマでひとり旅をしていた。今年リストラに遭い会社を追われ、学生時代に一度訪れた羅臼に来た。
最初のうち、この人は死に場所を求めてここにやってきたのではないだろうか、とぼくは邪推していた。彼のクルマがベンツのセダンだったことも、想像を増幅させていた。アウトドアの旅にベンツはまったく不釣り合いだと思ったからだった。
しかし、話をしているうちに、ナベさんは長年のサラリーマン生活で疲れた心と体をこの大自然の地で癒しに来たということがわかった。とにかく羅臼の美味しい魚が食べたい、と彼は眼を子どものように輝かせながらいった。
ナベさんは、ただの食いしん坊だったのだ。「そんなに食べたいのなら、夕方、バーベキューやるから、来るかい」とトッチが誘った。ナベさんは突然ガバッと湯舟から立ち上がり、トッチに向かって、ありがとうといった。ぼくの目の前にナベさんの萎れたお尻があった。蒙占斑はなかった。
夕暮れの海がバラ色に染まっていた。浜辺から見える国後島は黒いシルエットになっている。番屋から漏れる灯りが軒先の浜辺を明るく照らし、軒先にあるバーベキューの台から赤い墨の粉がパチパチと爆ぜていた。
バーベキューの網の上には鎧をまとったキタガザエビをはじめ、タラバガニやホッケなど海の幸がならんでいた。「ほら、どんどん食え。吐くまで食えよ」とトッチが焼けたエビをせっせとこちらへ寄せた。
ぼくが少しでも口に入れるのを止めると、「あれ、もう食わねえのかい」といって、ムキになって余計に寄せてきた。ぼくはトッチにわからないように、エビの山を隣にいるナベさんの方へずらしていた。
彼は、おう、といいながら嬉しそうに片っ端から平らげていた。ナベさんは大食漢だった。
トッチの番屋は昆布漁の番屋だ。番屋の前の浜辺は丸い小石が敷き詰められている。昆布の天日干しをするためである。小石の上だと水がよく切れて乾燥も早い。小石をひとつ拾って鼻につけてみると、昆布の匂いがかすかにした。
羅臼の昆布は「羅臼昆布」とよばれ、真昆布と同格の最高級品である。主に高級だしとして東京・大阪などの一流料亭で使われている。
昆布漁は、毎年7月の20日前後に始まり、8月中続けられる。漁はひとりで行う。「箱メガネ」を口にくわえ、足で櫨を巧みにあやつり、「ねじり」とよばれるカギのついた棒で昆布をひっかけてねじりとる。
ただ、採るだけではない。それから大変な作業が待っている。採った昆布はキレイに洗って、一枚一枚天日に干し、重しをかけてしわをのばす。それから不要な葉をハサミで切って、等級ごとに選別しなければならない。それからようやく出荷となる。じつに手間のかかる仕事だ。
そんな苦労のある昆布漁でも、トッチはこの漁が好きだという。漁の期間はずっとひとりで番屋に泊まり込む。「寂しかねえよ。チッカも遊びに来るしな」と番屋に遊びに来た漁師のチッカの肩を叩いた。
漁師仲間のチッカは昆布漁はしない。ホッケ船に乗っている。まだ若いがキャリアがあり実力もあるので船ではNo.2の存在である。
以下省略
北崎二郎「知床の小さな番屋」
大塚薬報 2004年12月号
No.601
大塚製薬工場