阪神教育事件(3)

写経屋の覚書-フェイト「今回は阪神教育事件の続きだよね」

写経屋の覚書-はやて「前回は大阪を見たけど、今回は兵庫のほうを見るんやったね」

写経屋の覚書-なのは「うん。じゃ、兵庫県警察史編さん委員会『兵庫県警察史 昭和編』(兵庫県警察本部 1975)のp653~658を見ていくよ」

写経屋の覚書-兵庫653
写経屋の覚書-兵庫654
写経屋の覚書-兵庫655
写経屋の覚書-兵庫656
写経屋の覚書-兵庫657
写経屋の覚書-兵庫658


神戸朝鮮人学校事件起こる 「外国人登録令」の適用以来、在日朝鮮人は外国人として種々の制限を受けるようになったが、一方朝鮮人には外国人としての法的地位が確立しておらず、その生活や就職・教育などをめぐって多くの問題をかかえることとなった。例を教育問題にとろう。
戦時中在日朝鮮人の子弟は、当然のことながら日本語による教育を受けていたため、帰鮮しても母国語(朝鮮語)を話せない二世がすくなくなかった。このため帰国する者を対象とする、国語(朝鮮語)講習会が各地で開かれたのであるが、こうした講習会や講習所は、やがて朝連などにより民族教育を行なう学校に成長して行った。これらが学校としての形態を備えたのは概ね昭和二十一年春ごろのようであり、在日本朝鮮人連盟○○学院、あるいは朝鮮建国国民学校などと呼ばれ、独自の施設を持つものと日本の公立学校に間借りするものとがあった。たとえば、建青が昭和二十一年二月神戸に設立した朝鮮建国国民学校は、東部指定校を吾妻小学校、西部指定校を真野小学校(当時いずれも国民学校)とし、写真第Ⅲのような新聞広告をもって教師を募集した。
朝鮮人学校はこうした経緯により誕生したのであるが、その後昭和二十二年三月に「教育基本法」ならびに「学校教育法」が公布されたため、文部省では昭和二十三年一月二十四日付をもって「朝鮮人設立学校の取扱いについて」各府県知事あてに通牒を発し、続いて三月一日「各種学校の取扱いについて」追牒した。
この二つの文部省通達の内容は「朝鮮人学校は、私立小学校または中学校としての設立手続きをとって正式の認可を受けるか、または各種学校としての認可を受けよ」というものであった。当時本県における朝鮮人学校は四三校(生徒数七四六三)で、そのうち朝連経営(北鮮系)のものが四一校(生徒数七一六二)もあるのに対し、建青経営(南鮮系)のものはわずかに二校(生徒数三〇一)にすぎず、北鮮系の学校が圧到的多数を占めていた。しかし、実情は、そのうちのどれをとっても認可がおりる条件と実体を備えておらず、閉鎖以外にとるべき道はなかった。

写経屋の覚書-はやて「このへんは朝鮮人学校閉鎖命令までの流れやな」

写経屋の覚書-なのは「そうだね。次に文部省の閉鎖通達を受けた兵庫県の対応についてふれるの」

文部省通牒を受けた兵庫県では、事の重要性から慎重な態度をもってこれに臨んだが、兵庫軍政部からの勧告もあって、ついに同年四月十日全県下の朝鮮人学校へ閉鎖命令を出し、公立学校施設を使用しているものは十二日までに立退くよう通告した。これにより建青設立校ならびに尼崎市・三木町などほとんどの朝連系学校は平穏のうちに立退きが履行されたが、神戸ならびに姫路の四校はこれを不満とし、その代表四〇名は、四月十四日指令撤回陳情のため県庁におしかけ、徹夜の座り込みを続けた。翌十五日には応援員を得て、さらに気勢をあげるに至ったため、生田警察署(神戸市警)は、住居侵入現行犯として七〇名を検挙したのである。その後も引続き交渉が続けられたが結論を得るに至らず、四月二十一日神戸市長はついに裁判所に対し東神戸朝鮮初等学校(二宮小学校内)、灘朝鮮初等学校(稗田小学校内)、西神戸朝鮮初等学校(神楽小学校内)の三校に校舎返還の仮処分を申請し、同月二十三日一斉に執行することとなった。執行は予定どおり行なわれ、東神戸校は事故なく終了、灘校は若干のトラブルがあったが、警備の警察官が排除しこれを完了した。しかし西神戸校では激しい妨害にあい、ついに執行不能となったのである。
県ではこれに伴う善後策を講ずるため、四月二十四日午前九時三〇分から県庁知事室において、西神戸校の仮処分執行問題と、二十六日に予定されている朝鮮人の抗議集会対策を協議した。参集者は
県 側 岸田知事・吉川副知事・堀教育部長・田中渉外局長・中田視学官
市 側 小寺市長・関助役
市警側 田村公安委員長・古山警察局長・小山保安部長・村上警備課長
国警側 井手警察長(二十三日大阪府に発生した朝鮮人による府庁占拠事件調査のため中途退場)・三宅警備部長
検察側 市丸検事正・田辺次席検事 .
の一五名であった。ところが協議の最中、県庁内外に集まっていた朝鮮人約一〇〇名が突然知事応接室に乱入し、机・椅子・電話器等を破壊したうえ、境の壁を打破り知事室へなだれこんだのである。会議中の三宅警備部長・小山保安部長はそれぞれ国警県本部・神戸市警察局に電話で逮捕鎮圧を指令した。知事室に乱入した一団は、電話線を切断して外部との連絡を遮断したうえ、室内の器具を破壊する等の暴行を続け、先に検挙した朝鮮人七〇名の身柄釈放と学校明渡し命令の撤回を迫った。交渉はやがて数をたのむ強要・脅迫となり「殺せ、殺せ」の怒号と殺気が渦巻いた。完全な監禁状態の中で、一同の生命の危険を感じた市丸検事正は、止むなく要求を容れて七〇名の釈放を約し、次席検事を退場させて釈放手続きをとらせた。ついで、岸田知事が命令撤回の文書を交付し、古山警察局長もまた当日の朝鮮人の行為に対し、検挙をしないことを応諾するのやむなきに至った。この間、前記両部長の指令によって出動した神戸市警七九七、国警応援三三九、計一一三六名の警察部隊は、県庁内外にあふれた朝鮮人にさえぎられ、内部の状況が全く不明のため如何ともし難い状態に置かれ、手の下しようがなかった。それぞれの責任者から約束をとりつけた交渉団は午後五時ごろ知事室を出て、県庁周辺に集まった朝鮮人六〇〇〇人に対し、約一時間にわたって交渉経過報告を行ない、喚声をあげて全員引揚げた。

写経屋の覚書-フェイト「え!?朝鮮人集団が乱入して外部との連絡を遮断、監禁状態で脅迫と強要して撤回させたの!」

写経屋の覚書-はやて「しかも、この件での検挙をしないように取り付けとる。せやけど、官憲の権威を蔑ろにして安寧秩序を乱すマネしといてただで済むはずあらへんよ」

写経屋の覚書-なのは「管理局に集団乱入して逮捕者を釈放させたようなもんだからね。当然、GHQも黙ってないよ」

その夜、知事をはじめとする関係者および甲南・芦屋・西宮の神戸基地管内各自治体警察長は神戸基地司令部に招致され、憲兵司令官シュミット中佐から、同基地司令官メノア代将の発した非常事態宣言を伝達され、

一、全警察官は憲兵司令官の指揮下に入る。
一、本夜中に、朝連および民青の本部・支部・分会役員の氏名・住所を調査のうえ憲兵隊に報告し、M・Pの検挙に協力せよ。
一、本日以後、県庁・市役所・検察庁等に入った朝鮮人は、理由を問わず逮捕してM・Pに引き渡せ。
一、検挙した者はすべて軍事裁判に付す。

など八項目にわたる軍命令を受けた。
神戸市警および国警県本部では直ちに警備本部を設けて、非常召集を発令、国警二二三名、神戸市警二〇四〇名計二二六三名が出動してM・Pに協力、一斉検挙に着手した。
翌二十六日には第八軍司令官アイケルバーカー中将が横浜から空路来神し、「暴力と強制のもとで行なわれた知事や検事正との協定や約束は一切無効であり、かつ、このたびの事件は明らかに占領政策および占領軍の安全に脅威を及ぼす行為であるので、軍事委員会または軍事裁判所に付することを命じた」という旨の声明を発表した。
この非常事態宣言は、四月二十八日午後三時に解除され、シュミット中佐から口頭でその旨が伝えられたが、この時国警県本部および神戸市警察局は

一、二十四日のデモ関係者の徹底検挙を実施せよ。
一、一〇人以上の朝鮮人集会は禁止せよ。
一、検問所を設けて朝鮮人が神戸市へ入ることを阻止せよ。
一、屋内・屋外を問わず、いかなる場所も朝連に使用させてはならない。

などを厳命された。
事件の捜査は、四月二十九日をもって一応峠を越した。同日までに検挙した人員は一五九〇人であり、最終的には一七三二人にのぼった。取調べの結果その罪状によりA級九人は軍事委員会で、B級三〇人は軍事裁判所で、C級九七人は神戸地方裁判所でそれぞれ裁判に付された。なお、軍事委員会に付された者の罪状は「駐日占領軍の安全および占領目的に対する有害な行為」であり、七人の者が重労働一五年から同一〇年に処せられ、無罪者は二人であった。一方、B・C級はほとんどの者が懲役二ヵ月執行猶予二年の判決を受けた。
朝鮮人学校の閉鎖をめぐる事件は、神戸のほか東京・大阪・岡山・山口の各地でも発生したが、その規模において神戸の場合が最も大きかった。朝鮮人学校問題はこれらの事件を契機として、文部省と朝連との間において急速な歩み寄りがみられ、同年五月私立学校認可申請という形で協定が成立し、神戸では西神戸・東神戸の両朝鮮初等学校が設立され、この問題は解決をみた。

写経屋の覚書-はやて「日本警察はGHQ憲兵の指揮下に置かれて捜査検挙を行ない、検挙者は全部GHQ憲兵に引き渡して、日本の裁判所やなくてGHQ側の軍事裁判で処理する、ほんま非常事態やね」

写経屋の覚書-フェイト「朝鮮人の集会の禁止どころか、神戸市への進入まで禁止ってすごいよね。で、朝鮮人が集団暴力で勝ち取った成果は全部ひっくり返されたんだね。当たり前といえば当たり前なんだけど」

写経屋の覚書-はやて「そらそうやんなぁ。逆に官憲側が暴力と強制で協定や約束を締結したんやったら思いっきり批判しよるんやろけど」

写経屋の覚書-なのは「そうだろうねぇ。で、兵庫県警察史にもあるように、最終的には文部省と朝連側の協議が始まって朝鮮学校の設立ということになるんだよ」

写経屋の覚書-フェイト「所謂「各種学校」だね」

写経屋の覚書-なのは「この阪神教育事件は、結局朝鮮人学校の設立につながったし、また死者が出たこともあって、官憲の弾圧に対する抵抗と勝利みたいな感じで特筆されることが多いんだよねぇ」

写経屋の覚書-はやて「教育に関する単純な事件やったらええんけど、親北朝鮮の姿勢をとる朝連の政治的意図いうか思惑も混入しとって妙な色彩を帯びとるしねぇ…」

写経屋の覚書-なのは「じゃ、今回はここまでにするね」

大阿仁村事件 生田警察署襲撃事件 大滝事件
富坂警察署襲撃事件 七条警察署事件 直江津事件
坂町事件 新潟日報社襲撃事件 首相官邸デモ事件
曽根崎警察署襲撃事件 長崎警察署襲撃事件 尾花沢派出所襲撃事件
津別事件 大野事件 宮城県内の事件
浜松事件 益田町警察署襲撃事件 宇部事件
小野田事件・下関騒擾事件 阪神教育事件(1) 阪神教育事件(2)

渋谷事件

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阪神教育事件(2)

写経屋の覚書-はやて今回は別の史料を見る言うてたよね」

写経屋の覚書-なのはうん。大阪府じゃなくて大阪市の警察のほうの史料なの。じゃ、大阪市行政局『大阪警察誌』(大阪市行政局 1956)p111~115を見ていくよ」

写経屋の覚書-大阪市111
写経屋の覚書-大阪市112
写経屋の覚書-大阪市113
写経屋の覚書-大阪市114
写経屋の覚書-大阪市115

□朝鮮人学校の閉鎖をめぐる騒じょう事件
(一)事件発生の原因
大阪府は,昭和23年1月24日付の文部省指令「朝鮮人設立学校の取扱に関する件」に基き,大阪・市内にある19の朝鮮大学校(公立校舎使用のもの17校,設備極めて不完全のもの2校)を閉鎖することに決定,それぞれ関係者にその旨を通知した。ところが在阪の朝鮮人達は,『この決定は,日本帝国時代と同じように,朝鮮民族の自主性をなくして奴隷化する愚民政策である。』として朝鮮人連盟を中心に朝鮮人教育会を結成し,学校閉鎖絶対反対の決議文を,文部大臣および大阪府知事に手交するなど猛烈な反対運動をおこした。
そこで府教育部は,この問題を平和的に解決するため,朝鮮人連盟の幹部および朝鮮大学校の校長を集めて会議を関催すべく,再三にわたって関係者を招集したが,朝鮮人側は,この招集に全く応じる気配もないので,3月15日やむを得ずこれらの学校に対して閉鎖勧告と立退要求を行った。
ところがこの指示によって校舎を明け渡したものは7校,閉鎖したものは3校であって,残余の朝鮮人師範学校を舎む8校は,相変らず授業を継続しているので,4月12日再び『4月15日限り閉鎖するよう』学校関係者に厳達したのである。
この間朝鮮人連盟をはじめ,朝鮮人の各種団体は連合して「朝鮮人教育問題共同闘争委員会」を組織し,4月15日その代表が知事および市長に反対決議文を提出して『もし閉鎖命令を撤回しなければ,いついかなる不祥事態が突発するかも知れない』と強硬なしかも脅迫的態度で交渉してきたのに対し,府教育部ではこの要求を断乎として拒否し,4月15日以降は閉鎖させるという既定方針を押し進めることとしたのであった。
(二)4月23日事件
4月23日午前9時30分ごろから「朝鮮人学校閉鎖絶対反対人民大会」が朝鮮人連盟生野支部をはじめ,城東,布施の各支部で一せいに開催されたが,その参加者約7,000名は,大会終了後直ちにデモ行進に移り,午後2時30分ごろ府庁前公園広場に集結した。
これにさきだち,朝鮮民主青年同盟生野支部委員長呉錫斗ほか15名の代表団が知事室において,副知事および学務課長に閉鎖命令の撤回を強要していたが,副知事らの強硬な態度に交渉が行詰り状態となっていたところ,府庁前公園広場に集結したデモ隊員は,この状態を知って興奮し,遂に午後3時30分ごろ約4,000名が府庁正門の警戒線を突破して庁内になだれこみ,3階以下の各廊下を占拠して座込みを行い,あるいは警戒中の警察官と小競合を演ずるなど,各階は,これら朝鮮人の怒号と喚声で極めて不穏な状態となった。
ところで午後4時過ぎ,副知事らは,代表団がこの騒ぎに気をとられているすきを見て他の出入口から脱出することができたが,その後間もなく室外では,交渉が進行しないことに業を煮やして完全に暴徒と化したデモ隊員が,知事室のとびらを破って乱入しはじめ,手当り次第に調度品を破壊して暴行の限りを尽したり,またアジ演説を行うなど事態は極度に険悪となり,代表団も,身の危険を感じて逃走する始末であった。
本市警察では,当日事前に多数の制服警察官を配置することは,かえって相手を刺激するとして府庁内に約50名の警察官を配置しただけであったが,午後3時30分ごろに至って情勢はますます悪化してきたので,これに即応して待機中の警察官372名の出勤を命じ,その後も2回にわたって市内各署を動員するかたわら,国家地方警察大阪府本部へも連絡して警察学校の生徒1,500名の応援出動を受け,約3,200名の警察官をもって府庁内になだれこんでいた約4,000名の暴徒を実力で庁外に押し出し,これを解散させるとともに,事件の首謀者と目される179名を,騒じょう罪の現行犯として検挙し,それぞれ各署に分散留置して取調に当った。この間警察官で負傷した者は,清水公安第一課長以下32名に達したが,朝鮮人側の負傷者は不明であった。
(三)4月24日事件
4月24日早朝から朝鮮人は,青壮年男子を中心に府庁前に約400名,南警察署前に約200名が集合し,午後3時40分ごろになって府庁前の朝鮮人は2隊に分れ,1隊はその場で,他の1隊は南警察署前の1隊に合流して同署前の空地にすわりこみ,山瀬署長に対して前日から留置中の騒じょう犯人の釈放を要求したのであったが,署長はこれを拒絶して解散を命じたところ,朝鮮人達は,空地の煉瓦,瓦,石などを署に向って投げつけ,署警備中の赤沢警部以下14名の負傷者を出したので,加害者2名を検挙した。
また東警察署に対しても約40名の朝鮮人が数回にわたって押しかけ,留置人の釈放を要求してきたが,ここでは暴力をふるうことなく,署長の解散命令に従って解散した。
(四)4月26日事件
4月23日には警察官に制圧されたため,閉鎖命令の撤回を実現することができなかった朝鮮人は,26日さらに大阪市内およびその周辺に在住する朝鮮人にげきをとばして15才以上の男子と20才以上の女子約2万名をかり出し,午後2時ごろからまたも府庁前公園広場で「朝鮮人学校閉鎖絶対反対人民大会」を開催したのであった。
この日,本市警察ではあらかじめ約3,000名の警察官を動員して,
(1)集会は,不法越軌行為のない限り認めるが,電車通りに1歩も出ることを許さない。
(2)府行政の中枢である府庁には,不逞分子を1歩も入れず,断乎として警備の万全を期する。
という方針のもとに,府庁周辺の警備に当ったのである。
一方知事は,この日も午後1時ごろから朝鮮人代表玄尚好外4名と会見中であったが,午後3時40分ごろ大阪軍政部長クレーグ大佐が府庁に到着し,別室で知事に対して『第1軍団スウィング少将の命により,本会談を直ちに打ち切るべし。』と命令し,さらに同席の鈴木警察局長に対して『府庁前公園の朝鮮人を即時退散させよ。』との指示を行った。よって知事は,この旨を朝鮮人側の代表者に伝え,続いて鈴木警察局長は,『直ちに代表者は府庁前公園に行って知事のことばを伝えるとともに,5分間以内に全員を解散させよ。もしこれに応じない場合は,警察は直接強制の措置をとる。この場合の責任は朝鮮人側にあることを付言する。』と言い渡して会談を打ち切った。
ところが,代表者が群衆にこの旨を報告して鈴木警察局長の解散命令を伝えると,群衆は総立ちになってけんそうを極めたので,警察局では用意していた放送車のスピーカーを通じて解散命令を示達し,また代表者も壇上に立って群衆を慰撫して帰宅を促した後,代表者自身もトラックに乗車して退場を始めたところ,頑強に闘争を主張する過激派は,代表者の無能振りをののしってそのトラックに投石を始めたので,本市警察は応急手段として消防ポンプで放水したところ,一時静まったかに見えたが,一部の朝鮮人は鉾先を転じて警備中の警察官に投石し,木片を持って立ち向ってきたので,再び放水して制圧し,なおも抵抗する者にはけん銃の威嚇射撃をもって鎮圧した。
朝鮮人が解散して平静に復したのは,実に午後5時20分を過ぎていた。
(五)その後の状況
この騒じょう事件に関連して第25師団長ムリンズ少将は,『朝鮮人は,今後解除あるまで府庁舎内に立ち入ることを禁ず。もし違反した者は,勅令第311号違反として逮捕し処罰する。』旨の命令を発し,さらに第25師団憲兵隊長は鈴木警察局長に対して,『今後朝鮮人の集会およびデモは,届出の有無にかかわらず,憲兵司令部に速報せよ。』との指示を行ったのであった。
一方朝鮮人の動向としては,連合軍当局の強硬な態度と警察局の強力な取締によって,このまま闘争を続けるという過激派(朝鮮人連盟,民主青年同盟)と,現在の闘争態勢を解き,平和的政治的に交渉するという自重派(居留民団,建国促進青年同盟)に分れてきたが,時日の経過とともに過激派幹部の信頼が薄れて遂に平静となるに至った。
この事件の結果占領目的違反として軍事裁判所に拘禁された者18名(日本人側全逓大阪地協会長村上弘外9名,朝鮮人側赤旗支局員平治仁植外7名)でそれぞれ重労働1年から4年までの判失を受け,7月27日在阪第25師団長により判決の確認が行われて刑が執行された。また騒じょう,建造物侵入,傷害等により大阪地方裁判所に起訴された者は,府庁事件で金左弓外23名,南警察署事件で李在欽外8名であったが,第5回の公判において無罪1名を除き全被告にそれぞれ懲役4ヵ月から8ヵ月,3年間の執行猶予の判決があり,これに対し検事控訴および被告人控訴が行われたが,9月2日大阪高等裁判所において全被告に原審通りの判決があった。

写経屋の覚書-フェイト「全逓大阪地協会長村上弘外9名って、日本人の援護者もいたんだね。労組・左翼関係の人っぽいけど」

写経屋の覚書-なのは「ただね、26日の威嚇射撃で金太一って少年が死亡したって話があるんだよね」

写経屋の覚書-はやて「ほんま?」

写経屋の覚書-なのは「在日朝鮮人側の著書や記録にしか出てこないんだけど、どうやら本当っぽいんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「でも、前回見た大阪府警察史のほうは威嚇射撃自体について書かれてなかったよね?」

写経屋の覚書-はやて「ほんまや。26日は放水だけしかしてへんような感じや」

写経屋の覚書-なのは「実際には射撃しているわけだから、なんだか不誠実というか嫌な感じの記述だね」

写経屋の覚書-はやて「官憲の隠蔽工作やーってなってまうやんねぇw」

写経屋の覚書-フェイト「大阪府警察史の冒頭にこの事件が「大阪市公安条例制定に直接の契機をあたえた」ってあるけど、この手のデモ&暴力行動って頻発してたんだね」

写経屋の覚書-なのは「朝鮮人関係も多いけど、共産主義運動、もっと直接的に言うと共産党などの左翼暴力革命が頻発してたんだよ。共産党と朝連は仲間だったしね」

写経屋の覚書-はやて朝連構成員で共産党員いうんも多かったみたいやね。組合の労働争議にも関わってくるからよけい朝鮮人組織=怖いものというイメージができてまう…」

写経屋の覚書-フェイト「共産主義・朝鮮人・暴力行動っていうセットのように思われることになったんだね」

写経屋の覚書-はやてま、行動の尖兵として共産党に使い捨てられたーとか言うて被害者意識を強調する言説はあるやろねぇ」

写経屋の覚書-フェイト「鈴木警察局長の「直ちに代表者は府庁前公園に行って知事のことばを伝えるとともに,5分間以内に全員を解散させよ。もしこれに応じない場合は,警察は直接強制の措置をとる。この場合の責任は朝鮮人側にあることを付言する」はかなりきついというか無茶振りっぽいよ?」

写経屋の覚書-なのは「正直、これくらい厳しい条件を突きつけなきゃ動かなかっただろうって思うんだよね。朝鮮人側の代表たちも解散するよう努力しているしね」

写経屋の覚書-はやて「でも、それに反発した連中がおってグデグデになったんやな。どうせ官憲側の挑発や策動があったとか言うてそっちのせいにしよるんやろけど」

写経屋の覚書-なのは「はやてちゃん正解w ほんとに言ってる人がいるんだよねぇw ま、大阪ではこんな感じだったんだけど、神戸のほうはもうすこしひどいことになってたんだよ」

写経屋の覚書-フェイト「死者が多く出たの?」

写経屋の覚書-なのは「そっちじゃなくて、行政・官憲側がひどいめにあったの。それについては次回に見るから、今回はここまでにするね」

大阿仁村事件 生田警察署襲撃事件 大滝事件
富坂警察署襲撃事件 七条警察署事件 直江津事件
坂町事件 新潟日報社襲撃事件 首相官邸デモ事件
曽根崎警察署襲撃事件 長崎警察署襲撃事件 尾花沢派出所襲撃事件
津別事件 大野事件 宮城県内の事件
浜松事件 益田町警察署襲撃事件 宇部事件
小野田事件・下関騒擾事件 阪神教育事件(1)

渋谷事件

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阪神教育事件(1)

写経屋の覚書-なのは「今回取り上げるのは「阪神教育事件」っていう有名な事件なの」

写経屋の覚書-フェイト「え?確か『朝鮮進駐軍』検証の時にも出てきたよね?」

写経屋の覚書-はやて「あー、GHQが戒厳令出してどうこういうヨタの元ネタやったね」

写経屋の覚書-なのは「そうなの。在日朝鮮人側では民族教育に対する弾圧として「阪神教育闘争」なんて言ってるけどね」

写経屋の覚書-はやて「あっちの立場からしたらそうなるんやろねぇ。阪神いう名前が付いてるいうことは、大阪と神戸で起こった事件なんかな?」

写経屋の覚書-なのは「うん。まず大阪の方を見てみるね。史料は大阪府警察史編集委員会『大阪府警察史 第3巻』(大阪府警察本部 1973)p244~249だよ」

写経屋の覚書-大阪府244
写経屋の覚書-大阪府245
写経屋の覚書-大阪府246
写経屋の覚書-大阪府247
写経屋の覚書-大阪府248
写経屋の覚書-大阪府249

三 集団警備事件
朝鮮人府庁乱入事件 既述のとおり大阪市公安条例制定に直接の契機をあたえたのは、朝鮮人学校閉鎖に関連するデモ隊の集団不法事件であった。
二三年一月、文部省は各府県知事あてに、朝鮮人設立学校の取扱いに関する件として、(一)朝鮮人の学齢児童は当然義務教育を受けること。(二)朝鮮人が学校を経営する場合は、私立学校として教育基本法、学校教育法に従い、知事の認可を受けねばならない。(三)朝解語の教育は課外に行なってもさしつかえない。という要旨の通達を出した。これを受けて大阪府では、(一)朝鮮人学校が私立学校として無認可であること。(二)教員が適格審査を受けていないこと。(三)日本人小学校の校舎借用期限が三月末で切れたことの三点をあげ、府下の朝鮮大学校六二校のうち、公立校合使用中の学校一七と設備の不完全な二校に対して閉鎖勧告または立退き要求を出したが、朝鮮人設立師範学校などこれに応じなかったため、学校教育法に基づき四月一五日限りこれらを閉鎖するよう命令した。
いっぼう在阪朝鮮人は、在日朝鮮人連盟を主体とする朝鮮人教育問題共同闘争委員会を組織し、民族教育の自主性を破壊するものとして反対決議を行ない閉鎖命令の撤回を叫んで、抗議運動を活発に展開した。四月二三日午前九時三〇分ごろ、学校閉鎖反対人民大会が開かれ、朝連生野支部では約五、〇〇〇人、布施および城東支部ではそれぞれ約一、〇〇〇人が集合した。同大会は一一時三〇分ごろからデモ行進に移り、午後二時三〇分ごろには城東支部デモ隊の到着を最後に、府庁前の大手前公園に集結を終わり、約七、〇〇〇人の朝鮮人等が随所でジグザグ行進を行ない、あるいは歌をうたって気勢をあげた。
これよりさき、午後零時三〇分から知事室において副知事(赤間知事不在のため大塚副知事が出席)および学務課長に対し、民主青年同盟生野支部委員長ほか一五人の代表団は、(一)朝鮮人学校閉鎖命令即時撤回。(二)朝鮮人教育の自主性を認めよ。(三)学校校舎明渡し命令の取消し。など、数項目にわたる要求書を提出して交渉にはいったが、副知事は、「政府は朝鮮人教育の自主性を認めないのではない。ただ学校教育法と教育基本法に基づいて設けられねばならぬ」との方針をまげず、交渉は押し問答に終始した。代表者たちは強硬な態度で面会時間の引き延ばし戦術をとり、交渉の場はだんだん険悪な空気に包まれていった。
これと併行して府庁前の大会場では、一部のアジ演説で扇動された群衆が、ついに午後三時三〇分ごろ青年行動隊に誘導され、ワッショワッショと気勢をあげながら、府庁正面の警戒線を突破して庁内に乱入した。婦女子をまじえた約四、〇〇〇人が、三階以下の各階廊下を不法占拠してすわり込み、一部の者は交渉中の知事室前でスクラムを組み、□々にののしりわめくなど状況はきわめて不穏な状態となった。情勢険悪とみて、副知事らは警察官の誘導により部屋を脱出したが、激高したこれらの者は知事室に乱入して、ガラス戸その他調度品を破壊し、電話線を引きちぎるなど暴行を働いた。
これに対し、市警察の警備配置は手薄であったため一時不意をつかれたが、間もなく態勢を整え午後七時すぎまでに、不法乱入者等はことごとく庁外に排除された。このとき、朝鮮人の首謀者と日本共産党員を含む一七九人が騒擾罪の現行犯として検挙されたが、大阪市警察公安第一課長ほか三一人の受傷者が警察側に出た。当時の緊迫した状況を鈴木市警察局長は次のように記している。


「府庁の正面玄関は、なるほど朝鮮人が身動きもできないほど詰めかけて、ひしめき合っていた。その群衆の中を押し分けてはいることはとてもできないので、北側の通用門からやっとのことで三階の管区本部長の公室にはいった。途中の階段から廊下まで文字どおり人の波、しかも、女子供が一ぱいだ。みんな輪型にスクラムを組んで子供を真中に囲み、男と女がその外側で手を組み合っては、がやがやと騒いでいる。そのかたわらを、制服姿で通り抜ける私を見る眼は、明らかに激しい敵意に燃えている。これではとても簡単に退去させられそうにもない。
知事室の前では、青年行動隊が荒々しいかん声をあげてデモり、そのあたり一面、十重二十重の人間のバリケードである。知事室付近を警備していた浅香警部補が、管区本部長室の前にきた私の姿を見つけて、駆けつけてきた。極度の緊張で、顔をそう白にして私の指揮を仰ぐのである。〝けん銃を使う以外にとても鎮圧の方法はありません。けん銃を使用させてください〟だが、これだけ多数のもののなかでけん銃を発射すれば、罪とがもない女子供までそば杖をくってそれこそ大変なことになる。〝すぐ断固たる措置をとるから、けん銃の使用はしばらくまて〟
そう押し止めておいて、私はすぐ管区本部長の公室から、市警本部に連絡した。全員非常召集の発令である。各署には必要の量の人員を残して、署長引率のもとに一刻も早く府庁前に集合するよう命じた。府庁付近に配置されている警官だけでは、もはやとても手がつけられない。取りあえず警察本部中隊で警備を増強しつつ、しばらく各署からの部隊の集結を待つ。私はそう方針をきめた。(前掲・総監落第記九七頁)


翌二四日、神戸では朝鮮人に県・市の首脳者・検事正などがかん詰め状態にされ、学校閉鎖命令の撤回と検束者の釈放を約束させるという事件が発生した。その夜、神戸基地司令官は、管内に最初の非常事態宣言を発令して治安に備えた。当府においては二四・五の両日にかけて前日の披検挙者の釈放を要求する波状デモが市内各(ママ)に起こり、特に南警察署では投石・暴行により二人が検挙された。

放水による鎮圧 前述のとおり四月二三日以来府庁内外で激しい反対闘争を繰りひろげた朝鮮人等は、二六日にはさらに勢力を強めた。市内全朝鮮人に檄をとばし強制狩出しを行ない大手前公園に結集した。市警察局長は「私は、数日来相次いだ騒擾事件からこれを認めることは危険だと直感して、事前にこの集会を禁止する方針であった。そこで軍政部とMP司令部の指示を仰いだが、ついに承認は得られずやむなく集会を認めた。」(前掲書)という状態であった。当日午後二時ごろには約二万人が集結した。集会場の中央に置かれたトラックを演台にして、朝連本部・日本共産党・産別会議等の各応援者および共同闘争委員会岡山県代表による激励の演説が行なわれた。
この日市警察では警察吏員三、○○○人余りを動員して府庁舎の警備を重点に配置を行ない、集会は不法越軌行為のない限り認めるが、電車通りには一歩も出ることを許さぬ方針をとった。午後一時ごろから知事室で朝鮮人代表者と会見を継続していた知事は、三時四〇分ごろ会見を終わりたいと申し入れ、代表は続行を主張した。別室にいた大阪軍政部クレーグ大佐は「第一軍団スイング少将の命により本会談を打切るべし」、また同席の市警察局長に対して「大手前公園の朝鮮人を即時退散させよ」と指示した。よって会談は打切られ、市警察局長は代表者に向かい「五分間以内に解散せしめよ。もしこれに応じない場合は、警察は直接強制の処置をとるからあらかじめ了知されたい。そしてこの責任は朝鮮人側にあることをつけ加えて置く。」と警告が行なわれた。解散命令と同時に群集は総立ちとなりけんそうをきわめたので、警察は再び解散命令を通告、約半数が退場したと思われたとき、退場をしかける代表のトラックを目がけ、がん強に闘争を主張する過激派は代表者の無能ぶりを痛ばして、投石、暴力行為に移った。警察隊は応急手段として用意してあった消防ポンプで放水、この混乱を一時しずめた。しかし先鋭的な者に扇動された大ぜいの者は、鉾先を転じて警察隊に向かって投石、棒ぎれなどを振りかざして抵抗したので警察隊は再び放水して完全にこれらの者を鎮圧した。このとき市警察の警察吏員におよそ二八人の受傷者が出た。
この事件に対し、朝連大阪本部外交部長は、「今回の学校閉鎖問題は一つのきっかけで一昨年暮に本国引揚げ期限が切れた在日朝鮮人のあり方、法的な地位という問題を生活権と相まって根本的に解決しなければならぬ。」(二三年四月二六日朝日新聞)と、朝鮮人学校閉鎖問題ばかりではないことを語っている。
事件の翌二七日、第二五師団長ムリンズ少将は、市警察局長に次のような指示要領を命じた。一、府庁前と財務局前における集会は禁止する、デモ行為も同様。一、朝鮮人は今後この指示が解除されるまでは、府庁舎と警察庁舎に立入ってはならぬ。一、本日(二七日)は大阪における屋外、道路上におけるデモは一切禁止する。かく朝鮮人事件に対する連合軍当局の態度は強硬であったが、これは「占領軍の共産系騒擾事件に対する新しい決意を示した最初のものであった。」 (前掲・総監落第記)といわれている。
前記事件により検挙された者は、占領目的違反として軍事裁判所に拘禁されたもの日本人九人、朝鮮人七人で、数回にわたって公判に付された結果、それぞれ重労働一年ないし四年の判決を受け、七月二七日在阪米軍第二五師団により判決の確認が行なわれ刑の執行を受けた。また騒擾・建造物侵入・傷害罪等により大阪地方裁判所に起訴されたものは大阪府庁事件で二三人、南警察署事件で八人、計三一人であったが、第五回の公判において無罪一人を除いて全被告にそれぞれ懲役四月ないし八月、執行猶予三年の判決があった。これに対し検事控訴および被告人の控訴があって注目されたが、九月二日大阪高等裁判所において全被告に原審どおりの判決があった。なお、大阪市警察局に対し第二五師団司令部から右の感謝状が贈られた。

写経屋の覚書-フェイト「学校教育法と教育基本法の施行と適用に関する問題が発端だったんだね」

写経屋の覚書-なのは「まぁ、抗議と主張自体は別に不法というわけでもないんだけどねぇ…やり方がねぇ…」

写経屋の覚書-はやて「学生運動の団交とか圧迫面接みたいに、集団で押し掛けて、脅迫的、圧迫的な態度、行動をとる抗議スタイルはもはやお得意技状態なんやねぇ…」

写経屋の覚書-フェイト「団交?」

写経屋の覚書-なのは「1960~70年代の学生運動で、左翼運動学生集団がとった「大衆団交」のことだよ。教授との一対一の交渉という名目で、学生側が衆の力を恃んで集中攻撃で教授を糾弾するって行動なんだよ」

写経屋の覚書-はやて「長時間軟禁同然の状態で、教授側の発言や反論は怒号や罵倒でさえぎって心を折りよるんよ。文革の走資派批判といっしょや」

写経屋の覚書-フェイト「あー、吊るし上げかぁ。それなら分かるよ」

写経屋の覚書-なのは「今回はここまでにして、次回は大阪の事態について別の史料を見るね」

大阿仁村事件 生田警察署襲撃事件 大滝事件
富坂警察署襲撃事件 七条警察署事件 直江津事件
坂町事件 新潟日報社襲撃事件 首相官邸デモ事件
曽根崎警察署襲撃事件 長崎警察署襲撃事件 尾花沢派出所襲撃事件
津別事件 大野事件 宮城県内の事件
浜松事件 益田町警察署襲撃事件 宇部事件
小野田事件・下関騒擾事件

渋谷事件

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