新聞小説「人よ、花よ、」第三章「桜井の別れ」(3)作:今村 翔吾 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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朝日 新聞小説「人よ、花よ、」第三章「桜井の別れ」

(3)92(11/17)~138(1/4)
作:今村 翔吾 挿絵:北村さゆり

レビュー一覧
 連載前情報 1前半 1後半       

  10


感想
父 楠木正成の、湊川での戦いが多聞丸の口から語られる。
一章の「英傑の子」と同様かなりのボリュームだが、辛抱強く読んで行くと、父と子が交わした最後の数日の濃密さが胸を打つ。
父自体が、尊氏に対して悪い感情を持っていなかった事が、多聞丸にも影響を与えていた。
多聞丸が延々と考えていたのは、北朝(尊氏)に降ること。
史実から見れば正行は、父が歩んだように今度は後村上帝を奉じて南朝のために立ち「四條畷の戦い」で弟 正時(次郎)と刺し違えて死ぬことになる。
自分の心情に対して、周り(もしくは自分)がどう変化して行くのか。これから注目すべきは後村上帝との関係だな・・・
それにしても、北朝に降ると表明した時点で周りが皆敵に変わるのだから、不用意な事は言えないし、一体どう進めるのか?


あらすじ
第三章「桜井の別れ」92(11/17)~138(1/4)
92
それから数日、さしたることはなく平穏な日々が過ぎた。
だがこの東条にも戦の兆しが刻々と忍び寄っている。

93
あの夜、母との話で生涯本心を語らずとも、と思ったがもはや猶予はない。ただ、母が風邪で寝込み日延べしていた。
灰左の一件から十日後、母に話があると切り出した。

前の続きだと承知の母は、陽が落ちてからと指定。
 

「父上の話から」と切り出す多聞丸。
先の決起は鎌倉方に敗れ、後醍醐帝は壱岐に流されたが、父は潜伏。そして父は再決起し、呼応して護良親王、赤松円心が決起。
この三者は予め密談を交わし、大きな流れを起こした。

94
鎌倉は事態を重く見て総勢三十万を差し向け、そのうち五万が父の籠もる千早城、赤坂城に進攻。
それを母が二十万だったと主張し、先日の話が途切れた。
今それを五万・・・だったかも知れないと言う母。


世間で言われる二十万は、父を英雄に仕立てる策謀か。
父の足跡を追う話が再開した。
如月二十二日、鎌倉方の攻撃が始まり、楠木軍は下赤坂城、上赤坂城、千早城の三城で待ち構える。
まず父は下赤坂城を放棄。叔父の正季に火を放たせて上赤坂城に移動。母の疑問に「最初からそのつもりだった様です」
下赤坂城は立地上、大軍相手には不適。

95
下赤坂城は父は再挙兵した時の要であり、それを放棄することで鎌倉方を東条の奥に誘い込んだ。
上赤坂城五百の大将は平野将監、副将は叔父正季。
父正成が大将の千早城には千五百。野田の親仁こと野田正周、現和泉国守護代の大塚惟正も籠もっていた。


鎌倉方は、下赤坂城が楽に落ちた事もあって真正面から攻め、甚大な被害を出した。だがそれにも屈せず、上赤坂城に一万の軍勢で攻め込む。そして合戦が始まって五日後、平野将監が降った。
降伏と引き換えに助命する、という矢文で城門を開けたのだ。
「嘆かわしいことです」という母に多聞丸も同意。
楠木党があの戦に全てを賭けていたのに、平野の軽い考え。

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平野の裏切りは予想していなかったと多聞丸に話した父。
全て思惑通りだったと思われている父だが、そうではない。
ただ、不測の事態が起きても智嚢と胆力で応じたのは確か。
副将だった正季は、平野の動きを察知して千早城に引き揚げた。
それでも父は平野を責めなかったという。全軍を千早城に引き揚げさせる段取りが遅れたと自分を責める。
鎌倉方はその約定を反故にして、平野は斬首された。
護良親王は奮戦するも、吉野は陥落し高野山に退かれた。
だがそこで兵を集め、千早城を支援した。
鎌倉軍の大半は千早城攻めに集中。その数は十万にも届くほど。
それに対し千早城の兵は千ほど。数日で陥落すると思われた。

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「私たちを除いては」との母に頷く多聞丸。
鎌倉軍の攻めに対し、城からは嵐の如く矢を射掛け、集めておいた大石を落とす。鎌倉方は兵の屍を重ね、地獄絵図となった。
鎌倉方は持久戦に切換え、水辺に陣を構えて水を汲みに来る者を討とうとした。だが一向に人が出る気配がない。
城では大木をくり抜いた水船を三百も用意して備えていた。
長い待機に気が緩んだところへ奇襲。耐えれらず退却の鎌倉軍。
父は奪った旗や大幕を使って敵を挑発。
御家人たちは激怒して城に突撃。そこでも大木を落とす仕掛けなどが多数あり、阿鼻叫喚の様相となる。

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その後も父は着々と策を重ねる。甲冑を着せた藁人形の囮に挑発された鎌倉方が攻めて、返り討ちにされる。
崖を登る者には熱湯や煮詰めた糞尿をばらまく等々。
鎌倉方の士気はみるみる落ち、 遊興や博打が蔓延。護良親王が糧道を絶ったのも効いて、陣を保つだけでも精一杯。
「そして、遂にその時が」と静かに言う多聞丸。
千早城の奮戦から一ヶ月、後醍醐帝が壱岐の黒木御所から脱出。
そして伯耆国の地頭 名和長年と合流。壱岐はその失態を挽回すべく攻めるが、長年は峻険な船上山を利用して老獪に応戦。
鎌倉軍は多数の死者、投降者を出した。
その事で流れが一気に変わり、後醍醐帝の綸旨を受けて続々と兵が集まり、もはや伯耆、出雲では抑えきれなくなっていた。

99
播磨で挙兵した赤松円心は、鎌倉軍を制しつつ京に向かった。
父はなおも千早城で鎌倉方の大軍を引き付けている。
「そして・・・五月七日、足利高氏が六波羅に」


船上山攻めを命じられて向かっていた高氏はその途中、唐突に鎌倉方からの離叛を表明。攻められた六波羅探題は大混乱し陥落。
「翌八日には新田殿が挙兵」
同じく、源氏の御家人である新田義貞も千早城攻めに加わっていたが、税の面で鎌倉と対立していた事も転身を後押し。
義貞は賛同者を糾合して鎌倉を目指し、北条高時を討ち取った。
示し合わせた訳ではないが、この二人がほぼ同時に鎌倉に見切りを付けた事が、全国に伝わり激震となった。
鎌倉方は混乱の中で瓦解した。

100
「こうして父上にとって、生涯最大の戦いは終わりました」
たった数千で十万とも言える大軍を翻弄。空前絶後の活躍。
ただ、この時の父は口惜しかっただろう。赤松円心の夢。
父と赤松が狙っていたのは、御家人が寝返る前での京陥落。
悪党だけで京を奪いたかった。鎌倉を滅ぼしても、武士の力を借りれば新たな「鎌倉」を生むだけで、帝の親政の障害となる。
故に悪党たちの手だけで鎌倉を討とうとした。父が大軍を引き付けている間に赤松が京を落として帝を迎え入れ、親政を始める。
策は途中までは上手くいっていた。

101
だが六波羅軍の兵は多く、一進一退の攻防となり時を消費。
赤松が決戦を仕掛けようとした時、足利高氏が寝返った。
後醍醐帝が京に入り親政を始めようとした時、召喚に応じなかった護良親王。高氏が六波羅を落とした功績で「あの男は次の鎌倉を創る」と警戒していた。
故に護良親王は上洛せず、自らを将軍にするよう父帝に要求。
だが後醍醐帝は高氏を高く評価。それは自分の諱から「尊」を与え、足利尊氏とさせた事でも明らか。
後醍醐帝も尊氏を警戒し、新田義貞も重用して力を分散。
だが護良親王はどうしても譲らず、後醍醐帝も折れて彼を征夷大将軍に任じた。そしてようやく京に入った護良親王。

102
「しかし・・・」言葉を濁す母。
「はい、やがて護良親王の危惧した通りに」
親政は、後に善政と言われるものもあったが、武士にも悪党にも不満を持つ者を出した。
この時期の父の事を尋ねると「ひどく疲れておられました」
父は多大な功績を認められ、多くの所領や要職にも恵まれた。
人には笑みを絶やさなかったが、離れで黙然とする事が増えた。


父の感じていた、再び騒乱が起こることの予感。
「父上は、護良親王の事に心を痛めておられました」
後醍醐帝の新政に出始めた綻び。武士からの不満も出始める。
だが一方で護良親王は、蛇蝎の如く尊氏を嫌うあまり排除に性急過ぎた嫌いがあった。

103
更に護良親王が不幸だったのは、後醍醐帝の女房 阿野廉子との対立。後醍醐帝の最愛の女房 禧子は新政まもなくに崩御。
次第に廉子が台頭する様になった。我が子を帝にするため護良親王排除の工作を、尊氏と裏で行った廉子。
廉子は、護良親王派の恩賞を減らすよう帝に讒言。父や円心もその影響を受けた。護良親王派の勢力は次第に弱まる。
そんな中、翌建武元年一月二十三日、廉子の長子恒良親王が立太子された。それは護良親王が後を継げないという宣告。
起死回生を図る護良親王は「尊氏には野心あり」と追討の勅語を後醍醐帝に迫った。だがそれは容れられなかった。
「何故、先帝はその奏上を受け入れなかったのでしょうか」
今まで後醍醐帝の事に疑問を抱かなかった母の変化。
己が覚悟を決めて話をしようとしている事を悟っている。

104
後醍醐帝が、尊氏との融和を考えていたのでは、と言う多聞丸。
強大な尊氏の勢力と戦って勝てる保証はなかった。
だが結果、尊氏は朝廷に弓を引き、護良親王が正しかったことになる。母は口が裂けてもそうは言わぬ。
父上が、一度だけ尊氏のことを語ったと言う多聞丸。
--足利殿もさぞかし苦しかろう、と漏らした。
何故父が尊氏に同情するのか理解出来ず、食い下がった多聞丸。
「尊氏は帝を軽んじていた訳ではない・・・」
尊氏の人となりを知ろうと、交流を持とうとしていた父。

105
「では何故、尊氏は先帝に弓を引いたのですか」と母。
足利という家がそうさせた、という多聞丸。
尊氏の弟 直義が政務、執事の高師直は軍務を見た。

この両名を筆頭に家臣たちは「尊氏を将軍にし鎌倉に取って変わるべし」と希求。ただ、尊氏だけがそれに躊躇。

朝廷に弓を引き、万世まで朝敵の汚名を着たくない。

また後醍醐帝とも気が合っていたという。
故に後醍醐帝も尊氏との融和を諦め切れず、護良親王を退けた。
「足利直義、高師直を除けておけばこうはならなかったかも」
後醍醐帝は崩御したが、尊氏ら三人は今なお存命。
尊氏を支えるこの二人の目が黒いうちは、到底成し得ない。

106
「真にそのようなことが・・・」母はなおも疑う。
尊氏はともかく、足利家としては武家による政を目指しているとまとめた多聞丸。故に、してはならぬ過ちを犯した。
護良親王が謀叛を企てている、という噂を阿野廉子、足利方が流したのを、後醍醐帝は信じた。この時期、護良親王派と目された父は、各地へ抵抗勢力の討伐を命ぜられた。
父が不在の時に護良親王は捕縛され、足利直義の在る鎌倉に送られた。足利との関係を保つため、我が子を売った帝。
だが足利がいずれ牙を剝くのは必定だった。

107
朝廷の先頭に立って戦うべき護良親王を掌中に収めた足利方。
先帝は護良親王を見殺しにしたとの言葉を「解っています」と遮る母。だからこそ護良親王には触れない様にして来た。
護良親王が送られてから一年足らずで、北条の残党が鎌倉を奪還する事件が起きた。この時牢にいた護良親王は殺された。
父は、もはや戦いは避けられぬと慟哭した。
逃れた直義は、再奪還のため兄尊氏に援軍を要請。
尊氏も出陣の許しを得ようとするが、朝廷はそのまま独立されるのを危惧して留め置いた。
尊氏は独断で軍を発し、あっという間に鎌倉を再奪還した。
朝廷は京に戻るよう命じたが、言い訳をして留まった尊氏。

108
尊氏にはまだ迷いがあったと思われるが直義、師直が揃ったため腹を括った。今も続く戦は、この瞬間から始まった。
朝廷は新田義貞を送るが敗退。尊氏は上洛を開始。
父も防戦に当たったが、朝廷側は劣勢だった。
だが奥州の北畠顕家が尊氏を追って上洛。公家の身で弱冠十八歳なれど軍才にたけ、朝廷は足利を粉砕。尊氏は西国に逃亡。
父は尊氏の追撃を主張したが、二つの理由で叶わず。
一つは後醍醐帝や廷臣が尊氏を甘く見て手を緩め、北畠顕家も陸奥に返してしまった。
二つ目は足利追討を遮る強敵、赤松円心が現れたこと。
突如として朝廷に叛旗を翻した。親政下での冷遇が主因だろうが、父は「夢が破れたのだ」と語った。
武士の力を借りずに鎌倉を討つという事は、既に成らず。

109
武士を除いて真の親政を行うとの夢の残滓に、父も赤松も賭けていたが、それも護良親王の死によって砕け散った。
そこから赤松は新たな道を歩み出した。逃げる足利尊氏に、再起して戻って来るまで討追軍を食い止めると確約。帝への怨嗟も。
赤松は寡兵にも関わらず、朝廷の大軍を食い止めた。
九州に逃れた尊氏に味方は多くなく苦戦。

だが諦めることなく九州の大名衆、土豪を味方につけた。 
「尊氏は不思議な男です」と振り返る多聞丸。
鎌倉にあって朝敵とされた時は意気消沈したが、弟直義、高師直
らの苦戦を見て陣頭に立ち、新田軍を粉砕した。

110
父や北畠顕家と戦って敗走した時は「腹を切る」などと喚いていたという。それが九州では不屈の意思を示す。まるで多重人格。
浅はかだと断じる母だが、それが彼の本心ではないか。陰に入っている時は嬰児にも劣る愚将だが、陽に振り切れば希代の名将。
それを直義や師直も知っているから「うまく乗せている」
勢力を盛り返した尊氏が、再び上洛を始めたのは延元元年四月。
京での敗退から僅か二月での挽回。
足利軍は中国筋の陸路と瀬戸内の海路の二手を進む。

更に安芸国の厳島で光巌上皇の院宣を得て、朝敵の汚名を払拭。

足利のもとに奔る者はさらに増え、陸海共で十万騎を超えた。

111
「尊氏迫る」の報に朝廷は恐慌に陥り、北畠顕家と新田義貞に迎撃を命じた。新田軍は備中国福山で足利と激突したが、数でも勢いでも勝る足利軍に撃退された。
「この頃ですね」と母。「はい。私もしかと」
覚えている。父が十一歳の多聞丸を連れて上洛。ただ事でない。
初めて後醍醐帝に謁見。何と帝は御簾を上げられた。

楠木家への想いか、父に出す命への後ろ暗さか。
「これが帝か」と拍子抜け。廷臣が知れば不敬とそしられる。
母や多くの者が語る神格化された帝は、己たちと変わらない人。
父の意思を継ぎ、朝廷に尽くしてくれ、という様な事を言われたと思うが、あまり覚えていない。

112
その後、父は廷臣として朝議に加わり、多聞丸は下がらされた。
屋敷で父の帰りを待ったが、三刻経っても帰らず。
やがて微睡んでしまい、目覚めた時は床に寝かされていた。
起きようとする多聞丸に「寝ておればいいのだ」と父。
聞けば既に丑の刻(午前二時)は回っているという。
このように寝顔を見るのは久しぶりだと言った父。

その表情に胸騒ぎがした多聞丸。
「話したいことがある」と昔語りを始めた父。

113
主に父が帝の招聘に応じてから今に至る話。既に聞いた事でもあったが、一刻ほど経った頃には今日まで追いついた。
何故参内を命じられ、如何なる朝議が行われたかにも言及。
十万超えの足利軍が迫る中、新田義貞では止まらず、北畠顕家は間に合わない。起死回生の策を出すために呼ばれた。
父に頼るのが遅れたのは、足利への侮りと事後処理の遅さ。
父は帝に一つの策を献じた。
帝には比叡山に御動座頂き京を明け渡す。これには意味がある。
足利軍は、膨張した十万のために兵糧不足に陥っている。
行軍途中での略奪を予定していたが、皆が味方についたのではそれもままならず。
京の食糧を出来る限り比叡山に持って行けば、足利軍は入京早々飢餓に襲われるだろう。

114
更に、乗せるとあれほど厄介な尊氏だけに、京に招き入れてから奪還する。それでも手強ければ和議を結ぶ手もある。
だがその献策の結果どうなったか。血の気が引く多聞丸。
結論からいえば、父の策は受け入れられなかった。公家の一人、坊門清忠が、半年前に動座したばかりで、度々となると帝の御威光を傷付けると真っ向から反対。思わず体を起こす多聞丸。
戦において、敵勢より身内のほうが恐ろしい。父の見解。
「坊門清忠ですね」多聞丸の中で何かが音を立てた。子供がこんな思いをしたと知れば、民は「鬼が宿った」と思うだろう。
「愚か者」この日、父は初めて叱った。嗚咽を嚙み殺す多聞丸。

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「坊門殿を恨むな」と諭す父。彼は汚れ役を買って出た。
父は坊門の言い訳を待たずに一言、解りましたと告げた。
「解らぬでもないのだ」と父は言う。血脈が尊いだけで崇敬を受けるとは考えられない。そもそも理由を求めてはならない。
太古の昔から、帝とはそうであったという事実が全てであると。


これこそが廷臣たちの考えの根幹にある。
だが一方公家には二種いる。帝を敬い、愚直に守ろうとする者。
帝の権威を利し、己の立場を守ろうとする者。
坊門がいずれかは判らないが、行きつく答えは
「同じよ」と父は苦く頬を緩めた。

116
「帝は何と」公家の言うことより帝の御意志が優先である。
「行けと」父は静かに答えた。
沈黙を守っておられた帝と目が合った。
その後目を逸らされた時、全てを悟った父。
「正成、尊氏を討て」直後に後醍醐帝はそう仰せになった。
「真に行かれるのですか」「すでに河内には使者を送った」
楠木軍が動員可能なのは五千。新田軍の残り一万を合わせても足利軍の十万に対して勝敗は明らか。
「何か秘策があるのですね」「さて」悪戯っぽく笑う父。
確信を強めた多聞丸は「私も行きます」
「初陣を飾るか」「そのために私をお連れになったのでしょう」
京への同伴も、帝への拝謁も、全てはこのためと思っていた。

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覚悟を問われれば正直疑問もあったが、恐ろしくはなかった。
「解った」何かを言いかけたが、父は静かにそう言った。
一刻以上話した内容は、山鳩の鳴き声まで覚えている。

「それが出陣の前日のことです」そんな事があったのも母は一切知らなかった。「そうですか・・・」
ここから先は、母にとって更に辛い話。一つはすでに父の死まで十日を切っていること。母はいまなお悲しみの中。
そして今一つはこれから話す内容。それは母が描く父の像とは乖離するものであり、困惑と苦悩を与える。
だが己の本心を打ち明けるためにはどうしても言わねばならぬ。
その話が、今の多聞丸の考えを決定付けた。
「桜井の話を」と言うと母は息を整えて頷いた。

翌日、多聞丸は初めて甲冑を身に着けた。
本来ならば行う初陣の儀式は一切省いた。

118
ただ、父自ら甲冑を付けてくれながら要所を教えてくれた。
百騎ほどで京を発ったのは昼前。いつ他の楠木党と落ち合うか聞いたところ「摂津で合わさる段取りだ」と父。
感嘆する多聞丸。五千にも及ぶ軍勢を秘密裏に準備したのは、足利方の密偵を油断させるためか。「まあな」と曖昧に答える父。
父が用意した甲冑は三、四年後を見越して大き目であり、さすがに兜は締めても不安定だった。

「いずれ合います」と多聞丸。
洛中を百騎ほどが行軍する姿は、京ですぐ噂になった。
どうも楠木らしい。そのように聞きつけたのだろう。

119
洛中の行軍で見物人が集まって来る「やはり楠木様だ」の声。
「御屋形様は人気なのです」とは郎党の一人のことば。
鎌倉方の大軍を寡兵で翻弄した父のことを、当初は仁王の如き者と想像していたが、実際には話しかけられれば気さくに応じ、人気はうなぎ上り。「俺が武士らしくないだけだ」と言う父。
時を追うごとに人だかりは増えていく。
その光景を見て、ただただ父を誇らしく思った。
父はふいに行軍を止めて、世話になった商人と話し込み始めた。
聞こえる年嵩の二人の会話。「それにしても少なくないか?」
「河内で兵を集めるんやろ。五千にはなる」
なかなか事情通とみえる。とはいえ足利軍が京に向かっているとは、今や市井の隅々に伝わっている事らしい。

120
足利は十万を超えると聞いても、楠木様なら心配いらんという言葉で「己の父だ」と自慢したい気持ちを堪える多聞丸。
洛中を出たら一気に人出が減った。「間もなく落ち合う」と父。
それは叔父 正季のこと。己や次郎にも目をかけてくれる。
「ああ、大原駅だ」律令制で四里ごとに配置された駅。
「他の者は別の呼び方をしている」「別の?」
大原駅には一本の立派な桜の木がある。誰がいつ植えたか不明。

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祖父の代には既にあったそうで、樹齢は二百年ほどか。
「桜井の駅と」父はそう教えた。美しい名前だと思った。
話していた通り、駅には桜の木が一本立っていた。
季節は五月。花は散り果て、青々とした葉が茂る。
促されて父と共に座ると。じっと己を見つめる父。
「どうかしましたか?」「大きくなったと思ったのだ」
郎党から聞く、戦場での父の威厳からは想像出来ないほど穏やかな父。敵を前にしたら豹変するのかも知れない。

122
「来たか」父が立ち上がった。正季の軍勢がやって来たのだ。
挨拶する正季は、多聞丸にも気付いた。怪訝そうに父を見る。
「ここだ」「なるほど」兄弟だからこその意思疎通。
「半刻ほど後の出立でよろしいか」「そうしよう」
総動員すれば五千にはなるとの話だが、正季の兵は六百ほど。
その事を聞くと正季は微妙な顔になり「うむ・・・」
「これで全てだ」と代わりに答える父。「合わせて七百騎。これで足利に当たる」「策は・・・」「策などないのだ」
混乱する多聞丸は必死に言葉を探す。「多聞丸、よいか」
「私が聞いても解らないからそのように・・・」

123
「多聞丸」「策は我が子といえども内密にするのが・・・」
「多聞丸、聞け」父は肩をぐっと掴んだ。
父の真っすぐな目を見て、目から一筋の涙が零れた。
「嘘を吐いてすまない」辛そうに目を細める父。多聞丸が思っていた様な策などなかった。父はとうに死ぬ覚悟を決めていた。
「私も・・・行きます・・・」「お主はここから東条へ帰れ」


「何故・・・私にも鎧を」「一度だけでも見たかった」
残り少ない親子の会話を慮って、郎党たちは距離を開け、中には涙ぐむ者もいた。そして多聞丸にゆっくりと語り始める父。
「七百しか連れて行かぬ訳は解るな」頷く多聞丸。

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この戦、百中九十九まで負ける。それは五千でも数百でも同じ。
ただ五千騎全て出せば楠木家は再起不能に陥る。民を逃がす術すら失う。故に兵力の温存が必要。
その中で七百を連れて行くのは「一厘に賭ける」
「尊氏を討つのですね」「いや、違う。狙うのは別だ」
それは足利直義、高師直の二人。この二人こそが足利家の両輪。
尊氏は、一人になれば必ず和議を結ぼうとして来る。
向こうもそれを解っているから軍を分け、尊氏と師直が海路、直義が陸路を進んでいる。
「陸で直義を討ち、海で師直を討つ。せめて一人は討ちたいが」

125
父はなおも続けた。まず陸の直義に突撃して討ち果たし、引き返して船に乗り師直を討つ。桁違いの寡兵でそれをやるのがいかに困難かは多聞丸にも解った。
「この者たちは、それに付き合ってくれる」と兵を見渡す父。
そして自らの腰から刀を抜いた「小竜景光・・・」

初めて後醍醐帝に邂逅した時、拝領したもの。それを託す意味。
責任の重さに身が震える多聞丸。「私が出来るとは・・・」
「大塚惟正が輔けてくれる」と父。大きな戦で常に共に在った。
齢二十四と若いため今回残らせたが、説得に難渋した。
「今後のことで、もう一つ大切なことを伝えねばならない」
自らが地上から消え去った時、その後に起こること。

126
「俺はきっと英傑にされてしまう」
英傑、英雄、そして忠臣だと祀り上げられるだろう。
人の口を経る度に皆が望む「楠木正成」が創られていく。
父をずっと見て来た母でさえ、きっとそれを信じてしまう。
その時お主は、英傑の子としての期待を一身に集める事になる。
「そう・・・あればいいのですね」父が望むだろう答え。
が、父の一言は全く予想もしないものであった。
「その期待に添う必要はない」「え・・・それは・・・」
「そのままの意味よ。お主はお主の道をゆけばよいのだ」
しばしの静寂のあと「私は・・戦は止んで欲しいと」と多聞丸。
「そうだな」父は穏やかな笑みを浮かべつつ頷く。

127
「何のための戦か・・・私には解らないのです」
「お主にはそう見えるだろう」否定しなかった父。
戦を終わらせるためならば、足利に降ってもいいとまで言う父。
「真にそれでもよいのですか」
世は今の親子のことさえ勝手に作るだろう。父が死んで、世が足利のものとならぬ様、お主を帰す。生き残ったお主は文武に励み、長じて帝に仕え、日ノ本のために働く・・そんな所だ。
だがそんな事は望んでいない。己の思うままに生きればよい。

それで不忠、臆病と言われようとも。それが父の真実だ。
父がそんな考えだったとは、思いもよらなかった。知らぬうちに父を英雄と決めつけていた。楠木正成像の独り歩き。
それを裏切らぬようにと生きて来た父。自身と虚像との乖離に苦しみながらも、これに向き合い続けた。それが真の強さ。
子でありながら、今更そのことに気付いた悔しさ。拳が震える。

128
「ならば・・・行かぬという道はないのですか」と問う多聞丸。
「戦は早くに止めるべきだと思うが・・・俺は進んで行くのだ」
帝のためですか、との問いに
「何故だろうなあ・・・それが人という生き物の妙なところよ」
いつかきっとお主にも解る、と父は多聞丸の肩に手を置いた。
もう話は終わってしまった。この時も終わると思ったら嗚咽が。
「美しいな」濡れた葉桜を見上げて言う父。
「花は・・・咲いておりませぬ」か細い声を漏らす多聞丸。
息を吸い込み、小さく呟いた父「いや、咲いているさ」

129
多聞丸が語る父との別れを、身動き一つせず聞く母。
「父上が討死されたのは、それから九日後のことです」
父は多聞丸と別れ、新田義貞と合流するため兵庫を目指した。
到着したのは八日後の二十四日。これには意味がある筈。
死を覚悟はしていただろうが、最善を尽くした筈。
父が残した「千里先の万人より、一里先の一人が恐ろしい」
新田義貞は歴とした源氏で、軍勢も楠木軍より遥かに多く、合流すれば義貞が指揮を執るのが道理。だが足利に対して連戦連敗。
父は義貞から指揮権を奪おうとしたのではないか。

130
負け続きだった義貞は、父との合流を一日千秋の思いで待ったことだろう。そして、じらせた上での兵庫入り。
二十四日の夜、二人は酒を酌み交わした。


多分そこで父が目論見を話し、了承を得たのだろう。
楠木軍は、新田軍の主力とは別に大小の湊に分散して兵を配した。それは上陸阻止というより、どこから上陸するかの見極め。

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後に「湊川の戦い」と呼ばれるこの合戦。何度となく検証した多聞丸が出した結論。足利軍は陸海合わせて十万とも言われたが、実際は陸一万五千、海で二万程度。それでも新田、楠木合わせて一万五千では、挟み撃ちにされれば勝ち目はない。
そこで海の足利軍の上陸地点を潰して東進させ、離れた湊へ上陸させた時、全軍で突撃する。背後を突かれる前に足利直義を倒し、全軍反転してその勢いで高師直を討ち取る。
これが父の言う「一厘の勝ち」に賭ける策。
だがそれは上手くは行かなかった。
海の足利軍は、長蛇の列を作り、東へ移動すると共に、複数の湊より一斉に上陸。これによればあっという間に足利は上陸出来、宮方は挟み撃ちされる。これを進言したのは高師直だという。

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当初から見抜かれた事で父の策は潰えた。だが父は今後のため、新田軍を温存すべく退却を促す使者を送った。
新田軍の退却後、海の足利軍は上陸。この間の戦いで野田正周が負傷した。
この時点で楠木軍は六百。三万五千の足利軍を相手に四面楚歌の状態。それでも直義、師直いずれかを討とうと楠木軍は突撃を敢行。「それは凄まじいものであったと・・」
多聞丸は瞑目してその光景を瞼に浮かべる。
楠木軍は直義軍を蹴散らし、須磨の上野まで追いやった。
その突撃の数は、実に十六度に及んだという。

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結局最も直義に近付いたのは一度目の突撃。突撃の度に数を減らし、最後には湊川の北の民家で父らは死んだ。
その場に残っていた者は七十三。父は叔父 正季と刺し違える恰好で果てていたという。
「その後のことは知っての通りです」
後に湊川の合戦と言われるこの敗戦で、朝廷は大騒ぎ。
この期に及んで後醍醐帝は比叡山に動座。
足利軍に迫られて三種の神器を差し出した後醍醐帝。
花山院に押し込められたが、後に脱出した後醍醐帝は、神器は贋物であると主張し、吉野に逃れた。


これが今なお続く吉野朝の始まり。互いの位置関係から、足利方を北朝、吉野朝を南朝と呼ぶ者もいる。
共通の呼び名は北朝を武家方、南朝を宮方としている。

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逃れた新田義貞は、その後も戦ったが討死を遂げた。
頼みの綱の北畠顕家は、足利方を倒しながら京を目指したが、長途の旅で疲弊し上洛を断念。
そして奉じていた幼い義良親王を吉野に送り届けた。
湊川の戦いの後、高師直は父を晒し首にと主張したが、尊氏は断固拒み、河内に御首を丁重に送ったという。
父と尊氏は、互いに認め合っていたと思う多聞丸。
そこに大塚惟正が颯爽と現れる。父に後を託されていた。
金剛山系沿いにある葛城山に、多聞丸ら楠木一族や郎党を連れ向かった。そこに父が築かせた隠れ家があった。
その後大塚惟正は武家方と戦い、戦を長引かせた。

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これはかなりの効果があり、武家方は和泉攻めに対して消極的になって行った。だがそれを鼓舞する高師直。
河内、和泉に対する焼き討ちが決行された。
その窮地を救ったのが北畠顕家。援軍が武家方を撃退。
顕家は宮方にとっての最後の希望。故にそれを何とか潰したい武家方。高師直が出撃する。
父の死から二年後の延元三年五月二十二日、両軍が激突。
顕家軍は奮戦するも、希望の火は消えた。
後醍醐帝はその翌年に崩御。後に即位したのは顕家が送り届けた義良親王、後の後村上帝である。
終始劣勢の宮方ではあるが一部支持する者、また天険の地である事が効奏して何とか対抗している。

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顕家の獅子奮迅の戦いにより相当の被害を蒙り国司、守護を残して軍を引き揚げた武家方。
大塚は少しづつ武家方の力を削ぎ、遂には東条の地を奪還。

多聞丸らが戻った時には父の死から四年経っていた。
それから更に六年。野田の復帰、多聞丸の成長もあり、楠木党はようやく往時の六割ほどまで勢力を回復。
故に南朝では「今こそ再び楠木に」と期待し出仕を迫る。
「母上・・・お聞き下さい」覚悟を決めた母。
「楠木はどうあるべきか。ずっと考えて参りました」


父が生前語ったように、楠木正成は英傑になった。

その子である多聞丸への期待の大きさ。
何故この戦は始まったのか。何のために戦っているのか。

考えても答えは出ないが、終わらせる答えは出ている。
「楠木は北朝に従います」

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多聞丸はずっと秘めていた答えを、胸から解き放った。
南朝が期待する楠木家。回復しつつあるとはいえ、大勢を覆すほどの力はない。求めているのは物語。
後醍醐帝を助けるために立ち上がった父。その子後村上帝を、同じく子である多聞丸が助けるために立ち上がる。
この上ない美談が日ノ本を駆け巡り、強大な力になる。
だがここで己が北朝に従えば、それが一気に崩れ去る。
早ければ一年ほどで南朝は立ち行かなくなる。
日ノ本から戦は絶えることになる。
意外なほど母は驚かなかった。
「私は死にたくありません」多聞丸ははきと言い切った。
父の死後、己には北朝を滅ぼす道だけが敷かれていた。
だが現実には厳しい。それでも命を賭しての戦いを望まれている。これでは死ぬために生きているようなもの。
「これが臆病ですか」「それは・・・」
「私は母上や次郎と、新兵衛や新発意と、東条の民と・・・皆と生きたいのです」
これが本心。北朝でも南朝でも構わない。
ただ、己が愛する人々が生きていてくれれば。



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多聞丸は真っすぐに見つめながら暫し待ったが、母は何も言わない。ただ肩を落とし、深く項垂れるのみ。
随分と小さくなった母。喉元まで言葉が込み上げた。
だが多聞丸はそれを呑み込み立ち上がると、もう振り向くことはなかった。