新聞小説「人よ、花よ、」(7)第七章「皇と宙」作:今村 翔吾 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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日々接した情報の保管場所として・・・・基本ネタバレです(陳謝)

朝日 新聞小説「人よ、花よ、」(7)
第七章「皇と宙」259(5/8)~312(7/2)
作:今村 翔吾 挿絵:北村さゆり

レビュー一覧
 連載前情報 1前半 1後半       

  10

 

感想
現時点は興国七(1346)年。
前章で、襲撃を受けた弁内侍を救出した多聞丸。
大塚の調べでその首謀者が高師直だとほぼ断定された。
その話が一段落し、多聞丸は観心寺に僧として暮らしている次郎の弟 虎夜叉丸(僧名 景正)に会う。嫡流を絶やさぬために父が避難させたが、疎外感を味わって来た虎夜叉丸。
北朝に降ると言う多聞丸に激昂する虎夜叉丸は、還俗して戦う事を夢見ていた。多聞丸が接して来た父よりも、世間で作られた「軍神」のイメージが全て。
そして年の瀬を迎え、年号が正平と改まる(十二月八日)
そこに訪れたのが、まさかの「弁内侍」盛り上げ方がうまい。
北朝に降ろうという時に南朝の帝を守ってくれと頼む・・・
空気読めんと言っても、そんな事知らないんだからしゃーない。
帝の居室の隠し扉にはびっくり。秘密裡にそんな大規模な細工が出来るわけないで・・・
それにも増してびっくりなのは弁内侍の申し出を多聞丸が引き受けてしまった事。300話で、弁内侍が身を翻した時の残り香を嗅いだとたん「いや、やろう」ってアンタ!本気か。
まあ、話としては面白いんだけど。
ここで意外だったのは大塚が多聞丸に「公人に化けなされ」と作戦に参加するのを勧めたこと。その真意はもし北朝に降った時、土壇場で迷わないため。これは楠木党の重鎮としてもだが、多聞丸の性分も熟知した上での身内としての思いが伝わって来る。
潜入のための伝手を訊いた時、弁内侍が「あ・・あお・・・」
あおと言ったら青屋灰左(2章)やで。楽しみになって来た。

次章は「妖退治」


あらすじ
第七章「皇(すめらぎ)と宙(そら)」

259
朝から離れで書状に目を通している多聞丸。早急な案件ではないが、いざという時に備え溜め込まぬ様にしていた。
本当なら昨日大塚が来る筈だったが、野盗騒ぎのため今日に日延べしたいと郎党が伝えに来た。それで暇が出来た。
そんな時、石掬丸が来訪を告げる。


「昨日は申し訳ございませんでした」と日延べを謝る大塚。

260
「どうだった」と野盗の件を聞く多聞丸。
稲刈りを終えた一時保管米を狙われたという。
すぐに追跡して二里ほど先で捕らえ、米は全て回収出来た。
近頃増えている、と渋い顔の大塚。戦続きで貧困者が増えているが、楠木党の領内は他と比べてやや恵まれている。他国の状況は厳しく、背に腹は代えられず危険を承知でやって来る。
賊は、元は伊勢の百姓らだったという。

261
多くの賦役、不作や年貢の吊り上げ等で追い詰められた。
妻子もおり、捕らえていると言った大塚。
「東条に送れ」と言う多聞丸。山を開墾させ、収穫が出来るまでは食い扶持も与える。「承知しました」と返す大塚だが、いつまでも続ける訳にはいかないと言う。「それまでに戦を終わらせる」
もう一つの案件、弁内侍こと茅乃の報告を始める大塚。
あれから既に一月経っていた。
あの日待ち合わせの場所へ行ったが、一軒家で不在。
稲生、茅乃も知らぬ場所だった。

262
中に踏み込むと人の営みが感じられる。先刻まで人が居た。
村の長老への聞き込みでは二月ほど前、公家の大炊御門(おおいのみかど)家を名乗る者が書面持参で建築許可を得に来た。
新築ではなく年季の経った家の移築。迅速な普請。


手掛かりは途絶え、多聞丸らは東条へ引き返したが、大塚に透波等で別の筋から調べさせていた。今日はその報告。
件の家はその後捨て置かれているという。「そうだろうな」

263
計画のために建てられたのはほほ確実。茅乃拘引にあたっては綿密な計画を練っていた。それが実行できる財力。
件の公家は当主が大炊御門冬信だが、使われたのは弟家信の方だった様だ。聴取を受けた長老が「家」の名を覚えていたという。その裏取りは不可能ではないが、悟られる危険を考え自重した。
噂集めだけやった結果、大炊御門家信と師直は昵懇だと分かった。家信も恋多き人で、意気投合したらしい。

264
家信の恋の橋渡しを師直が行った事もあり、協力したのだろう。
守護の許しを得たという書面。多聞丸は当然裁可していない。
「どうも細川のようですな」南北に朝廷がある関係で、守護も夫々が任じている。先方のもう一人の守護が細川顕氏。
己たちを相手に勢力拡大が出来ずにいる。要は、河内守護の実質は楠木家。九分九厘師直の仕業だと分かった。
「北の方は?」「三日前に透波が戻りました」

265
女官の稲生に、茅乃から北の方に宛てて詫び状を書くことを頼んでいた。それを届けさせたところ、北の方では全く知らぬ事だった。
怪しいのは文を届けた梅枝だが、見つからず。多分始末された。
弁内侍のことについては、分からないなりに好色から攫おうとしたとは思えないと言う大塚。茅乃の出生の秘密を使って南朝を揺さぶると考えるのが自然。当人に聞くしかないのかも、と大塚。
「馬鹿を言うな」

266
茅乃の睨む顔が浮かび、頬を歪める多聞丸。話を逸らす大塚。
これ以上は証拠がないため咎めることは出来ず。
「帝の件は・・・」「無理だ」茅乃が力を貸そう筈がない。
「元の通りに進める」間もなく本年も終わる。
来年春には足利直義に降り帝を保護。
石掬丸の様子を見た大塚は「御屋形様も何処かに?」
「ああ、会いに行く」「その日ですか」何処とも訊かず察した大塚。

267
凡そ一月に一度、己には様子を伺いに行く人がいる。
近頃多忙で二月近く会えていない。北朝帰順を来年に控えた今、踏み込んで話さねばならぬ時が来ていた。

今日は一段と風が強く寒い。襟元の白布は大塚の忠告。


子供扱いには閉口するが、大塚にとっては尊敬する主人が託した忘れ形見。それを見て「御屋形様を想っての事です」と石掬丸。 

268
山道を行けば一里ほどで行くが、こちらの道は二里半。
気を落ち着かせるためこちらを選んでいる。
「色が褪せて来たな」「褪せてきた・・とは?」怪訝な石掬丸。
「冬が近付いてきたということだ」大地から色が抜け景色は冬色。「真なのですね」

大塚が過日言った、己が色に敏感だとの仮説。
「どうだろうな」自身では解らないが、雲を指差して尋ねた。
「あの雲、くすんで見えるか?」「はい。端が灰色に」

269
「ふむ。確かめる術はない」すると「虹などはどうでしょうか」
石掬丸がまだ孤児の頃、虹の色を巡って仲間と三色、五色と言っていた時、石掬丸には七色に見えたという。
「つまり俺には何色に見えるかということだな」
そんな話をしているうちに、目的に地が見えて来た。観心寺。
約六百五十年前に開かれた頃は雲心寺と呼ばれていたという。

270
その百年後弘法大師が訪れ、如意輪観音像を安置し観心寺と改められたらしい。楠木家の菩提寺でもあり、父も眠っている。
多聞丸は月命日にも墓参りをしているが、とある者の様子を伺うのもその理由。香黒と石掬丸を待たせて山門をくぐった。
掃除の小坊主が挨拶する後ろから、三十路あまりの僧 仁周が頭を垂れた。先月の月命日に来られなかった事を詫びる。
少しのやりとりで、今後慌ただしくなる事を予感する仁周。

271
まずは墓参りに向かう多聞丸に珍しく同行を求めた仁周は、金堂の外陣が間もなく完成することを伝えた。
今から十二年前の建武元年、先帝より父に外陣造営の勅が出されたがその二年後、湊川の地で散った。
ようやく二年前から造営に再着手していたもの。
父のやり残したものをやり切る。兵を起こして北朝を討つのも、その最大の一つと思われている。だが己の道は正反対。

272
戦が始まることへの危惧を口にする仁周に、必ず事前に伝えると言った多聞丸。この河内が戦場になれば多くの仏像、仏典などを避難させなくてはならない。

既にご活躍、と言われて怪訝に思う。
高師直から弁内侍を救ったことがもう知られており驚く。
十日ほど前に訪れた南朝の廷臣に聞いたという。
弁内侍の危急を救い、帝に近付く機会を得たいとは思ったが、その事実が広まる事は望まず。南朝方が喧伝したのも意外。

273
襲撃者が師直と決まった訳でもないのに、名も出ている。
やはり風向きが変わったのか。北朝を煽るような事が漏れ出る辺り、主戦論を唱えるあの男が復活しつつある。利用された茅乃。
仁周と別れて父の墓に向かい、手を合わせた。
墓参りを終えた後、仁周から件の者は「星塚」を巡っていると聞かされた。北斗七星を祀っているのはここだけ。その塚。
入れ違いになるのを避け、文曲の塚で待つことにした。

274
--どう切り出すか。妙案は浮かばず。
四半時ほどして、向かって来る人影が見えた。僧形で齢十四。 
僧は文曲の星塚に黙祷すると、そのまま歩み出す。
「景正、待て」苦笑の多聞丸。「何でしょう」冷ややかな声。
「話をしに来たのだ」「結構です」端から拒まれるのは初めて。
話しても無駄だと悟ったと言う景正に、どうしても言わねばならぬ事があると返す多聞丸。覚悟を決め、ようやく振り返った。
「何でしょう。楠木様」「楠木様・・・か」「兄上と呼んだほうが?」

275
皮肉そうな笑みを投げるこの景正、俗世の名を虎夜叉丸という、父正成の三男。多聞丸と次郎の実弟。父が死んだ時、多聞丸十一歳、次郎八歳で虎夜叉丸は僅か四歳。
厳しい戦局で楠木家の嫡流を残すため、一人を俗世から離して避難させた。父の意思。
「俺が憎いか」この事に直に触れるのは初めて。それは楠木様の方でしょうと返された。少なくとも四年前まではいい関係だった。
転機となったのは虎夜叉丸十歳のある日。多聞丸、次郎の他新兵衛、新発意も一緒に観心寺を訪れ、喜んだ虎夜叉丸。

276
良い機会だと思ったのか「兄上、還俗しようと思います」と言った。


喜んでもらえると思い、熱弁をふるう。多聞丸の表情が翳る。
「父上がお決めになったことだ」と静かに言う多聞丸。
虎夜叉丸が望むなら還俗させよという、父の言葉を覚えていた。
何を言うべきか迷ったが、曖昧にはぐらかすのは意味がない。
「認められぬ。お主は僧として父の菩提を弔ってくれ」
己が未熟だからか、何を学べば良いのかと矢継ぎ早に訊く。
「お主は戦の才が無い。邪魔なだけだ」と言い放った多聞丸。

277
それからも多聞丸は観心寺を訪ね続け、虎夜叉丸にも会った。
先の願いはその後も言い続けたが、一年経った時には口にしなくなり、二年経った時にはよそよそしくなって今に至る。
「まさか還俗を許して下さる気になりましたか?」と自嘲気味。
「まだその気はあるのか」「真に・・・」前のめりになる虎夜叉丸。
答えは明白。情熱は醒めていない。場を察して、木々に囲まれた小さな堂まで案内された。再び話し始める多聞丸。

278
問われて還俗が許されない理由を話す虎夜叉丸。未熟だから。惣領の座を奪われる。領地を与えたくない・・ありのままに吐露。
「まず全て違う」還俗の後、何をしたいかと訊く多聞丸。
帝の御恩に報じ、敵を討ち果たしたい。

例え命が尽きようとも・・・「それだ」「え・・・・」
「楠木は北朝に降る」「なんですと・・・」絶句する虎夜叉丸。
既に次郎や和田の兄弟、大塚や野田の親仁も承知。
「母上には・・・」「話した」

様子を聞かれ「項垂れておられた」
「当然です!」憤然と立ち上がる虎夜叉丸。

279
「何が当然だ」との返しに、虎夜叉丸は湊川の出来事を話し始める。激戦の後、父は生き残った者らと空き家で自害した。弟正孝にどの様に生まれ変わりたいかを訊くと、七生まで同じ人間に生まれ変わり朝敵を滅ぼすと言い、互いの腹を刺し違えた・・・
「見たのか」「見られる筈ないでしょう」「何故知っている」
「皆、申しております」「皆とは誰だ。家に入った者は悉く自害して果てているのだぞ」息を飲む虎夜叉丸だが、なお尋ねる。

280
「何を仰りたいのです」「恐らく作り話だ」唇を噛む虎夜叉丸。
「しかし、桜井の別れはどうなのです」「桜井の別れ・・・か」
己が父と最後に言葉を交わした事がそう呼ばれる様になった。


「その時、父上の遺言をお聞きになったのでしょう」滲む嫉妬。
「ああ、聞いた」「それなのに帝を裏切り、賊に味方するとは」
「遺言は何と?」聞いたままを語る虎夜叉丸。同行を望んだ多聞丸を制し、長じたならば一族郎党と共に朝敵を滅せよ云々・・
「俺が行かせてくれと懇願した以外は作り話だ」
「そんなはずは・・・」動揺ぶりは、あの日の母以上。

281
あの日父が予想した通り、創られた話が流布されている。
「俺はその中にいたのだ。大塚や、野田の親仁も聞いている」
あの日の事を更に克明に話す。故にこの道を行くと締め括った。
なおも食い下がる虎夜叉丸。それに対し見捨てられたのは楠木だ、と返す。父の意見は容れられず、死地へと送られた。
公家どもの進言を受け入れたのは先帝だ。
きっと主上を尊んでおられたからこそ・・の言葉に
「帝が尊いか・・・」「違うと」「いや」
近頃、この話ばかり。それはもういい。
そうだとしても、何故それを理由に戦い、死なねばならぬのか。

282
その問いに暫し思案し「主上はそれほど尊い・・という事です」
茅乃の顔がさっと浮かんだ。同じような答えをしていた。
茅乃にあれほど苛立ったのは、虎夜叉丸に似ているから。説得しなくてはならぬという焦燥から、茅乃に感情を露わにした。
「俺はそうは思っていない」と茅乃の時と同じように返した。
父が好きにしろと仰ったのは本心だったのでしょうか、の反撃。


「どうだろうか」曖昧な答えに、勢い付いて熱弁する虎夜叉丸。
「本心では意思を継いでもらいたかった筈・・・」

283
「父上の御心を勝手に決めつけるな」思わず声が鋭くなる。
それでも食い下がる虎夜叉丸。九分九厘だめで何故向かわれた。天の父に問い、苦しみ続けて得た答えこそが「勤皇」だった。
「それは・・・」「お聞きになっていないのでしょう」それはその通り。
なおも続くやりとり。
「楠木が・・認められませぬ」「認めずともよい。俺が当主だ」
「英傑の子が逆臣になるとは・・・」「それは違う」
「英傑の子ではない。父上の子だ・・・俺も、お主も」
互いに見つめ合った。木々のさざめき。

284
「お主の想いはずっと解っていた。還俗したら命を賭して戦うだろう」虎夜叉丸が叫べば同調する者も出る。混迷は避けたい。
「お主に見張りを付ける」その躰から熱が抜けて行く様だった。
「また来る」と歩み始めた多聞丸に訊ねる虎夜叉丸。
「父上は・・・私を・・・抱いたことがあるのでしょうか?」
虎夜叉丸が生まれた頃は、父は多忙を極め大半を京で過ごしていた。何も覚えていなくとも無理はない。
そんな問いが出るほど、楠木正成は英傑に祀り上げられていた。

285
「ああ、お主が生まれたと聞き、大至急戻って抱き上げ・・・満面の笑みだった」「そうですか・・・」安堵の声を洩らす。
「またな」と言って去る多聞丸。何と言ってやれば良かったか。
心の中の父に問い掛けるが答えはない。

師走に入った。楠木家では縁起物として鏡餅を領内の村に遍く配る。大変喜ばれるが、これがなかなかに大変。
蒸した糯米が運ばれると、次郎が采配する。皆が正月支度に加わる。己から代わって半刻以上餅を搗き続けている次郎。
周囲には同じ様な木臼が八つ。郎党たちが次々に搗き役、捏ね役を務めて鏡餅を作っている。

286
次郎の掛け声に応という声が。
女たちは糯米を蒸して、それを石掬丸が運んで来る。普段から竈扱いに慣れており、女中たちからも人気が高くこちらを任せた。
「間に合いますかね」と訊く石掬丸。師走八日に興国から正平に改元が行われ、その祝いに人手が取られたための遅れ。
大晦日まであと七日だが、領内の村の半分も用意されていない。夜もやらねばな、と言いかけると石掬丸は「御母堂様はそのおつもりです」と微笑む。声を張って差配する母。

287
「兄者!」と呼ぶ声が離れた所から聞こえる。十人ほどの一団。
「新発意!手伝え!」と次郎。新発意の横には新兵衛。
会うのは茅乃を救い出して以来。新兵衛が無事に吉野まで送り届けたとは聞いていたが、詳細は知らない。「揉めたか?」
途中散々問いを受けたという。御屋形様はどんな御方なのか・・・ 「ほう」眉を開く多聞丸。
普段の暮らしぶりや振る舞いといったところか。
口が固い新兵衛。茅乃が気分を害した場面もあった様だ。

288
「まあ、気にもなるか」今まで口論などした事がなかったろう。
「私は好きませぬな」小さく鼻を鳴らす新兵衛。
新発意が杵を取り上げて石掬丸に請求。承知とばかりに蒸し上がった糯米が臼に入る。猛烈な勢いで搗く新発意。


様々な事があったが、何とか無事に終えられそうだ、と多聞丸。
度重なる朝廷の呼び出し、金毘羅党との戦い、茅乃の救出。
そして皆への想いの告白。多くの出来事があった一年だった。

289
「まだ今年は少し残っておりますよ」と片笑いする新兵衛。
「怖いことを言うな。もう沢山だ」と返す多聞丸。
和田家の援軍のおかげで遅れを取り戻し、漸く目途が立った。
和田の助っ人が帰る前の晩、離れで小さな宴を開いていた。
その最中、母屋の方が騒がしくなる。「何だ」
大塚でも、野田の親仁でもない。「これは・・・逃げた方がよいか」
このところ朝廷からの使者が来る頻度が多い。香黒を呼び寄せようとしたが、肝心の石掬丸は酒を取りに母屋へ行っている。
その石掬丸が飛び込んで来た。只事ではない。「朝廷からか」

290
「はい」「すぐに出る。不在であると・・・」
「弁内侍様です」「何・・・」吃驚で声が詰まる。
供も付けずに一人で来たと聞いて、横の新兵衛も驚く。
「避けとくか?」次郎が真顔で尋ねる。厄介ごとかも知れぬ。
「会おう」「よいのですね」新兵衛が念を押す。

「どうにでもなろう」
一人なのは正式な使者ではない。正直なところ気になる。
正装の準備をしかける石掬丸に「このまま、ここで会おう」
正式な使者でなければ、こちらもその様な対応の方が良かろう。

291
「ここに?」次郎が苦笑して見回す。瓶子、盃、皿などが散乱。
「まあよかろう。こちらに通せ」と石掬丸に指示した多聞丸。
少し片付けるか、と動き始めた時石掬丸が「お連れ致しました」
「来たか」瓶子を持って振り返る先に茅乃。


緊張が、すぐむっとした顔に。
「片付けてから通してくださればよいものを」「急に訪ねて来るからだ」多聞丸が反駁。更に言い返そうとして止めた茅乃。
石掬丸が片付けを引き継ぐ中、如何されましたと切り出す多聞丸。茅乃とはあれ以来会っておらず、書状のやりとりもない。


292
「人払いをお願いできますか」茅乃は左右をちらと見て言った。ここに居るのは弟、従兄弟であり、ここで言えぬ様なことは聞けないと返す多聞丸。茅乃は覚悟を決める様に二度、三度頷いた。


「解りました・・・しかし他言無用でお願い致します」

「承知した」
「主上のお味方になって頂けないでしょうか」
帝のために出兵しろとの事か、と思いつつも先を促す多聞丸。
「主上の命が危ないのです」「詳しくお聞かせくだされ」
改元に伴って様々な儀式が行われる中、主上が襲われたという。
「何ですと・・・」言葉を失う多聞丸。皆も吃驚の表情。
儀式の最中お一人になられた時、刺客に狙われた。

293
帝には日ノ本における最上位の大神官という側面もあり、神事も取り仕切る。時には神殿に一人で籠り神に禱りを捧げる。
時は夜。部屋の前には二十一人の護衛がいたというのだ。
それを突破した?・・・「いえ、板壁が開いたのです」「壁が・・・?」
隠し扉があったのだという。入った部屋の入口は一つだが、壁がすうと横にずれて穴が出現。過去に何者かが細工を施した。
帝はその鋭敏な性質によりすぐ気付いた。見れば柿渋の装束に身を固めた男がいた。「透波の類でしょうな」と新兵衛。

294
闇に紛れるには黒より柿渋。偸盗術に長けた物に違いない。
主上は相手と目が合ったとのこと。ふいの事なら誰でも驚く。
だが帝は「曲者!」と大声で叫んだ。容易に出来る事ではない。
「お怪我は?」「いえ・・・」その状況で怪我がないのは意外。
出入口に向かうのを遮る刺客。その刹那、帝は刺客が入って来た隠し扉に飛び込んだという。「何と」見事に敵の裏を掻いた。
しかしなぜ刺客は一人だと帝は考えたのか。

295
帝を狙うとなれば刺客も命懸け。殺すのを優先すれば、二人いたなら必ず部屋に入る筈。それを瞬時に考察したというのだ。
とは言っても確実ではない。最後は胆力で飛び込んだ。
その先は別の部屋に繋がっており、廊下へ逃げ出せた。
刺客は逃げられぬと悟り、短刀で首を掻き切り絶命したという。
「ご無事で何よりです」の言葉に驚く茅乃。苦笑する多聞丸。
茅乃には決して言わぬが、北朝に降っても帝を守る心はある。
「しかし私に何故そのことを?」隠し扉は朝廷内に裏切り者が居る証。更に改元すらその者が画策した恐れがあると言う茅乃。
「改元は如何にして決まったのです」

296
朝議でその様な話が出たとのこと。南朝は追い詰められている。
この流れを変えるため「正しく世を平らにする」の意で「正平」
という話に纏まった。だが初めに言い出した者がはきとしない。
個人主張せずとも「流れ」を作れば誘導はた易い。
もやは誰も信じられぬと言う茅乃だが、これから年賀の行事に忙殺される帝。
ここまで聞いて、茅乃が己を訪ねた理由が朧気ながら解った。

297
茅乃は「帝をお守り頂けないでしょうか」と切り出した。


途中から予想していた通りだった。それぞれが反応。
今は吉野にいる誰にも頼れないという。皆が疑心暗鬼。
だからこそ、今は疎遠でさえある己こそが適任と考えた訳だ。
「如何様にしろと?」制する新兵衛に「訊いているだけだ」
断る理由を考えるためにも、もう少し話を聞きたかった。
「正直なところ・・何も・・」「考えはつかぬと」頷く茅乃。
この事に気付いている者に任せては、と言うが腹の探り合いで何ひとつ手が打てていないという。

298
「それで貴方が動いた。何故、そこまでなさる」と多聞丸。
「何故そこまでして守ろうとするのか・・・また争いになりそうですな」
多聞丸は先手を打ち自嘲気味に笑った。茅乃からの問い。
「楠木様は主上が弑されたとしても構わぬとお考えですか」
「そうではない」他者によって奪われてよい命などない。それが帝、武家、商人や百姓も同じ。今の帝の危機は、廷臣たちが招いた結果であり、彼らが解決すべきことだと突き放した。
茅乃が「もし百姓が賊に襲われ、その子が父を助けて欲しいと駆け込んだなら、お助けになるのでは?」と言った。

299
多聞丸の脳裏にまた新平太の顔が浮かんだ。嘘は吐けない。
「助けに駆け付けるだろう」「奪われてよい命などないと仰いました。何故、主上だけお見捨てになるのです」 
茅乃の言い分に理がある。今少し本心を語る必要がある。
「父は朝廷に殺された、と私は思っています」静かに言った。
単純な話でないのは承知しているが、死地に赴いた父を先帝はお止めにはならなかった・・・先の話の子と同じ。
ただ自分は助けを請う相手すらおらず、見送るしかなかった。
誰を恨んでいるのか、自分でもよく判っていない。

300
多聞丸は胸の内を吐露した。ここで嘘は吐きたくなかった。
「解りました」今日遂に激昂しなかったのは、真が伝わったか。
最後に一つだけ・・・先帝と今帝は別です、と言う茅乃。
茅乃は英傑の子とは関係なく、自らを助けてくれた者として縋りに来ただけなのかも知れない。
己に問う。救うべきが帝でなければ、訪れたのが茅乃でなければ、この様に迷っただろうか。
すっと立ち上がった茅乃。鼻先に触れた僅かな香以外に、必死でここまで来た生きる人の匂いがあった。


「待たれよ」思わず口をついて出た。「送って頂かずとも・・」
「いや、やろう」「え・・・」
茅乃は吃驚に声を詰まらせ、新兵衛は溜息、新発意は上気。
次郎は苦笑して頷き、石掬丸さえ口元を綻ばせる。

301
「一個の命が脅かされているならば、出来るだけの事をする」
凛として言い放った。楠木の今後とは別。吹っ切れた気分。
「よろしいのですか」「貴方が頼んだのではないか」と笑う。
もう陽が落ちる。後先考えぬ振る舞いは止めた方がよいと言う多聞丸に「そういう楠木様は・・・」「俺もそうです」
お二人は似ているのやも知れない、と次郎が言うのを茅乃と同時に否定して皆が笑う。今後の手立てを講じると言いつつ、何と言って出て来たかを訊く。
北の方を訪ねて賊に阻まれた事は皆が知っていると言う茅乃。
あの怒りでは己のことは語らない、と思っていたのは甘かったか。

302
観心寺で改めて北の方に会う事として話を進めたという。その堂の一つで語り明かすのを前提に女官と護衛を待たせ、茅乃は抜け出してここまで来たという。観心寺までは一刻程の道のり。
今夜はここに泊まるよう言う多聞丸。喜色を浮かべて頷く茅乃。
「御屋形様、此度は・・・」と新兵衛が訊く。
大塚にも、野田の親仁にもすぐ報せると言った多聞丸。

金毘羅党の一件で迷惑をかけた以上、一存では進められない。
郎党を走らせるべく、石掬丸がすぐ動いた。
「明日の昼頃でしょうか」

和泉国からの参集を鑑みて茅乃が言う。

303
夜明けには来てくれるだろうと返す多聞丸。動くとなれば速いのが楠木党。それまで母屋の客間で休む様言うと、次郎が案内のために立ち上った。
翌朝卯の刻に大塚、それから半刻ほどして野田の親仁が到着。
この度は戦か、と大塚に訊く野田。「どうも別のようですな」
皆が揃ってから話すと言う多聞丸。不在の次郎?
もう一人、と聞いて目をやる大塚に、気付かぬふりの新兵衛。

304
やがて次郎が姿を見せると、その後ろに続く茅乃を見て顔を見合わせる大塚と野田。「朝廷の使者ではない」と制する多聞丸。


多聞丸は今までのいきさつを全て話した。
「なるほど」と曖昧に頷く大塚。野田はずっと苦笑。
決めるのは良いが、先々のことは如何に、と大塚。まさか南朝からの離叛を言う訳にはいかない。「我らは我らだ。ただ・・・」
「仰りたいことは伝わっています」と察した大塚。

「苦労をかける」
大塚は茅乃に、護衛に入ると言っても反対する公卿はおられるであろうと訊くと「それは・・・はい」正直に認める茅乃。

305
南朝が楠木家に期待を寄せているのは確かだが、今の態度を不快に思う廷臣も居る。説得するにも時が必要。
「それは結構。我らは陰からお守りしたく・・・森に潜みます」
南朝の御所は吉野の山奥にあり、そこに隠れて危急の際に駆け付ける。「しかし、それでは・・・」間に合わないと大塚も承知。
「公人に紛れ込ませることは出来ませぬか」と重ねる大塚。
それは朝廷の雑務を行う者。改元の折りに入替えが多い。
ただ無理に押し込めば怪しまれる、と新兵衛。

306
茅乃の言うには、後醍醐帝の頃の公人が世代交代で辞めたりしているという。また南朝不利の噂を受け、そのなり手も多くない。
数人でよいとの言葉に、筋書きを考えましょうと言う茅乃。


大塚には裏の思惑があった。警護するとなれば、北朝への鞍替えの時のためにも公にならぬ方がいい。茅乃を誘導した。
心苦しく思いながらも口を挟まなかった多聞丸。
茅乃からの質問。公人を紛れ込ませるのは分かるが、何故森にも潜ませるのか。

307
刺客が来てしまえば、既に帝の命は危ない。そんな時、森に伏せた者が役に立つのかという疑念。「我らが帝に叛くと?」
大塚の踏み込みに狼狽える茅乃。そこで新兵衛に訊く大塚。
「次に刺客が現れた時、一人とは限らないという事でしょうか」
「よく見た」満足げな大塚。敵は数十人の可能性もあり得る。
そして刺客は多分足利直義の手の者だろうと言う大塚。
「高師直ではないのですか?」前回の襲撃が蘇える茅乃。
師直は己の手で手柄を立てたい筈。刺客で弑してまう事はない。
「直義はその反対です」

308
師直が功績を挙げる機会を未然に防ぐ。また崩れぬまでも、混乱を生じた南朝を倒しても師直の手柄とは呼べぬと主張出来る。
直義派を通じて帰順するなら、公にせず暗躍すべきという真意。
今回の事で直義の焦りが知れた。来年には南朝との戦いは激化する筈。それが失敗した今、奇襲に近いことも考えられる。
「訝しむような真似をして申し訳ありません」と謝罪する茅乃。
それを宥める大塚。押し引きの上手さに感心する新兵衛。
大塚に振られて公人、森への人の配分を聞く多聞丸。

309
敵は多くとも三十を超えることはないだろう、と大塚。
こちらもその程度か。だが精兵にせねばならない。
当然俺が、と言う新発意に「大人しく従うか」と釘を刺す大塚。
御屋形様も慎重に、の言葉。「俺も・・良いのか?」


大塚ならば必ず東条で待つよう諭すと思っていた。
「公人に化けなされ」刺客が出た時に、より危険な役回り。
この進言はやはり大塚らしくない。

310
大塚の言う土壇場での迷い。そうならぬために一度見ておいた方が良い・・・ その真意は、北朝に鞍替えし南朝に兵を向ける時の迷い。この機会に「朝廷」なるものを見るのがきっと役に立つ。
「見定めよう」「お願い致します」大塚は深々と頭を下げた。
この場にいる殆どの者が参加する事が決まり、他は透波から選抜する事となった。問題は森への潜伏。難しいと言う野田。
吉野山は存外険しい。朝廷を置いた所以でもある。
すんなりと辿り着けず、年明けに間に合わぬやも知れぬ。

311
更に雨や雪で体力を消耗すれば、命さえも危うい。
何か手を打つ必要があると言い、茅乃に手立てはないかと聞く多聞丸。御所への道には武士の見張りが立っていると言う茅乃。
武士といっても守護、地頭、豪族の親族たち二百人ほど。
「それは昼夜を問わずですか」身を乗り出して訊く多聞丸。

312
はいと答える茅乃。また先の一件があってからは人を増やした。
食料を運ぶ大炊寮、衣を扱う織部司にも下役には伝手がないと言う茅乃だが、下役の頭を務める者には良く会うという。


「会釈をするだけですので。名は何とおっしゃったか・・あ、あお・・」
目を見開く多聞丸。皆顔を見合わせ、納得の表情。
「茅乃殿、その男の名は・・・」多聞丸が告げると驚いて頷く。