写経屋の覚書-フェイト「前回の続きで、山口県の事件を見るんだよね」

写経屋の覚書-はやて「たしか小野田事件と下関騒擾事件いう事件やったね?」

写経屋の覚書-なのは「うん。じゃ今回も山口県警察史編さん委員会『山口県警察史 下巻』(山口県警察本部 1982)を見ていくよ」

写経屋の覚書-山口811
写経屋の覚書-山口812
写経屋の覚書-山口813
写経屋の覚書-山口814
写経屋の覚書-山口815

p811-815
下関騒擾事件の発生 昭和二十四年八月二十日午前二時三十分ごろ、下関市内の民団側朝鮮人部落を朝連側朝鮮人約二〇〇人が竹槍・こん棒を所持して襲撃し、民団員十数人に傷害を与え、さらに家屋一九戸を次々に破壊して金品を掠奪した。このため市内は一時大混乱となったので、警察は県下の国警・自警の警察官約一〇〇〇人を動員し、騒擾罪により十数日にわたって被疑者約二〇〇人を検挙して事態を鎮圧した。これがいわゆる「下関騒擾事件」である。
 当時、朝鮮人団体の中で最も強大な統制力を持っていたのは朝鮮人連盟で、在日朝鮮人六〇万人のうち四〇万人以上をその傘下におさめていた。山口県下でも民団側約一五〇〇人に対し、朝連側は約二万二〇〇〇人と圧倒的優勢を示し、両者の対立事件はしばしば発生して、その抗争は抜きがたいものとなっていた。そして昭和二十四年八月一日、韓国政府により在外韓国民登録令が施行され、民団側が「この登録を怠る者は朝鮮人としての資格を喪失する。無国籍人になることを望む以外の者は登録せよ」と宣伝したため、これに刺激された朝連側はその闘争方針を次第に露骨化して、民団抹殺の活動を活発に展開するに至ったという。
 八月十五日の朝鮮独立記念日に再び衝突事件を起こした。これが小野田事件で、当日朝連では記念行事として県下各地で式典・示威行進を行い、一方、民団は小野田・宇部支部から下関本部に団員を集めて式典を行い、トラック六台に団長以下二〇〇人が分乗して小野田市に向け祝賀行進に移った。その際、トラックの一台が大坪町で朝連側の記念アーチに触れてこれを破損したことから小紛争が起こり、その場に居合わせた朝連員が民団員に殴打された。憤慨した朝連側はさっそく小野田に連絡したのである。同日午後八時三十分、小野田市に向かって行進むの民団トラックに対し、朝連員約七〇人が小野田炭鉱付近で襲撃をかけ、投石・こん棒により集団暴行の挙に出た。民団側も対抗したが、その大半は婦女子で、団長以下四五人が負傷したので、小野田市警に急報して保護を求め、同署では直ちに非常招集を行うとともに、同署道場に保護して一泊させた。
 翌十六日正午、朝連側は共産党員を交じえて約六〇〇人が小野田市署に押しかけ、保護されていた民団員の身柄引き渡しを強要した。下関からも応援に駆けつけ、次第にその勢力を増したので、小野田市警では国警県本部に応援を要請し、県警察学校生徒一四二人の派遣を受け、保護していた民団員を下関市まで護送した。同日午後八時ごろ朝連側も一度は解散したが、その待ち伏せが予想されて民団員を直ちに分散帰宅させることぱ危険であったので、これを下関市西署に保護したところ、約六〇〇人の朝連員がその身柄の引き渡しと、アーチ破損の責任者の処分方を要求して同署を包囲し、解放歌を合唱して気勢をあげ不穏な空気をみせた。下関市警では要求を拒否して午後十一時ごろこれを解散させた。民団員は署内で一夜を明かし翌朝帰宅したが、この小野田事件において朝連側一三人、民団側四人を傷害ならびに暴カ行為等処罰に関する法律違反として検挙送致した。

写経屋の覚書-はやて「南北の衝突いうかヤクザの抗争同然やん。発端になった朝連の記念アーチ破損にしたかて、どっちかが因縁つけたようにしか見えへんよw」

写経屋の覚書-フェイト「民団側が劣勢なんだね。投石や棍棒ってよく使われるんだけど、やっぱり手に入れやすいからかな?」

写経屋の覚書-なのは「そうだろうね。で、この小野田事件から朝連と民団の抗争が激化してすぐに起こったのが下関騒擾事件ってことなの」

 この小野田事件以来、朝連と民団との対立は日増しに激化し■朝鮮人が密集した下関市大坪町を足場としてて、両者は互いに相手の非を攻撃し合っていた。朝連側は八月十七日ごろから宇部・小野田支部長も合流して民団幹部襲撃の計画を練り、十九日午後十一時ごろ市内東大坪町の朝連第二分会事務所前で開催された集会では竹槍・こん棒を持って一五〇余人が集まり、朝連県本部委員長の民団打倒の激烈なアジ演説によって全員気勢をあげた。この集会は午前二時ごろ打ち切ったが(後日判明)、そこから分散して大坪町付近の警戒に当たっていた一隊は、東大坪町刑務所前の路上で日本刀を忍ばせて連絡に回っていた民団員四人と遭遇して、乱闘となり、朝連員一人が斬られた。
 この報は直ちに警戒中の朝連員に伝えられ、八月二十日午前二時三十分過ぎ、市場前に招集された朝連員約二〇〇人はそれぞれ竹槍・こん棒等を所持して数班に分かれ、民団下関支部事務所を襲撃破壊したほか、同町内および付近民団員の家屋一九戸一二世帯を次々と破壊(損害約一〇三万円)し、多数の民団員に負傷させ、逃げ惑う老幼婦女子を尻目に被害家屋から金品を掠奪し、暴行を加えて逃走した。
 八月二十日午前三時、事件発生の届け出をうけた下関市西署は、直ちに東西両署員の非常招集を行い、待機していた武装警察官一五〇人を現場一帯に配置して緊急警備態勢をとるとともに、午前四時、国警県本部に対し、第二次派遣として警察官五〇〇人の応援を要請した。国警県本部では、直ちに本部ならびに県下各地区署・自治警署に非常招集を発令(連絡)し、県警察学校現任科生全員、地区署二分の一、自治警三分の一の応援出動を指示(連絡)したのである。
 これと同時に国警県本部の、原田警察隊長以下関係課長は現地に急行し、地元公安委員、下関市警の竹中警察長および検察庁と協議して警備対策を樹立するとともに、本事件には騒擾罪を適用して全員を検挙するとの最高方針を決定した。
 この二十日午後二時、県本部長・県警察学校現任科生一〇七人および県内各地の応援警察官計三五〇人の到着を待って、これに下関市署員を加えて五一五人の検索隊・現場警備隊を編成し、朝連下関小学校・朝連県本・同下関支部・民団本部の順で捜索逮捕に出動した。朝連小学校の捜索では三一人を騒擾罪容疑で逮捕し、引き揚げようとしたところ、同校児童および婦女子二〇数人がスクラムを組み、激励歌を高唱しながら警官隊のトラックに捜近し、付近の朝連員数十人とともに一斉に警備部隊に対し投石攻撃を加えた。このため警察官一四人が負傷する事案が発生し、数人を公務執行妨害罪で検挙した。
 この第一次検挙により、朝連県本部委員長以下七三人を逮捕し、日本刀一本、銃剣一本、北鮮国旗六本を押収した。なお、当日午後六時現在の警察官の集結状況は次のとおりであった。
   県本部    四〇名     乗用車   七台
   県警察学校 一〇七名     ジープ   三台
   地区警察署 一七〇名     トラック 三三台(借上二一)
   自警応援  三一七名     小型車  一二台
   自署    三〇五名      計   五五台
   合 計   九三九名
 翌八月二十一日、別表(次ページ)のとおり国警隊長および下関市警察長を本部長とする「下関事件合同警備本部」を設置して警備態勢を確立するとともに、午前五時三十分から第二次検挙を開始して、朝連幹邸宅の捜索・検挙を続行し、二十二日には犯行現場である市内大坪町一帯の実地検証を実施した。また同日、広島管区学校現任科部隊五七七人の到着により、下関駅・伊崎桟橋・下関桟橋・幡生駅・唐戸桟橋・長府駅および下関西署の七ヵ所に検問所(一〇人勤務)を設けて、被疑者の逃走や奪還防止に備えたほか、二〇人一組の巡察隊を編成して大坪町付近の警備に当たった。
 こうして、八月二十五日には下関市警に留置取調べ中の被疑者六二人のうち四六人を山口刑務所に押送移監し、以後も検挙を続行して八月三十一日の第一〇次検挙までに、騒擾罪一三一人、公務執行妨害並に傷害罪七七人、計二〇八人を検挙し、検察庁は民団員の殺人未遂罪のほか朝連側七五人を騒擾罪などで起訴した。なお押収品は日本刀一、竹槍三三、手カギ六、鉄棒二、こん棒八、包丁七、その他四の計六一点であった。

写経屋の覚書-はやて「朝連は竹槍で武装、民団は日本刀装備って江戸時代のヤクザのかちこみやんwww 手カギって『暴れん坊将軍』のめ組の連中が持っている火消しの鳶口みたいなやつやね」

写経屋の覚書-フェイト「っていうか、朝連のほうは民団の家屋を襲撃して略奪までしているよ。それに子供や女性まで警官隊に投石って(絶句)もう暴徒だよね」

写経屋の覚書-はやて「子供や女性をダシにしたり盾にする連中は思想信条に関係なくあかんよ」

写経屋の覚書-なのは「そうだね。じゃ、今回はここまでにするね」

 大阿仁村事件        生田警察署襲撃事件    大滝事件
 富坂警察署襲撃事件    七条警察署事件      直江津事件
 坂町事件           新潟日報社襲撃事件    首相官邸デモ事件
 曽根崎警察署襲撃事件   長崎警察署襲撃事件    尾花沢派出所襲撃事件
 津別事件           大野事件           宮城県内の事件
 浜松事件           益田町警察署襲撃事件            宇部事件

 渋谷事件

写経屋の覚書-フェイト「今日のエントリー名からすると、山口県で起こった事件を見るんだね」

写経屋の覚書-なのは「うん。最終的には1949年8月15日に起こった小野田事件と20日に起こった下関騒擾事件を見ることになるんだけど、その前に、山口県各地で起きていた朝鮮人同士の争闘も見るの」

写経屋の覚書-はやて「なんで?」

写経屋の覚書-なのは「取り上げる史料の記述の順番が理由だよ。さっそく、山口県警察史編さん委員会『山口県警察史 下巻』(山口県警察本部 1982)を見ていくね」

写経屋の覚書-山口806

p806
 山口県では、昭和二十二年四月二十日の小野田市における建青山口県本部の結成大会を朝連系七〇人が襲撃して流会させ、さらに同年五月三十一日の再度の結成大会も、占領軍および警察署員の出動でようやく式を挙げることができた。また、翌年八月七日徳山市での民団山口県本部結成大会でも朝連本部長ら七〇人の会場占拠にあい、他の場所でひそかに結成大会を行い、八月十三日下関市において民団系同志八○人を結集しての韓国民主大開会の結成式でも朝連系一四〇人の妨害を受け、同月三十日には民主大同会事務所の襲撃事件が発生し、数名の負傷者を出した。さらに翌二十四年六月二十六日小野田市における民団小野田支部結成に当たっても、朝連系七〇人の妨害事件があり、民団側はひそかに幹邸宅で結成式を挙げている。これらの事件は県下在住の朝鮮人の間に深い溝をつくり、その後も同年七月三十一日民団宇部支部の結成をめぐって、朝連系の妨害行為から双方六〇余人が乱闘して負傷者を出し(宇部市警は暴行傷害事件として両者を身柄不拘束で送致)、これを機に両者の間にはいっそう険悪な空気がみなぎっていった。そして、後に述べるように八月十五日の小野田事件を発端として、下関騒擾事件へと発展するのである。(八一一ページ参照)

写経屋の覚書-はやて「在日朝鮮人の組織団体の変遷については『朝鮮進駐軍』を見たときに言うたよね。朝連は北朝鮮系、建青と民団は韓国系やったって」

写経屋の覚書-フェイト「朝鮮半島の南北対立がそのまま在日朝鮮人社会に持ち込まれたんだね。イデオロギーに興味ない人たちにとっては迷惑な話だっただろうけど」

写経屋の覚書-なのは「そうだよねぇ。ともかくも終戦直後からこういう抗争が日本各地の在日朝鮮人社会で頻発して、殴りこみや殺人事件も起こってたしね。ま、そのへんはまたいずれ別の機会に触れると思うけど」

写経屋の覚書-はやて「なぁ、なのはちゃん。こんだけ抗争事件を起こしとったら、日本人のほうで「朝鮮人=抗争」ちゅう印象を持たれてもしゃぁないんちゃうかな?ほら、1985年くらいに山口組と一和会の抗争をワイドショーがおもしろ半分に取り上げたせいで「関西人はヤクザと阪神ファンの二種類しかいない」みたいなイメージができたことあるやろ?たかだかワイドショーが取り上げた程度でそんなことになるんやから、実際に抗争しまくっとった朝鮮人に対してはよけい怖いイメージができてもおかしぃないんちゃうかな?」

写経屋の覚書-なのは「なるほど、そういう面はあるかもねぇ…次はまだ小野田事件・下関騒擾事件じゃなくて、朝鮮人学校の閉鎖問題なの」

写経屋の覚書-山口809
写経屋の覚書-山口810


p809~810
 文部省通達を受けた山口県では、事の重要性から慎重な態度をもって臨んだが、山口軍政部からの勧告もあって、昭和二十三年三月三十一日を期限として県下朝鮮人学校の閉鎖命令を通告した。この指令に対し、閉鎖反対運動を起こした在日朝鮮人連盟山口県本部は、同三十一日、山口市の経専グランドに県下の朝鮮人一万人を集め、人民大会を開いて「日本反動政府の教育干渉絶対反対」を叫び、市中をデモ行進して県庁におし寄せた。代表者は共産党山本利平とともに知事室において青柳副知事・古海教育部長と会見し、大会の決議を突き付けて善処方を要望したが、県側がこれを拒否したため両者対峙のまま徹夜となった。群集も県の回答を不満として県庁前を動かず、不穏な形勢となったが、朝連側からの無期延期の要求に対して県側も再考を約し、翌日の午前十一時四十分に「教員の水準、教科内容および教育施設の不十分なものは閉鎖を延期することぱできない。しかしながら県では視学を派遣して実情を調査したうえ、適当なものは存続を許可する方針で、その決定まで従来どおり継続を認める」との譲歩回答を示し、朝連側は大会にはかった結果、午後一時四十分に解散した。
 この夜、山口軍政部は進駐後初めての非常事態宣言を発し、国警県本部や山口市警では警備部隊を編成して待機したのである。その後、各朝鮮学校の実体調査が行われ、四月二十八日に朝連学院田耕初等校・同殿居校の二枚に第一次閉鎖命令が出され、三十日に小野田朝連初等学院と有帆・東山・厚狭分校および岩国学院、五月一日に生田・船木・小野田青年同盟学院の合計一〇校に閉鎖指令が発せられた。
 朝鮮大学校の閉鎖をめぐる事件は、山口県のほか東京・大阪・神戸・岡山の各地でも発生したが、神戸では知事室に乱入して、監禁状態の中で検束者の身柄釈放と閉鎖命令の撤回を迫り、一七〇〇人が検挙されて軍事裁判に付せられた。こうした事件を契機として、文部省と朝連との間で急速な歩み寄りがなされ、同年五月に私立学校認可申請という形で協定が成立したのである。
 本県では、南鮮の総選挙を四日後にひかえた五月六日に、朝鮮統一政府の樹立を要望する民青らが山口市で総決起大会を計画したため、田中知事は第八軍司令官の通達に基づく山口軍政部の命令により、その前日の五日午後九時にデモを禁止した(五月十日に解除)。そして、「学校問題については同月二十五日に県教育部長と朝連県本部委員長崔民煥との間で認可問題・設置基準・教科内容・教員資格について協議が行われ、これに基づき統合的に各学校を整理して六月二日県に認可申請が提出された。その結果、八月七日に下関朝連初等学院(彦島・小月・西市・殿居分校と園田・楢崎分室を含む)、宇部同(小郡・山口・防府・共和の各分枝を含む)、小野田同(船木第一、同第二、厚狭・生田・小野分校と大須恵分室を含む)、岩国同(柳井・光・徳山分校と安田分室を含む)の四校・一六分校・五分室の初等学院が認可された。児童総数は二三九二人で、六七人の教員についても資格認定がなされ、県の監督権内において学則変更が行われることになり、資材・給与も日本人小学校と同様にすることで、この問題は解決をみた。
 こうして本県では大きな事件にも発展しないで落着したが、何分にも新制度発足後一ヵ月余りの時期に発生した大衆抗議デモであり、技術的には事前情報の不足が指摘され、進駐軍の非常事態宣言でこれが迅速に処理されたことも、警察にとっては不本意なことであった。国警ならびに県下自治体警察はこれを教訓として、組織機構の整備強化と各警察の相互援助協力態勢の樹立を急いだのである。

写経屋の覚書-フェイト「神戸や大阪の事件は有名だよね」

写経屋の覚書-はやて「そういうたら、神戸・大阪の朝鮮人学校閉鎖の話はまだ見てへんかったね。いつ見るん?」

写経屋の覚書-なのは「んー、しばらく無理かな。在日朝鮮人側の記述とかももう一度確認しておきたいしね。続いては山口県当局と交渉協議を行なった朝連県本部委員長の崔民煥についての事件があるの」

 こうした事態の中で、朝連県本部では教育問題を含む生活擁護闘争を活発に展開していた。昭和二十三年十二月九日午前十時二十分から宇部市民館前広場で開催された朝連主催の「生活権擁護大会」でも約一五〇〇人が参集したが、この中に勅令違反者がまぎれ込んでいて、その逮捕をめぐって警察官に反抗し、負傷者を出すという事案も発生している。これは同年九月九日の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の樹立宣言にあたり、占領軍命令に反して北鮮国旗を下関市大坪の朝鮮人学校に掲揚したため、「占領目的有害行為に対する処罰に関する勅令」(ポツダム勅令第三一一号)違反として逮捕状が発せられていた朝連県本部執行委員長崔民煥の逮捕にからむものであった。この日午後二時ごろ、会場に現われたところを宇部市警署員がいったん逮捕したが、取り巻く群集に奪還された。捜査本部は会場内に逃走したものとみて、国警の応援を得てこれを包囲したが、朝連側は不当弾圧としてスクラムを組み、婦女子まで加わって抵抗し、険悪な対峙となった。午後九時に至って岩田警備部長との交渉が成立し、北側一カ所を通路として解散することになり、警備部隊は検問を実施したが、ついに崔委員長を発見することはできなかった。
 その後も参政権の付与、朝鮮人学校の経費補助、不当課税および不当弾圧絶対反対を叫ぶ「生活防衛大会」が小野田市・徳山市でも開かれ、市長・市署長・税務署長らに決議文を手交するなど、緊迫した様相を深めていった。

写経屋の覚書-はやて「占領目的の阻害っちゅうことで北朝鮮の国旗掲揚はあかんかったんやねぇ」

写経屋の覚書-なのは「この史料では事件名をつけてないけど、崔民煥の逮捕と奪還にともなう争闘を宇部事件っていうの」

写経屋の覚書-フェイト「逮捕に対する抗議の是非はともかくとして、実力行使で奪還するのは法治の否定だよね…」

写経屋の覚書-なのは「法の執行を暴力で妨害、覆すわけだからねぇ…今回はここまでにして、次回は小野田事件と下関騒擾事件を見るよ」

 大阿仁村事件        生田警察署襲撃事件    大滝事件
 富坂警察署襲撃事件    七条警察署事件      直江津事件
 坂町事件           新潟日報社襲撃事件    首相官邸デモ事件
 曽根崎警察署襲撃事件   長崎警察署襲撃事件    尾花沢派出所襲撃事件
 津別事件           大野事件           宮城県内の事件
 浜松事件           益田町警察署襲撃事件

 渋谷事件

写経屋の覚書-なのは「救世軍については今回で最後にするよ。さっそく続きを見ていくね」

憲機第1515号 救世軍に関する件(全羅北道泰仁報)

一.七月十五日頃忠清南道江景救世軍営支部主務南相一外三名の韓人来泰宿泊の上当地市場附近に全北泰仁郡救世軍営臨時事務所と書したる看板幷に旗を掲揚し盛に加入者募集に努めたる結果新加入者七八十名に達せり
二.南相一等の一行は七月十九日一度江界に向ひ引揚けたるも日ならす再来して其支部の設立に着手なすと
三.本年四月以来七月二十日迄の間に於て当地に於ける救世軍加入者中脱会者を除き約百名に達したる其半数以上は学生なり
四.一般世事に通せさる韓人も今は既に救世軍なる者は耶蘇教の一宗なるを知得し而して加入者に付内偵するに別に何等前後の思慮もなく只其名称の奇なるか故に新奇を好む韓人思想に適すると一つは入会脱会共金銭を要せさるを以て一時の好奇心に籍られ入会するものゝ如し
以上                 明治四十二年七月三十一日


憲機第1517号 救世軍募集の状況(忠清南道温泉里報)

一.六月十五日頃青陽郡青陽地方より李仁雨なる者来り温陽郡邑内面元軍部大臣尹雄烈の留守宅を借り受け仮事務所を開き救世軍を募集しつゝあり
二.救世軍に加入したるものには一ケ月四円の給料を支給し満三ケ月を経過して成績優等の者には軍服と精鋭なる武器を支給すと説きつゝあり
三.温陽郡内に於て已に之に加入したる者十五名にして尚ほ他にも加入せんとするものある如し而して目下の処之に加入するものゝ多くは下等人物にして中以上の人物には加入するものなし
四.救世軍の目的として彼れの人民に向て説くところを聞くに韓国目下の状態は日本の属国同様にして事々物々其圧制を受けさるものなく人民は皆塗炭の苦境にあり其の位置の危険なること実に累卵の如し此状態にある国を救ふは救世軍の最大責務にして即ち目的なりと云ふにあり
以上                 明治四十二年七月三十一日

写経屋の覚書-フェイト「『救世軍(5)』で見た『憲機第1409号』だと『最初は月給八円以上弐十円以下の俸給』だけど、『憲機第1517号』だと『一ケ月四円の給料を支給』になってるね。同じ忠清南道なのにどういうことなんだろ?」

写経屋の覚書-はやて「なんであいつらの給料が高いねんとか、後で問題にならへんだんかなぁw」

高秘発第249号 地方些事[地方活動報告]

一.忠清南道
  救世軍は本月十六日洪州郡高南面に於て連合会を開催し来会者一百九十七名京城本営よりは「ボツカアード」及「ミルトン」の二名臨席せり而して其一行は同所及海美郡大湖芝の両所に於て「韓人は精神上の病者にして其病骨髄に達し先つ病躯の治療を為すにあらされは精神の健全を望むを得す救世軍は罪悪者を善道に導くにあることを演説せり該連合会は祈祷及演説のみにて無事解散せり

(中略)

                   隆煕三年九月二十一日
                       内部警務局長 松井 茂
               統監 子爵 曾禰 荒助 殿

写経屋の覚書-はやて「『韓人は精神上の病者にして其病骨髄に達し』って同意するわ。ホッカードらの言うとる意味とは違う意味でやけどねw」

写経屋の覚書-なのは「この『高秘発第249号』には別紙報告が2つついてるんだ。別紙2のほうは救世軍(5)で見た『憲機第1249号』と同じ内容だから省略するね」

○別紙一
 救世軍に関する件
   六月十二日附洪州報
 忠清南道結城郡広川面に於ける救世軍の状況次の如し
一.広川面広川場一家屋を救世軍々営と称し門前に救世軍営と記せる一旙の旗を立て夜間は喇叭を吹き銃に代ゆるに棍棒を以て軍隊教練らしきことを施行しつゝあり
二.該地方に於て加入者は約二百名に達したりとの事なれとも当軍営と称する処に集合するものは約二十名なり而して加入者の多くは下等社会にして俸給支給さるゝと云ふ目的とするものゝ如し然れとも目下俸給受けつゝある模様なし
三.救世軍募集員の言なりとして聞知する処に依れは或国は現今の韓国の状態と同しく他国の保護を受けつゝありしか英国の尽力に依り独立の権を得るに至れり故に今日救世軍なる者は是れ韓国独立権を得せしめんか為めなりと吹聴せりと
       六月十日附礼山報
一.本月四日忠清南道定山より救世軍募集四名(李憲鍾、白南憲、閔「名未詳」其他一名氏名未詳)礼山郡礼山邑内に出張し金善明方に滞在専ら商議に従事し居れり
二.募集方法は礼山邑内市場に於て演説を試みつゝあり其概要は左の如し
   現今韓国の状態を見る時に自国の事を自ら所置する能はさる為め遂に他国(日本を指す)に依頼しつゝあるにあらすや之れ即ち未開の結果なり今回救世軍か加入者を募集する目的は韓国民をして悉皆文明の域に導き少しも他国の干渉を受くるを要せさる国となさしむるを主眼とするものなり諸氏にして自国を愛する者は此際速に救世軍に加入し大に手腕を奮はれたし云々
三.屡前同一意味の演説をなし巧に勧誘したる結果目下加入者約六十名に達せり而して今後尚増加の模様なり
   六月七日藍浦報
一.救世軍の状況は其後益優勢にして五月三十日頃より忠清南道藍浦郡北内面北亭子へ更に救世軍幟を樹て同郡北外面聖佳洞金春根なる者之か主催たり加入者は二十名余なるも漸次増加しつゝあり目下大川市幷に北亭子の両軍営共加入者を日曜毎に召集し「聖経」に就て教習の外軍隊的礼式或は各個教練等を教育し居るも武器を有せす単に体育に止まるか如し
二.藍浦郡藍浦邑内面、北外面、保寧郡木忠面、長尺面、五三田面の各地に於て救世軍に加入せしか約百二三十名に達せり其多くは無職悪漢貧民或は帰順暴徒にして給を受くるに出て他に何等の目的を有せさるか如し
三.勧誘に就ては方法を講し或は韓人の人権を恢復するを目的とすと云ひ又耶蘇教と同様の宗教にして不良民の感化救援なるか如く謂ひ一様ならす
四.加入迷信者の言に依れは救世軍は文字の如く韓国の現状を救世する軍隊組織にして漸次武器被服等を支給するか如く流言し増加の傾向あり
以上
                   明治四十二年六月十八日

写経屋の覚書-はやて「喇叭と軍隊教練!反日の私立学校そのまんまやんwww」

写経屋の覚書-フェイト「『加入者を日曜毎に召集し「聖経」に就て教習』っていちおう聖書は読んでるんだね」

警秘第3114号の1 救世軍の布教状況

 去三日西大門内夜珠峴救世軍々営に於て布教を開始す参会者男女約七十名にして「ウイルス」「スツコミルトン」の両名布教に従事せり而て其「ウイルス」の布教は排日的思潮を挑発するの嫌あるを認めり即ち其演説の大要左の如し
 悲惨なる韓国よ貧弱にして自立するの実力なく国は挙けて他邦に依頼し不如意なる保護を受け人民は千尋の谷底に彷徨しつゝある惨憺たる此光景は之れ何事そ過去は悔ゆとも詮方なし将来は一心不乱に天主を信頼し業に力め職を励み真に富強を養成し以て独立の基礎を鞏固にし国権を回復し自由の天地に無限の福楽を享受するに至らんことを望む云々
右及通報候也
                   隆煕三年十月五日
                       警視総監 若林 賁蔵
               総務長官事務取扱 参与官 石塚 英蔵 殿

写経屋の覚書-フェイト「『将来は一心不乱に天主を信頼し業に力め職を励み真に富強を養成し以て独立の基礎を鞏固にし国権を回復し』って言うけど、『業に力め職を励み真に富強を養成』って韓国人のいちばん苦手なことだよね」

写経屋の覚書-はやて「『スツコミルトン』ってミルトンのことなんかな?もしそうやったら、ここでも排日を煽るような演説布教はしてへんことになるね。まぁ現時点で把握しとる情報だけやとわからへんけど」

高秘発第404号 耶蘇教に関する集報

(中略)
一.全羅南道光陽郡にありては本月二日頃より耶蘇宣教師の布教により在来二百余名の信徒なりしに頓に五百名に増加したり其布教の内容を内偵するに信徒等の唱ふる処によれは日本守備兵或は憲兵の為め良民にして暴徒の嫌疑を受け殺戮せらるゝもの多し然れとも一旦信徒となりたるものは此災厄を免れ又耶蘇教にては救世軍を組織あるにより韓国政府に於て(以上(ママ)欠文)
                   隆煕三年十一月二十五日
                          内部警務局長 松井 茂
            統監府 総務長官事務取扱 石塚 英蔵 殿

写経屋の覚書-フェイト「日本軍や憲兵が、暴徒の嫌疑で多数の一般人を殺しているって言ってるけど、やっぱり布教を目的とした流言だよね」

写経屋の覚書-はやて「キリスト教に入ったら助かる、なんて言うとる時点で見え見えやけどね。続きの文章が欠けとるから詳しくはわからへんけど、ここでも救世軍に勝手な誤解と期待をもっとるんやろね」

写経屋の覚書-なのは「そして、獄長日記の『合邦問題(二十六)』に出てきた12月14日付『機密統発第2061号』につながるの」

写経屋の覚書-はやて「結局、救世軍は韓国人の望む餌をぶら下げて布教するようになったっちゅうことやね」

写経屋の覚書-フェイト「国権回復、排日のために救世軍に入信なんて、キリスト教の教義からしたら本末転倒もいいとこだよね」

写経屋の覚書-なのは「現世利益というか、金銭や生命身体の安全保障っていう具体的な利益を要求して入信してるわけだしねぇ…あと好奇心、『新奇と誇大を好む韓人思想』ってやつだねw」

救世軍(1)
救世軍(2)
救世軍(3)
救世軍(4)
救世軍(5)