新聞小説「人よ、花よ、」一章 前半 作:今村 翔吾 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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朝日 新聞小説「人よ、花よ、」 一章 前半 1(8/15)~25(9/8)

作:今村 翔吾 挿絵:北村さゆり

レビュー一覧
 連載前情報 1前半 1後半       

  10

 

感想
予習のおかげで、楠木正行がどういう人生を歩んだかのレイヤーは整った。そして物語は多聞丸(正行)の二十一歳から始まる。
この小説も従来同様、弊ブログ「ブックマーク」の

羊と猫と私」でレビューが始まっている。

こちらは毎日の連載状況をリアルタイムで熱く語っており、弊方とは賑わいが段違い。ご訪問あれ!
さて多聞丸。
年齢から言って当然元服も済んでいるのになぜ幼名?
それは先のサロンでも話題になったが、今やっている大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、北条義時がいくつになっても「小四郎」と言われている、みたいなもんかな?と理解(次回で解説)


悪ガキ共には好かれ、大人からは鼻つまみ。愛馬は元々どうしようもない暴れ馬・・・つかみとしてはなかなか快調。
母親が年に数回オカしくなる(それも多聞丸が原因で)
今はそれの原因を探りながら、父楠木正成が後醍醐天皇を奉じて挙兵した前後の状況が語られて行く。
既に戦死した父のことを誇りに思う一方、なぜあの後醍醐帝に命運を捧げたのか、と疑問を持つ多聞丸。
この辺りが小説の「肝」なんだろう。挙兵から鎌倉による追討、そして後醍醐帝捕縛、と戦史が丁寧に描かれる。

しかしこの、母と語る父の戦いの顛末が「すごく長い・・・」
父を失ってからの多聞丸の行動が母をイラつかせているのはハッキリしており、その説明のための父の戦史なんだけど・・・
延々と続きそうなので一旦途中で切ることに。
後醍醐帝が倒幕を目論み笠置山で起ち、父正成もそれに呼応して下赤坂城で起ったが、後醍醐帝はあえなく捕縛された。
父帝を援けるため自身も起った護良親王が正成と合流する・・・
とりあえずその辺りまで。
 

オマケ1
挿絵の北村さゆりさん。日本画家だというが、なかなか柔軟な考えの持ち主の様で、けっこう楽しんでいる。
そこで一つ。たまたま(10)の、父正成と文観との対峙場面で「正成、テツに似てるなー」と思い始めたら、もうそれにしか見えない(じゃりン子チエの父親)しばらく笑った。


 


護良親王は当時弱冠二十歳そこそこ。(24)の元絵はコチラ

これも十分美男子だが、今回ネット検索してみたら、こーんな美形になってる(びっくり!)元ネタは「刀剣ワールド

これぞまさしく「美化」

本文中(8)で得宗家被官との言葉が出て来るが、リンクの通りこれは後の学者がつけたものであり、当時としては御内人(みうちびと)とするべきだろう。


あらすじ  注.西暦表記は原作にはない
第一章「英傑の子」前半 1(8/15)~25(9/8)

多聞丸が、田園の中の畦道を馬で走り抜ける。

既に春も終わったが、今年も葛城の風はやや冷たい。
「あっ」と童が声をあげて「まただ」と笑う。

近くにいた母親が慌てて泥の付いた手でその口を塞いだ。
泥だらけの童へ詫びがわりに片目をつぶって走り去る多聞丸。
この様なことは年に二、三度あり、それを見る大人は不快を隠さず舌打ちする。怒る翁の背をさする媼(おうな)
 


若い夫婦などは怒りは湧かぬものの、年長者の手前困惑。
「御屋形様だ!」と別の童が走るが追い付く筈もない。
多聞丸が振り返って拳を突き上げると歓声が上がった。
何故か童や若者に人気がある多聞丸は、その理由が分からない。従兄弟の新兵衛は「兄者を見ると楽しゅうなる」と言う。
年嵩の者が苦々しく思う方が理解出来る。
「楠木様!」の声も聞こえた。
楠木多聞丸正行(まさつら)がその名。再び拳を上げる多聞丸。
彼は千早の赤滝へと向かう。道が険しくなり、馬から降りた多聞丸は「香黒(かぐろ)、ゆるりと行こう」と声をかけた。
 


六年前、とある馬喰が気性の荒い馬に手こずり、殺して肉にするとの噂を聞いて駆け付けた多聞丸。全身黒一色の青毛。

俺が乗ってみよう、と跨ったが、すぐに振り落とされた。
買ってもらう算段が外れた馬喰だが、その馬を買った多聞丸。
乗りこなせる様になったのは一年後。無理に乗ろうとせず、自ら世話をして散歩にも連れ出し、自由に走らせた。
そんな繰り返しの中、馬の方から多聞丸に近づく様になった。
「乗ってもよいか?」の問いに応えた気がした。

跨ってみれば凄まじい健脚。その馬に「香黒」と名付けた。

 

赤滝までの道のりを、賢い香黒は窪みを避けて通った。
「今日中に戻れると思うか?」の問いにも当然答えはない。
ここに来た理由は、自らの館から --逃げてきた。
相手は母の久子(ひさこ)。当年三十九歳。そして多聞丸は二十一歳。普段は実に温厚で優しい母だが、年に数度決まって「ある時」怒りを露わにする。多聞丸が何を言っても通じず、最後には烈火の如くになる。かつては卒倒して大騒ぎにもなった。
それを繰り返すうちに、事態が起きるのを察知して今日の様に館を抜け出す。童が「まただ」と言った所以。
そして一日から長くて三日ほど経って戻ると、母の怒りは収まっている。だが怒りが呆れに変わり、多聞丸は一刻あまり説教を受ける。ここ数年これを繰り返している。

 


「今年はもう二度目だぞ」と言っても香黒は鼻を鳴らすだけ。
普段は春と秋。だが今年は正月早々に一度、そして四月にして早くも二度目。やがて赤滝に着いた。心配はなさそうだ--

この水の量が田の豊凶に関係する。

川べりに屈んで水を飲む。香黒もその脇で飲み始めた。
水面に映る己の顔を見る。父の鼻は雄々しく、唇も厚い。

己は、浅黒い肌の他は似ても似つかぬ。完全に母似だった。
 


母似だったのを喜んでいたその父の名は楠木正成。名を知らぬ者はいない。希代の軍略家、報国の忠臣として--
楠木家の本姓は橘氏。河内に土着の豪族、在地領主だった。
本拠は金剛山の西麓、千早、赤坂。傘下も含めた「東条

父が家督を継いだ時、鎌倉統治となってはや百五十年が経過。
鎌倉に対し、領主の中には反発して摩擦を生じる者もいた。
当初鎌倉は介入を避けて来たが、争いの激化に伴い取り締まりに注力し始めた。
 


守護と対立する領主の他、夜盗も含め幕府は悪党と言った。
楠木家もそこに含まれている。

そういう悪党の仕業で、物資を輸送する際略奪される事もまま起きる。父はこれに目をつけ運搬、物流を一手に引き受けて銭を得ようとした。その事業は先代の正遠が片手間に始めたが、父の代になり本格化。
これは大いに当たり、河内国経由での物資運搬の定着と共に、楠木家は数年で富を築いた。周辺の民も救済され好循環。
これに近隣の豪族も興味を抱く。守護との戦いには銭が要る。
 


父の行った物流網の整備は河内国から和泉、摂津、伊賀、果ては京の方まで広がった。香黒とのやりとりの中、父を思う。
当時の父はまだ小豪族。守護との争いを避け、事業維持に腐心。
やがて鎌倉も楠木家を認め、逆賊討伐の依頼を行った。
世が太平を保っていれば、父も北条得宗家被官として穏やかな一生を送った筈。だが父はいない。時代がそれを許さず。
元徳二(1330)年晩秋のある夜、夕餉の前に男が訪ねて来た。父正成は三十七歳。多聞丸はまだ五歳だったが、今も忘れない。
 


煤けた僧衣に編み笠。当主に会いたいとの言葉を伝える郎党。
「会おう」と言った父は多聞丸の名を静かに呼んだ。

穏やかな日はもう戻らないのでは、という不安がよぎる。
訪ねて来た僧と一人で会った父。後に知ったその僧は帝 後醍醐天皇の腹心 文観。帝の御言葉を伝えに来た。
天皇親政の頃を取り戻さんとする帝。鎌倉打倒の檄を飛ばせば、皆がすぐ馳せ参じるとお思いだが、楽観していない文観。
 

10
文観の考えでは、まず在地領主、夜盗などの「悪党」による決起。そしていくつかの城や役所を焼けば御家人も動き出す。

だが文観も「甘い」と感じた父。予想より人が集まらない。また余程上手くやらねば鎌倉に露見して帝が危うくなると危惧。
父の事を頼もしい男だと帝に伝え、力を貸して欲しいとの言葉をもらっている文観。「勿体なき御言葉・・・・」
迫る文観に二つ条件を出す父。怒りをこらえ話を聞く文観。
一つは帝自らのお声掛けとして欲しい。実際そうだと文観。
 

11
似て非なるものだと言う父。
例え馳せ参じても、帝の側近にとって自分は一介の地下人

侮られるだけなら何でもないが、戦の仕方にまで口出しされては堪らぬ。よって帝が呼び寄せたという「事実」が欲しい。
しばし考えた後文観が、帝のご覧になった夢の話をした。
大木の下に、位の順に座した官人。最上の座が空席だった。
そこに一人の童が走り寄り「その席に座るがよい」と厳かな口調で言った後、宙に浮きあがり消えてしまったという。
吉夢か凶夢か・・・思い悩む帝に、親政に至るのを暗示する吉夢だと答えたら、不安が払拭され、大変満足されたという。
 

12
その木が南向きに立っていたやも、と楠の暗示を語る文観。
これならば、公家もないがしろにはできまいとの目論見。
「今一つは?」に「主上にお目にかかりたい」 渋面の文観。
この事は一族郎党に塁を及ぼすこと。せめてご尊顔を拝し、身命を賭せる方かどうか見極めたい・・・
不遜、不敬の言葉が文観の頭を駆ける。既存の枠が妨げる。

体制の枠外にあった楠木が、家を守るための大転換をする時であり、その枠の本質を見極めたいという断固たる決意の父。
「よかろう」熟考のうえ、文観は唸るように答えた。
 

13
以上が父正成と文観のやりとり。その六年後、建武三(1335)年の一月に、齢十一の多聞丸は父からこの話を聞かされた。その頃から父は様々な話を伝え、二月に延元となった後の五月、世を去った。
母上の怒りは収まったかな?と香黒に聞いても答えはない。

不動の香黒。「まだか」と多聞丸は赤滝に視線を落とす。
 


 

満月の明かりを頼りに楠木館に戻った多聞丸。静寂に包まれた中、厩に香黒を繋ぐと軽く嘶いた。「おい、静かに」
 

14
制する多聞丸に構わず声を高める香黒。飼葉を与えると、じっと多聞丸を見る「いい加減、逃げずに話せ」と言いたいか。
「それも解っている」苦笑の多聞丸。母がこうなる原因と、いつかは向き合わねばならない。飼葉を黙々と食べる香黒。
忍び足で館を歩く多聞丸。母の居室を通らねばならない。
「多聞丸」の声に溜息をつく。行先の問いに赤滝へ、と返した。
母の声色からして、怒りの頂点は過ぎ去ったようだ。
障子を開くと、畳に正座する母。庭に面して少し開いた障子から月光が差し込む。「入れますか?」と灯りの要否を訊く。
 

15
「いいえ」 「助かります」皆が荏胡麻油を使うのに、母は倹約のため魚油を使うので部屋中臭くなる。それが苦手な多聞丸。

母の「如何致しますか」の言葉をここ数年はぐらかして来た。
それは父が帝より御言葉を賜った時のこと。「御父上は、これほど名誉なことはなく、是非もなく馳せ参じました」
だが実際は、多聞丸が父から聞いたやりとりがあった。

父のほかは誰も知らぬことを、己だけには教えた。
 

16
故に多聞丸も母にその事は話していない。食い違いは当然。
「そして御父上は帝に拝謁されました」
文観来訪の一月後、父は僧形で京に向かい、後醍醐帝に拝謁。
帝は親政への情熱を語り、父に「純な方だ」と言わしめた。
その、周囲の想いを吸い上げる気質が悪く転ぶ危惧。帝の周囲は戦知らずばかり。父が断っても熱意のまま走り出すだろう。
そこまで悟り「放っておけぬ、そう思ってしまった」と父。
「そして・・・心を決められたのです」と母。
先のやりとりも母は知らぬ。ただ母でさえも、決起の前に父が誘われたことは知っている。
 

17
しかし後醍醐帝が劣勢になった後、件の「楠の夢」の話が流布されている。甘美な話ほど劇的、誇大に変貌するものだ。
「日夜、御父上は鎌倉を討つ思案をなさっていました」と母。
父は鎌倉討ちは容易でないと痛感しており二、三年はかかると踏んでいた。だが明けて元徳三(1331)年四月、その討伐計画が漏れた。側近吉田定房の密告。鎌倉方は中心にいた日野俊基、文観らを捕え、帝にまで迫る。
この段でも父は堪える様諫めたが、焦りと恐怖の後醍醐帝。
元弘と改元された(1331)直後の八月二十四日、後醍醐帝は京を抜け、東大寺から笠置山へ。檄を飛ばして兵を集めようとした。

だが父の予想通り頼みの大名は一人も集まらず、集まったのは目論みの一万に対し在地領主、僧兵ら僅か三千余に過ぎず。
 

18
笠置山の帝に幕府は九月二日、七万の大軍を差し向けた。
「この時のことは覚えていますね」「はい、鮮明に」
何度も話して来たやりとり。それは父が、楠木家が天下に向けて漕ぎ出した日。報を受けて父は「籠もる」と自室に入った。
そこから一両日、父は飲食も忘れ絵図と格闘した。それは後醍醐帝が想定より早く起っための戦略見直し。
父はもはや見捨てるという選択肢を持っていなかった。
翌日部屋から出た父は、一族に参集を命じた。そして湯漬けを三杯掻きこむと床に入り泥のように眠った。これが父の軍法。
 

19
そして夕刻、皆が集まったところで帝よりの信頼を伝える父。

なぜ一介の土豪に?との疑問にあの「楠の夢」を披露。皆が感嘆する。士気を高めた後「楠木はこの地で起つ」と宣言。
籠もるのは下赤坂城。来たる時に備えて金剛連山の端に作り始めていたが、まだ築城の最中。突貫で普請を進めた。
一定のめどがついたところで父は河内国内各所へ、鎌倉に楯突く旨の書状を送った。守護、地頭らは仰天。
彼らは、なかった事にして穏便に済ませたいと返書。
 

20
気持ちが固まっている父は、存分に掛かって来いと兆発。
「私たちが和田に移ったのはその頃ですね」と多聞丸。
多聞丸の祖父 正遠の弟 親遠の本拠が和田。和田氏を名乗っても楠木一族であり、この決起にも参加。妻子を避難させた父。
それを見て守護も鎌倉に報告。だが大した反乱ではないとも。
多聞丸らが移る時にも回りは静かだったが、御家人の中には楠木こそ難敵と見ていたと話す母。話すたび厚みが増す母の話。
 

21
鎌倉軍は、後醍醐帝が籠もる笠置へ七万五千もの動員を行い、楠木へは河内の兵を向かわせた。集まったのは千五百ほど。
下赤坂城は五百。三倍居ても後に軍神と称される父に対しては非力。近づく事すら難しく、六波羅に助力を頼んだ守護ら。
一方笠置山は九月二十八日に落ちた。猛攻は九月二日に始まったが、帝側三千は地形も活かして健闘。だが二十八日夜半、火が放たれ帝の軍勢は総崩れとなり、一気に陥落。
「先帝は数日の後には囚われの身に・・・」と母。
後醍醐帝は庶民姿で逃げ落ちようとしたが捕えられた。
「天魔の所為・・・ですな」の言葉を窘められる多聞丸。
 

22
後醍醐帝は捕われた時、天魔が憑いた所為だと言い逃れた。

「申し訳ございません」だが多聞丸は内心納得せず。
笠置山で側近 日野資朝、日野俊基、北畠具行らは処刑された。
楠木家も既に帝に奉じるため出兵。馬鹿にした言い訳だ。
「多くの者が死んだのは確か」に「それも忠義のためです」
忠義に対する疑問。だが楠木家としてはそれさえ許されない。
母は不穏さを感じつつも話を戻した。
笠置山陥落により、鎌倉にとっての敵は楠木家。
続々と正規軍の四軍全てが東条赤坂に向け進発。
 

23
一軍:大仏貞直、二軍:金沢貞冬、三軍:北条時見、そして四軍の足利高氏(後の尊氏) 鎌倉方は三十万と称したが父は五万弱と見た。それでも途方もない大軍。その知らせは和田にも届き、母は心配したと言う。既に後醍醐帝をお助けする名分もない。
母の心配をよそに、多聞丸は父が死ぬ筈がないと信じていた。
城に籠もる者たちの士気が高かったのは、大塔宮が逃れて来られたのも大きかった。大塔宮は後の護良親王であり後醍醐帝の第三皇子。弱冠二十歳で天台座主。法勝寺九重塔、通称大塔近くに居していたためそう呼ばれた。
 

24
幼い頃から聡明だと言われた護良親王。
讒言もままあったが、実際のところ武芸、兵法に長じ天台座主になった時は武芸皆伝、兵法書も諳んじたという。
護良親王もまた父帝を援け鎌倉討滅、親政樹立の志を抱いた。

だが計画が早期に露見し、護良親王にも追っ手が迫る。
後醍醐帝の行方をくらます陽動を行ったのも護良親王。その後帝と合流を果たした。それが父正成挙兵の半月ほど前。
護良親王は共に笠置山に入ったものの、味方の集まりの悪さに、兄 尊良親王と共に檄を飛ばしに笠置を発った。その行動を続け、葛城の山々を伝って父の籠もる下赤坂城に到達したのだ。
 

25
父は多聞丸に、この時のことも語っていた。
「楠木の手並みを見たい」と共に戦う旨を告げられた。
後醍醐帝の理想を実現しようとする情熱の強さ。それが父には眩しく見え、二人は心を通わせた。うまが合ったという事か。

「儲君(もうけのきみ)は・・・」言葉が途切れる母。
護良親王はこの後、あまりに不幸な一生を送ることになる。
後醍醐帝にも関わり、迂闊な事は言えない。母の口が重い理由。
「進めましょう」見かねて言った。父上は違った、と思う。
父は帝に対しても誤りには諫言する人だった。真の忠臣。
己はどうか。父、母とも違う。ここ数年曖昧にして来た。