新聞小説「人よ、花よ、」(8)第八章「妖退治」作:今村 翔吾 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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朝日 新聞小説「人よ、花よ、」(8)
第八章「妖退治」313(7/3)~353(8/13)
作:今村 翔吾 挿絵:北村さゆり

レビュー一覧
 連載前情報 1前半 1後半       

  10

 

感想
久しぶりの青左登場。もうけっこうな「お友達」キャラに(笑)
ちょっと違う形での御所入り。北畠親房との対面にはこっちも少し緊張。それにも増して石掬丸のピンチにハラドキ。
そして、襲撃に失敗した足利直義の次なる作戦に絡む高師直。
殺し合って半分になったら召し抱えてやると言われた、金毘羅党 の岩玄房も再び登場。次第に役者が出揃って来た感アリ。

しかしこの連載もちょうど一年。史実に乏しい楠木正行の青春時代を描くという意図は十分伝わっているが、さて、どの辺りまで行くのか。
茅乃とのラブロマンスまで描くのか?(読者向けに・・・・)
次章は第九章「吉野騒乱」

あらすじ
第八章「妖退治」
313
皆が再び集まったのは打ち合わせから二日後の師走二十七日。
吉野の外れの集落にある屋敷。広間で車座になる中、吉野衆の頭、青屋灰左が頭を抱えていた。「何故、こうなる・・・」
「悪いな」と苦笑する多聞丸。楠木党からの話と聞いて、金毘羅党の壊滅以来棚上げの「道」の扱いについてだと思っていた。
「まあ、仕方ないでしょう」と宥める副頭の譽田(こんだ)惣弥。
皆が不在の楠木館は、茅乃を観心寺まで送り届けた野田が戻って留守を務めていた。

314
惣弥は先の一件(金毘羅党)の恩義を持ち出して、まずは聞こうと言う。だが今回はよほどの事。大塚に目をやる灰左。
大人数で押し掛けて申し訳ない、と言う大塚に恐縮する灰左。
当主の多聞丸は呼び捨てにするくせに、大塚は尊敬している。
「私が悪いのです。申し訳ございません」と詫びる茅乃にしどろもどろの灰左。茅乃はあの日何食わぬ顔で戻り再びここに来た。
「弁内侍様が悪う筈ございません」多聞丸を見て

「何故、おられるのだ」と声に出さず口を動かした灰左。

315
困りごとがあって東条を訪ねて来られた、と聞いて悔しがる灰左だが、自分の事を覚えておられたと聞いて喜ぶ。いつも見に行っていた事を冷やかされて怒る灰左に、意味が分からない茅乃。


大塚が咳払いして話を戻し、今までのいきさつを灰左に話した。
「そういうことか」と納得する灰左。その北朝と通じている腐れ公家の事は知らないが、騒動があったのは知っていた。

316
灰左は騒動を聞きつけ、すぐ動ける者三十名ほどで駆け付けたが、御所の武士たちに止められた。茅乃は内幕を話す。
刺客は自害したものの内通者が居る筈であり、外部からの襲撃も予想され、その指示が出たのだろう。
「そこで少し揉めまして」と惣弥が続けた。押し問答の勢いで、武士が灰左の出自に纏わる事を口走り、それを殴った灰左。
しまいに公家が仲裁に入って収まったが、それで灰左は激しい叱責を受けたという。
「誠に申し訳ございません」と謝る茅乃におろおろする灰左。

317
「妖(あやかし)の真相がその様なものとは」と惣弥。
何かあればすぐ馳せ参じるのも吉野衆の勤め。それが拒絶されるのは如何なものか、と激しく苦情を申し立てた惣弥に公家が
「妖が・・・出たのだ」と弁明したという。

「何だ。それは」と多聞丸。
すぐ嘘だと見破った惣弥はそれに乗り、矢継ぎ早に訊いた。
緑の肌だの大入道だの、しどろもどろの説明。
戻って皆にそのまま説明したので、村々では御所に妖が出たとの話でもちきりだとのこと。

318
「どうりで・・・合点がいきました」と茅乃。その話は帝の耳にまで届いているが、そのまま民に信じさせようとなったらしい。
多聞丸がそこで話を纏め灰左に助力を頼んだが、腕を組み「暫し考える時が要る」と灰左。

すかさず茅乃が御力をお貸し下さいと頼むと
「私でよければ」と一瞬で腕を解いて満面の笑みを浮かべた。
しらける多聞丸。ただ、楠木党には恩があるとも言う灰左。
しばし続く皆の言い合いに大塚も呆れ顔。
茅乃はそんな皆を見てくすりと笑い、多聞丸の印象に残った。

319
その日のうちに主だった吉野衆が集められた。強い帝への想い。
灰左から織部司へ物資献上の申し入れが行われた。懐の寂しい南朝にとっては有難い話であり、簡単に了承された。
仕立てた荷車は十二台。それを灰左、惣弥含めた吉野衆七十余人で運ぶ。本来荷は四人で押すが、これを六人にして差の二十四人が「森に潜伏する者」となる。
荷には注意が払われるが、運搬者には無頓着だという。

320
出発して一刻半ほどで全ての荷車が戻った。安堵の惣弥。
今回一番の懸念は灰左。「俺も行く」と駄々をこねた。惣弥が何とか間に入り、灰左を含めた吉野衆五人も潜伏組に加わった。
「私たちもそろそろ」と促す茅乃。朝廷の雑用係である公人を御所に潜入させる。装束も質素ながら清潔なものが準備された。
公人は公家の荘園の民など、素性にはきとした者が選ばれる。

321
今回は、茅乃の出身である日野家が素性に責任を持つ前提。
公人としては多聞丸、次郎、新兵衛、新発意、石掬丸の五人。
森には大塚が率いる十八人、他に四人が連絡係。
石掬丸は御所入りに緊張。雑務に慣れており選抜された。
「あれが黒門です。お静かに」と茅乃。これより先が所謂御所。
門を守る武士が会釈する。話は通してあるのですんなりと通れたが、茅乃を目で追う武士もいて、憧れの的というのは真らしい。

322
多聞丸がかつて父と共に入った京の御所とは趣が随分違う。
元々ここは金峯山寺であり、後醍醐帝が難を避けて開いた。
-帝は何をしているか-という暗い感情を思い出す多聞丸。
禁裏となっている、金輪王寺の建屋に案内する茅乃。
茅乃が到着の旨を伝え、更に多聞丸らを率いて裏に回った。
そこの広い庭で待っていると、縁から一人の男が現れた。

323
「お待たせした」薄化粧で、絵に描いたような公家の顔つき。

所作は公家らしくはない。吟味もせずに頷いた。
ただ、弁内侍自ら率いて来た事を訝しく思った。先のことがありましたので、と答える弁内侍に「ふむ・・・確かに」
皆を見て面構えが良いと口元を綻ばす。
何故自分が目利き役になったかを問う公家に茅乃が
「右中弁様に目に適った者ならば心配ないかと」「左様か」
多聞丸は-右中弁-の官職を胸の内で繰り返していた。

324
右中弁は朝廷の太政官の職の一つだが、どこかで耳にしたと記憶を辿る多聞丸。やがてはっと記憶が蘇った。「坊門・・・」
思わず呟いてしまった。かつて父が朝廷から策を求められ、京を捨て引き込んだ足利軍を兵糧攻めにする進言をした。その時強弁を振るい反対したのが坊門清忠。

そして父は無謀な戦で散った。

清忠は十年ほど前に死に、その子が五年ほど前右中弁に昇進したという。それこそが眼前の男-坊門親忠。 
「む・・・誰かお呼びか?」と見回す親忠。呟きが聞かれた。
私には聞こえませんでしたが、と咄嗟にはぐらかす茅乃。

325
「気のせいか」自嘲気味な笑みを浮かべる親忠。
話を進める茅乃に「うむ。例の妖のこともある故な」
その者は弁慶のようだと言われ、頬を緩める新発意。
親忠の言った小番付きを、宿直のことだと解説する茅乃。
「では、本日より」「うむ。麿から話しておこう」と親忠。
-今は考えるな。そう己に命じ続ける多聞丸。

326
父を死に追いやったのは父親の清忠だが意図せず顔が強張る。
「如何した?」己に投げかけられたものだと気付く。
「話してよいぞ」の言葉に、身に余る大任で取り乱したと返す。
「ではそろそろ」ぼろが出ぬうちにと茅乃が促す。
そうじゃな、と親忠が言い掛けた時、跫音と衣擦れの音。
困惑の茅乃が手を動かし、察した多聞丸らは片膝を突いて跪く。
「これは?」という声。物に向ける様な言い様に嫌悪する。
「殿下、この者らは日野家の・・・」と事情を説明する親忠。
地を見つめながら思案する多聞丸。

327
親忠はこの男を「殿下」と呼んだ。頭を丸めた五十半ば・・・記憶を喚起しても心当たりがない。
「面を」の言葉にうろたえる親忠。苛立つ男は弁内侍に命じた。
お目通りする様な身分の者ではない、と答えるものの抗えない。
茅乃の指示を受けて、悪党の血が疼き勢い良く顔を上げた。
男はぎょっとして「これは・・・」と呻いた。
頭は剃り上げられ、もみあげから顎への髭剃り跡が青い。

328
目は狐を、口周りは狸を彷彿とさせる。

灰汁が強く、僧形の割りに俗世の香りが漂っている。


多聞丸は目を逸らさず、男もまた己だけを見ている。
「名は」「太郎と申します」とっさに偽名。

「次郎です」と次郎。
次いで新兵衛は新太と名乗り、新発意を新二と紹介した。
いずれも兄弟と言われ、怪訝に見るのは出自を疑うから。
次に石掬丸に目が向けられた。名乗らず様子がおかしい。

329
顔面蒼白で、躰も震えている。石掬丸にも弱点はあったらしい。
畏れ多くて声が出ぬが、従弟の石三郎だと紹介する多聞丸。
男はそれを了承したが、多聞丸の武士臭い口ぶりに疑いを持つ。
その通りだと答える多聞丸。武士の様に日野様をお助けする様にと名付けられ、厳しく躾けられた・・・
「そういうことか」「よろしいでしょうか」顔色を窺う茅乃。
小番付きならば丹念に吟味せよと指示する男。

330
尊大ながらも男の言うのはもっとも。頭を下げる親忠。
なおも多聞丸を見て、どこかで見た顔だと言う男だが、結局思い出せずに「命を賭して励め」と言い残して去って行った。
男が去り、北畠様の迫力には慣れないと話す親忠。
ようやくあの男が北畠親房だと分かった。
先帝の建武の新政に早くから参画し、子の顕家と共に義良親王を奉じた。それが今の後村上帝。
顕家は異色の公家。若くして陸奥を平定し、足利尊氏が反逆した時は陸奥から駆け付けて粉砕した。

331
この時父は京を防衛していたが、それを高く評価していた。
だがその顕家も弱冠二十一歳で散った。尊氏は大惨敗のあと九州から力を付けて戻り、その応戦のため父、顕家が散った。
親房は先帝と合流したため生き残った。そして出家者には珍しく准大臣に任ぜられた。それで「殿下」とも呼ばれる。
次郎と新兵衛の視線に気づいた多聞丸。気を付けねば。
親房のことは今までも「かの御方」とか「伊勢の人」などと名が挙がっている。

332 
朝廷の統一に拘る親房としては、何としても楠木の力が欲しい。
それで招聘の勅使が度々送られて来るのも親房の差し金。
次に南朝が動く時には必ず発端となるだろう。

親房と顔を合わせても己だとは判らなかった。

そんな者を戦に駆り出そうとする傲慢さ。
帝も同じなのだろうか。来たばかりなのに暗然とした想い。

高師直が遅めの朝餉を取っている時に、弟の師泰が訪ねて来る。
飯を山盛り食べるのは、女を抱いた翌朝だと聞いて驚く師直。

333
朝、空腹の時には一杯目を多くするよう命じているが、言われてみればいつも女と閨を共にした翌朝。
女がいつ帰ったかも知らぬ兄を物騒だと言うが、その対策は万全だと聞き呆れる師泰。

飯を誘いつつ「例の件か」と訊く師直。


「左様、まず三条殿のことから」主君である、足利尊氏の実弟、直義の通称。三条坊門殿から来るもの。
「直義でよい」身内の前ではとっくに呼び捨てにしている師直。

334
いつか呼び間違えますぞ、の言葉に「それはそれでよい」
膳から飯を掻き込みながら、直義が多くの透波を抱えていると話す師泰。今、足利家は師直派と直義派で二分されている。
力は拮抗しているが、大名衆や守護、地頭らは直義支持が多く、師直は小身の武士、豪族や地侍等からの人気が高い。
透波たちからの支持は直義に分がある。元々透波を抱えるよう進言したのが直義。
数年前から師直も透波を抱える様になったが、その必要性に迫られ、増やすよう指示を飛ばしていた。
「風の安寿には会えたか?」と問う師直。俊敏に動く透波。

335
既に三条殿が召し抱えたと話す師泰。次いで数人の優れた透波の名が列挙され、それらも直義が口説き落としたという。
止めとなる鬼堂丸の名を聞き「げぇ・・・」と頓狂な声が出た。
かつて北畠顕家が使っていた伝説的な透波。足利の情報が筒抜けになっていた要因とも言われる。それさえも召し抱えた。
少し前、南朝で後村上帝が刺客の襲撃を受けたが、これを企てたのが直義。それは師直に手柄を立てさせぬため。

336
南朝との本格的な戦の気運が高まっている。となれば戦巧者の師直派が有利。だからこそ戦が始まる前に後村上帝を弑すという行動に出た、かつて混乱に乗じて護良親王を弑した発想。
仮に後村上帝が崩御しても、南朝が即座に崩壊はしない。
だがその動揺の後では直義派のみでも滅ぼす事が出来る。
かくして直義は透波を吉野に派した。刺客は馬渡(もうたり)と謂う者。抱える透波の中でも一、二を争う者。

337
計画は失敗に終わったが、これで直義が諦めるとは思えず。
果たして直義は各地に放った透波を京に集結させているという。 
吉野に送り込むつもりだ。師直はそう直感。おかしな話だが、これを防ぐために優れた透波を急ぎ抱えたい師直。
だがそのほとんどが直義のもとに行ってしまった。
直義は透波にも分け隔てなく接すると聞き、箸を放り出して癇癪を起す師直。



338
重ねて兄上は透波から人気がないと言われ
「賤しい者だ」と吐き捨てる師直。かの者も望んでなった訳ではないと反論する師泰に、心得違いをしているという師直。
生まれを蔑んでいるのではなく、人の秘め事を探り、ものを壊し時には人を殺す・・・蔑むところしかなかろう。
出自から仕方ないとは思わぬ。田畑を切り拓く、商人になる、物作りをする・・・奴らはそれをしようとせぬだけよ。

339
「やはり出自が・・・」「それは言い訳。吉野衆を見てみよ」
彼の者も賤しいとされているが、師直からすれば理解出来ない。
しかも畿内では蔑まれるが、関東ではその限りでない。
そもそも遠くに移れば出自など判らなくなる。つまり奴らは自らの意思で透波をやっているのだと言い放つ師直。
故に儂は武士を蔑んでいると断言した。そして賤しくとも、蔑まれようとも、儂がためならば誰であろうと殺す、と重ねた。
聞き終わるなり、悪寒に身震いする師泰。

340
師泰は怯えを見せながら

「それは・・・拙者とて同じという事で?」
「当然だ」と師直。自らを脅かす者は討つという決意。
討たれたくはないと言う師泰に「故に裏切るな。故に励め」
直義も透波を蔑んでいる、腹の中は別だと言う師直。
だがこの先の直義は、暗殺の失敗で更に多くの透波を送り込もうとしている。それを防ぐための透波集めが頓挫している師直。
直義が送る透波の数をざっと七十と聞いて驚く師直。
せいぜい五、六人とその支援の者程度と思っていた。

341
それほどの数を送ればもはや戦。南朝がいきり立ち京に攻め込めば、守る師直に責任が集まり、落とされれば失態を責められる。
即座に反撃しても弱体化ゆえと打ち消され、透波のことも印象操作で自分有利に広めてしまうだろう。
何がどう転んでも直義の名声を高める方向に進む。


北朝の実権は瞬く間に直義に握られてしまう。

342
形勢を一気に決めるための恐るべき計画。打ち手のない師泰。
二つあるという師直は、給仕を立ち去らせた。
「一つは南朝に報せるということだ」
公家社会の南朝は、次の襲撃はないと高を括っている。そこに暗殺の動きがあると報せる。ただし簡単には信じさせられない。
迂回させると言う師直。京に居る公家で、南朝とも通じている者を使って報せる。

343
人選は師泰に任せればいいが、知ったとて守り切れるか?
直義に、なりふり構わぬ襲撃が防げるのか。
楠木党にも知らせるかと言う師直。透波を多数抱えているのは和泉の大塚惟正。彼らが南朝の守護に動けば一筋縄では行かぬ。
だが楠木党の動きが-どうもはきとせぬ のである。
正成の死後師直らが侵攻した時は鬼気迫る反撃。だがそれ以降は目立った動きはない。物流網で金を稼ぐばかり・・・
予想がつかぬというのが今の楠木党。

真意を探る意味で東条 和泉にも伝えよと言う師直。


344
楠木家の当主はあの楠木正成の遺児、正行である。だが目立った動きをしていない。実際に党を仕切っているのは和泉の大塚かも知れぬという事。「承知しました。して、二つ目の手立ては?」
直義は、透波どもを全て信用などしておらず、七十名を相互監視させて行動させる筈。それには視察団などの名目が必要。
故に動き出せば頗る見つけやすい。

「こちらも乗ってやる・・・襲え」
同士討ちは厄介だと言う師泰に、我らが討つのは三条殿の家臣を騙る曲者じゃ、と嫌味を込めて言った師直。
直義は自分の手の者とは認めぬだろう。

それが透波というもの・・・

345
「兵は如何ほど」の問いに二百もあれば十分。岩玄房を使えと言った師直。かつて金毘羅党で看房を務めた男。仕官の願いに互いに殺し合わせ半数になった者を召し抱えた。

悪党狩りが真らしく見えるし、岩玄房なら道にも通じていよう。
だが敵も強者。半数も討てれば上々だろう。我々が追い詰められる不安を口にする師泰に、その時は「直義を討つ」
溜息を漏らす師泰。付いて来られぬか?」と言う師直に
「まさか、何処までも付き従います」

346
禁裏の廊下を磨き上げている多聞丸。案外きつく腰に響く。
「おや・・太郎殿、代わりましょうか」共に廊下掃除をしている石掬丸が訊いて来た。ややもすると御屋形様と呼びそうになる。
既に美しいのだがな、という愚痴に「太郎殿」と制する石掬丸。
何処で誰が聞いているか知れぬ。「解っている。だが冷たいな」
廊下は氷の如く冷たい。「冬の掃除とはそのようなものです」
大変さが身に染みる。思わず褒めると気恥ずかしげな石掬丸。

347
「お、兄者」米俵を担いだ新発意が顔を出す。「新二殿」と石掬丸が咎めるが、従兄弟であるとは伝えてあるので支障はない。


その体躯から力仕事ばかりが回って来る。
「次郎、新太は今夜だな」何気なく訊く多聞丸。小番付きのため昼間のうちに休憩を取る。「小番はどうだった?」と新発意。
昨晩、多聞丸と石掬丸が小番付きを務めた。
「まあ、何事もなければ大したことではないな」
後村上帝は眠る前に書見をするため、寝所の夜御殿に入るのは凡そ戌の下刻。夜御殿といってもごく質素。

348
四隅の灯火を絶やさぬ気配りが必要。油を注ぐのは蔵人の役目。巽の方角から始め、艮(うしとら)で終わる事で帝の枕元を通る不敬を避ける。小番付きは油の用意をするまでが役目。
殿舎は中央に身舎(もや)があり、それを囲んで夜御殿、居所、客座があり、あとは吹き抜けの広庇があるのみ。 
小番付きを侍らせるために作られた小部屋は屯倉(倉庫)の扱いで朝廷の威厳を保つ。愚痴ろうとする多聞丸を窘める石掬丸。
寝所までの距離を訊ねる新発意に、身舎を突っ切れば十を数えるほどだと答える多聞丸。更に尋ねる新発意。

349
侍所から夜御殿まで行くにはやや時間を要する。よってそれまでは公人が時を稼ぐ必要がある。皆俺が始末すると豪語する新発意だが、十を超える相手に手間取る間に帝が危なくなる。

納得する新発意。
小番はいつだと聞くが、まだ決まっていないと言う新発意。

怪力ゆえに他の公人七名に頼られている。

350
新発意としては力を見せれば抜擢されると思っていたが、裏目に出た。
だが刺客が来た時役に立つのは新発意の様な者。公人頭も知っている筈だが、万事楽天的に考える雰囲気が腑に落ちた多聞丸。
北朝、足利の者は違う。ここ数年は力を蓄えているのが判る。
当方こそ正統、と役にも立たぬ理由で安閑としているのが現状。
あと一つ感じること。帝を本気で守ろうとしているのか。
もし母が命を狙われたとすれば、楠木党は必死になって守る。

351
それはただ、守りたいという想いから。
南朝の中で、果たしてどれほどの者がそうなのか。公家から公人まで、帝を守りたいとの想いが不思議と感じられない。
もっとも例外はいる。茅乃だ。小番付きに加われる様弁内侍殿に頼んでおくと新発意に伝えた多聞丸。
日に一度は訪れる茅乃にそれを伝えた多聞丸。力強く頷く茅乃。
「山はどうだ」と訊く。それは山に潜む大塚、灰左らの隠語。

日に一度の通信手段が決めてある。切り株に小枝。

早速埋めた書状を見つけたという。

352
そこには麓であった騒ぎの事が書かれていたという。猟師が見たという、立派な武士の行列が、野盗の如き集団に襲われた事件。


武士は二十名ほど討たれ、野盗側も数名死に、多数の怪我人。
場所はここから一里ほど。朝廷の何人かは聞いたらしいが、気のせいかと断じたらしい。

「何のための詰め所だ」との多聞丸に同感の茅乃。
その後武士が逃散し、野盗らが屍を荷車で持ち去ったとのこと。
大塚はその事実だけを、ありのまま伝えて来た。

353
「ただの野盗とは思えぬな」猟師の話では武士七十名ほどよりも野盗の方が大人数だったという。真っ先に考えられるのは、南朝の武士を野盗に化けた北朝の透波が襲ったという事。

だが茅乃は否定。
野盗が北朝の透波だとしたら、襲われた武士は何者か。
どちらかが透波だろうと見立てた多聞丸。

考えても答えは出ない。