新聞小説「人よ、花よ、」第四章「最古の悪党」(4)作:今村 翔吾 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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朝日 新聞小説「人よ、花よ、」第四章「最古の悪党」
(4)138(1/4)~181(2/17)
作:今村 翔吾 挿絵:北村さゆり

レビュー一覧
 連載前情報 1前半 1後半       

  10


感想
第三章「桜井の別れ」でまた、母との長い話が挿入されたので
第二章「悪童」の記憶が薄れて来た頃に惣弥が担ぎ込まれて「え、誰だった?」状態。
それは楠木党と敵対する、吉野衆を束ねる青屋灰左の右腕。
もう一つの勢力「金毘羅党」に拉致された灰左とその部下。
多聞丸らで彼たちの救出作戦が敢行される。
前章で「歴史講釈」に食傷気味だったので、この展開は有難かった。この金毘羅義方、ネットで調べても「生没年不詳」とあり、こういった話に割り込ませるのには好都合。
義方は「高野山領荒川荘の悪党蜂起に呼応し」て蜂起したと書かれている。この時期は鎌倉末期に起きた悪党の台頭に対し、六波羅探題が悪党召し捕りを命じられている。
この点で行けば反幕府という事になるが、そもそも鎌倉は倒れているので、そこから50年近く後では、金毘羅党そのものがどちらの勢力に与するかの制約はない。それで南朝、北朝双方を襲って利を得ている設定にしたか。
それはさておき
この多聞丸、僅か六名で奪還しようとは、まさに「ミッション・インポッシブル」(笑) 痛快で、毎日読んでいて楽しかった。
ただ、今まで単なるイメージで多聞丸はむやみに人は殺さないと思っていたので「ワイルドやなぁ」と驚いた。
刀ぶら下げてるんだから、そらー斬るだろう。

さて、こうして悪党の一角は弱体化させる事が出来た。
この出来事と多聞丸の目指す「北朝に降る」件がどう繋がって行くのか?
次章は「弁内侍(べんのないし)」

べんないざむらい、ではない(笑)
内侍というのは女官全般を指すもので、弁内侍は一般にこちらが知られているが、本編では違うみたい。

弁内侍 (南北朝時代) で検索方(自主規制)


オマケ
しかしこの作家さん、その日読み切って翌日アタマから章が変わったのは二章目だけで、その次からはずっと、読む日の途中で章が変わっている。新聞連載上の制約には影響されたくないとの強い意思があるのかも知れないが、今まで10年以上新聞小説と付き合って来て、こんな作家は初めて(多分司馬遼太郎だってやってない)
そもそもその日に載る挿絵は一枚。挿絵作家とのコラボである事を考えたら、失礼極まりない行為ではないか(挿絵は前の方に合わせて下さい、とか指定するのかね?)
それに読者にとっても、その日読む最初から章が変わる方がいいに決まっている。


あらすじ
第四章「最古の悪党」138(1/4)~181(2/17)
138
西日がまだ明るく、日々夏に近付いているのを感じる。
いつもの夕餉の光景が広がる。
普段は飯を四杯食べる次郎が、津江に五杯目を頼んだ。


普通の武家と違い、家族共に食べる事を父の死後も守っていた。
あの夜母に想いを告げてから十日が経っていた。以来一切その話は出ず。自然に振る舞う母に「真に話したのか?」と訝る次郎。
「今日はよく食べますね」と次郎に語り掛ける母。
「岩魚があるので」と次郎は嬉しそうに答えた。

139
普段は麦入り飯の他は菜汁と漬物だけだが、今日は次郎が釣って来た岩魚が膳にあった。「確かに旨い」と言う多聞丸。
逃れていた和泉葛城山から楠木館に戻ってはや六年。
この日常こそが幸せ。河内、和泉に住む者の多くがそうだろう。
それを守るためなら北朝に降ってもよい、と決めたのだ。
ようやく母にも告げられた。苦しめたかも知れないが・・・

夕餉を終えて離れに向かった。陳情やら争いの裁きなどの仕事。
--いつにすべきか。北朝へ降る時期をずっと考える多聞丸。
父、叔父はじめ、楠木党が血を流して得たこの地は安堵されなければならなぬ。南朝が代わりの国司、守護を任命した時、領民が靡けば国を失う。そうならぬ様善政を布かなくてはならぬ。
外もすっかり暗くなった頃、離れに近付く足音が聞こえた。

140
隣の間に控えていた石掬丸に指示して襖を開けると、激しく戸が叩かれる。次郎が血を流している男を負ぶって来た。
「惣弥だ」それは吉野衆の譽田惣弥。
「すまない・・」との掠れ声。早速手当てを始める石掬丸。
皆で部屋まで惣弥を運ぶ。体中に打ち傷、擦り傷。
「何があった」多聞丸が聞くと「灰兄を・・・助けてくれ」

141
「詳しく聞かせてくれ」
次郎がここに運び込むまで、惣弥から事情は何も聞いていない。


「三日前、合戦があった」「合戦だと?」
普通合戦といえば楠木党の情報網なら聞き逃すことはない。
「相手は武士じゃあない。悪党だ」それで得心した多聞丸。
悪党同士の戦は人知れず行われる。
手当ての前に話を進める惣弥。だが吉野衆はこの辺りでも突出した勢力。奇襲を受けたとしても容易く敗れる筈がない・・

142
「うちと、あんたら以外に、もう一つだけあるだろう・・」
「おいおい・・・」顔を引き締める多聞丸。次郎も察した。
「ああ、金毘羅義方だ」それは紀伊国名手荘を本拠とする悪党。
五十五年前の正応四年に高野山領の荒川荘と共に起った。
義方の暴れ方は尋常ではなく、味方である筈の荒川荘まで攻め、奪ってしまった。そして国中無双の大悪党と他国も認識。
鎌倉からの鎮圧の通達を受けた頃、義方から金を渡すから戦をやめ、今後も金毘羅党を見逃せと言って来た。

143
守護、地頭らはそれを吞み、以降金毘羅党は裏に回った悪行で鎌倉などから略奪を行っていた。今でも力があるのを楠木党、吉野衆も知っており、彼らに関わらぬ様にして来た。
「何故、金毘羅に手を出した」の問いに「帝の物資が奪われた」
金毘羅党は宮方、武家方双方から略奪していた。
今までは父を警戒して派手な事をしていなかったが、南北朝とも不用意に手は出さないと、考えを改めたか。
勤皇の志に篤い灰左の荷を奪えば激昂するのは明らか。
「一度は上手く行ったんだ」惣弥は経緯を語り始めた。

144
朝廷の荷は二度襲われ、三度目は、配下を隠した荷駄を前後に加えて備えた。迎撃は成功して敵を四人殺した。
次の時は、荷駄に加えて襲撃を受けそうな隘路に兵を潜ませた。
そして襲撃が来た。金毘羅党も手勢を増やして互角。
潜ませていた兵で攻めようとしたが叶わず。伏兵が敵にすり替わっていたのだ。敵の数に阻まれる。投降を促す相手。
死者を多数出す恐れに灰左は「得物を捨てよ」と指示。
その場の吉野衆は全員捕らえられ、山中に連れて行かれた。
「お主はどうしてここに」次郎が割って入って尋ねた。

145
捕われた吉野衆は二十八名。厳しく打擲されて吉野、南朝側のことを尋問された。灰左は配下の分まで拷問を引き受けた。


彼らを人質にしても朝廷から金は取れぬと踏んで、吉野衆の財を全て出す様、惣弥だけが「十日以内で戻れ」と解き放たれた。
銭を出すのは厭わないが、そうしても殺される。
「だから救い出すしかない」多聞丸は溜息を漏らした。
真っすぐ東条に来たのは、吉野では無理だから。
「だが、あんたなら」「罠じゃないだろうな」と詰め寄る次郎。
それを制する多聞丸。

146
次郎を呼んだ多聞丸。先回りして「誰を?」と訊く次郎。
「新兵衛と新発意を。今からならば朝には間に合う」
多聞丸は惣弥に向けて凛然と言い放った。「灰左を救い出す」

和泉国和田に向けて郎党の一人が向かう。
その間に惣弥の手当てを済ませ、飯を食わせて寝かせた。
全身の怪我だが骨には異常なく幸い。この役目のためだったか。
朝餉の前に母への説明をした。これまで、はぐらかす事もあったが、今回は灰左の窮地と、助力する事を伝えた。
その時母が呼び止める。「あの・・」「何でしょう?」
振り返った多聞丸は「ご安心を」と伝えた。

147
多聞丸は女中の津江に、握り飯を多めに作るよう頼んだ。
握り飯を頬張っている最中に石掬丸が「お越しになりました」
「お前も食っておけ」の一言ですぐ理解した石掬丸。
「兄者ぁ!来たぞ!」野太い新発意の声。握り飯に注目。
「食え、食え」と次郎。だが新兵衛が「まずは挨拶をせよ」
新発意と共に腰をおろし、罷り越しました、と言う新兵衛。
「何があったので?」と声を落として訊く新兵衛。
二人には「急ぎ、二人で来てくれ」とだけ言ってあった。
和田兄弟なら何をおいても駆け付けてくれると信じていた。

148
余程のことだと察する兄弟。脇にいる惣弥に驚く新発意。
順を追って話を始める多聞丸。二人の顔は徐々に曇る。
「金毘羅・・・ですか」重々しく呟く新兵衛。
「よりによってか」と舌打ちする新発意。三年前の悶着。
吉野衆、楠木党、金毘羅党は互いの干渉を避けて来たが、ある時土砂崩れで止む無く金毘羅党の領地を通った時、荷の頭だったのが新発意。悪いのはこちらだが、いきなり襲撃して来た。
新発意が大暴れして、相手は五人の屍を残して退いて行った。
だが厄介だったのはその後。

149
金毘羅党はその後小規模な報復を繰り返し、百姓まで襲われた。多聞丸は相手に詫びを入れ、金銭の他、道を一つ譲り解決した。今回は向こうから仕掛けて来た。相当の覚悟を感じる。
金毘羅党との合戦を主張する新発意に多聞丸が


「いや、金毘羅義方を討つ」皆の顔は一気に強張った。
慎重過ぎる彼らが動き出した。一寸やそっとで止まらない。
首領の金毘羅義方を討つしかない。
「しかし、そもそも義方はいるのでしょうか」と新兵衛。

150
金毘羅義方が蜂起したのは五十五年前。当時三十とすれば今は八十五。党の者ですら大半が義方を見た事がないという。
「国中無双の大悪党」の看板のために生存を装っているかも。
まずは誰が義方かを調べる必要がある、と言う新兵衛に多聞丸が、会った人を知っていると言った。
それは父。そもそも悪党の語源は義方から。後の楠木党の勢力伸張に伴う取り決めの過程で会ったことがあるという。

151
父が二度目に会ったのは千早で起つ直前。共に決起しようとしたが断られた。建武の親政を始める時も朝廷への出仕を拒否。
最後は多聞丸と京に行く半月前。戦のために糧道を断つ頼みも断られた。誰の味方もせぬのが悪党だという。
その当時で齢六十だと、今なら七十。生存も不思議ではない。
新発意は、五十五年前当時の義方が十六前後と知り驚く。
「ともかく義方はいる。そう考えて動く」と多聞丸。
「人を集めるという訳ではないのでしょう?」と新兵衛。

152
「今、金毘羅党と合戦する訳にはいかぬ」と多聞丸。
もしそうなれば、宮方のために起ったと誤解され、予定が狂う。
「我らだけで金毘羅党の本拠に忍び入る」
灰左を救うのが第一。義方を討つのは最後の手段。
状況変化を考えれば己も行くしかない。
「止めても無駄でしょうな」と漏らす新兵衛に「無駄だ」
「あの馬鹿を救い出すぞ」皆の頷きがぴたりと重なった。

石救丸が既に出立の支度を整えていた。
「曳かぬ方が良いですね」香黒に鞍を乗せつつ訊く石掬丸。
「ああ、お主も乗れ」多聞丸は答えた。

153
普段ならば石掬丸は、同行する時は馬丁として香黒の轡を引くのが前提。だが今回の状況を察知して、自分も乗馬する事を理解している。多聞丸が重宝している所以。
屋敷を発った一行。多聞丸に次郎、新兵衛、新発意、石掬丸、そして惣弥。金毘羅党本拠の名手荘まで十二里ほど。


峠道の悪路を行く石掬丸に、腕を上げたと褒める新発意。
太刀はあまり上達していないが、代わりによき技を身に付けていると言う次郎。微笑む石掬丸。

154
よき技?何だ?と言う新発意。見てのお楽しみと笑う次郎。
ある時、何気ない川の遊びで隠れた才に気付き、修練するよう勧めた。腕を上げ、今では多聞丸よりうまくなった。
「そろそろだ。気を引き締めろ」と新兵衛。
惣弥を気遣う多聞丸。「北山だな?」の問い。
「はい。間違いないかと」目隠しをされて捕らえられた惣弥だが方角と、歩かされる間の歩数を数えていたので、名手荘の南東にある北山にいたと導き出した。
「まだ露見はしていないようだな」周囲を確かめる次郎。

155
強大といえども金毘羅党の勢力は三百ほど。本拠といっても多くの見張りを立てるほどの余裕はなかろう。
陽は既に傾き、じわりと茜に滲んでいる。


そこからは徒歩となるため、手頃な場所に馬を繋ぐ。
「悪い。皆を頼む」と香黒に話しかける多聞丸。香黒が居ることで他の馬が落ち着く。
「さて、行くか」その声に銘々頷いて森へと足を踏み入れた。

156
多聞丸と惣弥を囲む様な形で、次郎を先頭に歩く。
次郎が皆を止め、地を舐める様に見渡す。僅かな足跡。
いつも狩りに出ているため、目が養われている。
「古いな。それに数が少ない」足跡に迷いがないという。
次郎の提案で、足跡を追うのは止め別の道を行く。
進むにつれて足場も悪くなった。

157
木々で見通しが悪く、先に塒(ねぐら)があっても見えない。
惣弥の言う通りなら、かなり近くに来ている筈。
建物の特徴などを話す惣弥。周囲は高い木々だったという。
だが、ここに来るまでそんな高い木は見ていない。
「後ろをご覧ください」と言う新兵衛に、皆振り返る。
そして皆がある事に気付くが、新発意には判らない。

158
気付かない新発意を横に、惣弥に上がった記憶がないか訊くと、確かに初めの方で上ったという。「それだと符合します」
まだ解らない新発意に「塒は谷にある」と言う多聞丸。
次郎が候補になりそうな場所を指さした。
砦といえば高い所と思われがちだが、肝要なのは水の確保。
ここに入ってから川などは見ておらず、水に乏しいのかも。
「よし、あそこを探る」と言う多聞丸。確信があった。
山を行くならば一刻ほど掛かる。

159
半ばほど行ったところで次郎が確信。人の手が加わった跡。
その頃には光も赤みを帯びている。間もなく陽が沈む。
もし塒が見つからなければ、野宿しなくてはならない。
そんな時、次郎が腰を落とした。一人で十間ほど進み、また音を立てずに戻った。「あったか」囁くように尋ねる多聞丸。
「櫓がある」「真か」と怪訝な顔をする惣弥。
「建物の裏手だ。振り返ってはいないだろう?」「確かに」

160
惣弥が出された時は、敵方に回りを固められていた。
次郎の指示で皆低い姿勢で先に向かった。
眼前に広がるのは擂鉢状の場所。自然の地形を利用している。
そこに並ぶいくつかの建物。容易に見つからない構造。

「これが本拠かもな」
楠木党、吉野衆も本拠は明確になっていた。

161
だが金毘羅党だけは、これまで本拠が明らかになっていない。
父が義方に対面した時も、名手荘の寺社だったという。
これは一筋縄では行かない。じっくり観察して後ろへ退いた。
「かなりでかいな」と見たままの感想を言う新発意。
「なら止めるか」と言う多聞丸を、不安そうに見る惣弥。
もちろん冗談。「惣弥、高くつくぞ」と多聞丸。
「銭なり路なり・・・」と言いかけると
「代わりに灰左にもう突っかからせるな」と多聞丸。

162
「感謝の言葉を述べさせろ」や「詫びさせろ」やら。
耐えるように口を結ぶ惣弥。「さあ、やるか」と多聞丸。
皆が一斉に頷いた。いずれの顔も紅潮。



闇はすぐにやって来たが、子の刻が過ぎるのを待った。
「そろそろ行く」と腰を上げる次郎。新発意と石掬丸も。
二組に分かれての行動。次郎らは正面の門に回り込む。
夜目が効くが、半刻前から目を瞑って慣らしていた次郎。

163
道を進む次郎組。遅くとも一刻半後には北側に着く。
多聞丸らも崖の際まで進んだ。篝火は少なく用心深い。
眼下にいる次郎たちの影が、かすかに見える。
次郎たちの役目は陽動。敵の目を引き付ける間に多聞丸らが潜入する。如何に仕掛けるかは次郎らに一任。
影が動く。石掬丸だろう。塀に取り付いて乗り越え、門を開ける算段か。--石掬丸、急げ。心の中で言う多聞丸。
石掬丸が塀を越えようとした時、見張りが声を出す。

164
大半の者は身を縮めるが、石掬丸は躊躇なく飛び上がった。
見張りたちが騒いで鐘を鳴らす。多聞丸は決断を下した。
「行くぞ」斜面を降りる多聞丸に続く新兵衛、惣弥。
その間に石掬丸は地に降りて門の閂を外す。
建物から二、三十の影が出て来る。篝火が灯された。
「弓を」と手を出す多聞丸に「無茶です」と新兵衛。
だが、次郎たちが見張りを除く段取りが果たせていない。

165
更に催促する多聞丸に「お待ちを。新発意が動きます」
すっくと立ち、歩を進めた新発意が、大声を上げて六角棒を振り回した。人影が倒れ込む。一斉に金毘羅勢が攻めかかる。


咆哮を上げる新発意の先で「ぎゃ!」と叫ぶ声。
見張りの一人が悶絶。「石掬丸だ」と多聞丸。礫が飛んだ。
何時だったか、多聞丸が川べりで水切りをしていたのを、石掬丸にもやらせてみた。多聞丸の口から笑みが消えた。

166
頗る速く、細かく水面を跳ねて行った。この小さな躰に似合わぬほど。今度は対岸の木に直接当ててみよと言うと、投げた礫は正確に木に命中した。今日よりひたすら鍛えよと言った。
毎日精進した石掬丸。勢いは更に増し、狙いも精密になった。
「何だ?」もう一人の見張りが見回す中、次の礫を投げる。
「ぐぁーー」頭を弾かれて倒れる見張り。
「今だ」言うなり動く多聞丸は、一気に残りの斜面を下った。

167
三人共ついに砦に入った。
物陰に潜む石掬丸に合図する多聞丸。
敵のやりとりで建物は三つに絞られた。それを確かめるため次郎が、灰左を救い出したと叫ぶ。岩玄房殿がついている、との声。
敵の視線で建物が知れた。確信してそこに向かう多聞丸たち。
分銅付きの縄を振り回す数人。だが次々呻き声をあげ倒れる。

168
屋根に上った石掬丸が、礫の連投で沈めたのである。
「任せたぞ」と建物に飛び込む三人。拍子抜けする程の無人。
「お任せ頂けますか」と新兵衛。「やれ」
「岩玄房殿、お助けくだされ!」先の敵方の名を利用した。


戸を開けて男が顔を出す。男を蹴り飛ばして中に入った。
「何だ?!」男たちの脂ぎった顔が見える。

169
「お前・・・惣弥も・・・」最も驚いたのは縛られている灰左。
「生きて出られると思うな!」との怒声。
「お前にやれんのか」と威圧する多聞丸。全身に血が巡る。
「俺を知らねえとは・・・」と言う多聞丸に
「楠木の頭だ」と応える巨躯の男。
「お前は?」「尾鷲岩玄房。看房を務めている」
看房とは、禅宗での寺の留守居役。転じて幹部の意か。
「楠木党が何の用だ」「そこの馬鹿を返してもらいに来た」
一触即発の中、皆が動かない。いや、動けない。
彼我の思惑が交錯する絶妙な均衡。いつ崩れてもおかしくない。

170
楠木党は吉野衆に与するか、と言う岩玄房。


南朝に仕掛ければ灰左が動くと承知でやった、と突く多聞丸。

図星で黙る相手。

楠木党には関わりないと言われ「助けを求められたからな」
多聞丸と岩玄房以外、皆が顔を強張らせている。
--さあ、如何する。多聞丸の頭が目まぐるしく旋回する。
他の吉野衆がどこにいるかも判らない。

171
そして今一つ、金毘羅義方の存在。次の瞬間灯台を蹴り飛ばした多聞丸。舞った油に火が移り床に焔が立ち上る。
新兵衛も逆側の灯台を倒すと炎が上がった。
「どういうつもりだ」 「早くしないと焼け死ぬぞ」
狼狽する金毘羅党の皆が同じ方に目を泳がす。
「いるんだろう。出て来いよ」多聞丸はその名を呼んだ。
「金毘羅義方」守るべきもう一つ。あの男はここにいる。

172
「出るぞ」壁の隠し戸から男がぬっと出た。老爺である。

大柄で肉付きがいい。特徴的な目の片方は白濁。


金毘羅党の者も驚いている。普段は姿を見せないのだろう。
「で?」と一文字だけ発した義方。凄まじい迫力。
「灰左たちを返せ」 「親父に似て腹が座ってやがる」
「小僧、短気は早死にすることになる」一瞬の間が生まれた。
「灰左らを返すか、ここで焼け死ぬか決めろ」
「まあ、ゆっくりやろうや。酒でも吞むか」胡坐をかく義方。
「何を・・・」 「火はそう早くは回りやしねえ」

173
「人は火で死ぬ訳じゃない。知っているか?」
「まず煙。次に熱」答える多聞丸。
「よく学んでいるな」言葉の応酬。そしてまた膠着。
今動けば共倒れ。きっかけがあれば均衡が崩れ、動き出す。
何故、急に動き出したかを聞く多聞丸。南北朝の争いが続くと見越した義方。両方に仕掛けるのは倍儲かるから。
義方の笑みは蝦蟇を彷彿とさせた。北朝有利とはいえ拮抗しており、糧秣が奪われると言っても、下手に手が出せない。

174
「お前のような者が戦を長引かせている・・」怒りの多聞丸。
戦が始まった理由は様々だが、それを続かせようとする者は公家、武士含め多く居る。
「儂らは違う」と返す義方。
鎌倉支配の末期の凄惨さは南北朝の比ではなかった。
「儂らはただ生き抜こうとしただけ」
義方にも一理あある。楠木党も、民を食わせられないから物流に進出した。それが悪党と言われる様になった所以。
埒外という点では金毘羅党と同じ。
「儂らは弱き者よ。多くのものを奪われた。それを取り返しているだけだ」義方が言い切ったとたん、焔が跳ねた。

175
自らを弱き者と言った義方に呆れる多聞丸。とっくに奪う側。
「お前が最古の悪党なら、俺は最後の悪党になる」と多聞丸。


義方が呻きを発する。焔はゆるゆると、確実に広がっている。
「機がやって来たぞ」と囁く多聞丸。建物に何者かが入った。
敵にしろ味方にしろ、局面が動く。背後に備える新兵衛。
「兄者!」「新発意、ここだ!」兄と弟のやりとりの瞬間、多聞丸は床を蹴った。太刀が煌めき、焔より紅き血が舞う。
「やっちまえ」「大頭を守れ」「青屋の首を--」

176
鮮烈なまでの殺意が部屋の中を跳ね回った。岩玄房が振り下ろした太刀を搔い潜って、灰左の縄に斬り掛かる多聞丸。
灰左に懐刀を渡すと、敵の男の胸を突き通した。抜けない。
その瞬間、岩玄房の体当たりで壁まで吹き飛ばされた。
その直後、新発意が岩玄房に馬乗りになり顔を殴打する。
皆が奇声を上げ、太刀を振り回し、相手を殴打する。
これが戦の正体。人を修羅に変える。これも地獄。
部屋の隅で頭を抱えている金毘羅義方。
その眼前に立つ多聞丸。
義方はひっと上擦った声を出す。凄みは微塵も感じない。

177
「金毘羅義方」多聞丸は哀しげに呼んだ。
「助けてくれ・・もう南朝には手出しをせぬ」
義方を助けに向かって来た男を、一刀で切り捨てた多聞丸。
促されて「者ども、止めろ1手打ちだ!」と言う義方。
義方の命は絶対の筈だが、止まらない。それはこちらも同じ。
「もういい!」との多聞丸の言葉にも新兵衛らは止まらない。
特に新発意は岩玄房との攻防で、まさに「止まらない」
「ぎりゅあ!」人とも思えぬ奇声を上げて、先に斬り捨てた男が向かって来た。前蹴りでそれを炎の中に押し込む多聞丸。
目の端に別の悪意を感じ、意思より速く躰が旋回した多聞丸。

178
「が・・・あ・・・」義方の顔面が迫る。己を貫かんとしていたが、その剣は僅かに腹を抉ったのみ。多聞丸の太刀は深々と肥えた躰を貫いていた。

「止めてみせる」太刀を引き抜いた多聞丸。
義方がどっと倒れ込むが、金毘羅党たちは戦い続ける。
外から複数の足音が聞こえる。「兄上!」次郎だった。
次郎は他の吉野衆を解き放ち、外の合戦では味方が有利。
それでこちらに応援に向かった。
「義方は死んだ」「あれが・・・」臥して絶命している義方。
「退くぞ」

179
「本気か」と眉を顰める次郎。明らかな優勢であり、このまま一気に殲滅出来るし、相手の心を完全に折っておいた方が復讐を防げるかも知れない。多聞丸もそれは解っているが叫んだ。
「退け!」言い返そうとする新発意に「俺の命が聞けぬか」
「もはや不要だ」と続ける多聞丸。「解った」頷く次郎。
火炎は天井まで迫った。金毘羅党にも、命ある者を救い出せと言う多聞丸。「大頭の仇を・・・」となお息巻く残党を前に
「三年経ち、猶もそう思うなら俺を討ちに来い」と続けた。
「もう終わりだ。命を無駄にするな」
多聞丸の胸にあるのは、ただもう終わりにしたいという稚気にも等しい嫌気。

180
「新発意!」多聞丸が吼えると、岩玄房から飛び退いた新発意。
「まだ息はある。助けてやれ」残党たちに言い残す多聞丸。
外では惣弥が戦いを止めたが、睨み合いが続いている。
「頭だ!」吉野衆が歓声を上げる。若者が駆け寄って灰左に、愛用していた明空の太刀を渡した。寸刻じっと見つめる灰左。
「我らは退く。邪魔立てをするな。追えば容赦はしない」
自分でも驚くほど冷たく言い放ち、手を天に掲げた多聞丸。


それを合図に次郎らが「撤退」を連呼。
一人をきっかけに、金毘羅党の者らも屋敷に向かった。

181
火が回りつつある屋敷。金毘羅党の者はその対応を始めた。
細い息を吐く多聞丸。始めるのはいとも簡単なのに、終わらせるには比べる物がないほどの段階が必要。これもまた戦。
「終わらぬはずだ」
多聞丸はぽつんと呟くと、森の中へと分け入った。