写経屋の覚書-はやて「今回は何の事件を見るん?」

写経屋の覚書-なのは「大滝事件といってね、奈良県の川上村・吉野町で起きた事件だよ」

写経屋の覚書-フェイト「あれ?前にも少し触れているよね?たしか作者が昔住んでた家のすぐそばで起こったって言ってた事件だよね」

写経屋の覚書-なのは「うん。『朝鮮進駐軍』初出テキストの検証(5)『朝鮮進駐軍』動画テキストの検証(3)で触れた事件だよ。じゃ、あらためて奈良県警察史編集委員会『奈良県警察史 昭和編』(奈良県警察本部 1978)p362~365を引用するね」

写経屋の覚書-奈良362
写経屋の覚書-奈良363
写経屋の覚書-奈良364
写経屋の覚書-奈良365

(前略)このような犯罪情勢の中で、特に注目すべきものに、当時「第三国人」と呼ばれた在日外国人による犯罪があった。これら一部の外国人は、公然と戦勝国民と自称し、白昼堂々とトラックを乗りつけて物資を強奪し、闇市場に運び込むという行動がみられた。大阪・神戸などに居住するこれら外国人が県内に侵入し、食糧品などの物資を保管していた各地の農協や倉庫をねらった。当時、県庁や桜井町・高田町役場などにあった砂糖・米などの旧軍需物資を目当てに押し寄せたり、いわゆる闇ブローカーとなった外国人の行動に町当局や地元警察は手を焼いたという。この事例の一つに事項に記述するいわゆる「大滝事件」がある。県警察部が当時、大阪との県境の要地に検問所(二上・王寺検問所など)を設置したのも、この種犯罪に対処するためでもあった。
 これら外国人犯罪の取扱いについては、終戦直後には適確な法的根拠が示されず、警察の権限行使の不明確さから警察官が犯行を現認してもそれを制止しうるだけで、彼らを逮捕できないのが実態であり、県下警察官の中には「正義の通らんような世の中で警察官をしていられない」と辞表を提出する者さえいるほどだった(大和郡山市居住故山岡正雄談)。
 しかし、その後いわゆる「大滝事件」発生一か月後の昭和二十一年二月一九日、GHQから「刑事裁判権の行使」についての覚書やこのほか二、三の覚書が日本政府に対して発せられた。すなわち、中国人は連合国民として連合国軍が逮捕権・裁判権を有し、朝鮮人は「解放されたる国民」であって連合国民に合まれず、一切の日本法令に服する義務があり、台湾人は「将来変更されることあるべきもそれ迄は朝鮮人同様の立場に置かれて可なり」とされた。内務省警保局は、これに基づいて
  21・3・2  刑事裁判権等の行使に関する件
  21・4・15  鉄道輸送に於ける朝鮮人等の不法行為取締に関する参考資料送付方の件
  21・5・8  朝鮮人等の不法行為取締に就ての参考資料送付の件
 などの関係指令を全国庁府県に通達した。

大滝事件 昭和二十一年一月十七日午後一時五十分ごろ、吉野郡川上村の大滝巡査駐在所から上市警察署(吉野警察署)に事件発生の報告が入った。署長は、時を移さず県警察部長に報告するとともに直ちに全署員・管内警防団員を非常召集し、司法主任らに現場へ急行するよう命じた。司法主任らが現場に着いた午後三時過ぎには、犯人たちは略奪物資を五台の貨物自動車に満載し逃走しようとするところであった。犯人は川上村大滝の倉庫に県の委託保管となっている綿布その他の物資があることに目をつけ、「中華民国領事館の命令でやって来た」と称して執ように物資引渡を迫り、倉庫の扉を破ってこれを略奪したのである。
 犯人は司法主任から物資搬出の証明書提示を求められても中華民国の国旗を示すなどとしてこれに応じようともしなかった。その後、警察官による積載物資の確認作業が行われたが、これに対しても午後五時ごろになると「神戸で話をつけよう」と強引に出発、逃走した。止むなく警察官六名と川上村警防団約四〇名が二台の自動車でこれを追跡した。
 犯人らが川上村東川領の中井橋(中居橋)に差し掛かった時、現場急行中の署長ら六名の警察官に阻止されたが、「敗戦国日本警察の命令に従わなければならない理由はない」などとくってかかり、その上、犯人四八名が各こん棒・ジャックナイフをもって警察官に躍りかかり、署長ら四名の警察官に負傷させてこれを突破、再び逃走を開始した。
 国樔村(吉野町)のカキノセ仮橋(現存せず、写真参照)では、犯人逃走阻止のため地元巡査駐在所員指揮のもとに国樔村の警防団員が橋梁破壊作業を進めていた。ここでも犯人は警察官に集団で暴行を加え、全身打撲・骨盤骨折の重傷を負わせた上、これを拉致し逃走を続けた。続いて上市警察署前付近で材木を路上に並べて阻止線を張った警察官や警防団員に対しても、けん銃を突き出して抵抗し、これに立ち向かった警察官二名と中竜門村警防団員一名を負傷させて逃走した。
 このようにして犯人は次ぎ次ぎと阻止線を突破し逃走を続けたが、大淀町下淵巡査駐在所前に差し掛かったとき、県警察部から出動要請をうけ応援に駆け付けた九八師団砲兵隊管下の米将兵ら一行に遭遇し、自動小銃を突き付けられたため全員両手をあげて降参し、そこに待機していた下市警察署員に逮捕された。
 この事件は、その後奈良地方裁判所で審理され、昭和二十二年九月十八日公訴棄却、即日、連合軍裁判所に移管となり、同裁判所は翌二十三年十二月三十日主犯格三名に重労働五年の刑を言渡した。

写経屋の覚書-フェイト「この上市警察署が作者の住んでた家のすぐそばなんだよね?」

写経屋の覚書-なのは「そうだよ。犯人グループが逃走した道は当時の国道で、車二台がどうにか行き違いのできる程度の幅なんだよ」

写経屋の覚書-はやて「たしかこれって、『朝鮮進駐軍』動画テキストの検証(3)で見たように、犯人グループは台湾人・朝鮮人・日本人の混成やったやんなぁ」

写経屋の覚書-なのは「うん。事件と犯人グループについては朝日新聞に詳しく載ってたね」

写経屋の覚書-460119朝日(大阪)

1946年1月19日付朝日新聞(大阪版)
物資を狙ひ暴行
【奈良発】十七日午後一時半ごろ奈良県吉野郡川上村大滝山見嘉志郎さん方の倉庫へ大阪市福島区海老江町二丁目料理店業台湾省民林則忠ほか四十八名(運転手など十二名の日本人を除く以外は台湾省民と朝鮮人)か五台のトラックで乗り込み、保管中の地方事務所の旧軍需物資を強制的に買上げると称し、酒三石(一升瓶入り三百本)砂糖十六樽、缶詰二十箱、綿布三十六梱などを積込み立去る途中急報により駆けつけた植田上市署長ら警官七名を棍棒で殴打し、人事不省に陥らしめた上、上市署に至り窓ガラスを破壊して大阪に引揚げんとしたが、大淀町下渕で米軍第九八師団兵士並に奈良県米軍政部員の応援によつて逮捕され、一味は奈良刑務所と下市警察署に折半収容された

写経屋の覚書-はやて「川上から下渕までは一本道やけど、この下渕を過ぎたら、北上して芦原峠を越すんか車峠を越すんか、それともそのまま吉野川沿いに下って五条・橋本に出るんか選べるさかい、簡単に捕まえられへんようになるもんね。よう下渕で捕まえたもんやで」

写経屋の覚書-フェイト「逮捕が1946年1月17日で、公訴棄却が1947年9月18日、判決が1948年12月30日って、刑の確定まで3年近くかかっているんだね。ちょっと長過ぎないかな?」

写経屋の覚書-なのは「ほんとだね。どんな事情があったのかはわからないけど」

写経屋の覚書-はやて「ま、結局この事件も『朝鮮進駐軍』とは関係あらへんいうことでええねんな?」

写経屋の覚書-なのは「うん。名乗ってもないし、第一、台湾人・朝鮮人・日本人の混成グループだしね」

写経屋の覚書-フェイト「そうだよね…これを『朝鮮進駐軍』の関与した事件としたり『朝鮮進駐軍』実在の証拠とするなんてとてもできないよね」

写経屋の覚書-なのは「そういうことだね。じゃ、今回はここまでにするね」

大阿仁村事件
生田警察署襲撃事件