新聞小説「人よ、花よ、」(6)第六章「追躡の秋」作:今村 翔吾 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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日々接した情報の保管場所として・・・・基本ネタバレです(陳謝)

朝日 新聞小説「人よ、花よ、」(6)
第六章「追躡の秋」218(3/27)~259(5/8)
作:今村 翔吾 挿絵:北村さゆり

レビュー一覧
 連載前情報 1前半 1後半       

  10

 

感想
前章の後半で高師直が画策した、弁内侍拉致の計画。
多聞丸らもその情報を得て、索敵を行うための「波陣」を用いて探索し、まさに襲われんとする弁内侍一行を保護した。
ところがどっこい、感涙するかと思われた弁内侍は、その美しい口からジャンジャン厳しい言葉を放つ。
読者ボー然。多聞丸も初めは冷静だったが次第に語気が強まる。
そんなやりとりの中で、突然多聞丸の心が動く(253話)
怒りでも、苛立ちでも、呆れでもない・・・それって恋情??
その先もあちらこちら腹立たしい言葉を投げる弁内侍は、とどめに多聞丸の諱まで聞いてしまった。
行きがかり上、相手の名も「茅乃」と訊き出した多聞丸。
伝え聞く話とはずいぶん趣が違う(コチラ
駕籠を見送った多聞丸の吐いた、息の意味や如何に・・・・
オマケ
>二重だが切れ長の涼しげな目 という作家先生のムチャ振りにも対応する挿絵作家の北村さゆりさん(お疲れさま)
二重のリクエストは切り捨てたか(奥二重?)    

それがいきなり三白眼に(爆笑)



次章は「皇(すめらぎ)と宙(そら)」
いよいよ後村上帝に謁見か??


あらすじ
第六章 追躡(ついじょう)の秋
218
屋敷を出た多聞丸。ここ毎日のこと。香黒だけが供。
夏はすっかり果てかけ、秋の匂いが際立つ。
前回、大塚らと話してから一月ほど経った。
足利直義、高師直両名と繋がれる道は見つけたが、一朝一夕で辿れるものではない。

219
「あ、今日はゆっくりだ」という童の声で思い出した。


以前この道を駆けた時、母に慌てて口を押さえられていた。
「手伝って偉いな」と呼び掛けると「御屋形様なんでしょう?」
意味も解らないだろう。しばしのやりとり。

「新平太!」と叱る母親。
「いや、話していただけだ。なあ?」「うん!」と倍の元気。
「あちこち見回っている」の返しに「何で?」何にでも興味。
「皆の田の様子を見るため。困り事があれば助けなくては」

220
「困っているよ」とすぐ訴える新平太を止める母親。「何だ?」
「おっ父が死んでしまって、おっ母は一人で大変なの」
母親の話では、望んで湊川の戦に出たとのこと。この戦では父も百姓の徴兵を止めたが、志願した者もいたという。亡き夫が幼い頃酷い飢饉があり、それを先代様がお救い下さいましたと言った。父は備蓄を全て吐き出し、領民に米を配ったとの事。
その甲斐あって河内、和泉の領民の死人は少なかったという。

221
この母親も当時を知らないが、亡き夫は常日頃その御恩に報いたいと言っており、父の許に馳せ参じた。そして戻らなかった。
その翌年新平太が生まれた。
「困った事があれば・・・」と先の言葉しか言えない多聞丸。
不満そうな新平太を叱って、深々と頭を下げる母親。
最後の戦いに臨む時、父の思いは如何ばかりだったか。
いつかきっと、お主にも解る。そのような気がするのだ--
未だにその答えは見つからないが、不忠の汚名を着ても河内と和泉の民は守りたいと強く願っている。
翌日も香黒と共に朝早くから村々を回った。四半時ほど進んだ時、背後から馬が駆ける音を捉え、香黒の耳が動いた。

222
曲がり角から砂塵を上げた一騎が飛び出す。石掬丸だった。

「大塚様がお越しです!」普通ならわざわざ呼びに来ない。
「動きがあったということだな」
「件の女官、払暁に吉野を出たとのことです」
急ぎ戻って大塚の話を聞く。「困ったことに・・」と言う大塚。
弁内侍の動きを探るのに使ったのは、例の妬心を抱いた女孺。
弁内侍が出る時には必ず報せるとの約束を取り付けた、
その者が、昨夜外出を知ったとのこと。弁内侍が昨夜外出の支度をするのを見て、理由を訊いたが行き先も語らなかったという。

223
普段より供も少なく女房が二人、青侍が三人だけ。女孺が立てた使者が大塚のところに来たのは、弁内侍が発ったのと同時期。
「どういうことだ」何故弁内侍は行き先を隠す。怪しさが増す。
我らに気付いての事ではなく、師直に対する配慮かも、と大塚。
追う手掛かりはあると言う大塚。出立から三刻、吉野から六里以内の何処か。つまり大和、和泉、河内のいずれか。
逆に、近場なら既に着いている・・・・

224
払暁に出発している事から、それなりの距離だろうと言う大塚。
「で、如何に」と訊く多聞丸に「波を」と言う。「やれると?」
多聞丸の胸がとくんと鳴った。「今の御屋形様なら」
生前父が編んだ三つの陣形。巧緻にして複雑。多聞丸は机上で学び、時に吉野衆との喧嘩でも試した。だが大塚が言ったそれは試したことがなかった。いや避けて来た。
その陣形というのが「波陣」「波を組むならば数が必要だ」
大塚は既に呼び寄せている野田、新兵衛にすぐ動かせる者全てを率いて来るよう指示してあった。それも騎馬が前提。
「親父はともかく、新兵衛にその様に命じてしまっては・・・」

225
大きな命令故に「構わぬ」と新兵衛に付け加えた大塚。
あくまで勘だが、ここが切羽な気がする、と言う大塚。
この一件、楠木家の命運を大きく左右するとの予感。
何もせず後悔するよりは、動いて悔いた方が余程いい。
石掬丸が次郎を起こし、次いで野田、更に新兵衛が合流。

総勢百五十七騎が、東条から東へ金剛山と葛城山の谷間を疾駆した。多聞丸は主だった者に、走りながらの評定を行った。
皆選りすぐりの精兵であり、苦にもしない。並んだ野田の後ろに二騎が続く。「弦五郎、道之助。よく来てくれた」二人の息子。

226
温厚そうな長男 弦五郎。勝気そうな次男 道之助。二人は父の仕事を立派に代行。道すがら、野田からあらましを聞いていた。
大声が背後で響く。「兄者!敵は誰だ!?」新発意だ。


今までずっと知らせていなかったため、戦だとの認識。
「お前、黙っておけ!」と怒るが、次郎も遅く知り不満顔。
そこで大塚が、全て拙者が頼んだ事だと言い、また次郎の軽忽な面もぴしゃりと言ったため、しゅんとなる次郎。
次郎にとって、大塚の方が己より父に近い存在だった。

227
「何を!次郎も・・・」と言いかけた新発意に「黙らんか!」
と大塚が一喝。そして「御屋形様、お願い致す」
走りながら弁内侍という女官を探すとの目的を伝えた。そして
「波を行う」「おお・・・」と皆が感嘆。
若い者らは話に聞くあれ、との思い。古参にとっては懐かしさ。
波陣とは・・・父正成が広範囲の索敵を行うため編み出した。
大きい波陣ならば範囲は前後一里、左右二里にも及ぶ。
必ず五人一組となり索敵と伝令を繰り返す。報告が必要な時は一人を切り離し本陣に向かわせる。最大四回の報告が可能。

228
本陣は移動を続ける。一刻ごとに移動する場所を決め、伝令を受けつつ移動。本陣には三十人ほど残し、必要に応じて「波」を飛ばす。本陣の動きを記した紙は各物頭に渡された。


この紙が奪われれば本陣の場所が知られるため「失わず、奪われず、いざとなれば消す」 非常の際は「燃やすか、吞み込む」
「今日中に探り出す」と決意を伝える多聞丸。
本陣は大和国御所、高田、太子、古市、柏原、八尾と移動。
そこで弁内侍を捕捉出来なければ失敗とみなし、明朝には楠木館に戻る。

229
奈良盆地を前に多聞丸は「波陣を始める!」と命じた。
「応!」の声が響き渡り、皆が平野部へと飛び出した。
夫々が散り魚鱗の陣形になった後、徐々に間隔を取って行く。
「まずは北へ、高田に」と補佐の大塚が言った。近くに新兵衛。
この機会に学ばせる意図があるのだろう。
五人一組で二十五組。更に五組毎に大頭を配し現場で判断。
魚鱗の先頭は道に詳しい野田四郎正周。両翼は馬術に長けた者とし右翼を弟 次郎正時、左翼を和田新発意賢秀。
その後方を、野田の息子弦五郎と道之助が固める。


「速さが緩んだか」と呟く多聞丸。野田がやや速度を落とした。

230
「それは・・」「馬を潰さぬためだな」「左様」満足げの大塚。
「必ずや見つけるぞ」の言葉に頷く大塚と新兵衛。
たった一人の女官を見つけるためには、あまりに大仰。南朝のためではなく、また高師直が狙う理由もただの好色かも知れない。
ただ、多聞丸の勘は今回だと告げる。弁内侍の行動も不可解。
そして弁内侍を救えば、我らの道が拓けるとの予感。
「何処だ」未だ顔も見ぬ女に、囁く様に呼びかけた多聞丸。

231
陣は更に広がり、本陣からでは目配り出来ず。
大頭や物頭、また郎党一人づつの規律が重要となる。
「右翼が薄くなったか」との多聞丸に、頷く大塚。この奈良方面は北朝の守りも固く、弁内侍が向かう見込みは低いため、兵力を減らしたのだろう。

「しかし、何故気付かれたのです」
「色だ」と答える多聞丸。空の蒼が戻っていると言った。
騎馬の巻き上げる微かな砂塵が、右翼で薄くなっていた。
だが大塚も新兵衛も、そもそも煙っているかが判然としない。

232
今度は多聞丸が驚いた。今も確かに空は煙っている。
だが二人には判らないらしい。「俺にはそう見えるが・・・」
御屋形様は色の違いに敏いのかも知れないと言う大塚。
思い当たる節はあった。幼少の頃次郎と川へ遊びに行った時も、色を見ればその深浅の見分けがついた。
「何かの役に立つとは思えぬが」と言うが大塚は、必ず戦で役に立つと言い、これは御父上でも出来なかった事だと重ねた。
「父上にも・・・か」父は類稀なる才の上に勤勉を重ねた、完璧な存在。その父に勝ることは一つもないと、ずっと思って来た。

233
色の違いを見るのに長ける、その一つだけでも父に勝ることがあったとの驚き。「なるほどな」と呟く。色に限らず事象も、人の数だけ見え方が異なるのだろう。特にこの南北朝時代は。
「御屋形様、間もなく」と大塚に言われ、我に返る多聞丸。
聖徳太子由来の地 太子に入るが、未だ弁内侍と思しき一行は見つからず。「気を引き締めよ」と檄を飛ばした。
太子でもそれらしき一行は見えず。古市に向かう途中、初めて伝令が駆け込んで来た。一行は未だ見えず、櫟本に向かうという。
更に入れ替わりで伝令が来た。次郎が指揮する組の者だ。

234
これも出会えずの報告。大和路に向かうという。当初予定より広い探索であり、危惧する多聞丸。無理はするなと伝える。
楠木党の進行に百姓たちが驚くが、摂津の荷の護衛だと伝えた。
噂は馬の脚の何倍も早く伝わる。すぐに落ち着くだろう。
進み過ぎているので、古市での休憩を伸ばした。

一騎の伝令を受けたが会わずの報告。

大和は無いのでは、と思い始める多聞丸。
密告者の女孺の話では、駕籠舁き四人に交代する者二名を加えているという。このため近場はないと判断した。

235
女房、護衛の青侍も加えると総勢十二名。近場なら見つかる筈。
柏原辺りで伝令が来て、それらしい一行のことを報告。脇道の水場で休憩していたとの事。古市の方へ進んだらしい。状況からいって八尾近くが怪しいと見立てた多聞丸に、満足げに頷く大塚。
弁内侍と思しき一行は限りなく近い。「今すぐ発つ」
ここが切羽と考え、休憩を切り上げて本陣を動かす多聞丸。

236
柏原から八尾へと向かう。先行の、野田組の伝令がやって来た。
不穏な一行を見たという。弁内侍でなく男ばかり三十余あまり。
高安の辺りだとのこと。弁内侍との関わりは判らぬが、数が尋常ではないと野田も言っている。
悪党の集まりではないとは大塚、野田共通の意見。
「我らに呼応したのでは・・・」と不安げな新兵衛。

237
それは、楠木家が挙兵したと勘違いして近在の豪族が動いたか、北朝が探りを入れたか。いずれにせよ今の時期には不都合。
「それも考えにくい」と大塚。波陣の者は軽装で出陣に見えず。
更に我らの様な最速の動きに呼応しての出兵などない。
「つまり、我々とは無関係に何者かが動いている・・」と大塚。

「あるいは我らと同様、弁内侍を追っているかだな」と多聞丸。
真っ先に思い浮かぶのは高師直。だがこちらの方が遥かに近い。
弁内侍はすでに罠にかかっているかも知れない・・最悪を予感。
追うよう言う前に、既に二組割いて追っていると返す伝令。

238
その者らの居る場所が弁内侍の居場所に違いない。
「御屋形様」決断を迫る大塚。予定通りに進むか、その一団を追うのか。一瞬多聞丸は激しく思考を巡らし、一気に下知した。
五騎を残して波を続け、更に五騎は右翼の次郎をこちらに向かわせ、残る十七騎で高安に向かう。ぱっと本陣が三手に分かれた。

河内国高安は肥沃な地ではなく、西側には湿地帯が広がる。
このため田畑を作れる場所は少ない。
「ぬかるみに気をつけよ」大塚が皆に注意を促す。

239
蹄の音が消え、水音が目立つ様になった。湿地帯に入った。
「見当たりませんね」と新兵衛が焦りを滲ませる。
「真にいるならば東だ」生駒山地の西側は湿地であり、山麓側に村々は集まっている。弁内侍が訪ねるならその辺りか。
「御屋形様、前から馬が来ます!」目の良い石掬丸が叫んだ。
一騎が向かって来るが、乗り手は突っ伏している。問われてやっと顔を上げたのは、野田の郎党の山田。額の傷で顔は朱に染まっている。手当てを受けながら、山田が絞るように呼んだ。
「御屋形様・・・お伝えします・・・」頷く多聞丸。

240
「件の一団を見つけました・・・」野田の放った二組が信貴山麓の手前で打ち合わせをしている時、その一行を見つけた。
声が届くまで近づき「楠木の者だ。何処の御方か」と問うた。
相手が笑みかけて、相談したい事があり楠木殿を訪ねるところだったと言う。商いの話かと思った瞬間、一斉に襲いかかられた。


降り注ぐ刃を受け、少なくとも二人が逃げられなかった。山田は一撃を受けたものの、仲間に助けられて報告に走った次第。
「誰だ、金毘羅の残党か」と大塚が独りごちたが、山田は気になる事を耳にしていた。

241
混乱の中、郎党の一人が楠木との戦を危惧したが、物頭は「楠木何するものぞ。戦になればその時の事」と笑い飛ばしたという。
「すぐに向かう!」と言い、山田に向き合う多聞丸。
「解っています・・・」人を残す余裕がないのを理解していた。
「追うぞ」走り出す一団。「そやつらは師直の手の者だろう」
「ほほ間違いないかと」即座に頷く大塚。
北朝に降る先は、今のところ直義優先だが師直も捨てていない。
「師直は捨てる」 「御意」
師直を見誤っていた。この男、南朝と戦をしたがっている。

242
北朝で最も戦巧者の師直が派閥拡大を図るなら、南朝との戦が手っ取り早い。南朝が降ることも望んでいない。
端から直義に賭けるしかなかった。
山田たちが襲撃を受けた付近に百姓らしき者が数人いた。用心深く近づき訊くと、畑仕事をしている時に乱闘が始まったとの事。
そこに倒れている者二人。一人は絶命、もう一人はまだ脈があった。一人を残すと言い、百姓に助力を頼む多聞丸。
「貴方様は・・・」百姓の一人が思わずといった様に漏らした。

243
「御屋形様だ」 「えっ--」大塚の言葉に驚く百姓。
道が二手に分かれており、夫々で追い掛けるか思案の大塚。
若い百姓が、その者たちの走った道を指差した。
助けに入れず詫びたその百姓に礼を述べ、走り出す多聞丸。
砂を撥ねて坂を駆け上る十六騎。景色が開けて三町ほど先に人の群れを目に据えた。石掬丸が女官も見立てた。
二町ほどに近付いた時、群れの騒めきが大きくなった。
「このまま切り込む」 「はっ」

244
大塚の指示で左右の八騎が先行し、突撃の構えとなった。
多聞丸が小竜景光を解き放つと、大塚らも太刀を抜き払う。
「掛かれ!」一斉に突貫する楠木党十六騎。
振るう太刀で敵の四、五人が吹き飛ぶ。こちらも馬をやられた者が出る。大塚、新兵衛らの動き。石掬丸の礫。


多聞丸が目の端に駕籠を捉える。外を窺う女の強張った顔。
「新兵衛!石!」意図をすぐ察した二人は駕籠に走る。
敵の抵抗もさることながら、楠木党の威勢が遥かに凌ぐ。
「次郎様です!」石掬丸の喜々とした声。
一群の騎馬が、砂埃を舞い上げて向かって来た。

245
その数二十数騎の姿を見て、相手側の物頭が「退け!」と叫ぶ。
死守と逃散のメリハリ。相当な訓練を積んでいる。
息のある敵方の手当てを配下に命じた多聞丸だが、目の前で皆が自害した。その光景に、女官らの悲鳴があがる。
多聞丸の横に大塚が近づいた。ここまでする者はいないと言う。
「迷いがなかったな」 「はい、質がいるのかもしれません」

246
命令通りに為さねば、身内に累が及ぶことがあるのかも知れぬ。
「やはり高家の者か」 「恐らくは」答える大塚。
精兵を抱え、冷酷非道で神をも畏れぬ男、高師直の仕業。
「兄上!」次郎が配下と共に辿り着く。凄惨な光景に驚いた。
年嵩のほうの女官が口を開いた。「あ、貴方方は・・・」
声が震え、顔は紙のように白い。「楠木です」 「あっ--」
名乗った多聞丸に、女官は小さな吃驚の声を上げ安堵した。 
「新兵衛」「ご無事です」新兵衛は駕籠を一瞥して頷いた。

247
乱戦の中、駕籠を死守した新兵衛と石掬丸。
「お待ちを」内側から御簾が押された事に女官が気付いた。
御簾が上げられて姿が顕わとなった。---これが弁内侍。

二重だが切れ長の涼しげな目と高い鼻梁、薄紅色の唇。
上品さと共に艶やかな色香が滲む。刺すほどの美しさ。
「おお・・・」思わず周囲の郎党から感嘆が漏れた。
「無事でしたか」声もまた玲瓏たるもの。
女は無事だったが、青侍三名の犠牲を告げる女官。
「こちらは・・・」多聞丸らを紹介しようとする女官に
「聞こえていました」と弁内侍は遮るように言った。

248
改めて女官が弁内侍を紹介する。皆その美貌から察しはついており、驚きはない。女官自身は稲生と名乗った。そして
「御大将は・・・」と言いかけて大塚に視線を止めた。
大塚が説明しようとした時、弁内侍が静かに窘めた。
「稲生、違います」そして多聞丸の前へ歩を進めた。
「楠木左衛門尉様とお見受け致します」 「その通りです」
狼狽する稲生。「まずは御礼を申し上げます」
まず・・・か。頬が苦く緩みそうになる。含みでもあるのか。
一刻も早くこの場を離れようと言う多聞丸。

249
「お尋ねしたいことがあります」意思の強そうな目。


見様によっては不遜な態度。「何でしょうか」と返す多聞丸。
「如何なる訳でしょうか」「と、申しますと?」呆れを殺した。
「何故、楠木様はここに来られたのでしょうか」助けに来ずとも良かったとも取れる言葉に狼狽える稲生。
領内の見回り中、賊に襲われるのを見掛けたと説明する多聞丸。  
「嘘を仰いますか」弁内侍の言い放つ言葉に、場が凍り付く。
呆れる大塚たち。石掬丸でさえ眉を顰める。取り乱す女官たち。
「先刻楠木様は、やはり高家の者かと尋ねておられました」

250
「地獄耳ですな」遂に苦い息を漏らす多聞丸。侮りがあったか。
高師直が私を狙っているのを知っていた、と鋭い目で言い放つ。


感謝もそこそこに詰問を受けるとは、想像とのあまりの乖離。
郎党たちも己の顔色を窺う馬鹿々々しさ。どうにでもなれ。
「左様、よく解りましたな」「お認めになりましたね」
噂になっていると返す多聞丸。事実高師直が探っていた。
今日、私たちが襲われるのも知っていたと言う弁内侍は、馬の息遣いが荒かったと言った。意思を持って駆け付けた証拠。「らしいぞ」と香黒を振り返ると、心外だとばかりに鼻を鳴らした。

251
楠木様の馬は特に優れており、他の馬は皆そうだったと言う。
低く嘶く香黒。さしずめ”良く解っている”との返しか。
助けを呼んだ者に導かれたかも、と話せば先刻「見掛けた」と言ったと切り返された。「そうでしたな」と苦々しく零す多聞丸。
広い河内で、襲われている最中に偶さか出会うとは思えない、とも言う弁内侍は、何が狙いなのです、と問うた。
助けようと思ったのは真。我々も攫うとお思いか、との返しには
「そこまで愚かとはおもっていません」その凄まじさに呆れる。
更の詰問に「貴方の、次の外出がいつかを探っておりました」

252
高師直の、弁内侍に対する執着を知り警戒していた。それで知人に弁内侍の動向を教えてくれる様頼んでいたと告げた。


「菜桐ですね・・」と呟く弁内侍。認める訳にも行かず惚けた。
今日になって貴方が吉野を出たのを知ったと言うと
「何故、早くに助けて下さらなかったのです」「何と」
ずっと後を尾けていたのなら、すぐに助けてくれれば誰も死なずに済んだとの論法。青侍の屍へ目をやり、唇を震わす弁内侍。
誤解だと言い返す。見つけてすぐ駆け付けたが、探すのに難渋した。ここだけでなく、もっと多くの者が貴方を探している。

253
百五十超を動員し、波陣による探索で見つけ出したが、それも万が一に備えてのこと。こちらにも死人が出ている。
「えっ・・・」これには弁内侍も衝撃を受けて絶句。


その瞬間、心が沸と動いた。怒り、苛立ち、呆れでもない。
知らない感情。一気に畳み掛けた多聞丸。
師直に狙われている事を知りながら、何故悠長に私用で出掛けたのか。師直の動員能力を考えれば多くの護衛も必要。
「北の方様が逢いたいと仰せだったのです」と声を絞り出す。
親代わりとして育ててくれた日野行氏の妻、北の方のこと。
それも承知、と師直の罠という事もあり得ると返した。
「本気で言っておられるのですか」怒りを露わにする弁内侍。
女官も、大塚らも双方を止められない。

254
師直の執着は知っていた筈。相手が一計を打つことは十分考えられる。書状は誰から受けられたか?
「梅枝・・・」はっとして目を泳がせる弁内侍。否定しようとするのを「人は変わるのです」ぴしゃりと言い放つ多聞丸。
己たちの探索は見破れても、身内の離反は信じたくないか。
待ち合わせ場所は?の問いには素直に応じた弁内侍。
弁内侍は吉野に送り、別途待ち合わせ場所にも行く。
その同伴に稲生を指名した多聞丸。

255
新兵衛に弁内侍を送り届ける命を出し、次郎には波陣を終え東条に戻るよう指示した。待ち合わせ場所には多聞丸が行く。
「では送らせます」多聞丸が促すが、駕籠に行かない弁内侍。
「まだ何か?」「もう一つだけ」よく喋るお方だ。
先刻、河内が我らの地だ、と言った多聞丸の言葉尻を捉えた。


「日ノ本六十余州、遍く帝の地です。楠木様は帝から河内を預かっているに過ぎません」
建前はそうだが河内は楠木の先祖、一族が治めて来たもの。
後醍醐帝から任ぜられずとも、河内に根を張り生きて来た。
大人になれ、と思った時、昨朝の新平太の顔が頭を過ぎる。

256
「ならば帝は怠慢ですな」「取り消しなさい!」悲鳴の様な声。
構わず続ける多聞丸。飢える者で溢れ、薬も飲めずに死ぬ者の多さ。帝の地だと言うならなぜ民を救わないのだ。
その地を預けられた者が・・と言いかけるのに

「人を見る目がない」「貴殿は正気ですか」「正気です」
荘園を横領する者の話をするが、そのための戦で民が苦しんでもいいのか、と静かに問う多聞丸。

「それは・・」と詰まる弁内侍。
それでも意を決して「帝とは・・・それほど尊い存在なのです」
「私はそうは思わない。誰かのために散ってよい命などない」
細く息を吐く弁内侍。その全身から力が抜けて行くのを感じた。

257
「楠木様とは到底解り合えそうにありませんね」と言い放つ。
「そうかも知れませんね」「故に・・・」
「それとこれとは別です。今は河内のため駆け回っている」
故に帝の招きに応じないのか、と訊こうとした先を制した。
「それは承知しました」当然応じざるを得ないだろう。
諍いにケリをつけて駕籠に案内しようとしたところで
「最後に名をお教え願えますか」と尋ねた。
この段になって堂々と名を訊ける神経に驚く。我らは姓と官職だけでこと足りる存在。他の廷臣たちも似たようなものか。
「恐ろしいですな」「え・・・」
多聞丸は思わず漏らし、弁内侍は怪訝そうにする。

258
名も知らず、呼びつけ、そして、--戦え、と命じるのだろう。
たとえ死するのが明らかでも。父がそうであった様に。
「いえ・・・正行です。正しく行くと書く」

「楠木正行・・様ですね」
弁内侍は何度か頷き、お辞儀をして身を翻しかけた。


「名は」と、多聞丸は呼び止めた。既にご存じでは、との返しに
「弁内侍は名ではないでしょう」

「それは・・・」と顔を曇らせる。
「私は名乗ったのです」多聞丸はふわりと続けた。南朝への反発心もあったが、この女官に妙なまでに興味を抱いてしまった。
「解りました」引き下がりたくないのか、負けん気が瞳に滲む。

259
弁内侍は名を告げた。小さいが凛とした声。
「茅乃殿・・・ですな」多聞丸の声も虫の羽音ほど。

頷く弁内侍。
促されて駕籠に乗り込む茅乃。出立を命じる新兵衛。
多聞丸たちが来た方角に進む一行。坂道の頂きから消えて行くそれを最後まで見届けた多聞丸は、細く息を吐いた。