写経屋の覚書-はやて今回は別の史料を見る言うてたよね」

写経屋の覚書-なのはうん。大阪府じゃなくて大阪市の警察のほうの史料なの。じゃ、大阪市行政局『大阪警察誌』(大阪市行政局 1956)p111~115を見ていくよ」

写経屋の覚書-大阪市111
写経屋の覚書-大阪市112
写経屋の覚書-大阪市113
写経屋の覚書-大阪市114
写経屋の覚書-大阪市115

□朝鮮人学校の閉鎖をめぐる騒じょう事件
 (一)事件発生の原因
 大阪府は,昭和23年1月24日付の文部省指令「朝鮮人設立学校の取扱に関する件」に基き,大阪・市内にある19の朝鮮大学校(公立校舎使用のもの17校,設備極めて不完全のもの2校)を閉鎖することに決定,それぞれ関係者にその旨を通知した。ところが在阪の朝鮮人達は,『この決定は,日本帝国時代と同じように,朝鮮民族の自主性をなくして奴隷化する愚民政策である。』として朝鮮人連盟を中心に朝鮮人教育会を結成し,学校閉鎖絶対反対の決議文を,文部大臣および大阪府知事に手交するなど猛烈な反対運動をおこした。
 そこで府教育部は,この問題を平和的に解決するため,朝鮮人連盟の幹部および朝鮮大学校の校長を集めて会議を関催すべく,再三にわたって関係者を招集したが,朝鮮人側は,この招集に全く応じる気配もないので,3月15日やむを得ずこれらの学校に対して閉鎖勧告と立退要求を行った。
 ところがこの指示によって校舎を明け渡したものは7校,閉鎖したものは3校であって,残余の朝鮮人師範学校を舎む8校は,相変らず授業を継続しているので,4月12日再び『4月15日限り閉鎖するよう』学校関係者に厳達したのである。
 この間朝鮮人連盟をはじめ,朝鮮人の各種団体は連合して「朝鮮人教育問題共同闘争委員会」を組織し,4月15日その代表が知事および市長に反対決議文を提出して『もし閉鎖命令を撤回しなければ,いついかなる不祥事態が突発するかも知れない』と強硬なしかも脅迫的態度で交渉してきたのに対し,府教育部ではこの要求を断乎として拒否し,4月15日以降は閉鎖させるという既定方針を押し進めることとしたのであった。
 (二)4月23日事件
 4月23日午前9時30分ごろから「朝鮮人学校閉鎖絶対反対人民大会」が朝鮮人連盟生野支部をはじめ,城東,布施の各支部で一せいに開催されたが,その参加者約7,000名は,大会終了後直ちにデモ行進に移り,午後2時30分ごろ府庁前公園広場に集結した。
 これにさきだち,朝鮮民主青年同盟生野支部委員長呉錫斗ほか15名の代表団が知事室において,副知事および学務課長に閉鎖命令の撤回を強要していたが,副知事らの強硬な態度に交渉が行詰り状態となっていたところ,府庁前公園広場に集結したデモ隊員は,この状態を知って興奮し,遂に午後3時30分ごろ約4,000名が府庁正門の警戒線を突破して庁内になだれこみ,3階以下の各廊下を占拠して座込みを行い,あるいは警戒中の警察官と小競合を演ずるなど,各階は,これら朝鮮人の怒号と喚声で極めて不穏な状態となった。
 ところで午後4時過ぎ,副知事らは,代表団がこの騒ぎに気をとられているすきを見て他の出入口から脱出することができたが,その後間もなく室外では,交渉が進行しないことに業を煮やして完全に暴徒と化したデモ隊員が,知事室のとびらを破って乱入しはじめ,手当り次第に調度品を破壊して暴行の限りを尽したり,またアジ演説を行うなど事態は極度に険悪となり,代表団も,身の危険を感じて逃走する始末であった。
 本市警察では,当日事前に多数の制服警察官を配置することは,かえって相手を刺激するとして府庁内に約50名の警察官を配置しただけであったが,午後3時30分ごろに至って情勢はますます悪化してきたので,これに即応して待機中の警察官372名の出勤を命じ,その後も2回にわたって市内各署を動員するかたわら,国家地方警察大阪府本部へも連絡して警察学校の生徒1,500名の応援出動を受け,約3,200名の警察官をもって府庁内になだれこんでいた約4,000名の暴徒を実力で庁外に押し出し,これを解散させるとともに,事件の首謀者と目される179名を,騒じょう罪の現行犯として検挙し,それぞれ各署に分散留置して取調に当った。この間警察官で負傷した者は,清水公安第一課長以下32名に達したが,朝鮮人側の負傷者は不明であった。
 (三)4月24日事件
 4月24日早朝から朝鮮人は,青壮年男子を中心に府庁前に約400名,南警察署前に約200名が集合し,午後3時40分ごろになって府庁前の朝鮮人は2隊に分れ,1隊はその場で,他の1隊は南警察署前の1隊に合流して同署前の空地にすわりこみ,山瀬署長に対して前日から留置中の騒じょう犯人の釈放を要求したのであったが,署長はこれを拒絶して解散を命じたところ,朝鮮人達は,空地の煉瓦,瓦,石などを署に向って投げつけ,署警備中の赤沢警部以下14名の負傷者を出したので,加害者2名を検挙した。
 また東警察署に対しても約40名の朝鮮人が数回にわたって押しかけ,留置人の釈放を要求してきたが,ここでは暴力をふるうことなく,署長の解散命令に従って解散した。
 (四)4月26日事件
 4月23日には警察官に制圧されたため,閉鎖命令の撤回を実現することができなかった朝鮮人は,26日さらに大阪市内およびその周辺に在住する朝鮮人にげきをとばして15才以上の男子と20才以上の女子約2万名をかり出し,午後2時ごろからまたも府庁前公園広場で「朝鮮人学校閉鎖絶対反対人民大会」を開催したのであった。
 この日,本市警察ではあらかじめ約3,000名の警察官を動員して,
(1)集会は,不法越軌行為のない限り認めるが,電車通りに1歩も出ることを許さない。
(2)府行政の中枢である府庁には,不逞分子を1歩も入れず,断乎として警備の万全を期する。
という方針のもとに,府庁周辺の警備に当ったのである。
 一方知事は,この日も午後1時ごろから朝鮮人代表玄尚好外4名と会見中であったが,午後3時40分ごろ大阪軍政部長クレーグ大佐が府庁に到着し,別室で知事に対して『第1軍団スウィング少将の命により,本会談を直ちに打ち切るべし。』と命令し,さらに同席の鈴木警察局長に対して『府庁前公園の朝鮮人を即時退散させよ。』との指示を行った。よって知事は,この旨を朝鮮人側の代表者に伝え,続いて鈴木警察局長は,『直ちに代表者は府庁前公園に行って知事のことばを伝えるとともに,5分間以内に全員を解散させよ。もしこれに応じない場合は,警察は直接強制の措置をとる。この場合の責任は朝鮮人側にあることを付言する。』と言い渡して会談を打ち切った。
 ところが,代表者が群衆にこの旨を報告して鈴木警察局長の解散命令を伝えると,群衆は総立ちになってけんそうを極めたので,警察局では用意していた放送車のスピーカーを通じて解散命令を示達し,また代表者も壇上に立って群衆を慰撫して帰宅を促した後,代表者自身もトラックに乗車して退場を始めたところ,頑強に闘争を主張する過激派は,代表者の無能振りをののしってそのトラックに投石を始めたので,本市警察は応急手段として消防ポンプで放水したところ,一時静まったかに見えたが,一部の朝鮮人は鉾先を転じて警備中の警察官に投石し,木片を持って立ち向ってきたので,再び放水して制圧し,なおも抵抗する者にはけん銃の威嚇射撃をもって鎮圧した。
 朝鮮人が解散して平静に復したのは,実に午後5時20分を過ぎていた。
 (五)その後の状況
 この騒じょう事件に関連して第25師団長ムリンズ少将は,『朝鮮人は,今後解除あるまで府庁舎内に立ち入ることを禁ず。もし違反した者は,勅令第311号違反として逮捕し処罰する。』旨の命令を発し,さらに第25師団憲兵隊長は鈴木警察局長に対して,『今後朝鮮人の集会およびデモは,届出の有無にかかわらず,憲兵司令部に速報せよ。』との指示を行ったのであった。
 一方朝鮮人の動向としては,連合軍当局の強硬な態度と警察局の強力な取締によって,このまま闘争を続けるという過激派(朝鮮人連盟,民主青年同盟)と,現在の闘争態勢を解き,平和的政治的に交渉するという自重派(居留民団,建国促進青年同盟)に分れてきたが,時日の経過とともに過激派幹部の信頼が薄れて遂に平静となるに至った。
 この事件の結果占領目的違反として軍事裁判所に拘禁された者18名(日本人側全逓大阪地協会長村上弘外9名,朝鮮人側赤旗支局員平治仁植外7名)でそれぞれ重労働1年から4年までの判失を受け,7月27日在阪第25師団長により判決の確認が行われて刑が執行された。また騒じょう,建造物侵入,傷害等により大阪地方裁判所に起訴された者は,府庁事件で金左弓外23名,南警察署事件で李在欽外8名であったが,第5回の公判において無罪1名を除き全被告にそれぞれ懲役4ヵ月から8ヵ月,3年間の執行猶予の判決があり,これに対し検事控訴および被告人控訴が行われたが,9月2日大阪高等裁判所において全被告に原審通りの判決があった。

写経屋の覚書-フェイト「全逓大阪地協会長村上弘外9名って、日本人の援護者もいたんだね。労組・左翼関係の人っぽいけど」

写経屋の覚書-なのは「ただね、26日の威嚇射撃で金太一って少年が死亡したって話があるんだよね」

写経屋の覚書-はやて「ほんま?」

写経屋の覚書-なのは「在日朝鮮人側の著書や記録にしか出てこないんだけど、どうやら本当っぽいんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「でも、前回見た大阪府警察史のほうは威嚇射撃自体について書かれてなかったよね?」

写経屋の覚書-はやて「ほんまや。26日は放水だけしかしてへんような感じや」

写経屋の覚書-なのは「実際には射撃しているわけだから、なんだか不誠実というか嫌な感じの記述だね」

写経屋の覚書-はやて「官憲の隠蔽工作やーってなってまうやんねぇw」

写経屋の覚書-フェイト「大阪府警察史の冒頭にこの事件が「大阪市公安条例制定に直接の契機をあたえた」ってあるけど、この手のデモ&暴力行動って頻発してたんだね」

写経屋の覚書-なのは「朝鮮人関係も多いけど、共産主義運動、もっと直接的に言うと共産党などの左翼暴力革命が頻発してたんだよ。共産党と朝連は仲間だったしね」

写経屋の覚書-はやて朝連構成員で共産党員いうんも多かったみたいやね。組合の労働争議にも関わってくるからよけい朝鮮人組織=怖いものというイメージができてまう…」

写経屋の覚書-フェイト「共産主義・朝鮮人・暴力行動っていうセットのように思われることになったんだね」

写経屋の覚書-はやてま、行動の尖兵として共産党に使い捨てられたーとか言うて被害者意識を強調する言説はあるやろねぇ」

写経屋の覚書-フェイト「鈴木警察局長の「直ちに代表者は府庁前公園に行って知事のことばを伝えるとともに,5分間以内に全員を解散させよ。もしこれに応じない場合は,警察は直接強制の措置をとる。この場合の責任は朝鮮人側にあることを付言する」はかなりきついというか無茶振りっぽいよ?」

写経屋の覚書-なのは「正直、これくらい厳しい条件を突きつけなきゃ動かなかっただろうって思うんだよね。朝鮮人側の代表たちも解散するよう努力しているしね」

写経屋の覚書-はやて「でも、それに反発した連中がおってグデグデになったんやな。どうせ官憲側の挑発や策動があったとか言うてそっちのせいにしよるんやろけど」

写経屋の覚書-なのは「はやてちゃん正解w ほんとに言ってる人がいるんだよねぇw ま、大阪ではこんな感じだったんだけど、神戸のほうはもうすこしひどいことになってたんだよ」

写経屋の覚書-フェイト「死者が多く出たの?」

写経屋の覚書-なのは「そっちじゃなくて、行政・官憲側がひどいめにあったの。それについては次回に見るから、今回はここまでにするね」

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