写経屋の覚書-フェイト「タイトルを見ると、今回は朝鮮人集団不法行為について見るんだね」

写経屋の覚書-はやて「いわゆる『朝鮮進駐軍』の話やな」

写経屋の覚書-なのは「うん。今回は神戸の生田警察署襲撃事件について見るんだよ。まずはウィキを引用するよ」

生田警察署襲撃事件

第1回目の襲撃事件

1945年12月24日午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた(理由は後述)。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊(当時日本は連合国軍の占領下)によって暴動が鎮圧された。

襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない。

第2回目の襲撃事件

翌年1946年1月9日、三宮ガード下で賭博団(国籍未詳)が検挙されたことを受け、30-40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した。

写経屋の覚書-はやて「参考文献として「兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』兵庫県警察本部、1975年」って書いとるね」

写経屋の覚書-なのは「じゃ、その兵庫県警察史編さん委員会『兵庫県警察史 昭和編』(兵庫県警察本部 1975)p445~447を見てみるよ」

写経屋の覚書-兵庫445
写経屋の覚書-兵庫446
写経屋の覚書-兵庫447

 第三国人をめぐって さて、以上みてきた強窃盗団は、三宮自由市場と深いかかわりを持っていた。自由市場の実態はヤミ市であり、更には泥棒市場としての側面を持っていたことは既に述べた。その自由市場に大きな勢力を張っていたのが中国人・台湾人・朝鮮人などのいわゆる第三国人であった。彼らは戦勝国意識を誇示するため腕章をつけて行動し、敗戦国日本の警察権行使を認めようとしなかった。連合国の占領政策が具体化しない段階における、日本警察のもつ捜査権の不明確さと、日本警察官の敗戦国意識が影響して、その取締りの徹底を期し得ず、残念ながら一時期同地区は無警察状態に陥った。そうした状況下で、これら第三国人とかかわりあいをもち三宮自由市場を根城とする、凡野こと菅谷政雄が率いる国際ギャング団の掃滅作戦が展開されたのである。この事件の一斉検挙は警察の弱体と無能を非難する世論の中で、本県刑事警察陣が警察威信を回復し、その態勢建て直しを図る、いわば起死回生の策であった。
 ところで、国際ギャング団事件を語るには終戦直後における第三国人の動静を、ひとわたり眺めておかねばならない。
 終戦当時本県には、神戸を中心として約三二〇〇人の華僑、約二万(神戸四五〇〇)の台湾人と、一三万に近い朝鮮人が居住していたが、これらの人々の処遇をめぐって種々の紛争が起こった。終戦によって日本の統治から解放された台湾・朝鮮ではあったが、在日朝鮮人・台湾人の具体的な権利義務問題は、すべて占領軍当局の政策決定を待たなければならなかった。G・H・Qが朝鮮人・台湾人の一般犯罪に対する日本の裁判権を確認したのは、昭和二十一年二月十九日のことであるが、例外的に本県では、これに先立つ一月三十日に、第三一軍政中隊保安宮ハイヤー憲兵大尉の名で、次のような布告が出され神戸市内の要所ならびに各官公署に掲出された。
  (1)各国人は現行の日本法令に従うこと。
  (2)日本警察の法的命令は、国籍の如何にかかわらず各人により遵守さるべきこと。
  (3)現行の保健・衛生・保安に関する諸法令ならびに、民法・刑法その他如何なる現行法令を問わずこれに従い、その法令に対する警察措置を妨害する者は逮捕処罰せらるべし。                             (『神戸新聞』昭・21・1・31)
 このように本県では他府県に先駆けて、進駐軍警察当局から第三国人の不法行為は許されないとする見解が示されたわけであるが、それとても昭和二十一年に入ってからのことであり、それ以前は日本警察が準拠すベき何らの方針も示されていなかったのである。
 こうした、いわば無重力状態の中で第三国人の不法行為が相次いだ。そのまず第一は華工(中国人労務者)によるいくつかの事件である。中国人労務者の実態については、221ページで触れたが、終戦直後の八月二十日の夜約八○○人の中国人労務者が、戦勝国民としての生活権擁護を理由に海岸通の三井倉庫に侵入し、米・砂糖などを強奪して以来毎夜のごとく倉庫を襲い、あげくの果てには水上署ならびに警察部外事課に乱入のうえ暴力を揮うに至った。他方、逆に相生市内では播磨造船所で、中国人労務者の無法ぶりに激しい憤懣を抱いていた刑余者が、ささいなことから中国人労務者三人を殺害するという事件も起こっている。
 しかし、この中国人労務者問題はまもなく解決し第三国人問題は日本人・朝鮮人・台湾人による混成犯罪者集団対策にしぼられ、特に三者相互間の角逐に発する抗争は、治安上最も重視しなければならない問題となった。ところが残念ながら当時警察の威信は地に落ち、三宮自由市場は無法をほしいままにしていた。そうした中で警察にとり極めて不名誉な事件が突発した。昭和二十年十二月二十四日の夜半、僅かな時間とはいえ生田警察署が暴徒に占拠されたのである。この事件は生田暑が岡山県警察部の捜査に協力したことが発端となっている。同署では岡山市内で発生した七人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張してきた岡山県の捜査員に協力した。ところが午後九時頃「岡山の刑事を出せ」と叫びながら、突然乱入してきた五〇人をこえる朝鮮人の一団が、拳銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内の捜索を始めた。岡山の捜査員は幸い脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部との連絡手段を絶ってしまった。急を聞いて進駐軍M・Pがジープで駆けつけ事態はようやくにして拾収し得たが、この事件は無法者集団を増長させる結果をもたらした。一月九日、生田署が三宮ガード下でハッタリ賭博団を検挙した際、またも三、四〇人の朝鮮人が署内に乱入し犯人を奪還しようとしたのである。しかし、同署では断固これを制圧し、M・Pと協力して首謀者とみられる三名を検挙した。

写経屋の覚書-フェイト「たしかにウィキにあるように「確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない」よね」

写経屋の覚書-はやて「ちょっと待って、フェイトちゃん!警察史に「第三国人問題は日本人・朝鮮人・台湾人による混成犯罪者集団」とあるように、犯人集団が朝鮮人だけで構成されてたかどうかは分からへんけど、問題はそこ(ちゃ)うやろ?朝鮮人集団が官公署を襲撃したことが問題やん」

写経屋の覚書-なのは「そうだね。この場合、はやてちゃんが言うように、朝鮮人集団が警察署を襲撃して仲間を奪還しようとしたってことが事件の本質なんだよ。実は新聞記事にも出てるんだけどね…」

写経屋の覚書-451227朝日(大阪)

1945年12月27日付朝日新聞(大阪版)
強盗犯を一味が奪ひ返す
これはまた警察署に留置中の強盗犯が一味によつて強奪されたといふ無警察ぶりが神戸に起つた――

岡山市南方酪農林三郎方へ去る二十三日夜十数名の集団強盗が押入り、日本刀、ピストルなどで脅迫、家人を縛りあげて現金五千円、衣類、時計などを強奪一同車座となつて飲酒ののち逃走したが、このうち数名を二十四日岡山県刑事課員が神戸市で逮捕、生田署に留置取調べにかゝつたところ、同夜五十余名の一味が生田署を襲撃、犯人のうち二、三名を奪還して逃走した

一味の強盗団は大掛りなものらしく兵庫、岡山県警刑事課が目下全力をあげて犯人検挙につとめてゐるが右につき生田署では言明を避け、たゞ奪還された事実を認めてゐる

写経屋の覚書-フェイト「え?逮捕した犯人は奪還されたの?警察史にはそんなこと書いてないよ!」

写経屋の覚書-はやて「あまりにも不名誉やさかい、口拭って書かへんかったんかな?」

写経屋の覚書-なのは「新聞記事だと生田署のほうも奪還されたことを認めてるみたいだしねぇ…当時兵庫県警察部の刑事課長だった秦野章の自伝『逆境に克つ―「一日生涯」わが人生』(講談社 1988)p128には警察史を引いた記述しかしてなくて、奪還されたとは書いてないんだけど、続けてこんなことは書いているんだよね」

 私が刑事課長になる以前にも、彼ら集団暴徒が警察署に侵入し、逮捕した犯人を強奪していったことが一度か二度あった。まさに、警察の威信の失墜ここに極まれり、である。
 県警察部にいた私も同様の体験をした。部下の刑事がそういう外国人を現行犯逮捕してきたときのことである。それを知って、仲間が集団で犯人を取り返しに来た。
 刑事課長席にいた私は、たちまち彼らに取り囲まれてしまった。
「戦争に負けた国の警察のくせに、なぜ戦争に勝った国の人間を逮捕するのか!」
「俺たちは戦勝国の人間なんだ。同胞を返せ!」
 結局私はだんまり作戦をとることにした。ひとたび私が口を開けば、彼らとの交渉のテーブルにつくことになる。警察の威信を守るためにも、ここは沈黙しかないと判断したのだ。
 彼らは私のまわりでののしり、さわいだ。言葉はわからないが、彼らの語調と顔つきで内容はおよそ察しがつく。たとえ半日続こうが、一日続こうが、私はひとことも口をきかなかった。根気くらべだ。いくらさわいでも、口を開こうとしない私に、さすがに結束の固い彼らも、ついにアゴを出しはじめた。なんど押しかけても同じとあって、彼らが押しかけてくる回数は目に見えて減った。

写経屋の覚書-はやて「…やっぱり、生田署事件で犯人奪還されとったん(ちゃ)うんいう気がするで…」

写経屋の覚書-なのは「まぁ断定はできないけどね。ともかくこの事件も「朝鮮進駐軍」の実在を証明するものじゃないよね」

写経屋の覚書-フェイト「そうだね。朝鮮人集団が朝鮮進駐軍を名乗ったなんて記述も出てこないし、その朝鮮人集団も制度化された組織の行動ってわけじゃなくて、単に強盗集団ってことだしね」

写経屋の覚書-はやて「ただ、朝鮮人あるいは台湾人集団、所謂三国人集団によるの官公署襲撃があったこと自体は事実やって言えるやんなぁ」

写経屋の覚書-なのは「うん、前に史料の信頼性の担保で田岡自伝を見た時にもちょっとだけ触れてる話なんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「あ!警察史と新聞記事で生田署襲撃事件の詳細は確認できるけど、兵庫署襲撃事件については警察史と秦野回顧録に少し書いてるだけで詳細が分からないって話だったよね」

写経屋の覚書-なのは「そうそう、その話だよ。じゃ、今回はここまでにして、兵庫県警察史についてはまた別の記述をいつか見ていこうかな」

大阿仁村事件