写経屋の覚書-なのは「今回取り上げる浜松事件は、以前にも一回触れているんだ」

写経屋の覚書-はやて「浜松事件?そう言うたらなんか聞いたことあるような…」

写経屋の覚書-フェイト「えーっと…あ!『朝鮮進駐軍』初出テキストの検証(4)で見た、北斗星の投稿、所謂テキストB0に出てきたよね」

写経屋の覚書-なのは「そう、それだよ。北斗星はこんな風に書いていたね」

 直後に總理大臣に成る程の大物でも如斯 況や庶民に於てをや 土地も屋敷も物資も操も、奪ひ放題であった 殊には、空襲や疎開で一時的に空いて飽いてゐる土地が片端から強奪された 堪りかねた警察が密かにやくざに頼み込み、「濱松大戦争」になった

写経屋の覚書-はやて「この投稿っていつ見ても頭悪い文章やねぇw」

写経屋の覚書-フェイト「あのときは『静岡県警察史』の「浜松乱闘事件」の項を引用して明確に否定したよね」

写経屋の覚書-なのは「うん。今回は、別の史料も加えて詳しく取り上げて見るの。じゃ、最初はもう一回、静岡県警察史編さん委員会『静岡県警察史 下巻』(静岡県警察本部 1979)のp772を出しておくね」

写経屋の覚書-静岡772

浜松乱闘事件 新警察制度発足後間もない昭和二十三年四月四日、五日の両日、浜松市の中心街において地元香具師と在日朝鮮人が抗争、けん銃や猟銃を乱射し日本刀を振回すなど、市街戦さながらの流血闘争を繰り広げ、死者三人、傷者一四人を出すという事件が発生した。
 浜松市警察署では、静岡以西の各警察署から多数の応援警察官の派遣を求め、鎮圧捜査に当たった。この結果、一八人を逮捕し、回転式けん銃四丁を押収した。
 同年八月四日静岡地方裁判所浜松支部は、無罪一人を除く一七人に対して懲役四年~同六か月を言渡した。

写経屋の覚書-はやて「死者が3人も出とるんやね…ほんま「戦争」や」

写経屋の覚書-なのは「警察庁刑事部捜査課『刑事警察資料第33巻 戦後に於ける集団犯罪の概況』(警察庁刑事部捜査課 1955)のp87~92には、もっと詳しく書かれているんだよ」

写経屋の覚書-集団概況87
写経屋の覚書-集団概況88
写経屋の覚書-集団概況89
写経屋の覚書-集団概況90
写経屋の覚書-集団概況91写経屋の覚書-集団概況92

    一 浜松事件  (静岡)
(一)事件発生の経緯
 1 遠因

 この事件は朝鮮人と日本人小野組(香具師)間の勢力争いである。
     浜松市千歳町八一
         県会議員(興行師) 小野近義(四四)
は、浜松市及び近在の興行師、香具師間に相当の勢力を有し、乾分数百名を擁する所謂東海の顔役として知られて居るものであつたが、昭和二十二年四月施行された県議選に無所属で出馬当選してからは、表面的行動を避けつつも、依然その実権を掌握していた。
 一方浜松市朝鮮人は当時約八〇〇名であつて、同市国際マーケツトは、朝鮮人呉判述外数名が出資して昭和二十二年四月頃建築し爾来マーケツト内に各種商店喫茶店等を経営し、通称闇市と称せられていたが、昭和二十二年八月頃より同マーケツト二階にダンスホールを兼営し、その頃より近在及び名古屋豊橋方面より不良朝鮮人が出入りする様になり、不良団の溜りのような存在なつていた。
 以上の情勢下で朝鮮人の勢力が急激に増大してくるに及んで両者の存在は必然的に縄張争いを生じ、互いに反目するに至り朝鮮人対日本人の喧嘩も数回に亘り発生し、此の間にあつて小野組長小野近義は、その仲裁をしていたところがその仲裁の結果はいづれも朝鮮人側の不満をかい、両者間は民族的対立観をも加へて両者の反感は深刻なものとなつていた。

2 近因

  昭和二十三年四月四日前記国際マーケツトにおいて、朝鮮人の主催による「ダンスパーテー」が開催されたが、同パーテーに出演する予定の新村楽団(小野組の楽手)が当日小野組輩下の競輪出場のため出演できなかつたので、右パーテーが流会同様になつたため、これに憤慨した朝鮮人側は、
「楽団員の欠席は小野近義の指しがねによつたものである」と曲解し、朝鮮人金彰石ほか数名の者は同日午後四時頃右小野近義経営に係る浜松市内千歳町所在明治喫茶店に赴き「小野を出せ」と怒号しながら、乱入の上、同店舗ウインドウ硝子その他家具等を破壊する等の暴力行為をなしたこのことが本件発生の発端となつたものである。

(二)事件の概要

1 前記の朝鮮人の殴り込み暴行事件に憤慨した小野組輩下では日頃の欝憤を晴らすはこのときとばかりに、各々仲間を糾合し報復の準備を整へ、一方朝鮮人側も小野組よりの反撃を予期して仲間との連絡を緊密にして前記マーケツト附近に集結するとともに金彰石ほか六名は、午後十時頃市内大土町小野組配下香具師本宮末吉方ヘその動静を窺うべく赴き、拳銃を擬して同家裏口より侵入し、家具その他器物を破壊した。此のことあるを予期していた小野組乾分も猟銃を持つてこれに対抗するに至り双方次第に人員を増加し、遂に各々約五〇名位が市内田町、鍛冶町伝馬町の各中心街に於て相互に発砲乱闘するに至つたものである。該事件は警察官の出動により乱闘五〇分位で一応鎮静に帰したが朝鮮人側は負傷者三名を出した。
2 翌四月五日午後五時に至り双方共各地より応援者が来浜し、再び不穏の状態に立ち至り、午後七時二十分頃朝鮮人数名が小野近義方に至り拳銃を発射したため、これを契機として双方各々二〇〇名位が同市千歳町旭町鍛冶町、田町、その他市内中心街各所において発砲撃ち合いをなすと共に建造物器物等を破壊するに至つた。
 特にこの乱闘の主なものを挙げれば、
 同日午後七時三十分頃香具師側約二〇名は浜松市旭町国際マーケツトを襲撃し、同所建物正面入口附近及び器物を破壊し、これに加勢した群衆もあり、朝鮮人側約二〇名がこれに対抗し発砲した。
 さらに香具師約二〇名は同時頃同市田町所在料理店金泉館、(朝鮮人経営)を襲撃猟銃等を発砲して、建物及び器具を破壊し続いて同日午後九時四十分頃前記香具師は同市田町明月旅館(朝鮮人経営)を襲撃し、建物及び器物破壊の拳に出た。これに対し、朝鮮人側は暗闇の物影より前記香具師をよう撃した。
 これらの暴挙で市内は相当の混乱を極め、死者三名負傷者一三名を出した。

(三)事件の処理

1 四月四日第一乱闘事件発生と同時に、所轄浜松市警察署においては全署員を非常召集すると共に、東浜名地区警察署に応援を要請し武装警察官及び捜査員一九五名を現場に急派して拳銃の威嚇発射により、事案の鎮圧竝びに被疑者の検挙に努めた結果、午後十時四十五分一応鎮静せしめることを得たが、同夜は闇夜のため被疑者は何れも迯走し一名も逮捕するに至らなかつた。
 翌四月五日午後五時頃に至り、静岡県東部及び豊橋方面の各地より双方来援者が集結し、再び険悪化したため、各主要地点において検問を実施し、拳銃その他武器の発見につとめると共に、情報収集係を数箇所に配置し、爾後の動向を注視中、再び発砲による乱闘が開始されるに至つたが、前日同様これが鎮圧と検挙につとめ午後十一時漸く鎮圧、翌六日朝まで六名の容疑者を検挙した。
 静岡県県本部においては本件の重大性に鑑み、六日午前二時頃隊長以下各課長が浜松市警察署に赴き、同市公安委員会及び署長等とこれが対策を協議の結果、同署に警備取締本部を設置し、国警より同日午後一時頃一一〇名の警察官を派遣し、合計三〇〇名の警察官をもつて厳重な警戒と家宅捜索実施の結果漸次平静に復帰した。
 四月六日、なおも朝鮮人は県内外より多数参集する傾向がみられ、同日夜三度険悪な情勢になり連合軍のカーナー少佐外一七一名が出動する等国家非常事態の布告の要請を考慮されたが厳重なる警戒につとめた結果これが布告をみるにいたらなかつた。
 此の間警備取締本部を設置(自警国警三〇〇名)し厳重な取締を実施すると共に、他面捜査検挙係においての家宅捜索を行つた結果四月九日に至り平静に帰したので警備本部を解散しその後の捜査検挙に専従した。
2 捜査検挙の状況
 事件発生後浜松市警察署においては、浜松地方検察庁にも通報し、被疑者の検挙押収捜索に当つたが、四月六日県本部よりの応援により警察取締本部を設置して、その取締実施計画にもとずき捜査検挙係百余名は四月七日、八日、九日の三回に亘り六三箇所の朝鮮人飯場、居宅、小野近義宅その他同乾分の居宅を捜索し、別表一の通り不法物件を押収した。
 被疑者検挙の状況は別表二の通りであるが同期間中双方の首魁者と目される。
   小野組 小野近義
   朝鮮人 呉判述
を逮捕、取調をなしたが、両人共「本件は輩下の中の一部の者によつて、惹起されたものであつて事件発生後これを知りむしろ部下の鎮圧に努めた」と称し、首魁者に非ずと申立て、これをくつがへす有力な資料が得られないので釈放した。
 本件は現場における逮捕者がなく朝鮮人の殆どが迯走し、その後における捜査に大きな障害を来しており頭初における如上の理由等により困難となつたので、暴力行為等処罰に関する法律、殺人、傷害、器物毀棄、銃砲等所持禁止令の各法条により立件送致した。
3 被疑者の処分結果
 本事件により検挙した被疑者は、
   日本人側   一七名
   朝鮮人側   一三名
であるが、これらの被疑者及びその処分結果は別表二の通りである。


写経屋の覚書-なのは「別表のテキストは省略するから、画像で確認しておいてね」

写経屋の覚書-フェイト「いきなり最初に「この事件は朝鮮人と日本人小野組(香具師)間の勢力争いである」って言い切ってるんだね」

写経屋の覚書-はやて「死者も出とるえげつない事件やけど、どうみてもただの抗争やもんなぁ」

写経屋の覚書-なのは「ウィキの在日韓国・朝鮮人の項目には「1948年の浜松事件ではヤクザ、警官隊、占領軍との抗争が行われた」なんて書かれてるけど、所詮はヤクザと朝鮮人の抗争だよね」

写経屋の覚書-はやて「この小野近義って現役の静岡県議会の議員やけど、2年後には副議長まで務めとるからかなりの実力者やったんやろね。ヤクザの親分が議員やっとるいうんは、かつては地方ではようあった話やし、今でも土建業の関係でちらほら聞くけど、なんか本宮ひろしのマンガに出てきそうな感じやねw」

写経屋の覚書-フェイト「進駐軍の少佐が出てきて国家非常事態の布告まで考えたんだね。非常事態宣言は阪神教育闘争のときに出されてたけど、こっちはヤクザと朝鮮人が公権力を無視して公然と武装抗争をやったわけだから、阪神教育闘争とは違った意味で危険な事態だという判断だったのかな」

写経屋の覚書-なのは「そうだろうね。ウィキの浜松事件(抗争事件)だと、警察史のような公式史料は一切引用しないでいろいろ書いているんだよねぇ。正直、作者にしてみれば、きちんと検証や裏付け調査もせず、史料を探しもせずにああいう著作を使える神経が分からないってことなんだけどね」

写経屋の覚書-はやて「せやなぁ。GHQ憲兵の出動なんて有り得そうな話やけど、その実在を担保でけへんからどこまでほんまかわからへんよ」

写経屋の覚書-フェイト「ウィキは研究者が書いてるわけじゃないし、各項目で執筆姿勢や手法、史料の取扱が統一されてるわけでもないもんね。私たちとしては、ウィキは参考程度に見るのはいいけど、依拠したらダメだろうね」

写経屋の覚書-なのは「そういうこと。この事件については、坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』(法務研究所 1959)のp240~241にもあるんだけど、短いし記述だけ引用しておくね」

(五)浜松の香具師と朝鮮人の闘争事件

 四月四日浜松市内の朝鮮人と日本人の香具師各二百名が、演芸会開催のことからけんかとなり、ついに猟銃と拳銃をもつて反撃しあい、それがため双方に死傷者おのおの七、八名を出した。


写経屋の覚書-フェイト「これはちょっと簡潔すぎるねw」

写経屋の覚書-なのは「1948年4月9日付朝日新聞(東京)にも報道があるんだよ」

写経屋の覚書-480409朝日(東京)_浜松

写経屋の覚書-フェイト「4日の事件なのに9日付紙面で報道ってかなり遅いと思うんだけど、いったいどうしてなのかな?」

写経屋の覚書-はやて「GHQの情報統制とか言う人おるん(ちゃ)う?w」

写経屋の覚書-なのは「たしかに、非常事態の布告まで検討された事件だから、GHQが事態が鎮静化するまで報道の差し止めをやったとしても有り得ない話じゃないんだよね。ま、それが証明できるかどうかはまた別の話になるけど」

写経屋の覚書-フェイト「そっか、個人の証言や著述だけでは弱いもんね。でも非常事態の宣言を検討したことも新聞にちゃんと書かれているんだね」

写経屋の覚書-なのは「この浜松事件も、朝鮮進駐軍の実在を証明するものじゃないってことは分かったと思うし、今回はここまでにするね」


 大阿仁村事件        生田警察署襲撃事件    大滝事件
 富坂警察署襲撃事件    七条警察署事件      直江津事件
 坂町事件           新潟日報社襲撃事件    首相官邸デモ事件
 曽根崎警察署襲撃事件   長崎警察署襲撃事件    尾花沢派出所襲撃事件
 津別事件           大野事件           宮城県内の事件


 渋谷事件

写経屋の覚書-なのは「今回は「○○事件」のように名前のついた事件じゃなくて、何個かの事件を見ていくよ」

写経屋の覚書-フェイト「事件1個だけじゃないんだね」

写経屋の覚書-なのは「うん。宮城県で起こった、闇米買出しの取締や密造酒の取締に関する各種の事件なの。1946年1月~2月、1947年7月の話になるんだけど、宮城県警察史編さん委員会『宮城県警察史 第2巻』(宮城県警察本部 1972)のp122~129を見るよ」

写経屋の覚書-宮城122
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 暴状と取締り  終戦直後、朝鮮人は初めはむしろ比較的平静な態度であったが、朝鮮の独立騒ぎを機に暴状の萌芽が一挙に持ちあがった。
 長い植民地統治と精神的抑圧から脱した朝鮮人の一部の者は、敗戦によりうち沈んだ日本人に対し報復的な暴力行為、脅迫、集団不法越軌に走ったのであり、まさに横暴、傍若無人、その限りを尽くすの感があった。
 暴状の最たる行為は、主食の集団買い出しにおいて顕著であった。彼らの県内における主食買出しのおもな対象地域は、登米、栗原、志田、加美の各地方で、特に東北本線瀬峰駅およびその周辺の支線各駅は連日数百人の朝鮮人集団の乗り降りで雑踏をきわめた。
 このころ、列車は復員軍人や疎間者の往来が激しいのに加え、石炭不足による運行削減によって常に殺人的な混乱を呈していたが、混乱の一因は彼らの集団買い出しにあったと言っても過言ではない。
 彼らは、集団の威力を示して日本人を客車の片すみに押しのけ、中央部を広々と占領して買い出しの米を山と積み上げ、あるいは腰掛けに一人で寝そべり、また酒を飲んで騒いだりした。日本人の乗客がこうした暴状を見かねて注意、制止すると、敗戦国民とか四等国民呼ばわりしてば倒し、集団的につるしあげた。
 彼らは完全に戦勝国人気取りだったし、敗戦国日本の法律に従がう義務はないと言って意気まいた。
 二十一年一月十八日付河北新報は、列車利用による朝鮮人の米の買い出しについて、当時の仙鉄局久保業務部長が語った内容として次のように掲載しているが、その記事からその暴状ぶりの一端をうかがい知ることができる。

 半島人の買出しのために専用車を出したりすることは勿論ない。ただ半島人が集団的に車輛を占有し、昇降口に勝手に「半島人専用車」と書いて日本人の乗車を妨害しているのです。勿論鉄道側としてはこれを黙過しているわけではなく車掌や駅員がずいぶん取締りに苦労しているのだが、相手が乱暴なので始末におえない。現に品井沼の駅長と助役は取締ろうとして袋叩きに遭っています。そこで鉄道としては警察当局とも連絡して対策に腐心しているわけだが、どうしても手におえぬ場合は進駐軍の協力を求めたいと考えています。

 朝鮮人の暴状はこれだけではなく、盗み、略奪、暴行などの犯罪を集団的に行ない、その手口もかなり悪質巧妙なものが多かった。この顕著な例はワ号事件である。これは涌谷等在住の朝鮮人数十名が二十二年ころから東北四県をまたに犯行を続けていた集団破蔵窃盗、賍物事件である。
 二十二年二月十九日、総司令部覚書「刑事裁判権ノ行使ニ関スル件」によって、それまで不明確だった朝鮮人に対する刑事裁判権は日本側にあることが確認されたが、勢いづいた鮮人の暴状は、ますます激化する一方であった。
 警察としては、主要駅等における彼らの主食買い出しに対する取締りも徹底的に徹底して実施したし、個々の犯罪に対しても、その都度強い態度で臨んだのであるが、彼らは数を頼んで逆に取締り警察官をおどし、被疑者を検挙され物が押収されると、警察署、駐在所等に押し寄せ奪還を企て、反面日本人の非はどんなさ細なことでも厳重な警察措置を強要するような始末であった。
 こんな状態であったから、特に集団的不法事案に対する警察の態度も自然消極的になりがちで、検挙は二の次にしてまず自体の穏びん解決を図ろうとする風潮になり、場合によっては彼らの要求をのまざるを得ないこともあった。警察官の定員が少なく、警察装備はほとんど無に等しい状態に加え、進駐軍警備に大量の警察力を投じていた当時の情勢下においては、やむを得ないことでもあった。

写経屋の覚書-はやて「やっぱり警察権が不明確やったことが、朝鮮人に対する官憲の取締躊躇の一因やったんやね」

写経屋の覚書-フェイト「ワ号事件って何なのかな?」

写経屋の覚書-なのは「本文にあるように朝鮮人集団の窃盗事件だよ。宮城県警察史にちゃんと載ってるんだけど、優越意識に起因する各種犯罪とまで言えるわけでもないから省略するの」

写経屋の覚書-はやて「せやけど、「彼らは数を頼んで逆に取締り警察官をおどし、被疑者を検挙され物が押収されると、警察署、駐在所等に押し寄せ奪還を企て、反面日本人の非はどんなさ細なことでも厳重な警察措置を強要するような始末」について具体的な事件が挙げられてへんのは残念やね」

写経屋の覚書-なのは「あ、それだったら、続いて詳しく説明されているよ」

 中新田警察署襲撃未遂事件  米産地として名高い志田郡を中心とする大崎耕土も、終戦直後は他の米産地同様に朝鮮人の米の買出し地としてねらわれるところとなり、彼らは陸羽東線や当時仙台、中新田間を運行していた仙台鉄道を利用して、連日のようにその沿線各地に繰り出した。
 特に中新田町では、警察署と目と鼻の先の西町地内佐沢旅館に常時二、三十名の朝鮮人が泊り込み、これらが地元鮮人と組んで米のやみ買いに走り回り、仙台鉄道の列車や同町に通ずるバスは、さながら彼らの専用車の感を呈し、無態、横暴をきわめていた。
 このような中において中新田警察署は、他署と同じように連日きびしい取締りを繰り返していたが、昭和二十一年一月中旬ころのある朝、橋浦弘治部長ほか数名が、中新田駅付近において米の取締りを実施中、朝鮮人数人がリヤカーなどに米を山と積んで運搬中を現認、かってないほどの大量の米を押収した。彼らは例によって不当取締りをなじって警察署に抗議したが、その場は一応事なくすんだ。
 ところが、翌朝になって近郷近在から朝鮮人百数十人がトラック四、五台に分乗して大挙警察署に押しかけ、代表者会見を理由に十数人が署長室に乱入して梅津今朝治郎署長に米の返還を鋭く迫り、残りの者は佐沢旅館の朝鮮人と合流し、口々に米の不当取締りをわめきながら警察署前の通りを右往左往して圧力を加えた。彼らは武器らしい物こそ手にしていないが、皆一様に興奮した表情で、一触即発の様相を帯びていた。
 朝のことで署員もたいてい警察署に残っていたが、多勢に無勢でどうすることもできず、防犯主任石川慶止警部補がひそかに警察部公安課を通じて隣接古川署に警察部隊の応援要請を行なう一方、古川町駐留のM・Pに連絡した結果、間もなく自動小銃で武装したM・Pがジープで駆けつけたために、彼らはくもの子を散らすように退散するに至った。

写経屋の覚書-フェイト「警察署に押しかけた朝鮮人集団は、出動してきた進駐軍のMPを見て逃げたんだね」

写経屋の覚書-はやて「逮捕はせんと米の没収だけなんやね。そのへんは日本人の闇米買出しと(おんな)し扱いやね」

写経屋の覚書-なのは「実はそうなんだよね。闇米買出しの取締について朝鮮人に妥協した例もあるんだよ」

 瀬峰駅前駐在所襲撃事件  昭和二十一年一月ころの東北本線瀬峰駅といえば、第三国人の主食買出しの駅として全国に悪名高く、上り列車の一般乗客は一関駅を過ぎるころから、早くも彼らの暴威におびえて緊張し出すほどであったため、管轄築館警察署では、隣接各署から連日多数の警察官の応援を得て、瀬峰駅前平屋旅館に泊り込みで取締りを繰り返していた。
 朝鮮人の主食買出しも各地の徹底した取締りによってようやく下火になりかけた同年一月末ころのある日、築館署では片倉卯平署長以下八名ほどの署員が瀬峰駅頭において米の取締りを実施していると、午前十一時ころ、意外にも三百人ぐらいの朝鮮人大集団(一部中国人も含む)が、いわゆる「半島人専用列車」を仕立てて瀬峰駅にやって来た。彼らは手に手に棍棒を持ち、なかにはあいくちをちらつかせる者などがあって、明らかに殺気立ったふんい気が感じられた。彼らは前日までの取締りで押収された米を奪還しに来たのであった。
 朝鮮人集団は、何ごとかわめき散らしながら瀬峰駅前駐在所を完全に包囲してしまい、たちまち同駐在所に乱入して片倉署長を取り巻きかん詰めにした。このため他の警察官はいち早く危険を感じて避難したが、清滝駐在所から応援に来ていた大友利守巡査は、近くの平屋旅館で取締り警察官用のたき出し督励中に急を知って駆けつけ、署長と二人で彼らに対処した。朝鮮人集団は、警電のコードを切断し、棍棒を打ちふり、数人はあいくちを構えたりしながら口々に米取締りの不当をわめき、「米を返せ」と署長らを威迫した。
 署長と大友巡査は、がんとして彼らの要求に応じなかったが、事態はますます険悪となるばかりであり、ついに大事を避けるためやむを得ずなにがしかの米を分け与えて彼らを解散させたのである。

写経屋の覚書-はやて「こっちは進駐軍が()ぉへんかったから、強気の姿勢を押し通して破壊活動までやったんやろね」

写経屋の覚書-なのは「そういうことだろうね。取締の警察官に暴行を加えた事件としてこんな例もあるよ」

 佐佐木巡査に対する集団暴行事件  第三国人のやみ米買出しは、県内有数の穀倉地帯である登米郡一帯にも現われた。特に東北本線瀬峰駅に近い仙北鉄道高石駅、佐沼駅は、連日彼らの乗り降りでごったがえし、佐沼警察署では毎日のように取締りを繰り返していた。
 昭和二十一年二月中旬ころのある朝、佐沼署佐佐木司巡査は同僚の高橋勇進巡査と二人で、いつものように佐沼駅へやみ米の取締りにおもむいた。
 上り列車がプラットホームに滑り込んで一般乗客は乗り込んだが、珍しく米の買出し部隊の姿は見えない。ところが、やがて列車が汽笛とともに発車し出すと、駅舎の陰や付近の物陰から、リュックサックを背負った十四、五人の朝鮮人集団が、いっせいに現われ列車に飛び乗ったのである。彼らは取締りから逃がれるため、時々このような手を使っていた。
 佐佐木巡査は、すかさず彼らを追いかけ、デッキから次々に朝鮮人を降ろして取締ろうとしたところ、彼らは口々にばり雑言を浴びせかけながら、佐佐木巡査らに暴力をふるって抵抗し出した。
 同僚の高橋巡査は大事を本署に急報するため現場を離れたが、残った佐佐木巡査はひとりで佐沼駅前広場に逃がれながら、たけり狂う朝鮮人集団を向うにまわし、所携の帯剣をさやごとふるって渡り合い、苦闘一時間ついに朝鮮人集団の暴挙を鎮圧し、取締りの目的を遂げた。
 佐佐木巡査は奇跡的に怪我ひとつせず、また相手側にも大した負傷者も出ずに事態の収拾をみたが、佐佐木巡査の勇猛果敢、何ものにも恐れぬ行為は、事前にして既に彼らの度胆を抜き、猛威をざ折させるに十分であった。
 佐佐木巡査の帯剣は警部補以上の幹部が待つ細身の長い指揮刀であったが、その指揮刀がくの字に曲ったという。当時は、とかく警察全体の風潮として彼らの暴挙を見のがすような傾向もあったから、そのような中にあって敢然として対決した佐佐木巡査の奮闘は十分賞讃に価するものであった。

写経屋の覚書-フェイト「指揮刀って実際に敵を相手にするものじゃないよね?鞘ぐるみで振るったといってもよく1人で1時間もがんばったね」

写経屋の覚書-なのは「まだ警察権が明確じゃない時期の話だから、「敢然として対決した佐佐木巡査の奮闘は十分賞讃に価するものであった」って評価は確かにそのとおりだろうね」

写経屋の覚書-はやて「米どころだけあって、闇米買出しの取締に関する事件は結構あるんやね」

写経屋の覚書-なのは「どうしても多くなるよね。取締に対する日ごろの恨みを晴らそうとして警察官を襲撃した事件もあるんだよ」

 岩淵部長宅襲撃事件  朝鮮人のやみ米買出しは、度重なる警察の取締りにもかかわらずまだ続き、仙南の米どころ白石にも時折警察官の目を盗むようにして買出しに現われていた。また、このころ朝鮮人飯場などでは幽霊人夫を作って主食を不正受配して横流しする悪質犯罪がはやり出し、県内至るところでこの種犯罪が摘発された。
 昭和二十二年七月四日午後十時ころ、白石署の内海襲吉巡査ほか三名は自署計画によるやみ米取締りのため、白石駅構内で買出し列車を待ち受けていた。すると、酔っぱらった朝鮮人が同僚の高橋宙三巡査のところに来て「あそこでもめごとがあるから来てくれ」ともっともらしく話しかけ、ホームの方へ誘い込んで行った。その方向では確かに朝鮮人数名が騒いでいたが、内海巡査は何かしら不安を感じながらその方向に行ってみると、高橋巡査とともにたちまち八人ほどの集団に取り巻かれた。彼らは警察官をおびき出すためトリックを演じたのである。朝鮮人集団は「米の取締りは不法である」と両巡査を鋭く詰問し、頭部を殴打し帽子を突き飛ばすなどの暴行を加えた。
 この場は一応この程度で治まったが、このあと集団は白石町中町の岩淵彰巡査部長宅を襲った。幸い岩淵部長は留守であったが、彼等は棍棒などでめちゃくちゃに住宅の内外を破壊して逃走した。
 白石署では直ちに大河原署から二十名の署員の応援を受けて犯人捜査に乗り出し、悪質行為者の菊慶秀夫(ニ八歳)山本淳玉(ニ○歳)の二名を検挙した。彼らは、米の取締りに対する日ごろのうっ憤ばらしと、岩淵部長らに主食不正受配の取締りを受けたことに恨みを持って、計画的に警察官やその居宅を襲ったものであった。

 加藤巡査に対する集団暴行事件  吉岡警察署管内の大衡村駒場、西山、大森等の各亜炭鉱山一帯に戦前から多数の朝鮮人が住みつき、終戦後は、濁酒、焼酎、飴等の密造の巣くつとなり、その行動も目に余るものがあった。
 昭和二十二年七月二十七日、吉岡署駒場駐在所の加藤政雄巡査が、受持管内大衡村大森字幕の沢二十七番地富田武志方で、同人方の盗難事件捜査中、午後三時三十分ころ同部落の朝鮮人高山春雄に「ちょっと用事があるから表へ出てくれ」と呼び出された。高山は、前日加藤巡査の通報によって焼酎密造の取締りを受けた者の一人で、同巡査はなにか不吉な予感がしないでもなかったが出て行ってみた。すると待ち受けていた四十名ほどの朝鮮人がたちまち加藤巡査を取巻き、「昨日はなぜ朝鮮人だけを取締ったのか、おれ達を殺す気ならおれ達もお前をたたき殺してやる」と言いながら前後左右からいっせいになぐりかかり、加藤巡査の顔面その他に二十日間くらいのけがをさせた。
 この日の暴挙は、加藤巡査が二十一年夏ころ宮床駐在所時代に、朝鮮人の暴行事件を手きびしく取締ったことにかねがね反感を抱いていたところへ、さらに密造酒の取締りを受けて怒りを一挙に爆発させ、周辺各地からも仲間を動員して計画的に加藤巡査を襲ったものであつた。吉岡署は直ちにこの事件の捜査を開始し、被疑者として大山こと除致徳、高山こと崔甫龍ら数人を検挙した。

写経屋の覚書-はやて「完全な逆恨みや。せやけど、警察官を襲撃するとこが官憲をなめとる証拠や」

写経屋の覚書-フェイト「そうだよね。加藤巡査のほうは米じゃなくて焼酎密造の取締についての恨みなんだね」

写経屋の覚書-なのは「食糧難の時代に米を食糧として消費する方に回すために、それ以外の消費を禁じたり制限したりすることはよくあるんだよね」

写経屋の覚書-はやて「曹操も酒の醸造禁止令を出したことあったなぁ。せやけど、お酒は誰でも飲みたいもんやから、そのぶん密造が流行るんよ」

写経屋の覚書-フェイト「禁酒法時代にギャングがお酒の密造密売に手を染めた話のようになるんだね」

写経屋の覚書-なのは「そういうことなの。朝鮮人が集落ごと密造・密売に取り組んでいた事例は全国的に多いんだよ。佐野眞一『あんぽん 孫正義伝』(小学館 2012)には、孫正義の住んでいた佐賀の朝鮮人集落でも密造をやっていたんだけど、酒のにおいをカモフラージュするために臭い豚を飼っていたなんて書いてたね。じゃ、今回はここまでにするね」

 大阿仁村事件        生田警察署襲撃事件    大滝事件
 富坂警察署襲撃事件    七条警察署事件      直江津事件
 坂町事件           新潟日報社襲撃事件    首相官邸デモ事件
 曽根崎警察署襲撃事件   長崎警察署襲撃事件    尾花沢派出所襲撃事件
 津別事件           大野事件


 渋谷事件

写経屋の覚書-なのは「東郷平八郎の李舜臣称賛言説については前回で終わったから、今回からは各地警察史の話に戻るね」

写経屋の覚書-はやて「あー、終戦直後の朝鮮人集団不法行為の話やね。ほんでどこのどんな事件なん?」

写経屋の覚書-なのは「今回見るのも、警察襲撃事件じゃなくてトラブルから発生した暴力事件だよ」

写経屋の覚書-フェイト「今度はどこの話なのかな?」

写経屋の覚書-なのは「1946年1月7日に福井県の大野町(現大野市)で起こった事件なの。じゃ、福井県警察史編さん委員会『福井県警察史 第2巻』(福井県警察本部 1990)のp720-722を見るよ」


写経屋の覚書-福井720
写経屋の覚書-福井721
写経屋の覚書-福井722

〔大野で発生した集団暴行事件〕 昭和二十一年(一九四六)一月七日午後三時ごろ、大野町に住む土建請負業者山形武(仮名)は、大野町下神明の貸座敷(遊郭)泉屋の前で、アメリカ兵の口真似をして娼妓をからかっている朝鮮人金田二郎(仮名)に腹が立ち、金田をどなりつけて娼妓をからかうのを止めさせた。ところが、金田は怒って山形に組みついてきたため、山形に同行していた若い者に取り押さえられ、泉屋前の小川に投げ込まれ、頭部に裂傷を受けた。山形らはこれをあざ笑うようにして泉屋に入った。一方、負傷した金田はさっそく同町の朝鮮人保安隊本部へ走り、頭部の裂傷を示して山形への報復を求めた。これに同調した朝鮮人十数人は、各自がこん棒などを持って泉屋に押し寄せ、山形の頭部を一撃し、倒れたところをさらに殴りつけ、引きずり回すなどの暴力をふるった。
 その泉屋へたまたま大野警察署の山本、伊藤両巡査が警らの途中訪れたところ、この事件を目撃したので、山本巡査は剣を抜いて朝鮮人を制止し、伊藤巡査は朝鮮人に反撃を加えようとする山形の若い者を制止した。その間、山形は仲間によって救出され、町内の某所に身を隠した。この乱闘で朝鮮人側は山本巡査の剣を奪い、逃げた山形の行方を捜した。
 事件の急報を受けた大野警察署では、内田警部補、志田刑事を現場に派遣した。内田警部補の姿を見た十四、五人の朝鮮人は山形らの徹底検挙を強硬に迫った。内田警部補は一応署に引き揚げ、改めて金田二郎のところへ行くと、朝連大野支部員約五十人が集まっており、役員の李秋冬(仮名)は同警部補に対し、①ポツダム宣言を知っているのか。②本件に対し警察はなぜ山形らを逮捕しないのか。③警察が逮捕、取調べをしなければ、朝鮮連盟支部において行う、などと問い詰めた。さらに同日午後四時ころ李秋冬ら五十人余りが、それぞれこん棒を持って大野警察署に押しかけ、「警察官と日本人が共謀して朝鮮人の人権を無視した」として、署長に抗議した。
 本県警察部では、福井軍政部やCICに連絡するとともに、警務、刑事両課長を現地に派遣した。また検察側から検事正、次席検事が現地に赴き、以後の警備は隣接警察署の応援により実施した。翌九日、大野警察署は朝連大野支部事務所や朝連大野地区保安隊本部を検索し、保安隊が所持していたこん棒二十五本を押収し、奪われた山本巡査の剣を取り戻した。
 この事件に関し、福井軍政部、CICは朝連に対し、①事件の取調べを警察および検事局に命ず。②朝連は連盟員の取締りは認めるが、日本人に対しては認めない。③今後朝鮮人に対して危害を加える虞れある場合は、日本政府または連合軍に申し出ること。④日本官憲の取調べに不公平があるときは連合軍に申し出ること。⑤朝鮮人が再び今回事件のような行動をした場合は断固たる措置をとる。⑥この事件の解決に朝鮮人連盟支部は警察に協力すること、などの声明を発表した。(福井県警察資料)

写経屋の覚書-はやて「女性をからこおとった朝鮮人が怒鳴られたことからけんかになって、朝鮮人が報復のために朝鮮人保安隊の連中を連れてきて殴り込んだんやな…っと、前に朝鮮進駐軍関係で見た保安隊が出てきたね」

写経屋の覚書-フェイト「で、警察官がその殴り込みを止めて、また事件を聞いて警察官が増派されたけど、朝鮮人たちが相手方の逮捕などを求めて抗議したんだね」

写経屋の覚書-はやて「「ポツダム宣言を知っているのか」って笑えるやんなぁ。だから何やねんって感じやけど、敗戦国の官憲に取り締まる権限はないって意味なんかなぁ?」

写経屋の覚書-なのは「どうだろうねぇ?ともかく朝鮮人集団は更に大野警察署にも押しかけて抗議したの。結局、連絡を受けた進駐軍の福井軍政部とCICが乗り出して、朝連に対して、日本警察が事件捜査をすることなどを申し渡したの」

写経屋の覚書-フェイト「CIC?」

写経屋の覚書-なのは「あ、CICは「Counter Intelligence Corps:防諜隊」っていうGHQの一機関だよ。陰謀論では下山事件などの謀略に関わったと言われたりする部局だね」

写経屋の覚書-はやて「あー、松本清張やなw」

写経屋の覚書-フェイト「軍政部とそのCICの支援があったけど、1946年1月っていう、日本官憲に朝鮮人取締権限があるって規定した例のSCAPINが出る前の時期なのに、朝連事務所や保安隊本部の家宅捜索ができているんだね」

写経屋の覚書-なのは「そうなんだよね。坂町事件で、フェイトちゃんが「軍政部が自治体の姿勢を評価していたり、中の人たちの仲が良かったら、連絡や意志疎通もスムーズに行くし好意的な措置を取ってくれるもんね」って言ってたように、福井の場合は警察と軍政部の関係がかなり良好で認識共有と意思疎通ができていたんだろうね」

写経屋の覚書-はやて「軍政部とCICの声明を見ても、完全に警察をバックアップしとるもんなぁ。朝鮮人集団が棍棒を持って大野警察署に押しかけてきて「警察官と日本人が共謀して朝鮮人の人権を無視した」言うて署長に抗議したあたりは様式美やねw」

写経屋の覚書-フェイト「差別や人権を言いたてるってところだね」

写経屋の覚書-なのは「被害者意識を旗印にするものは結局同じ手を使うってことだよね。朝連の構成員に対する取締は認めていることを治外法権と解釈するか組織の自制に任せたととるかは自由だけど、福井軍政部・CICの声明全体を見ると前者とは解釈しにくいよね」

写経屋の覚書-はやて「せやね」

写経屋の覚書-なのは「少なくとも、福井県では軍政部と官憲の関係は良好で、軍政部の姿勢もおおむね公平だったってことがわかるよね。じゃ、今回はここまでにするね」

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