写経屋の覚書-なのは「今回取り上げる浜松事件は、以前にも一回触れているんだ」

写経屋の覚書-はやて「浜松事件?そう言うたらなんか聞いたことあるような…」

写経屋の覚書-フェイト「えーっと…あ!『朝鮮進駐軍』初出テキストの検証(4)で見た、北斗星の投稿、所謂テキストB0に出てきたよね」

写経屋の覚書-なのは「そう、それだよ。北斗星はこんな風に書いていたね」

 直後に總理大臣に成る程の大物でも如斯 況や庶民に於てをや 土地も屋敷も物資も操も、奪ひ放題であった 殊には、空襲や疎開で一時的に空いて飽いてゐる土地が片端から強奪された 堪りかねた警察が密かにやくざに頼み込み、「濱松大戦争」になった

写経屋の覚書-はやて「この投稿っていつ見ても頭悪い文章やねぇw」

写経屋の覚書-フェイト「あのときは『静岡県警察史』の「浜松乱闘事件」の項を引用して明確に否定したよね」

写経屋の覚書-なのは「うん。今回は、別の史料も加えて詳しく取り上げて見るの。じゃ、最初はもう一回、静岡県警察史編さん委員会『静岡県警察史 下巻』(静岡県警察本部 1979)のp772を出しておくね」

写経屋の覚書-静岡772

浜松乱闘事件 新警察制度発足後間もない昭和二十三年四月四日、五日の両日、浜松市の中心街において地元香具師と在日朝鮮人が抗争、けん銃や猟銃を乱射し日本刀を振回すなど、市街戦さながらの流血闘争を繰り広げ、死者三人、傷者一四人を出すという事件が発生した。
 浜松市警察署では、静岡以西の各警察署から多数の応援警察官の派遣を求め、鎮圧捜査に当たった。この結果、一八人を逮捕し、回転式けん銃四丁を押収した。
 同年八月四日静岡地方裁判所浜松支部は、無罪一人を除く一七人に対して懲役四年~同六か月を言渡した。

写経屋の覚書-はやて「死者が3人も出とるんやね…ほんま「戦争」や」

写経屋の覚書-なのは「警察庁刑事部捜査課『刑事警察資料第33巻 戦後に於ける集団犯罪の概況』(警察庁刑事部捜査課 1955)のp87~92には、もっと詳しく書かれているんだよ」

写経屋の覚書-集団概況87
写経屋の覚書-集団概況88
写経屋の覚書-集団概況89
写経屋の覚書-集団概況90
写経屋の覚書-集団概況91写経屋の覚書-集団概況92

    一 浜松事件  (静岡)
(一)事件発生の経緯
 1 遠因

 この事件は朝鮮人と日本人小野組(香具師)間の勢力争いである。
     浜松市千歳町八一
         県会議員(興行師) 小野近義(四四)
は、浜松市及び近在の興行師、香具師間に相当の勢力を有し、乾分数百名を擁する所謂東海の顔役として知られて居るものであつたが、昭和二十二年四月施行された県議選に無所属で出馬当選してからは、表面的行動を避けつつも、依然その実権を掌握していた。
 一方浜松市朝鮮人は当時約八〇〇名であつて、同市国際マーケツトは、朝鮮人呉判述外数名が出資して昭和二十二年四月頃建築し爾来マーケツト内に各種商店喫茶店等を経営し、通称闇市と称せられていたが、昭和二十二年八月頃より同マーケツト二階にダンスホールを兼営し、その頃より近在及び名古屋豊橋方面より不良朝鮮人が出入りする様になり、不良団の溜りのような存在なつていた。
 以上の情勢下で朝鮮人の勢力が急激に増大してくるに及んで両者の存在は必然的に縄張争いを生じ、互いに反目するに至り朝鮮人対日本人の喧嘩も数回に亘り発生し、此の間にあつて小野組長小野近義は、その仲裁をしていたところがその仲裁の結果はいづれも朝鮮人側の不満をかい、両者間は民族的対立観をも加へて両者の反感は深刻なものとなつていた。

2 近因

  昭和二十三年四月四日前記国際マーケツトにおいて、朝鮮人の主催による「ダンスパーテー」が開催されたが、同パーテーに出演する予定の新村楽団(小野組の楽手)が当日小野組輩下の競輪出場のため出演できなかつたので、右パーテーが流会同様になつたため、これに憤慨した朝鮮人側は、
「楽団員の欠席は小野近義の指しがねによつたものである」と曲解し、朝鮮人金彰石ほか数名の者は同日午後四時頃右小野近義経営に係る浜松市内千歳町所在明治喫茶店に赴き「小野を出せ」と怒号しながら、乱入の上、同店舗ウインドウ硝子その他家具等を破壊する等の暴力行為をなしたこのことが本件発生の発端となつたものである。

(二)事件の概要

1 前記の朝鮮人の殴り込み暴行事件に憤慨した小野組輩下では日頃の欝憤を晴らすはこのときとばかりに、各々仲間を糾合し報復の準備を整へ、一方朝鮮人側も小野組よりの反撃を予期して仲間との連絡を緊密にして前記マーケツト附近に集結するとともに金彰石ほか六名は、午後十時頃市内大土町小野組配下香具師本宮末吉方ヘその動静を窺うべく赴き、拳銃を擬して同家裏口より侵入し、家具その他器物を破壊した。此のことあるを予期していた小野組乾分も猟銃を持つてこれに対抗するに至り双方次第に人員を増加し、遂に各々約五〇名位が市内田町、鍛冶町伝馬町の各中心街に於て相互に発砲乱闘するに至つたものである。該事件は警察官の出動により乱闘五〇分位で一応鎮静に帰したが朝鮮人側は負傷者三名を出した。
2 翌四月五日午後五時に至り双方共各地より応援者が来浜し、再び不穏の状態に立ち至り、午後七時二十分頃朝鮮人数名が小野近義方に至り拳銃を発射したため、これを契機として双方各々二〇〇名位が同市千歳町旭町鍛冶町、田町、その他市内中心街各所において発砲撃ち合いをなすと共に建造物器物等を破壊するに至つた。
 特にこの乱闘の主なものを挙げれば、
 同日午後七時三十分頃香具師側約二〇名は浜松市旭町国際マーケツトを襲撃し、同所建物正面入口附近及び器物を破壊し、これに加勢した群衆もあり、朝鮮人側約二〇名がこれに対抗し発砲した。
 さらに香具師約二〇名は同時頃同市田町所在料理店金泉館、(朝鮮人経営)を襲撃猟銃等を発砲して、建物及び器具を破壊し続いて同日午後九時四十分頃前記香具師は同市田町明月旅館(朝鮮人経営)を襲撃し、建物及び器物破壊の拳に出た。これに対し、朝鮮人側は暗闇の物影より前記香具師をよう撃した。
 これらの暴挙で市内は相当の混乱を極め、死者三名負傷者一三名を出した。

(三)事件の処理

1 四月四日第一乱闘事件発生と同時に、所轄浜松市警察署においては全署員を非常召集すると共に、東浜名地区警察署に応援を要請し武装警察官及び捜査員一九五名を現場に急派して拳銃の威嚇発射により、事案の鎮圧竝びに被疑者の検挙に努めた結果、午後十時四十五分一応鎮静せしめることを得たが、同夜は闇夜のため被疑者は何れも迯走し一名も逮捕するに至らなかつた。
 翌四月五日午後五時頃に至り、静岡県東部及び豊橋方面の各地より双方来援者が集結し、再び険悪化したため、各主要地点において検問を実施し、拳銃その他武器の発見につとめると共に、情報収集係を数箇所に配置し、爾後の動向を注視中、再び発砲による乱闘が開始されるに至つたが、前日同様これが鎮圧と検挙につとめ午後十一時漸く鎮圧、翌六日朝まで六名の容疑者を検挙した。
 静岡県県本部においては本件の重大性に鑑み、六日午前二時頃隊長以下各課長が浜松市警察署に赴き、同市公安委員会及び署長等とこれが対策を協議の結果、同署に警備取締本部を設置し、国警より同日午後一時頃一一〇名の警察官を派遣し、合計三〇〇名の警察官をもつて厳重な警戒と家宅捜索実施の結果漸次平静に復帰した。
 四月六日、なおも朝鮮人は県内外より多数参集する傾向がみられ、同日夜三度険悪な情勢になり連合軍のカーナー少佐外一七一名が出動する等国家非常事態の布告の要請を考慮されたが厳重なる警戒につとめた結果これが布告をみるにいたらなかつた。
 此の間警備取締本部を設置(自警国警三〇〇名)し厳重な取締を実施すると共に、他面捜査検挙係においての家宅捜索を行つた結果四月九日に至り平静に帰したので警備本部を解散しその後の捜査検挙に専従した。
2 捜査検挙の状況
 事件発生後浜松市警察署においては、浜松地方検察庁にも通報し、被疑者の検挙押収捜索に当つたが、四月六日県本部よりの応援により警察取締本部を設置して、その取締実施計画にもとずき捜査検挙係百余名は四月七日、八日、九日の三回に亘り六三箇所の朝鮮人飯場、居宅、小野近義宅その他同乾分の居宅を捜索し、別表一の通り不法物件を押収した。
 被疑者検挙の状況は別表二の通りであるが同期間中双方の首魁者と目される。
   小野組 小野近義
   朝鮮人 呉判述
を逮捕、取調をなしたが、両人共「本件は輩下の中の一部の者によつて、惹起されたものであつて事件発生後これを知りむしろ部下の鎮圧に努めた」と称し、首魁者に非ずと申立て、これをくつがへす有力な資料が得られないので釈放した。
 本件は現場における逮捕者がなく朝鮮人の殆どが迯走し、その後における捜査に大きな障害を来しており頭初における如上の理由等により困難となつたので、暴力行為等処罰に関する法律、殺人、傷害、器物毀棄、銃砲等所持禁止令の各法条により立件送致した。
3 被疑者の処分結果
 本事件により検挙した被疑者は、
   日本人側   一七名
   朝鮮人側   一三名
であるが、これらの被疑者及びその処分結果は別表二の通りである。


写経屋の覚書-なのは「別表のテキストは省略するから、画像で確認しておいてね」

写経屋の覚書-フェイト「いきなり最初に「この事件は朝鮮人と日本人小野組(香具師)間の勢力争いである」って言い切ってるんだね」

写経屋の覚書-はやて「死者も出とるえげつない事件やけど、どうみてもただの抗争やもんなぁ」

写経屋の覚書-なのは「ウィキの在日韓国・朝鮮人の項目には「1948年の浜松事件ではヤクザ、警官隊、占領軍との抗争が行われた」なんて書かれてるけど、所詮はヤクザと朝鮮人の抗争だよね」

写経屋の覚書-はやて「この小野近義って現役の静岡県議会の議員やけど、2年後には副議長まで務めとるからかなりの実力者やったんやろね。ヤクザの親分が議員やっとるいうんは、かつては地方ではようあった話やし、今でも土建業の関係でちらほら聞くけど、なんか本宮ひろしのマンガに出てきそうな感じやねw」

写経屋の覚書-フェイト「進駐軍の少佐が出てきて国家非常事態の布告まで考えたんだね。非常事態宣言は阪神教育闘争のときに出されてたけど、こっちはヤクザと朝鮮人が公権力を無視して公然と武装抗争をやったわけだから、阪神教育闘争とは違った意味で危険な事態だという判断だったのかな」

写経屋の覚書-なのは「そうだろうね。ウィキの浜松事件(抗争事件)だと、警察史のような公式史料は一切引用しないでいろいろ書いているんだよねぇ。正直、作者にしてみれば、きちんと検証や裏付け調査もせず、史料を探しもせずにああいう著作を使える神経が分からないってことなんだけどね」

写経屋の覚書-はやて「せやなぁ。GHQ憲兵の出動なんて有り得そうな話やけど、その実在を担保でけへんからどこまでほんまかわからへんよ」

写経屋の覚書-フェイト「ウィキは研究者が書いてるわけじゃないし、各項目で執筆姿勢や手法、史料の取扱が統一されてるわけでもないもんね。私たちとしては、ウィキは参考程度に見るのはいいけど、依拠したらダメだろうね」

写経屋の覚書-なのは「そういうこと。この事件については、坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』(法務研究所 1959)のp240~241にもあるんだけど、短いし記述だけ引用しておくね」

(五)浜松の香具師と朝鮮人の闘争事件

 四月四日浜松市内の朝鮮人と日本人の香具師各二百名が、演芸会開催のことからけんかとなり、ついに猟銃と拳銃をもつて反撃しあい、それがため双方に死傷者おのおの七、八名を出した。


写経屋の覚書-フェイト「これはちょっと簡潔すぎるねw」

写経屋の覚書-なのは「1948年4月9日付朝日新聞(東京)にも報道があるんだよ」

写経屋の覚書-480409朝日(東京)_浜松

写経屋の覚書-フェイト「4日の事件なのに9日付紙面で報道ってかなり遅いと思うんだけど、いったいどうしてなのかな?」

写経屋の覚書-はやて「GHQの情報統制とか言う人おるん(ちゃ)う?w」

写経屋の覚書-なのは「たしかに、非常事態の布告まで検討された事件だから、GHQが事態が鎮静化するまで報道の差し止めをやったとしても有り得ない話じゃないんだよね。ま、それが証明できるかどうかはまた別の話になるけど」

写経屋の覚書-フェイト「そっか、個人の証言や著述だけでは弱いもんね。でも非常事態の宣言を検討したことも新聞にちゃんと書かれているんだね」

写経屋の覚書-なのは「この浜松事件も、朝鮮進駐軍の実在を証明するものじゃないってことは分かったと思うし、今回はここまでにするね」


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