写経屋の覚書-なのは「今回は「○○事件」のように名前のついた事件じゃなくて、何個かの事件を見ていくよ」

写経屋の覚書-フェイト「事件1個だけじゃないんだね」

写経屋の覚書-なのは「うん。宮城県で起こった、闇米買出しの取締や密造酒の取締に関する各種の事件なの。1946年1月~2月、1947年7月の話になるんだけど、宮城県警察史編さん委員会『宮城県警察史 第2巻』(宮城県警察本部 1972)のp122~129を見るよ」

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 暴状と取締り  終戦直後、朝鮮人は初めはむしろ比較的平静な態度であったが、朝鮮の独立騒ぎを機に暴状の萌芽が一挙に持ちあがった。
 長い植民地統治と精神的抑圧から脱した朝鮮人の一部の者は、敗戦によりうち沈んだ日本人に対し報復的な暴力行為、脅迫、集団不法越軌に走ったのであり、まさに横暴、傍若無人、その限りを尽くすの感があった。
 暴状の最たる行為は、主食の集団買い出しにおいて顕著であった。彼らの県内における主食買出しのおもな対象地域は、登米、栗原、志田、加美の各地方で、特に東北本線瀬峰駅およびその周辺の支線各駅は連日数百人の朝鮮人集団の乗り降りで雑踏をきわめた。
 このころ、列車は復員軍人や疎間者の往来が激しいのに加え、石炭不足による運行削減によって常に殺人的な混乱を呈していたが、混乱の一因は彼らの集団買い出しにあったと言っても過言ではない。
 彼らは、集団の威力を示して日本人を客車の片すみに押しのけ、中央部を広々と占領して買い出しの米を山と積み上げ、あるいは腰掛けに一人で寝そべり、また酒を飲んで騒いだりした。日本人の乗客がこうした暴状を見かねて注意、制止すると、敗戦国民とか四等国民呼ばわりしてば倒し、集団的につるしあげた。
 彼らは完全に戦勝国人気取りだったし、敗戦国日本の法律に従がう義務はないと言って意気まいた。
 二十一年一月十八日付河北新報は、列車利用による朝鮮人の米の買い出しについて、当時の仙鉄局久保業務部長が語った内容として次のように掲載しているが、その記事からその暴状ぶりの一端をうかがい知ることができる。

 半島人の買出しのために専用車を出したりすることは勿論ない。ただ半島人が集団的に車輛を占有し、昇降口に勝手に「半島人専用車」と書いて日本人の乗車を妨害しているのです。勿論鉄道側としてはこれを黙過しているわけではなく車掌や駅員がずいぶん取締りに苦労しているのだが、相手が乱暴なので始末におえない。現に品井沼の駅長と助役は取締ろうとして袋叩きに遭っています。そこで鉄道としては警察当局とも連絡して対策に腐心しているわけだが、どうしても手におえぬ場合は進駐軍の協力を求めたいと考えています。

 朝鮮人の暴状はこれだけではなく、盗み、略奪、暴行などの犯罪を集団的に行ない、その手口もかなり悪質巧妙なものが多かった。この顕著な例はワ号事件である。これは涌谷等在住の朝鮮人数十名が二十二年ころから東北四県をまたに犯行を続けていた集団破蔵窃盗、賍物事件である。
 二十二年二月十九日、総司令部覚書「刑事裁判権ノ行使ニ関スル件」によって、それまで不明確だった朝鮮人に対する刑事裁判権は日本側にあることが確認されたが、勢いづいた鮮人の暴状は、ますます激化する一方であった。
 警察としては、主要駅等における彼らの主食買い出しに対する取締りも徹底的に徹底して実施したし、個々の犯罪に対しても、その都度強い態度で臨んだのであるが、彼らは数を頼んで逆に取締り警察官をおどし、被疑者を検挙され物が押収されると、警察署、駐在所等に押し寄せ奪還を企て、反面日本人の非はどんなさ細なことでも厳重な警察措置を強要するような始末であった。
 こんな状態であったから、特に集団的不法事案に対する警察の態度も自然消極的になりがちで、検挙は二の次にしてまず自体の穏びん解決を図ろうとする風潮になり、場合によっては彼らの要求をのまざるを得ないこともあった。警察官の定員が少なく、警察装備はほとんど無に等しい状態に加え、進駐軍警備に大量の警察力を投じていた当時の情勢下においては、やむを得ないことでもあった。

写経屋の覚書-はやて「やっぱり警察権が不明確やったことが、朝鮮人に対する官憲の取締躊躇の一因やったんやね」

写経屋の覚書-フェイト「ワ号事件って何なのかな?」

写経屋の覚書-なのは「本文にあるように朝鮮人集団の窃盗事件だよ。宮城県警察史にちゃんと載ってるんだけど、優越意識に起因する各種犯罪とまで言えるわけでもないから省略するの」

写経屋の覚書-はやて「せやけど、「彼らは数を頼んで逆に取締り警察官をおどし、被疑者を検挙され物が押収されると、警察署、駐在所等に押し寄せ奪還を企て、反面日本人の非はどんなさ細なことでも厳重な警察措置を強要するような始末」について具体的な事件が挙げられてへんのは残念やね」

写経屋の覚書-なのは「あ、それだったら、続いて詳しく説明されているよ」

 中新田警察署襲撃未遂事件  米産地として名高い志田郡を中心とする大崎耕土も、終戦直後は他の米産地同様に朝鮮人の米の買出し地としてねらわれるところとなり、彼らは陸羽東線や当時仙台、中新田間を運行していた仙台鉄道を利用して、連日のようにその沿線各地に繰り出した。
 特に中新田町では、警察署と目と鼻の先の西町地内佐沢旅館に常時二、三十名の朝鮮人が泊り込み、これらが地元鮮人と組んで米のやみ買いに走り回り、仙台鉄道の列車や同町に通ずるバスは、さながら彼らの専用車の感を呈し、無態、横暴をきわめていた。
 このような中において中新田警察署は、他署と同じように連日きびしい取締りを繰り返していたが、昭和二十一年一月中旬ころのある朝、橋浦弘治部長ほか数名が、中新田駅付近において米の取締りを実施中、朝鮮人数人がリヤカーなどに米を山と積んで運搬中を現認、かってないほどの大量の米を押収した。彼らは例によって不当取締りをなじって警察署に抗議したが、その場は一応事なくすんだ。
 ところが、翌朝になって近郷近在から朝鮮人百数十人がトラック四、五台に分乗して大挙警察署に押しかけ、代表者会見を理由に十数人が署長室に乱入して梅津今朝治郎署長に米の返還を鋭く迫り、残りの者は佐沢旅館の朝鮮人と合流し、口々に米の不当取締りをわめきながら警察署前の通りを右往左往して圧力を加えた。彼らは武器らしい物こそ手にしていないが、皆一様に興奮した表情で、一触即発の様相を帯びていた。
 朝のことで署員もたいてい警察署に残っていたが、多勢に無勢でどうすることもできず、防犯主任石川慶止警部補がひそかに警察部公安課を通じて隣接古川署に警察部隊の応援要請を行なう一方、古川町駐留のM・Pに連絡した結果、間もなく自動小銃で武装したM・Pがジープで駆けつけたために、彼らはくもの子を散らすように退散するに至った。

写経屋の覚書-フェイト「警察署に押しかけた朝鮮人集団は、出動してきた進駐軍のMPを見て逃げたんだね」

写経屋の覚書-はやて「逮捕はせんと米の没収だけなんやね。そのへんは日本人の闇米買出しと(おんな)し扱いやね」

写経屋の覚書-なのは「実はそうなんだよね。闇米買出しの取締について朝鮮人に妥協した例もあるんだよ」

 瀬峰駅前駐在所襲撃事件  昭和二十一年一月ころの東北本線瀬峰駅といえば、第三国人の主食買出しの駅として全国に悪名高く、上り列車の一般乗客は一関駅を過ぎるころから、早くも彼らの暴威におびえて緊張し出すほどであったため、管轄築館警察署では、隣接各署から連日多数の警察官の応援を得て、瀬峰駅前平屋旅館に泊り込みで取締りを繰り返していた。
 朝鮮人の主食買出しも各地の徹底した取締りによってようやく下火になりかけた同年一月末ころのある日、築館署では片倉卯平署長以下八名ほどの署員が瀬峰駅頭において米の取締りを実施していると、午前十一時ころ、意外にも三百人ぐらいの朝鮮人大集団(一部中国人も含む)が、いわゆる「半島人専用列車」を仕立てて瀬峰駅にやって来た。彼らは手に手に棍棒を持ち、なかにはあいくちをちらつかせる者などがあって、明らかに殺気立ったふんい気が感じられた。彼らは前日までの取締りで押収された米を奪還しに来たのであった。
 朝鮮人集団は、何ごとかわめき散らしながら瀬峰駅前駐在所を完全に包囲してしまい、たちまち同駐在所に乱入して片倉署長を取り巻きかん詰めにした。このため他の警察官はいち早く危険を感じて避難したが、清滝駐在所から応援に来ていた大友利守巡査は、近くの平屋旅館で取締り警察官用のたき出し督励中に急を知って駆けつけ、署長と二人で彼らに対処した。朝鮮人集団は、警電のコードを切断し、棍棒を打ちふり、数人はあいくちを構えたりしながら口々に米取締りの不当をわめき、「米を返せ」と署長らを威迫した。
 署長と大友巡査は、がんとして彼らの要求に応じなかったが、事態はますます険悪となるばかりであり、ついに大事を避けるためやむを得ずなにがしかの米を分け与えて彼らを解散させたのである。

写経屋の覚書-はやて「こっちは進駐軍が()ぉへんかったから、強気の姿勢を押し通して破壊活動までやったんやろね」

写経屋の覚書-なのは「そういうことだろうね。取締の警察官に暴行を加えた事件としてこんな例もあるよ」

 佐佐木巡査に対する集団暴行事件  第三国人のやみ米買出しは、県内有数の穀倉地帯である登米郡一帯にも現われた。特に東北本線瀬峰駅に近い仙北鉄道高石駅、佐沼駅は、連日彼らの乗り降りでごったがえし、佐沼警察署では毎日のように取締りを繰り返していた。
 昭和二十一年二月中旬ころのある朝、佐沼署佐佐木司巡査は同僚の高橋勇進巡査と二人で、いつものように佐沼駅へやみ米の取締りにおもむいた。
 上り列車がプラットホームに滑り込んで一般乗客は乗り込んだが、珍しく米の買出し部隊の姿は見えない。ところが、やがて列車が汽笛とともに発車し出すと、駅舎の陰や付近の物陰から、リュックサックを背負った十四、五人の朝鮮人集団が、いっせいに現われ列車に飛び乗ったのである。彼らは取締りから逃がれるため、時々このような手を使っていた。
 佐佐木巡査は、すかさず彼らを追いかけ、デッキから次々に朝鮮人を降ろして取締ろうとしたところ、彼らは口々にばり雑言を浴びせかけながら、佐佐木巡査らに暴力をふるって抵抗し出した。
 同僚の高橋巡査は大事を本署に急報するため現場を離れたが、残った佐佐木巡査はひとりで佐沼駅前広場に逃がれながら、たけり狂う朝鮮人集団を向うにまわし、所携の帯剣をさやごとふるって渡り合い、苦闘一時間ついに朝鮮人集団の暴挙を鎮圧し、取締りの目的を遂げた。
 佐佐木巡査は奇跡的に怪我ひとつせず、また相手側にも大した負傷者も出ずに事態の収拾をみたが、佐佐木巡査の勇猛果敢、何ものにも恐れぬ行為は、事前にして既に彼らの度胆を抜き、猛威をざ折させるに十分であった。
 佐佐木巡査の帯剣は警部補以上の幹部が待つ細身の長い指揮刀であったが、その指揮刀がくの字に曲ったという。当時は、とかく警察全体の風潮として彼らの暴挙を見のがすような傾向もあったから、そのような中にあって敢然として対決した佐佐木巡査の奮闘は十分賞讃に価するものであった。

写経屋の覚書-フェイト「指揮刀って実際に敵を相手にするものじゃないよね?鞘ぐるみで振るったといってもよく1人で1時間もがんばったね」

写経屋の覚書-なのは「まだ警察権が明確じゃない時期の話だから、「敢然として対決した佐佐木巡査の奮闘は十分賞讃に価するものであった」って評価は確かにそのとおりだろうね」

写経屋の覚書-はやて「米どころだけあって、闇米買出しの取締に関する事件は結構あるんやね」

写経屋の覚書-なのは「どうしても多くなるよね。取締に対する日ごろの恨みを晴らそうとして警察官を襲撃した事件もあるんだよ」

 岩淵部長宅襲撃事件  朝鮮人のやみ米買出しは、度重なる警察の取締りにもかかわらずまだ続き、仙南の米どころ白石にも時折警察官の目を盗むようにして買出しに現われていた。また、このころ朝鮮人飯場などでは幽霊人夫を作って主食を不正受配して横流しする悪質犯罪がはやり出し、県内至るところでこの種犯罪が摘発された。
 昭和二十二年七月四日午後十時ころ、白石署の内海襲吉巡査ほか三名は自署計画によるやみ米取締りのため、白石駅構内で買出し列車を待ち受けていた。すると、酔っぱらった朝鮮人が同僚の高橋宙三巡査のところに来て「あそこでもめごとがあるから来てくれ」ともっともらしく話しかけ、ホームの方へ誘い込んで行った。その方向では確かに朝鮮人数名が騒いでいたが、内海巡査は何かしら不安を感じながらその方向に行ってみると、高橋巡査とともにたちまち八人ほどの集団に取り巻かれた。彼らは警察官をおびき出すためトリックを演じたのである。朝鮮人集団は「米の取締りは不法である」と両巡査を鋭く詰問し、頭部を殴打し帽子を突き飛ばすなどの暴行を加えた。
 この場は一応この程度で治まったが、このあと集団は白石町中町の岩淵彰巡査部長宅を襲った。幸い岩淵部長は留守であったが、彼等は棍棒などでめちゃくちゃに住宅の内外を破壊して逃走した。
 白石署では直ちに大河原署から二十名の署員の応援を受けて犯人捜査に乗り出し、悪質行為者の菊慶秀夫(ニ八歳)山本淳玉(ニ○歳)の二名を検挙した。彼らは、米の取締りに対する日ごろのうっ憤ばらしと、岩淵部長らに主食不正受配の取締りを受けたことに恨みを持って、計画的に警察官やその居宅を襲ったものであった。

 加藤巡査に対する集団暴行事件  吉岡警察署管内の大衡村駒場、西山、大森等の各亜炭鉱山一帯に戦前から多数の朝鮮人が住みつき、終戦後は、濁酒、焼酎、飴等の密造の巣くつとなり、その行動も目に余るものがあった。
 昭和二十二年七月二十七日、吉岡署駒場駐在所の加藤政雄巡査が、受持管内大衡村大森字幕の沢二十七番地富田武志方で、同人方の盗難事件捜査中、午後三時三十分ころ同部落の朝鮮人高山春雄に「ちょっと用事があるから表へ出てくれ」と呼び出された。高山は、前日加藤巡査の通報によって焼酎密造の取締りを受けた者の一人で、同巡査はなにか不吉な予感がしないでもなかったが出て行ってみた。すると待ち受けていた四十名ほどの朝鮮人がたちまち加藤巡査を取巻き、「昨日はなぜ朝鮮人だけを取締ったのか、おれ達を殺す気ならおれ達もお前をたたき殺してやる」と言いながら前後左右からいっせいになぐりかかり、加藤巡査の顔面その他に二十日間くらいのけがをさせた。
 この日の暴挙は、加藤巡査が二十一年夏ころ宮床駐在所時代に、朝鮮人の暴行事件を手きびしく取締ったことにかねがね反感を抱いていたところへ、さらに密造酒の取締りを受けて怒りを一挙に爆発させ、周辺各地からも仲間を動員して計画的に加藤巡査を襲ったものであつた。吉岡署は直ちにこの事件の捜査を開始し、被疑者として大山こと除致徳、高山こと崔甫龍ら数人を検挙した。

写経屋の覚書-はやて「完全な逆恨みや。せやけど、警察官を襲撃するとこが官憲をなめとる証拠や」

写経屋の覚書-フェイト「そうだよね。加藤巡査のほうは米じゃなくて焼酎密造の取締についての恨みなんだね」

写経屋の覚書-なのは「食糧難の時代に米を食糧として消費する方に回すために、それ以外の消費を禁じたり制限したりすることはよくあるんだよね」

写経屋の覚書-はやて「曹操も酒の醸造禁止令を出したことあったなぁ。せやけど、お酒は誰でも飲みたいもんやから、そのぶん密造が流行るんよ」

写経屋の覚書-フェイト「禁酒法時代にギャングがお酒の密造密売に手を染めた話のようになるんだね」

写経屋の覚書-なのは「そういうことなの。朝鮮人が集落ごと密造・密売に取り組んでいた事例は全国的に多いんだよ。佐野眞一『あんぽん 孫正義伝』(小学館 2012)には、孫正義の住んでいた佐賀の朝鮮人集落でも密造をやっていたんだけど、酒のにおいをカモフラージュするために臭い豚を飼っていたなんて書いてたね。じゃ、今回はここまでにするね」

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