蘭学のヒポクラテス像 | 月かげの虹

蘭学のヒポクラテス像


東洋の医神

インドのヒンズー教ではシヴァとその配偶神カ一リーを始めすべての神々が健康や病気に関わりを持つが、新しい神ダーンヴァンタリが医の守護神で、ベナリスの王の姿を借りて地上に現れ、医学を賢人たちに教えたという伝説がある。

中国では伝説上の帝王に伏犧、黄帝、神農の3人の帝王がいる。その1人、神農が医薬の守護神である。

日本には室町時代にすでに伝わり、医祖として崇拝されてきた。神農は牛の頭をして、木の葉の衣をまとい、赤い鞭で薬草を採り、百草を嘗めて、薬草を見つけたという伝説の持ち主である。

神農は江戸時代には医薬のみならず、農業、商業の守り神として祀られていた。医家では、毎年、正月に神農像を描いた掛け軸を床の間に飾って医業の無事を感謝し、発展を祈ったのである。

神農像には名画が多い。徳川家綱や著明な画家の神農図が残る。しかし、江戸後期、蘭学が入ったとき、蘭方医は神農に替えて、ヒポクラテスの画軸を作って祀った。

蘭学者たちは神農に代わる西洋医学の医神はヒポクラテスと信じた。そこで、出典不明のヒポクラテスの画像が石川大浪らによって描かれた。

いまも旧家には神農とヒポクラテスの画像が伝わる。私の夢の1つに、こうした日本の医神像を一堂に集めて、医神に医業の無事を願った人々に思いを巡らせることがある。

文献
1) Rutkow IM : Surgery : An Illustrated History , Mosby-Year Book, St.Louis 1993; 504
2) アルバート・S・ライオンズ, R・ジョセフ・ペトルセリ著, 小川鼎三監訳: 図説医学の歴史. 学習研究社, 東京, 1980; 79~83.
3)大槻真一郎訳編: ヒポクラテス全集, 第1巻. エンタープライズ社, 東京, 1985; 579(「誓い」).
4)緒方富雄: 日本におけるヒポクラテス賛美 日本のヒポクラテス画像と賛の研究序説.
日本医事新報社, 東京, 1971.

順天堂大学医学部客員教授
酒井シヅ「医の守護神」

日医雑誌 第135巻・第2号
平成18(2006)年5月号
医の歴史