写経屋の覚書-なのは「今回は渋谷事件っていうのを見るよ」

写経屋の覚書-フェイト「あれ?前にもたしか『朝鮮進駐軍』初出テキストの検証(2)でちょっとだけ出てきたよね?」

写経屋の覚書-はやて「あ、警察側と台湾人側の両方に死者が出たんやったね。でもこれって、朝鮮人やなくて台湾人の起こした事件やから、取り上げへんだかてええん(ちゃ)うん?」

写経屋の覚書-なのは「うん。けど、せっかく『朝鮮進駐軍』初出テキストの検証(2)で少しだけ見たし、一応詳しく見ておこうかなって思ったの。朝鮮人の起こした事件じゃないから、テーマは「戦後朝鮮人の集団不法行為」じゃなくて「雑記」のほうに入れておいて、警視庁史編さん委員会『警視庁史 第4巻 昭和中編上』(警視庁史編さん委員会 1978)のp722~727を見るよ」

写経屋の覚書-警視庁史722
写経屋の覚書-警視庁史723
写経屋の覚書-警視庁史724
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         二 渋谷事件
(一)事前の情勢
 敗戦直後の一部の在日朝鮮人、台湾人は、都内の主要商店街、盛り場等で統制品である食料、衣料品類を公然と販売し、また、これらの場所では、日本人の露店商との間に出店場所をめぐる紛争等が統発し、日がたつに従ってますます拡大する情勢にあった。
 中でも、渋谷駅の周辺には、台湾人経営の衣料品、ゴム製品、食糧品等、いずれも統制品ないしは禁制品を扱う業者が密集し、その乱脈ぶりは日に余るものがあった。所轄渋谷警察署では、この事態を黙視し得ず、数回にわたり取締りを断行したが、彼らは反省することなく、遂に警察の取締りに深い恨みを抱き、ますます反抗的態度を示した。
 土田渋谷署長は、上司からの特命もあって、その徹底的取締りを決意し、昭和二十一年七月十七、十八日の両日、一斉取締りを断行し、闇価格にして約三十万円の繊維品、ゴム製品などを押収し、悪質な台湾人等二十八人を検挙した。
 これに対し、五十余人の台湾人が喚声を揚げ、投石するなどして反抗し、これを制止しようとした警察官に暴行を加え、八人を負傷させた。

(二)松田組と台湾人の紛争
 昭和二十一年六月十一日、台湾人の一部集団が、省線新橋駅前広場に日本人露店商松田組が建築したマーケットに出店を申し込んだところ、要求した店舗が多過ぎたため、松田組は拒絶した。
 これに端を発して両者間に紛争が生じ、双方死者各一人と数人の負傷者を出すなどマーケットの利権をめぐる争いは、一層激しくなっていった。
 殊に、七月十六日、松田組一派が、けん統、日本刀などを携行し、自動車で渋谷区宇田川町所在の台湾人経営の喫茶店を襲撃して、居合わせた台湾人約五十人と乱闘し、台湾人六人と取鎮めに出動した警察官ほか二人を負傷させるという事件が発生した。この事件で、双方の関係は更に悪化し、阪神から約一千人の台湾人が応援に上京し、都内の一部台湾人と合流して松田組を襲うという風評が流れた。
 その後、新宿の露店商尾津組が松田組と台湾人側の間に立ち事態収拾のあっせんに乗り出し、交渉を始めたが決着を見なかった。
 こうして、双方とも不穏な動向を示すに至ったので、関係署は全力を挙げて情報の収集に努めた結果、入手した情報は「同月十八、十九の両日にわたって台湾人約一千人が新橋松田組事務所、警視庁、渋谷警察署等を襲撃する」というものであった。
 この情報は、十八日渋谷署の禁・統制品の一斉取締りに示した彼らの反抗から見ても軽視できないものがあったので、警視庁は、管下主要警察署に対し、台湾人の動向並びに言動の視察内偵と警備の万全を期するよう指令した。
 渋谷警察署では、前日の禁制品等の一斉取締実施後、不測の事態発生に備え、隣接各署から台わせて百数十名の応援を得て厳重な警戒態勢を整え、翌十九日には緊急警戒を発令し、午後六時から総数三百七十二名の警察官を動員し、恵比寿、渋谷駅間に通ずる道路等に自動車検問隊を配備するなど、署内外の警戒警備を
厳しくした。
 一方、十八日、尾津組が仲介した交渉は決裂し、松田組と台湾人の全面衝突はもはや必至の形勢となった。
 すなわち、松田組側では台湾人の襲撃に備え、十九日午後三時ごろには都内の露店商ら約一千人を新橋市場付近に集結させ、更に、午後五時ごろには約一千五百人が芝琴平町の松田組事務所など数か所に分散たむろして、待ち受けた。
 これに対し、台湾人は、午後七時ごろ、約三百人が八重洲口の昭和国民学校内の華僑連盟本部を、乗用車十台、トラック五台に分乗して出発、午後七時十五分ごろ新橋駅付近に到着し、更に他の一隊約百人はトラック三台に分乗して琴平町の松田組の事務所に襲い掛かる形勢を示した。これに対し、松田組は、屋上にす
えた機関銃で威嚇発射した。驚いた台湾人はなんら応戦することなく、いち早く現場から引き揚げてしまい、全面衝突には至らずにすんだ。
 台湾人の集団が新橋付近から立ち去ったという情報は、時を移さず渋谷署にもたらされた。しかし、彼らの行く先は不明であった。

(三)渋谷警察署襲撃の状況
 同日午後九時ごろ、恵比寿方面から渋谷方向に向かって、ジープ、乗用車、トラックなど七台に分乗した台湾人約百五十人が、渋谷区中通り三丁目一八番地渋谷警察署前道路に進行して来た。これを認めた警察官が検問のため停止を命じたところ、彼らは「台湾人をなぜ検問するのか」と反抗し、検問員との間に紛争が生じた。警戒中の渋谷署長は、台湾人の説得に努めるとともに、行き先を尋ねたところ、彼らは「本日、京橋方面に集結した者の一部で、麻布の中華民国弁事処に紛争解決のあっせんと、警察取締りの緩和を陳情しての帰途である」と申し立てたが、その挙動に不穏の気配が感ぜられたので、軽挙盲動を慎しむよう注意のうえ進行を許した。
 ところが、第三両目のトラックが署長の直前にさしかかった瞬間、車上から署長目掛けてけん銃三発を発射した。その弾が署長の傍らにいた芳賀巡査部長ほか一人に命中し、芳賀巡査部長はその場に倒れた。続いて進行して来た車上からもけん銃が発射されたので、署長は、警戒員にけん銃の使用を命じて応戦中、最後尾のトラックが道路沿いの菜園に突っ込み停車した。警戒員は、これを包囲して、乗車していた台湾人ら二十八人を逮捕したが、他の車はいずれも逃走してしまった。この事件による死傷者は、次のとおりであった。

警察官
 死亡 渋谷警察署巡査部長 芳賀弁蔵
     (即日二階級特進)
 重傷 目黒警察署巡査   村上義弘
 軽傷 渋谷警察署警部補  西尾成美
 〃  〃    巡査   対島秀作
台湾人
 死亡 范姜利康ほか四人
 軽傷 姜烘楷ほか十四人

(四)捜査の経過
 現場で逮捕した被疑者は、台湾人の中華民国慈善服務団第三分団長蔡竜塗ほか二十七人で、いずれも公務執行妨害、傷害現行犯人として留置し、被疑者らが乗車していたトラック内及び現場付近の菜園の中から捜索発見した十四年式けん銃、コルト式大型けん銃、シムソン小型けん銃各一丁、実包三十発、棍棒、鉄棒各四本、ジャックナイフ一丁、ガソリン入りサイダーびん一本を証拠品として押収した。
 警視庁は、刑事部に捜査本部を設置し厳重に取り調べたが、芳賀巡査部長を直接射殺した被疑者は発見できなかった。けれども、その後の捜査で、関係被疑者十余人を検挙して、同年七月二十六日、事件を米軍東京憲兵司令部に引き渡し、その後の直接捜査は憲兵司令部が行い、警視庁はその補助として捜査に当たった。
 連合国軍最高司令部法務局は、審理の結果、同年九月三十日、被告人蔡竜塗ほか四十人を有罪と確認し「在日本国占領軍の占領目的を阻害する諸行為を犯したことに因る」という理由で起訴して軍事裁判(警視庁第一会議室)に付し、その後四十五回の審理を重ねた結果、同年十二月十日、次の判決があった。
 刑名、連合国軍の占領目的を妨害する諸行為を犯したるに因る罪
  判決(確定判決)
  懲役三年重労働    朱徳高
  懲役二年重労働    蔡竜塗ほか三十七人
 なお、この事件の直接の動機となった新橋マーケットは、事件直後の七月二十日、米軍東京憲兵司令部から閉鎖を命ぜられ、二十三日までに取壊しが完了した。

写経屋の覚書-はやて「台湾人と松田組いうとことの闘争が発端やねんな」

写経屋の覚書-フェイト「松田組って、露天商って書いているけど、やっぱりやくざとか暴力団なのかな?」

写経屋の覚書-なのは「そうだよ。この年の6月に組長が組員に殺されて、その奥さんが女親分として跡目を継いで新橋の闇市を仕切っていたんだけど、警視庁史にあるようにそこへの出店を巡って台湾人グループと抗争してたの」

写経屋の覚書-フェイト「そこに警察の闇市取締がからんでくるから事態が複雑になるんだね」

写経屋の覚書-はやて「七条警察署襲撃事件みたいに、松田組とかのやくざ組織が警察に加担したとする言説もあるみたいやね。まぁ確実な裏は取れへんやろけど」

写経屋の覚書-フェイトウィキを見てるとそんなことを書いているね。えーっと、参考文献の山平重樹って『残侠』の作者だったよね」

写経屋の覚書-なのは「それと、所謂朝鮮進駐軍言説で第三国人が機関銃等を使用したとかいう記述があったけど、逆に松田組の方が機関銃を射撃しているのは笑えるところかもしれないね」

写経屋の覚書-フェイト「この事件の捜査は日本の官憲からGHQに移管されているんだね。「在日本国占領軍の占領目的を阻害する諸行為を犯したこと」が理由とされているけど…」

写経屋の覚書-なのは「んー、死者が5人も出る大規模な事件で、治安を極度に乱し占領目的を阻害することになったって扱いなのかな?GHQに特別な思惑があったかどうかはちょっとわからないけど。事件概要については警察庁刑事部捜査課『刑事警察資料第33巻 戦後に於ける集団犯罪の概況』(警察庁刑事部捜査課 1955)のp51~52にも載っているの」

写経屋の覚書-集団概況51
写経屋の覚書-集団概況52

三国人関係
 一 渋谷事件  (東京)
(一)事件発生の経緯
 戦後の混乱に乗じた在日朝鮮人台湾人等のいわゆる第三国人は商店街、盛場等において統制品である食料品、衣料品等を販売しまたこれらの場所では日本人経営の露天商との間に出店割込等の紛争が発生し、これに対す(ママ)警察の取締に対しては戦勝国民であるという優越感から不当な圧迫であるとして、常に反抗的態度を示す状況であつた。
 中でも東京都内の渋谷警察署管内では、台湾人経営の衣料ゴム製品食料品等統制品乃至禁制品業者が密集するに至つたので、昭和二十一年四月及び七月の数回に亘つてこれが取締を行い、七月十七・八両日の取締に際しては繊維品、ゴム製品等闇価格約三〇万円を押収した外、台湾人二七名を検挙した。
 一方同年六月には、日本人露天商松田組の国鉄新橋駅前広場のマーケットの利権を繞つて台湾人との間に紛争を生じ、七月十六日松田組一派の約一五名の者がけん銃、日本刀、棍棒等を携行の上自動車三台に分乗して、渋谷区宇田川町六〇番地台湾人経営の喫茶店を襲撃、居合せた台湾人約五〇名と乱闘し、警察官一名一般人二名、台湾人六名に夫々傷害を加えるという事件が発生した。
 右乱闘事件後、台湾人等は約二〇〇〇名を集結して松田組事務所警視庁渋谷警察署を襲撃するという情報が乱れ飛び、不穏な動向を示していた。
(二)事件の概要
 昭和二十一年七月十九日午後九時頃台湾人はジープ二台、乗用車一台、トラツク三台に約一五〇名が分乗して、渋谷区中通り三丁目一八番地渋谷警察署前道路から恵比須方面から渋谷方向に進行して来たので、警察官が停車を命じたところ、乗車中の台湾人は「台湾人を何故に検問するか」と反抗して紛争を生じ折柄警戒中の渋谷警察署長が台湾人の説得に努め行先を尋ねたところ、台湾人等は「本日京橋方面に集結し、麻布所在の中華民国弁事の処え行き松田組との紛争解決の斡旋並びに警察取締の緩和等について陳情を行いその帰途である。」と申立てたが、挙動が不審であつたので注意の上進行を許した。
 ところが第三輌目のトラツクが前記署長の前を通過の瞬間、車上より署長に対しけん銃三発を発射し、同所に居た芳賀巡査部長外一名に命中、芳賀部長はその場において昏倒した。さらに続いて進行して来た車上からも同様けん銃を発射したので、同署長は警戒員にけん銃使用を許可して応戦中、最後尾のトラツクが道路傍の畑に乗り込み停車したのでこれを包囲の上乗車中の台湾人二八名を逮捕したほか、一四年式けん銃ほか三挺、実砲三〇発その他棍棒等を押収したが他はいずれも迯走したものである。
 本件による警察側のけん銃発射数は二四二発で、警察側重傷二名(内一名死亡)軽傷二名、台湾人側重傷二名(何れも死亡)軽傷七名を出すに至つた。
(二)(ママ)事件の措置
 本件の被疑者蔡竜塗外二七名を公務執行妨害及び傷害の現行犯人として逮捕し取調を行つていたが、七月二十六日東京憲兵司令部との話合により七月十七八日検挙した者とともに同司令部に引渡した。
(三)(ママ)連合国軍総司令部法務局における公判状況及び判決の状況
 1 公判の状況


 連台国総司令部法務局においては、同年七月二十六日以降審理の結果四三名を有罪と確認し、同年九月三十日警視庁第一会議室において、裁刊責任者米第八軍司官アイケルバーカー中将裁判官バーグ大佐ほか二名、検事エリオツト少佐ほか二名、弁護人、バーマンマークイほか一名によつて、被告蔡竜塗ほか四二名を「日本国占領軍の占領目的を阻害する諸行為を犯したるに因る」という起訴理由によつて、軍事裁判所を開廷し、爾来四五回に亘つて審理を行つた。

2 判決の状況

 本件については、同年十二月十日連合国占領目的を妨害する諸行為を犯したるによる罪として次のような判決があつた。
 無罪 洪聡仁外三名
 懲役二年重労働 蔡竜塗外三七名
 本国送還 本国の送還の日を以て重労働を免除す
 連合軍日本占領中は再渡来することを許可せず。
 懲役三年重労働 朱徳高
 本国送還、本国送還を以て重労働を免除する。


写経屋の覚書-フェイト「警察の拳銃発射数とか判決とかの細かい点についてはこっちの方が詳しいね」

写経屋の覚書-はやて「へー、いちおう本国送還で重労働は免除になってるんやねぇ。ほんで再来日は禁止と」

写経屋の覚書-なのは「じゃ、対して突っ込むところもないし、ちょっと短いけど今回はここまでにするね」

大阿仁村事件
生田警察署襲撃事件
大滝事件
富坂警察署襲撃事件
七条警察署事件
直江津事件
坂町事件
新潟日報社襲撃事件