創造性の秘密
9. カルチャーを超えた共通点
ワーグナーのオペラは、なかなか日本人には歌えないというのですが、最近、日本の歌手で藤村実穂子という方がおられます。この方は、バイロイトでもよく歌っておられるすごい歌手なのです。
それこそはじめに言いましたように、文化庁長官の役得でその方と対談をしたのですが、その方が非常に面白いことを言っておられました。
「初めにドイツに行った時は、ドイツの生活とか生き方とか感じ方とか、ああいうものをどんどん身に付けないと、向こうの歌は本当に歌えない、ワーグナーなんか歌えないというので、何とかしてヨーロッパのものを自分が吸収しようと、一生懸命やってきた。
けれども、今バイロイトなどで歌うようになってくると、自分がドイツ人とまったく同じように歌っているのではないというところで評価されているように思う。
どんどんヨーロッパのものを消化し、身に付けているのだけど、先ほど言ったように、自分を深く掘り下げていくと、日本人であるということは否めない。これは否定することはできない。
だから表現するときに自分の深いところに降りていこうとすると、日本的なものに変わっていくのだ」と。これを否定するのではなくて、ぶつかっていくのだけれど、そこから非常に面白いことを言いました。
先ほどのイメージなどに続いてくると思うのですが、「作曲家が最も表現したいものというのは、ワーグナーにしろ何にしろ、要するに単純にドイツ的とか、単純にオーストリア的とか、名前の付かないものではないか。
名前の付かない「X」というところが一番creativeなところと関係するところであって、その「X」をもちろんワーグナーはワーグナーのようにだんだん表現していくのだけど、自分はその「X」に迫っていくときに、日本人であるということを否定してそれをやろうとすると、うまくいかない。
日本人であるというところにぐっ一と降りていくと、ドイツ人やほかの国の人々がワーグナーの一番表現したかったことということを、表現しようとしているところと、通じるところが出てくるのではないか。
そういうカルチャーなんかを超えた共通点みたいなものを表現するのだけれど、表現しつつろ過していく通過点の中に、やはり日本的なものがあるということによって、かえって評価されているのではないか」というような、非常に面白い表現をしておられました。
今、外国で活躍しておられるたくさんの日本のアーティストの人と話をしていると、非常に似たようなことを言われる方が多いです。
どうしてあちらのものに迫っていくかではなく、日本的なもの、日本人としてのものを出しているのだけど、どこかそれを超えたところで一致するという、そこまでいったら、きちんと向こうで評価されるというふうな、そういう言い方ができると思うのです。
そのときに日本人であることを突き抜けていくということと、日本人であることを否定してしまうのとは違います。
そこのニュアンスみたいなものを、我々はよく知っておく必要があるのではないかと思いました。これが飯田先生の言われた宿題に少し関係するところだと思います。
ちょうど時間がきましたので、これで終わりにします。
河合隼雄「創造性の秘密」
第51回日本病跡学会 特別講演
日本病跡学会雑誌
No.68
2004年12月25日発行