写経屋の覚書-なのは「今回も闇市の取締が原因で警察署を襲撃した事件を見るよ」

写経屋の覚書-フェイト「大阪じゃなくて別の都市の話ってことなのかな?」

写経屋の覚書-なのは「うん。長崎市で1946年5月13日に起きた長崎警察署襲撃事件なの。早速、長崎県警察史編集委員会『長崎県警察史 下巻』(長崎県警察本部 1979)のp1051~1061を見るよ」


写経屋の覚書-長崎1051
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       第八節 闇市取締に伴う長崎警察署襲撃事件
一、事件の概要
 日本の敗戦により、戦勝国となった当時の中国人と、日本の領域から開放された当時の朝鮮人は、一朝にして主客転倒し、敗戦国として沈淪する日本民族に対し、専横な態度を示すものも少なくなかった。
 一方、日本人の復員・引揚者は、敗戦の祖国に帰ったものの、途端に生活の道に窮し、生きるためには、あえて不法な手段も構じ、混乱に拍車をかけた。
 なお、国内の物資不足と、思想の変動は深刻を加える一方で、治安上にも由々しい状態が、終戦とともに相当期間続いた。
 このようなとぎ、日本の復興を度外視した一部の日本人・中国人・朝鮮人等は、世上の混乱を利用して、わが国が物資の安定、インフレ防止を図ろうとする国策を無視し、いわゆる闇市場に進出して、不正物資の隠匿・贓物故買を常習的に行うことはもちろん、暴力行為等もあちこちに頻発したが、これは全国的な傾向であった。
 長崎県警察では、こうした不法事案の徹底的取締の先鞭として、昭和二十一年(一九四六)五月十三日、長崎市内の各警察署、警察部共同の下にニ八○名の検挙隊を編成して、長崎市浜町の闇市場に対し、一斉取締を行い日本人一五〇名、中国人六名、朝鮮人二六名を検挙した。この検挙に端を発し、警察に対抗しようとする中国人・朝鮮人の暴徒数一〇〇名は、長崎警察署襲撃の挙に出て、十数名の重軽傷者を出し、巡査花岡重吉は重傷後遂に死亡し、警部宮野勝利は頭蓋骨骨折の重傷を受け、今なお、後遺症に呻吟するという、一大不祥事件が発生した。
 この事件の鎮圧については、当時、長崎に駐屯する占領軍の各機関の力があったことはいうまでもない。
 暴徒の検挙取調にあたってば、第三国人の集団のため、氏名不詳・犯行後逃走所在不明者も多く、また、披疑者の取調に当ってば、犯行の否認に終始したため、困難な点が多かったが、警察では徹底究明の方針をもって、長崎地方検察庁検事の出動と県刑事課員、長崎市内及県下各署の捜査員を中心とした活動により、一ケ月間にたる捜査の結果、騒擾事件として中国人七名は逮捕の上、占領軍に引渡し、朝鮮人検挙者六〇名は、同年六月十三日送致し、事件は一応落着した。
 その後、朝鮮人間には、まだ日本に取締権限のあることを認識させたが、中国人の居留する長崎市新地町での贓物の隠匿、中継地的な特色は、この種犯罪の捜査に困難を生じた。
 しかし、時日の経過によりやや小康を得て、二十二年中は特異な事案は起きなかった。
 ちなみに、長崎市浜町闇市一斉取締によって起きた中国人・朝鮮人による長崎署(派出所を含む)襲撃は、いわゆる「長崎警察署襲撃事件」と通称された。             (「捜査課関係書類」)

二、知事名による事件報告
 長崎警察署襲撃事件は、連合軍の占領治下、しかも、闇市等経済取締には重大な関心が払われていたとき、非日本人による騒擾事件の発生であり、進駐軍各機関の援助による点の大きかった地方的には特色のある事件であり、知事は内務省、各県知事あて、次のように事件の真相を申(通)報している。


二十一公第二二六〇号
  昭和二十一年五月二十日
                                  長崎県知事
                                   (長崎県警察部長)
 内務省警保局長
 九州山口各県知事 殿
 (管下各警察消防署長)
   中華民国人朝鮮人の騒擾事件に関する件
 五月十三日長崎市西浜町所在自由市場の一斉取締を敢行し日本人朝鮮人中国人の違反者を長崎警察署に引致して取調をしたところこの措置に憤激した朝鮮人中国人等が約百名位大挙して長崎警察署外巡査派出所を襲撃し警察官に暴行を加へ又は器物を破壊して逃走した事件が発生し目下騒擾事件として取調中ですが状況左記の通でありますから報告(通報)致します
 (管下警察署にありては執務の参考に資せられ度い)
          記
一、日時  昭和二十一年五月十三日午后二時三十分頃
二、場所
 1、長崎市江戸町   長崎警察署       2、長崎市東浜町   東浜町巡査派出所
 3、長崎市湊町    湊町巡査派出所     4、長崎市銅座町   中央劇場
三、原因及事件の概要
 長崎市西浜町所在長崎自由市場は最近主要食糧の販売価格違反、煙草専売法違反等半公然と行はれるに至って事実上闇市場の有様となり市民の興論は早急に之等違反行為を粛正しなければならぬと言ふ強い要望かおり、本県警察部で断呼取締を決行することに方針を定め長崎駐屯憲兵司令官並に長崎地方裁判所検事局とも打合せをして長崎市内長崎・梅香崎・稲佐・長崎水上四警察署、県警察部共同して二百八十名の取締検挙隊を組織して五月十三日午前十時三十分一斉取締を実施して犯罪容疑者、日本人百五十名、中国人六名、朝鮮人二十六名合計百八十二名を引致取調を開始したところ、自由市場に於て違反行為(闇行為)の取締は自由市場の自然消滅を招来する虞があること、自由市場が消滅すれば長崎在住の朝鮮人、中国人に多数の失業者を出す結果となること現在中国人・朝鮮人の過当な職業がないこと等の理由の下に、朝鮮人聯盟及中国人華僑維持会幹部十数名長崎署に出頭し朝鮮人並に中国人被疑者の即時釈放方を長崎県警察部長(当時検挙指揮の為在署せり)及長崎署長に陳情したので、同部長は取調終了後は考慮するが事前には応じ難いと事理を尽して説得した処一部の幹部は了解したが一部は頑迷で即時釈放を強硬に主張する内、午後二時三十分頃中国人・朝鮮人被疑者の即時釈放が困難と察知するや、中国人・朝鮮人約百名は、各自に梶棒・鉄棒・野球用バット等携帯し、突如長崎警察署を取巻き石煉瓦等を手当り次第硝子窓に投げ付け一部は階下行政室及中庭に乱入し器物破壊の限りを尽し居合せた警察官に次の通り暴行傷害を加へた。
 重 傷  長崎警察署警部  宮野 勝利    〃    〃   巡査    花岡 寅吉
                                       (花岡巡査は五月二十六日 死亡)
 〃    長崎水上署長警視  藤本惣四郎   〃    〃   巡査部長  山口 安美
 軽 傷  長崎警察署長警視  吉田吉十郎   〃    〃   警部    内野 菊次
 〃    〃   巡査部長  古川清太郎   〃    〃   巡査    脇崎  豊
 〃    長崎水上署警部補  徳島 春雄   〃    〃   巡査    江頭  勇
更に此の余勢で東浜町巡査派出所を襲撃し器物を破壊し勤務中の警察官に暴行を加へ、同派出所勤務巡査 田場 盛範に重傷を負わせた外、梅香崎警察署管内湊町巡査派出所を襲ひ警察官不在の同所に乱入して器物窓硝子を破壊し逃走したのである。
四、事件の見込
 五月十三日長崎警察署襲撃事件直後、長崎市内の警察官を召集し集団警備力を強化したのに対し朝鮮人聯盟に於ても県下各支部に連絡を執り之に対抗しようとする気配を示していたが、長崎駐屯占領軍海兵第二師団第十聯隊長より集団行為「デモンストレーション」を禁止されたので事態は平静に帰し再度の襲撃は当分ないものと思われる。
五、措置
 五月十三日中国人・朝鮮人暴徒が、長崎警察署を襲撃したので長崎警察署長は直ちに長崎駐屯占領軍憲兵司令官に連絡すると共に県警察部に報告し応援を求めたので、即時MPが出勤した為暴行半にして暴徒は逃走した。同時に警察部では警察官の非常召集を行って長崎・梅香崎両署に警察官を急派し警備力を強化し長崎地方裁判所検事局と連絡し、暴徒に対しては騒擾事件として検挙取調を開始することに方針を決定、警察部長・経済防犯課長・刑事課長を第十聯隊、軍政府に出頭させ其の諒解を求め捜査を進めた処五月十四日、第十聯隊長クラーク大佐より警察部長に対し、別紙の通り覚書を手交ざれたので、其の線に添って捜査取調を続行中である    (前掲「捜査課関係書類」)
(注)第十聯隊長より警察部長に対する覚書は詳かでないが、以下に掲げる善後措置は、警察部から、進駐軍当局に敬意を表し報告したものと思われる。

   騒擾事件ノ善後措置ニ付テ
一、去ル本月十三日長崎市浜町ニ於ケル自由市場ノー斉検挙ヲ実施シ日本人約一五〇名、朝鮮人三四名、中国人九名ヲ検挙ノ対象トシ現場ニ於テ逃走セルモノヲ除キ大部分ヲ長崎署ニ同行シタ処、同日午後二時頃相当多数ノ朝鮮人、中国人ガ長崎警察署等ヲ襲撃シタル事件ガ発生シタコトハ寔ニ遺憾トスルトコロデアル。
二、私ハ事件ノ善後措置ノ為屡々軍政府ニ出頭シ事件ノ経過ヲ報告スルト共ニ軍政府ヨリ充分ナル協カヲ得タ
三、クラーク大佐以下聯合軍当局ノ御指示ト中国人及朝鮮人聯盟会長ノ協力ニ依リ事件ハ目下左ノ如ク順調ニ解決ノ方途ニ向ヒツヽアル
 1、暴動ノ際混乱ニ乗ジ逃走セルモノハ既ニ長崎警察署ニ復帰シ日本警察ニ依リ完全ナル取調ヲ受ケタ。
 2、暴動ニ参加セル中国人ハ聯合軍憲兵隊ノ手ニ依リ逮捕セラレ長崎警察署ノ特別留置場ニ監禁セラレMP監視ノ下ニ憲兵隊ノ取調ヲ受ケテヰル。
 3、暴動ニ参加セル朝鮮人ハ日本警察ニ依リ逮捕セラレ長崎警察署ノ特別留置場ニ監禁セラレMP監視ノ下ニ日本警察ノ手ニ依リ取調ガ進メラレテ居ル。
 4、右取調ガ終了シタル場合ハ中国人ハ聯合軍ノ軍法会議ニ於テ裁判セラレ朝鮮人ハ聯合軍ノ指令アル場合ノ外日本側ニ於テ裁判セラルヽコトヽナルノデアル。
 5、日本人ニシテ暴動ニ参加セルモノ一~二名アルヤノ風聞アルニ付目下厳重調査ヲ進メテヰル。
 6、自由市場ハ十六日迄閉鎖ヲ命ジテヰタガ市場代表ニ対シ厳重ナル警告ヲ発シタル上十七日ヨリ再開ヲ認ムルコトヽシタ。
四、今回ノ事件ハ右ノ如ク聯合軍当局ノ指示並ニ中国人及朝鮮人聯盟会長トノ協力ニ依リ迅速且ツ円滑ニ善後措置ガ講ゼラレ事態ハ全ク平静ニ帰シタノデ再ピカヽル不詳事件ハ発生シナイモノト認メラルヽカラ私ハ特ニ一般般市民ノ方々ニ個人的ニモ集団的ニモ絶対ニ中国人及朝鮮人ニ対シテ報復行為等ニ出ザル様切ニ希望スル次第デアル。
  又一般市民及関係業者ニ対シ今後明朗健全ナル市場ノ建設ニ協カシテ貰フ様特ニオ願スル次第デアル。
五、今回ノ事件ノ善後措置ハ全ク聯合軍第十聯隊司令官クラーク大佐、憲兵司令官サンダース中佐、軍政官ブラグナー大尉及ライツトソン大尉ノ指示及努力ニ依ルモノデアツテ寔ニ感激ニ堪ヘナイ次第デアル。
  又警察官負傷者ノ治療ニ関シ聯合軍当局ヨリ寄セラレタル絶大ナル御援助御同情ニ対シテハ全ク感謝ノ言葉ヲ知ラナイ処デアル。
  尚今回ノ事件解決ニ関シ中国人及朝鮮人聯盟会長ノ協力ニ関シテモ感謝ニ湛ヘナイ処デアル。


三、その他聞速記録等
 長崎警察署襲撃事件に関しては、新聞その他別に報ずるものがあるが、その中から四記録を次に掲げる。
 ちなみに、以下に掲げるものの「闇市の手入と警察署襲撃」の筆者久世耕二は元警察官(故人)で、文中、けん銃の問題が提起されている。
 なお、本事件発生前の昭和二十一年五月六日現在、本県警察は在長崎占領軍から、県経済部管理課を通じ、けん銃八〇一挺、弾丸一五、〇〇〇発が譲渡されており、(第五編第二一章第二節参照)本事件のため直接出勤した警察官が、けん銃を携帯したことは相違ないが、しかし、けん銃の取扱に関しては同二十一年三月二十四日内務省から「けん銃取扱規程」が制定されていたばかりで、事実上出勤者全員がけん銃の操法に通じていたのではなかった。ましてや、本事件の現場に臨んでは、全員実弾を装填、あるいは所持することなく、けん銃のみ携帯していたため、暴徒からは、単なる威嚇と軽視されたことも事実のようである。


  長崎警察署襲撃事件 (一)
 終戦後、物資不足にともない、物価統制令違反事件がひん発し、目にあまるものがあったため、長崎警察署は昭和二十一年五月十三日、長崎市西浜町の自由市場における闇商人の一斉取締りを強行し、物価統制令違反等の嫌疑で朝鮮人約三〇名、日本人約一五〇名、華僑一〇名を検挙した。ところが朝鮮人の間に不平不満の念を抱く者が多く、ことに在日朝鮮人連盟長崎県東部総務部長ら数名の役員は、直ちに長崎警察署に赴き、詰問し、強硬に朝鮮人の即時釈放を要求した。また、華僑の一部も検挙には反対の態度をとり、銅座町付近の街路上で日本警察官と小ぜりあいを演じた。憤激した華僑数名は、同日午後長崎警察署へ押しかけ数名の警官に暴打を加える挙にでた、そして、華僑らに煽動され押しかけてきた朝鮮人の一団と、朝鮮人連盟幹部の指示による一団及び、この事を伝聞して集ってきた者など約二〇〇名が、長崎警察署に投石、モの他乱暴狼籍をはたらいた。さらに、暴徒の一団は同居から、自由市場事務所、東浜町巡査派出所、湊公園巡査派出所等各所を襲い器物を損壊するなど暴動化し、警察官の職務執行を妨害し、警官に重軽傷を加える騒擾事件をひき起こした。
 しかし、事件はほどなく鎮圧され、検挙された主要人物二六名が長崎地方裁判所で起訴され、犯情にしたがい一五年から一年の懲役刑、最も軽いものには、罰金刑が言渡された、(前掲「長崎市制六十五年史」)

  長崎署襲撃事件 (二)
 事件の起きた二十一年五月十三日、長崎市西浜町電停から思案橋にかけての空地(今の春雨通)にできていた自由市場(ヤミ市)の一介手入れは、これまでにない大がかりなもので、同日朝、長崎・稲佐・水上・梅香崎署各署員と県警本部員二八〇名の警官隊が、立山町の元防空学校前グラウンドに集合……
 長崎署長吉田吉十郎の指揮で、トラック四台に分乗、市場へ向かった、……
 米軍の刀剣狩りで、ほとんど丸腰同然だった警察官には、このときピストルが渡されたがタマは入っていなかった。警察隊は一八二人を検挙し、押収した禁制品と一緒にトラックで長崎署に連行した。手入れは約二時間で終り、警察隊は東浜町派出所に三〇人を残して、午前十一時頃には引き揚げた。それから約二時間後に、第三国人の不穏な動きを伝える報告が入ったのである。……(襲撃事件の状況につき重複するので省略)この襲撃事件に米軍も出動して警戒に当たり、翌十四日、海兵隊第十連隊長、大佐クラークが「デモ禁止令」を出してようやくおさまった。…                     (毎日新聞社編 長崎県の戦後後史」激動二十年)

  闇市の手入と警察署襲撃 (三)
 昭和二十一年五月十三日午前十一頃、私は浜屋(百貨店)を裏に技けて闇市場の方へ出ると、拳銃を携帯した警察官が数十名で闇市場を取り囲み、浜屋の裏には「かんころ団子」やその他主要食が積み重ねてあるのを見て、初めて警察の手入が行われていることを知った。
 更に百数十名の警官が、貨物自動車幾台かに乗って来て直ちに外部を警戒する者と、市場内を検索する者の二手に分れ、数十名の違反者を検挙して、そのトラックに乗せ警察署に運んで行った。
 これまで第三国人は勿論、日本人の中にも、この市場は治外法権だといった横柄な態度が暴利をむさぼっていたが、この手入れによって初めて「警察は健在なり」という感を深くすることができた。
 ところが、これまで武装した警官を見たことのない私は「これは脅しのための拳銃だ」と直感した。何となく借り物のようで、ぴったり身についていない。私は、これ等武装警官は拳銃の操法を知っているのであろうか、また、実砲の一発でも装填してあるのであろうかと疑った。
 かくて、市場の線を越えて銅座町に行くと、一人の中国人と警戒の警官が押問答をしていたが、警察官はこれを検束するため連行しようとした。勿論周囲には野次馬が集まっている。この有様を遠目に見ていた他の中国人が、新地に駆けつけて行って、これを仲間に注進すると、新地では一戸一人づつ出ろと同志を糾合して、検束されようとする自国人を奪還しようと駆けて行くのであった。更に梅香崎町に入ると、元の梅香崎署跡にある朝鮮人連盟では多数の朝鮮人が集まっていて、外に出るな、出るなと何か協議しているようであった。かくて、朝鮮人と一部日本人或は中国人も交って、午後二時頃には「長崎署を襲撃」して、警察官を傷害し、また署内の机や椅子、窓硝子など器物を損壊し、その他暴行を働くという事件を起した。この場合、警察官は武器を有しながら、暴漢を傷つくることなくこれを取り鎮めることに努力したのであった。
 この隠忍の結果は、寧ろ民主警察としての真価を高め、民衆の同情を得、後山本刑事の殉職事件(発生 同年六月三日 殉職 〃六月七日)によって、一層警察の信頼を高めたのであった。
 もしこの事件に於てピストルを発射するとか、暴漢を傷つけるようなことがあっていたら、その後の武器携帯に支障を来たしたであろうと思われる。……五月の闇市場の手入後、市内の警察官は拳銃を帯びて街頭の交通整理にも立ち、その他勤務の場合武装せる警察官の姿を見るようになり、見る眼に力強さを感ずるのである。……                    (「長崎市の闇市取締とその犠牲」久世耕二集一四)

  重傷を受けた警察官の証言 (四)
 私は当時、長崎警察署の司法主任(警部)で、あの事件に関して、ある新聞に掲載された点で間違いの部分を記す。
 新聞の記事では在署中の私は、暴漢からけん銃を奪われ、制服をはぎ取られ逃げ廻ったとされているが、これは誤りで、当時私は私服で、けん銃は携帯していなかった。私等三、四人にはけん銃が足りなかったので、後で貸与されることになっていた。負傷した時の状況は、私は長崎署の玄関口で襲撃して来た三人の暴徒と対決して二人を逮捕したが、外の一人が棍棒の様なもので私の頭部を殴りつけ、その一撃でフラ〱しながら、逮捕した二人と押しつ押されつ、署の中庭まで来て力尽きて倒れ、人事不(ママ)になったところを、その時、吉田署長を訪間中の藤本水上署長が助けてくれたとのことである。
 私は頭蓋骨骨折で意識不明の目が長く続き、再起をあやぶまれながら十年近い日を経て、後遺症を残し、現在軽労働程度ならできるくらいになっている。(宮野勝利氏書簡)


(注)この証言は、昭和四十二年三月五日付書簡を以て、本史編集委員会に提供されたもので、該新聞社には事実を曲げ、名誉を傷つけたものとして、抗議し、訂正記事で終らせたとのことである。
 (本人の現住所は、佐世保市山手町二四―三)


写経屋の覚書-はやて「警官の方に死者も出とるし、いろんな派出署も襲っとるんやね。曽根崎警察署襲撃事件よりひどいやん…」

写経屋の覚書-フェイト「進駐軍の協力と援護で検挙取調が進んで、中国人は連合国軍の軍事裁判、朝鮮人は日本の裁判に付されたんだね。でも、在日本朝鮮人連盟幹部も襲撃犯に加わってたのに「中国人及朝鮮人聯盟会長トノ協力ニ依リ迅速且ツ円滑ニ善後措置ガ講ゼラレ事態ハ全ク平静ニ帰シタ」と書いてるよね。いったいどういうことなのかな?」

写経屋の覚書-なのは「逃走した容疑者の引き渡しとかで警察に協力したってことじゃないかな。もっとも、坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』のp236~237では青年自治隊員も襲撃犯に加わっていたと書いているんだけどね」

(二)朝連員の長崎警察署襲撃事件

 五月一六日ヤミ市場の取締で、朝鮮人三〇名と日本人百余名を警察署に連行したところ、朝連幹部丁奎鳳、朴善奎らは青年自治隊員百余名とそのその他中国人など総勢約二百名で同署を襲撃し、暴行破かいをおこない警察官に負傷させた。


写経屋の覚書-はやて「結局、朝連は進駐軍の指令かその援護を受けた日本官憲の要請を受けて、容疑者を庇いきれへんようになって、引き渡さなあかんかったいうこと(ちゃ)うのん?」

写経屋の覚書-フェイト「積極的じゃなくて消極的、仕方なくの「協力」ってことだね。そりゃ同胞を引き渡すのは嫌だろうけど、進駐軍の支持を得た官憲には逆らいにくいし、朝連の組織そのものにダメージがあったらよけいにまずいことになるしね」

写経屋の覚書-なのは「ま、そんなところだろうね。この事件は1946年6月3日付CLO2644 Assaults of Koreans and Chinese on Nagasaki Police Station 朝鮮人及び中国人の長崎警察署襲撃の件でGHQにも報告されているだけど、報告書そのものは別添文書ってことで収録されてないから確認できないんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「それは残念だけど、警察史の方で詳細が分かるからあまり痛手じゃないね」

写経屋の覚書-なのは「そうだね。この長崎警察署襲撃事件も『朝鮮進駐軍』の実在の証拠とならないものだと分かったしね。じゃ、今回はここまでにするね」

 大阿仁村事件        生田警察署襲撃事件    大滝事件
 富坂警察署襲撃事件    七条警察署事件      直江津事件
 坂町事件           新潟日報社襲撃事件    首相官邸デモ事件
 曽根崎警察署襲撃事件

 渋谷事件