新聞小説「人よ、花よ、」一章 後半 作:今村 翔吾 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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朝日 新聞小説「人よ、花よ、」 一章 後半 26(9/9)~48(10/2)
作:今村 翔吾 挿絵:北村さゆり

レビュー一覧
 連載前情報 1前半 1後半       

  10

 

感想
一章が長いので前半、後半に分けたが、ほどなくして二章に切り替わった。
ある決意をもって母と対峙する多聞丸。
後醍醐帝の信任により加勢した父正成。だが帝は早々に捕われる。父が帝の三男 護良親王と合流したところまでが前半。

母との話は続く。
下赤坂城での父の撤退。そして一年の潜伏の後、護良親王と共に再決起。千早城始め各城を線で繋ぎ兵力を維持する戦法。
戦ううちに、六波羅の中から父に加勢する者が出た。赤松円心。それはかねてよりの合意。母も知らなかった。
その戦いが、父が最も輝いていたという多聞丸。
だが衰えの見えて来た母に、それ以上の話をする事が出来ない。

後醍醐帝が吐いた「天魔の所為」の言い訳に反発し、当時敵だった尊氏を持ち上げる。
今日こそ話す、と延々前フリを続けて来たのに「中断」かよ。
これで、なぜ母が年に数回多聞丸の事でオカしくなるかの理由が先送りされてしまった。

まあ、この章は父正成がどんな武将だったかの説明をすれば、それで目的を達したのだろう。
煮え切らない多聞丸の理由は、次章を楽しみに。
気長に行くべ・・・・

とりあえず物語の最初から「ざっくり整理」のかんたん年表。
父と子の年齢関係を再確認。

西暦 年号  正成 正行 
1330  元徳2   37     5    文観来訪 
1331  元弘1   38     6     正成挙兵(下赤坂城)
                                    下赤坂城放棄。正成潜伏
1332  元弘2   39     7     下赤坂城奪還。再度の決起            
1333  元弘3   40     8     幕府軍の攻撃。千早城での抗戦
母との話はここまで

1334  建武1   41     9      新政開始 
1335  建武2 42    10     護良親王殺害される 
1336  延元1   43    11     正成戦死(湊川の戦い)

1339  延元4          14     後醍醐帝崩御、後村上天皇即位
1340  延元5          15     正行、河内守護となる

1345  興国6          21     物語の現在

オマケ
1、
母が多聞丸を本気で叱る時「正行」と諱(いみな)で呼んだ。

諱というのは正式な名のことであり、多くは上の位の人から一字を与えられる。よって公式でない場では、育った時の呼称という事なんだろう。マニアックな解説がある→コチラ
2、
下赤坂城での抗戦で、この小説では「熱湯をかけた」とあるが、実際は煮えたウ○コをドバっとやったらしい(コチラ
いやはやなんとも・・・・
3、
挿絵作家は非常に文と相性が良く、いつも楽しんでいるが36話で湯浅が跪いている足、なんかヘン。馬とのサイズ感もおかしいし(まあいいけど)
4、
39話の「肉迫」は「肉薄」と書いて欲しかった・・・


あらすじ
第一章「英傑の子」後半 26(9/9)~48(10/2)
26
雲の流れにより月光の強さが変化する。時もまた流れている。

己にも、はきと考えを口にせねばならぬ時が迫っている。
 


風が強くなり障子を閉じるが、隙間風のせいかまだ火が揺れる。
「如何致しました?」怪訝そうな母。今までは説教など早くおわってくれと思っていたが、今夜は続けるのを望んでいる。
それに母はやや困惑。踏み込む事に対する恐れか。
「続けましょうか・・・」と母。
「はい、赤坂での戦のところからですね」

27
父いわく、鎌倉の大軍との戦の前夜はさすがに寝られなかったという。これまでの戦は鎌倉方として強者の側から戦ったが、今回は違う。それに楠木軍五百に対し、敵は五万にも迫る大軍。
しかも勇猛と名高い坂東武者。父も抱く恐れ。
「父は立ち向かわれました」私は恐れに、の意だったが母は
「大軍を相手に」と鎌倉方を指した。母との微妙な差。
当時の戦での逸話がある。予想に反して楠木軍が敵を圧倒。
鎌倉武者が名乗りを上げる途中に矢を射かけた楠木軍。
卑怯、卑怯と痛罵されたが意に介さない父。
--こちらは御家人ではない。一時は御家人になろうと命に従ったが、功績を挙げても鎌倉は楠木を正式に御家人に認めず。

28
もう少しで認められたかも知れない。そうなっていれば父の人生も変わったかも。だがこれも全ては縁。
--我らは悪党なのだ。悪党としての戦を行う父。
弟の正孝に、事前に他山に潜ませた。敵が小休止した時にその三百が奇襲。父の二百も突貫。敵は大混乱のなか退いた。
日を置き、立て直した鎌倉方が再び城の塀に迫る。静かな城内。
城を捨てたかと慌てて迫る鎌倉方。その時塀がどっと倒れた。
実は塀は二重になっていて、外は綱で立っていただけ。それが断ち切られた。押し潰され、坂を落ちる敵へ大石や丸太を落とす。

この準備は東条の民が協力してくれた。父がいかに民と関わって来たかの証左。だが鎌倉の攻めは更に激しくなった。

29
多くの死傷者を出し、鎌倉方の攻めも慎重になる。倒れる塀を予想して遠くから鉤縄で引き倒そうとした。
その時、柄の長い柄杓で熱湯が掛けられた。悲鳴を上げて転がる武士たち。常識を覆す戦法。まさしく「悪党の戦」
鎌倉方は力攻めを止め、兵糧攻めに方針を切り換えた。
それは北条得宗家にも報告されただろうが、失態を繰り返すわけにも行かず、鎌倉諸将の方が追い詰められていた。
痛快ではあるが、この策には困ったと言った父。
そして後醍醐帝は捕まったが、次の機会は必ず巡って来ると父は見通していた。

30
その来たる時に備え、楠木正成の名を上げるつもりだったが、持久戦となっては打つ手がない。この策は父にも意外だった。
それを主張した男こそが「足利尊氏」当時はまだ高氏。後に後醍醐帝の諱である尊治から偏諱を賜り、尊氏と改名した。

攻撃四軍のうちで一人だけ兵糧攻めを提案したという。
「小狡い男です」と言う母。嫌っている。
尊氏はその攻撃の一月前、父を亡くしており喪中。それで辞退したが容れられなかった。足利は一族で不満を持っただろう。
「それに賢い男です」多聞丸が褒めたのが母には不満。
だが事実は事実。今後の更なる乱を予想して兵を温存したのだろうと言った父。

31
「それに・・・尊王の念も強い」
「正行」母はぴしりと多聞丸の(いみな)を呼ぶ。隠せぬ憤怒。
これまでの多聞丸は皮肉を言う程度。決意は固まりつつある。
尊氏擁護の言葉に「逆賊」と返す母。思いの吐露が必要。
「続けましょう」と多聞丸。「はい・・・」
母も多聞丸が常とは違うことに気付いている。
話を先に送る。
鎌倉方はひたすら取り囲むのみ。楠木の兵糧は乏しく、父は時が来れば城を捨てて逃げるつもりだった。
戦が始まって一月あまりの十月二十一日夜半、突如下赤坂城から火が上がった。失火か、それとも裏切りか。
火勢は強く、攻撃しようにも鎌倉軍は近づけない。

32
払暁より雨が降り始め、火勢が弱まったのを見て鎌倉方が踏み込んだ。掘られた大きな穴に鎧姿をした二十数体の骸。これらが父ら楠木一族のものだろうと断定され、敵は引き揚げた。

「まんまと騙されたわけです」ふっと息を漏らす多聞丸。
城に火を放たせた父。骸はこの戦で死んだ者に将の鎧を着せた。
この手筈は予め了承されていたが「申し訳ないことをした」と、彼らのために念仏を唱えた父。
そこから約一年、父は消息不明となった。聞いた話では紀伊から伊勢、伊賀、大和辺りを転々としたらしい。
共に籠っていた護良親王は別れて熊野に潜んだ。来たる時に夫々で再起しようとの約束。父と護良親王の強い絆。

33
その時の多聞丸は母と、弟次郎と共に和田に留まり続けた。
父は、城が落ち脱出した時は東条に戻らぬと言い残していた。
この間の後醍醐帝は捕えられた後、遠く隠岐へと流された。
自然木で作られた粗末な御所。いつもそこで涙する母。
「しかし・・・ここからです」語気を強める多聞丸。
翌年の秋に父から文が届いた。楠木郎党の一人が持参。
目立たぬよう大塔宮とは別行動。身内にも場所は言えない。
もう一つ、重大な伝達。--今冬、再び起つ。

34
機が熟したと見た父。前回より緻密な計画を立てたが、和田にも手が伸びる事を考えての警告。
一方護良親王は後醍醐帝に代わり、鎌倉打倒の令旨を出した。
表舞台に出る覚悟を決めた護良親王は、この時期に還俗。
「父上が動いたのは師走十七日」心を躍らせた七歳の多聞丸。
父の楠木軍七百が、湧く様に現れたのは紀伊国隅田荘。
守る隅田党が激しく狼狽する中、散々に打ち破った楠木軍。
何故父は本拠の東条に戻らず、紀伊国に攻め入ったのか。
この後、父は天下の大軍勢を一手に引き受けて戦うつもり。

35
情勢察知、兵糧確保、退路確保のため紀伊の隅田党を攻撃。
勝利を収めた楠木軍は再び山中に消えた。
次に現れたのは三日後の二十日。その地は東条。
父の下赤坂城に詰めていたのは湯浅宗藤。有力な武士団。
紀伊での楠木軍の報は伝わっており、すぐに籠城のための兵糧搬入指示を出した。それが父の思惑。
やがて荷駄隊が到着。湯浅は喜々として城門を開き迎えた。
荷駄の布が払われると、甲冑姿の武士が飛び出した。その周りの人夫、周囲の武士皆が楠木勢。湯浅はあっけなく降伏。
事前に荷駄隊を襲って偽装したという訳だ。
「戦で一人も殺さず、湯浅殿は味方になって下さった」と母。


36
父は湯浅たちに、退城すれば命は取らない、再び鎌倉と共に攻めるならば存分に戦おうと言った。湯浅はしばし考えた後
「我ら、楠木殿に従い申す」

そして父は金剛山に点在する城の補修を進めた。前回使わなかったのは温存が目的。一度目の目的は名を知らしめるため。
特に補修で力を入れたのは桐山城と、後に有名になる千早城。
父はこの二城に逆茂木、板塀の増築を指示し、二百の兵を率いて河内平野へと進出した。前年の戦で学んだ教訓。
前回、後醍醐帝が笠置で起こり、父は下赤坂城に籠って鎌倉の軍勢を引き受けようとした。

37
だが鎌倉の軍勢は笠置に向かい、結局引き付けるのに失敗。 
故に父は護良親王より早く決起。正月五日には河内国甲斐荘に乱入し、取られた領地をあっという間に駆逐した。
九日後には丹下、池尻氏を撃破。更に俣野、成田、田代、品川諸氏を立て続けに一日で破った。まさに神速と呼ぶべき。
高揚して話す多聞丸に、当時跳ね回っていた、と言う母。
父は和泉国を席捲し、多数の御家人を破って気勢を上げた。
和泉国の御家人たちは結集し八百の軍勢に。堺で待ち構えた。

38
彼ら連合軍は、相手がすぐ攻めては来ないと思っていたが、楠木軍はそのまま突撃。連合軍はあっという間に瓦解した。

この情報は鎌倉の出先である六波羅探題にも伝わり、彼らは動員をかけて約七千を摂津国四天王寺へと送った。
「多聞丸、お主ならばどうする?」と聞いた父。楠木軍でも賛同者は増えたものの、総勢二千ほど。まともに戦っては勝てる筈はない。「私ならば退いたでしょう」と多聞丸。
だが父は六波羅軍に攻撃を仕掛けた。その理由の一つ目は兵糧。
長期戦を覚悟している今、摂津守護から奪う必要がある。

39
二つ目は鎌倉方を更に引き付けるため。次いで護良親王が起つと示し合わせており、前回の轍を踏まない様にとの思い。
そのためには今の戦果では足らぬ。だが倍以上の敵に勝つのは容易ではない。多聞丸が、勇敢だったのですねと言うと
「怖かったさ」と苦く頬を緩めた父。
多聞丸にとって英雄そのものだった父の言葉。
人は弱く、恐れを抱く。それでもやらねばならぬ時がある。
父は六波羅軍と対峙。こちらは僅か三百。六波羅軍の軍奉行二人は、大軍に恐れをなしたと嗤い、淀川を渡河して突撃して来た。

遠矢を放ちつつ楠木軍は逃げる、逃げる、逃げる。
六波羅軍は勢いを増して肉迫する。

40
軍の半ばが淀川を渡った時、突如周囲から喊声が上がり、湧き出す様に人が現れ塊となる。楠木軍は踵を返し、それに合流。
六波羅軍は総崩れになって這う這うの態で京へ退却。
見事な勝ちはすぐに伝わり、和田にいた多聞丸の耳にも届いた。
「次に出たのは宇都宮公綱」多聞丸はその名を口にした。
坂東一の弓取りと言われる。たまたま京に居合わせており、六波羅が弱いと言い放って三十騎ほどで出陣。追従含めても三百。
楠木軍は二千。だが公綱の軍勢に対峙すると退却を決めた父。
「どう転んでも損だ」と周囲に漏らして苦笑した父。

41
公綱とその郎党の武勇で損害が大きくなる事以上の理由。
少数の敵に勝っても、公綱の勇敢さが喧伝され鎌倉の士気を高めるだけ。負ければ目もあてられぬ。父の戦略がそれだった。
だが不用意な退却は危険。父は篝火を焚かせて陣に人が残っている様にみせかけ退却。夜のうちに河内まで軍を退いた。


「いよいよ赤坂での・・・」母の言葉を制する多聞丸。
「その前に護良親王のことです」
語気を強める多聞丸。母に限らず廷臣も触れたがらない。
だが護良親王こそが鎌倉討滅の立役者。父も熱く語ったこと。
「そうですね」母は絞るように答えて頷いた。
元弘三年正月、父の挙兵より一月遅れて護良親王が吉野で兵を挙げた。三千と少数だったが、打倒鎌倉を誓う者たちばかり。

42
もう単独で抑えられる状況ではなく、六波羅は鎌倉に援軍の要請を行った。それを受け北条氏九代得宗、北条孝時は一門衆の阿曽治時を筆頭に名越宗教、大仏貞直他の関東八カ国の有力な御家人に出陣を命じた。それでも足りずと他国にも出陣を命じた。
それら含め三十万の兵がこぞって畿内に向かう。
「ここに播磨の赤松殿」と言うと母の顔が曇る。
父が宇都宮公綱と対峙する少し前、大きな事態が起きていた。
赤松則村、法名円心の方が通りがいい。

この赤松円心が六波羅に出仕しており、楠木家討伐の中にいたが、突如鎌倉に対して叛旗を翻した。

43
これがかねてより決まっていた事だと聞き驚く母。

父のした話。    
世間は父の奮戦、護良親王の再起に心動かされたと思っている。
これも父の護良親王との綿密な企て。
赤松円心の三男 則祐は比叡山延暦寺で修行し、天台座主だった護良親王に心服。決起に際しては義絶覚悟で父円心に伝えたが、忠節に励むよう言われたという。鎌倉討伐の漠然とした予感。
まず父が六波羅を引き付け、第二に護良親王が決起、そこで間髪入れず赤松円心が鎌倉に弓を引き、早くもつき従う者が出た事を知らしめる。これこそ父らが描いた「流れ」
「何故・・・」母は細い声で尋ねた。
これまで赤松円心が同心していた事など誰も知らない。
知っていたのは父、護良親王、円心の三人のみで、二人は既に鬼籍に入っている。多聞丸がそれを知ったのも父が死ぬ間際。

44
母の疑問は、何故円心がこの段に起つと決めたか。
「夢だと」これを語った時の父の儚げな表情が脳裏を巡る。
赤松円心もまた悪党。物流の道を開き、銭を得て六波羅から端役を頂戴する。--それに何の意味がある、と父に語ったという。
自分の一生が見えてしまったところへ護良親王の決起を知った。
元々さほどの身代ではない。ならばその一生に賭けてみたい。
父は、己と酷似しているとも話していた。
「父も赤松殿も、忠義から立ち上がったと皆は言うが、この時においては夢だったのです」ここだけは母に理解して欲しい。
「・・・心得ました」黙考の末答えた母。

45
上赤坂城、千早城が父の最も輝いた瞬間、と断言する多聞丸。
円心の蜂起が一月二十一日、父の撤退が翌二十二日と前後したが、連携はうまく行った。

天下の耳目は楠木正成に集まっている。
父は東条に戻ると千早城はじめ金剛山系の城に兵を振り分けた。

千早城に全て籠めるのでは駄目でした?と問うた多聞丸。
劣る側が兵を分散させるのは愚策だとは、兵法書でもいう。
それに対し父は「戦は点より線が肝要なのだ」と教えた。
楠木家の持つ城全てが独立した「点」の場合、それぞれが陥落すれば兵は死ぬか、捕虜。最後に千早城が残った時には軍の八割は脱落していよう。ならば兵法書通り千早城に集結すべき。

46
だが各城が落ちた時、兵が次の城に逃げ込めれば、常に最前線の城は最大勢力で戦える。それを成すための道を「線」と呼ぶ。
父は城を繋ぐ抜け道を作っていた。獣道に近いもの。
「東条への鎌倉勢は二十万とも」困惑の末、母は声を張る。
それにも多聞丸は、多くても五万と反論。世間が間違っている。
鎌倉方の動員が十万越えだったのは確かだが、各地に軍勢は割かれ、実際東条に向かったのは五万でも多すぎ。三万が妥当。
それが人の口を介し、僅か十数年のうちに膨大になった。
「そんな・・・」母の瞬きが多くなる。見据える多聞丸。
「それこそ楠木正成という人が偉大だという証しなのです」

47
父を貶めるつもりなどない。敵の多寡など問題ではなく、大軍の利を生かせぬ場所に築城したことが父の慧眼。
人はなぜ数を膨らますか。それこそが、父が偉大たる証し。
楠木正成という優れた武人は、こうして「英傑」となった。
「そういうことですか・・・」落ち着きを取り戻す母。
頼りなげに膝に置いた母の手を見て『歳を取られた』と思う。

父亡き後、懸命に己たち兄弟を育ててくれた。いつか、いつか多聞丸が父のような男になってくれるのを心の支えに。
父の偉大さは変わらずとも、こんな話をするのは酷。故に黙って来た。だが今日こそは必ず言うと固く誓っていた。

48
だがこの母の手を見て、信じられぬほど心が揺らいでいる。
今である必要はあるかとの自問。
今年、朝廷からの使者が来る頻度は高いが、もう来ないかも知れない。来年にはぴたりと止むこともあり得る。
縁起でもないが、母が来年まで息災とも限らない。人の一生など判らない。ならば際の際まで言わぬままで良いのではないか。
「母上、お疲れのようです。お休みください」
心配せずとも・・・との言葉に今日の事を詫び、頭を下げる。

母を寝室へ促してから、一人の部屋で揺れる火を見つめる。
ふっと息を吹きかけると、すぐに闇が伸びて来て、自嘲気味であろう笑みを覆っていった。
 

 

今日の一曲

「八ヶ岳」杉田二郎

邦楽の中では「かなり好き」