写経屋の覚書-はやて「今回も東郷の李称賛言説について見ていくんやね」

写経屋の覚書-なのは「うん。実はね、金泰俊って韓国人が、『日本における李舜臣の名声』「比較文学研究」第40号(東大比較文学会 1981 訳:李応寿)って論文を書いているの。ちょっと長いけど引用するね」

写経屋の覚書-金泰俊21
写経屋の覚書-金泰俊22

p21-p22
 Ⅱ日本における李舜臣の名声
  (1)李舜臣崇拝
       ――明治海軍の例――
 日本の著名な小説家、司馬遼太郎氏の韓国旅行記『街道を行く』の第二巻には、「李舜臣」と題された一章がある。この章には、釜山の龍頭山公園を訪問し、李舜臣の銅像を見学した日のことが描かれているのだが、司馬氏はその中で、李舜臣の優れた人柄に対する敬意、高雅清潔な性格と、しかも死に至るまで民族の大難のために挺身した。その武勇に対する尊敬の念、さらにはその簡潔で謙抑な文章への賞讃の念、などを語っている。また司馬氏は、同じ章で、明治時代になお残っていた、日本国民の李舜臣に対する敬意の一端を紹介している。
 ――維新後、海軍を創設してまだ自信のなかったころの日本海軍は、東洋が生み出した唯一の海の名将として李舜臣が存在することに気づき、これを研究し、元来が敵将であった彼を大いに尊敬した.一九〇五年(明治三十八年)五月、極東に回航してきたバルチック艦隊の出現に対して、海軍大将東郷平八郎麾下の日本国聯合艦隊は、釜山西方の鎮海湾を借りて持ちぷせていた。いよいよ「敵艦見ゆ」の信号によって艦隊が出動するとき、当時水雷司令だった川田功という少佐の文章によると、李舜臣将軍の霊に祈った、とある。その文章を借りると、


――当然、世界第一の海将たる朝鮮の李舜臣を連想させずにはおかなかった。彼の人格、彼の戦術、彼の発明、彼の統御の才、彼の謀、彼の勇、一として賞讃に値いせざるものはない。


と、ある。明治期の日本の海軍士官が、李舜臣という三百年前の敵将に対して、いかに畏敬の心をもっていたかということがわかるであろう。その後の海軍士官にもこの伝統があり、「壬辰の乱以来、むしろ韓国人のほうが忘れていて、日本人のほうが李舜臣に強い敬愛と関心をもちつづけてきたのではないか」と言う人もあるほどである。龍頭山の頂上に聳えている李舜臣の銅像は、中国風の甲冑を鎧い、左手に大剣を持ち、はるか南方をにらんでいる。南方とは言うまでもなく日本であり,李舜臣はまぎれもなく韓半島(朝鮮半島)の守護神にちがいない。――
 また、李舜臣の銅像が立っている場所が、むかしの対馬藩の倭館の構内であり、対馬藩が屋敷神としてたてた金比羅宮の敷地であったことを知って、きわめて微妙な感情を持ったとも司馬氏は書いている。この文章からも、今日に至るまで日本人の心に連綿として続いている畏敬の心を読み取ることができるであろう。
 一方、東郷平八郎がパルチック艦隊を撃破して凱旋したとき、日本の朝野が一堂に会して盛犬な戦捷祝賀会が催されたことがあった。その席上、東郷平八郎は数々の讃辞に答えてこう語った。


不肖東郷を或はネルソンに喩へ、或は李舜臣に擬して賞讃されましたこと、身に余る光栄です。然しながら、ネルソンはいざ知らず、李舜臣になぞらへたのは当たりませぬ。不肖東郷如きは、李舜臣の足元にも遠く及ぶ者ではありませぬ。


 このように、李舜臣に対する日本海軍の敬意は、ある一つの固定した信仰のようなものだったのである。

写経屋の覚書-フェイト「え?これって、『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』掲載の話によく似ているよね?そこから引用したのかな?」

写経屋の覚書-なのは「注釈がないから分からないの。ただ、『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』掲載そのままの文章じゃなくて、文語体になっているし、修辞も過剰じゃないから、『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』からの引用じゃなくて、それに先行するものを参照している可能性はあるんだけどね」

写経屋の覚書-はやて「ほんまや。ネルソンの扱いとか下士官云々やなくて足元やとか、修辞がだいぶ変わっとるよね。この記述が先行文献にあって、安藤らの誰かと金泰俊が別個にそれを見て書いたいう可能性はあるやんね。せやけど、典拠についての注釈もないからたどりようがあらへんよ。もったいない話やねぇ」

写経屋の覚書-フェイト「何にしてもこの祝賀会場の話の典拠は分からないってことなんだね…」

写経屋の覚書-なのは「あとこの金論文だと『街道をゆく』の方を取り上げているんだけど、正確な引用とまではいけてないんだよね。「むしろ李朝以来、韓国人のほうがわすれていて日本人のほうが李舜臣につよい敬愛と関心をもちつづけてきたのではないか」と言った人の箇所を原文では「と、私に語った韓国人もある」なのに「と言う人もあるほどである」になっているのは論旨に影響が出てくるかもしれないんだけどね」

写経屋の覚書-はやて「言うたんが韓国人なんやったら、「李舜臣に対する日本海軍の敬意は、ある一つの固定した信仰のようなものだったのである」っちゅう結論に対する担保として(よわ)なるから、日本人が言うたような感じに引用を改竄したんか、単に韓国語版の『坂の上の雲』がそこを誤訳したんか、李応寿が訳する時にまちごうたんかは分からへんけど」

写経屋の覚書-フェイト「小説家の書いたことを典拠を調べないまま引用したり、典拠自体の不明な話を元にして「李舜臣に対する日本海軍の敬意は、ある一つの固定した信仰のようなものだったのである」って結論を出すこと自体どうかと思うけどね…」

写経屋の覚書-なのは「だよねw それじゃ現時点で分かっていることをまとめるよ」

写経屋の覚書-李A
写経屋の覚書-李B

写経屋の覚書-フェイト「李舜臣に祈った海軍軍人の実在は証明できない。日本海軍が李に敬意を払ってたことは有り得そう。東郷の李称賛言説は典拠も来歴も不明、現時点で分かっているのはこの3つなんだね」

写経屋の覚書-はやて「Polalisさんの9年前の調査の時点からほとんど進んでへんねんなぁ。東郷が李について触れたことがなかったとも断定でけへんけど、基本的には、東郷が李を称賛したという証拠を出して証明するんは私たちやなくて、そういう言説の存在を肯定して主張する方のお仕事やよ」

写経屋の覚書-フェイト「そうだよね。もし、その証拠が提示されたらそれはそれでおもしろいよね。検証する楽しみが増えるわけだし」

写経屋の覚書-なのは「うん、はやてちゃんとフェイトちゃんの言うとおりだね。とりあえず調査はここまでにしておいた方がいいかな」

写経屋の覚書-はやて「せやけど、Polalisさんが「むしろ、東郷を媒介として喧伝される、という当たりにもの悲しさを感じるw」って言うたはったんやけど、東郷やネルソンを引き合いに出したり担保にして喧伝せなあかんいうんは悲しい話やよね」

写経屋の覚書-フェイト「あー、そっか。李単体で称賛されるんじゃなくて、東郷がネルソンよりすごい!と言ったという形だもんね。有名人が取り上げたから注目される、って構造なんだね」

写経屋の覚書-はやて「せやねん。朝鮮の近現代史やその研究には「日本人が評価した」「日本人の著作に拠った」が正当性の担保、裏打ちというか、「日本人に認められた」「日本人のお墨付き」みたいな感じで一つの権威みたいになっとることが多いんよ。あの李泰鎮も日本人学者の研究を引用したり、東大の講演に毎年招かれてたんを自分の権威づけに利用して成功しとったもんなぁ」

写経屋の覚書-なのは「バファリン作戦までは成功してたんだけどねw じゃ、李舜臣称賛言説についてはこれでおしまいにするね」

東郷平八郎と李舜臣(1)
東郷平八郎と李舜臣(2)
東郷平八郎と李舜臣(3)

写経屋の覚書-はやて「今回も東郷の李舜臣称賛言説について見るんやね。で、何を見るん?」

写経屋の覚書-なのは「そうだね。最初は、第1回で出てきた川田功についてちょっと見てみるよ」

写経屋の覚書-フェイト「えーっと、一応『坂の上の雲』の元ネタになったことになってる人だね。司馬さんが「李舜臣の霊に祈った」典拠にしてるけど、実際に確認したらそんな文章はなかったって話で」

写経屋の覚書-はやて「せやったね。主人公の水兵が痛みをこらえるために李舜臣の名を呼んだいうオチで、どうも司馬は川田について熟読せぇへんかったか、自分で確認せんと韓国人の話を鵜呑みにしたかごっちゃにしてそう書いたん(ちゃ)うか?いう話やったね」

写経屋の覚書-なのは「うん。その川田功の名前が意外なところで出てきたの。金素雲『近く遥かな国から』(新潮社 1979)のp79-80なんだけどね…」

写経屋の覚書-金素雲78
写経屋の覚書-金素雲79
写経屋の覚書-金素雲80

――思わぬ出会い

 二十年前の古い文章を一つ引用しないとこの話の締めくくりがつかない。一九五四年九月号「文藝春秋」に寄せた「恩讐三十年」の中の一節である。


 東京へ来た目的だけはどうやら叶えられたが(注=一九三二年、第一書房から刊行された『朝鮮口伝民謡集』のこと)生活は暗澹たるものだった。安原稿の売り込み、ラジオ放送、看板屋の臨時雇い、――なんでもやったが追いつかなかった。マーケットで売る「試食米」の一升袋が買えた日は大尽の気になれた。
 年の瀬が迫っていよいよ動きがとれなくなり、一面識のない森下雨村氏を訪ねて小石川戸崎町にある博文館へ行った。帰りの電車賃もないという文字通り背水の陣である。森下氏は快く会ってくれた上、持ち込みの原稿を「朝日」と「少女世界」に採ってくれた。朝鮮の鎮海で海軍大尉だった川田功氏が、「少女世界」の編集を受持っていた。――

 主幹の森下氏が、それぞれの雑誌の担当者を呼んで私に引き会わせた。その中の一人、「少女世界」編集長の肩書きある名刺を手にした瞬間、私は胸がドキリとした。「川田功」という名がそこに刷り込まれている!
「苦楽」の小説から何年経っていたろうか――「いつかは巡り会う日もあろう」といったが、よもやそのとき、そんな場所で顔を合わせようとは!
 私は息を吸い込みながら、森下氏の部屋のソファーに並んで腰かけているその川田氏に尋ねた。
「もしか、あなたは鎮海にいられたことはありませんか?」
「ええ、少佐で退役するまで、ずっと鎮海にいました」
 間違いなくそのゴ当人である。もう原稿のことなど、念頭になかった。その一瞬をどんなに待ち兼ねていたことか。
 不倶戴天の仇敵にでも出会ったように私は緊張した。ところが、こちらの腹など知ろうはずのない相手は、さも鎮海がなつかしいといった顔で、のんびりと話しかけてきた。
「鎮海でのことを、いまもときどき思い出しますよ。毎年李舜臣将軍のお祭りには統営まで行ったもんですよ。あれは司令部の重要な年中行事でしたからねえ」
「李舜臣将軍」がいきなり飛び出して来たには驚いたが、その祭りが鎮海要塞司令部の重要な年中行事だったと聞いて、いよいよ意外な感がした。川田氏は追い討ちでもかけるように言い足した。
「失礼な言いぶんですが、いまの朝鮮人が、李舜臣のほんとうの偉さを知ってますかねえ?」
 私は止めを刺された形で、返す言葉もなく、ただまじまじと川田氏の顔を見つめた。
 なんとしたことでありましょう! 張りつめていた私の緊張は、まるで呪文でもかけられたように、へたへたと崩折れてしまったのである。救国の聖雄と仰がれる李舜臣将軍を、かくまでに敬い崇めている人――それが私の仇敵であろうはずがない。しかも「水軍利あらず」と日本の藩史にも本音を吐いているその手強かった敵将に「重要な行事」として毎年祭りを取り行なったという。私はそこに日本武士道の真面目を垣間見る思いがした。「よき敵ござんなれ!」といい、「敵ながら天晴れ!」という。――私の好きな日本語である。
 川田功氏は「軍艦ものがたり』の著者でもあり、文筆に長けていたところから、退役後博文館入りをしたものと思われるが、解放直後の九月五日、釜山での講演会で、私は忠武公(李舜臣将軍の諡)のことに触れながら、川田功氏の話をした。いまでこそ〈顕忠祠〉のような立派な社も出来、国を挙げて忠武公を護国の聖将と崇めているが、恐らくは解放後に忠武公の偉業を讃えたのは私の講演が最初ではなかったかと思う。

写経屋の覚書-フェイト「金素雲ってどんな人なの?」

写経屋の覚書-なのは「詩人で北原白秋の弟子筋、朝鮮の詩を紹介したことで知られてるけどね、経歴を見ていくと、小狡いというか機を見るに敏で一筋縄ではいかない人物だね。山本五十六の追悼詩を書いたり、昭和19年には戦局の不利を覚って朝鮮に帰ったり。親日派扱いされたりもしてるしね」

写経屋の覚書-はやて「…あ!贋札事件の武井遵の父親やん!武井が北原綴いう名前で『詩人・その虚像と実像─父、金素雲の場合』(創林社 1986)いう本を書いとったよ」

写経屋の覚書-フェイト「はやて、贋札事件は昭和生まれでも分からないと思うよ…その本を見ると、お金にだらしないし詐欺もやるし、ハッタリと口先はうまいし、まっとうな社会人とは言えない人だったみたいだね」

写経屋の覚書-なのは「密航して来日後、日本人と結婚したのに、愛人をつくって武井を産ませたりもしてるしねぇ…代表作の『朝鮮詩集』は朝鮮の詩を日本語に訳して紹介したものなんだけど、「朝鮮語はすでに終止符を打たれようとしている。 生活の隅々から姿を消すというのではないが、生きた社会的機能はもうこの言葉にはない」なんて書いてるんだけど、行状とか言動を見たら、ほんとに朝鮮語は終止符を打たれそうになっているんじゃなくて、詩集の価値を高めて読み手の興味を惹くための大げさなハッタリにしか思えないよね」

写経屋の覚書-はやて「ほんで、この文章の指しとる「年の瀬」っていつなん?」

写経屋の覚書-なのは「1931年(昭和6年)だよ。『文藝春秋』1954年9月号にはインデントを下げて書かれている部分しか無くて、李舜臣がどうとかいう話は載ってなかったよ」

写経屋の覚書-フェイト「とりあえず、金と川田の会話が本当にあったとして、それから分かることは、海軍の鎮海司令部――鎮海防備隊・鎮海要後港部――では毎年李舜臣の祭りをしていたってことと、他の海軍軍人はともかくとして川田個人が李を尊敬しているっぽいってことだけだよね」

写経屋の覚書-はやて「川田は『砲弾を潜りて』でも李舜臣を讃えとったね。出番的には水兵の痛み止めやったけどw」

写経屋の覚書-なのは「あと金は「解放直後の九月五日、釜山での講演会で」川田の話をしたって言ってるけど、もしこれがほんとなら、韓国人に日本海軍では李舜臣に敬意を払っていたという言説の伝播経路の一つになるかもしれないね。ともかく、川田は「東郷平八郎が李舜臣を称賛した」ということは一言も言ってなくて、フェイトちゃんが指摘したように「海軍(鎮海司令部)が李を祭った、あるいは敬意を捧げていた」ということしか言ってないの」

写経屋の覚書-フェイト「ってことは、李舜臣称賛言説は、「東郷が李を称賛」と「日本海軍が李に敬意」の2つに大別されるってことなのかな?前者に属するのは朝鮮日報コラム「万物相」、藤塚明直が李英介から聞いたという話、『日・中・朝三国人民連隊の歴史と理論』で、後者に属するのは川田功、金素雲が川田から聞いたという話、司馬遼太郎の著作って感じに」

写経屋の覚書-はやて「後者は「李に敬意」と「日本海海戦で李に祈った」の2つに分けられるね。李に祈ったいうほうは典拠不明でどうしようもあらへんけど、川田自身が戦記小説の中で称賛しとるんは確かやね。ただフェイトちゃんが言うたように川田個人の敬意かもしれへんよ」

写経屋の覚書-フェイト「ね、川田さんの「失礼な言いぶんですが、いまの朝鮮人が、李舜臣のほんとうの偉さを知ってますかねえ?」って発言、『街道をゆく』の「むしろ李朝以来、韓国人のほうがわすれていて日本人のほうが李舜臣につよい敬愛と関心をもちつづけてきたのではないか」っていうのと対応しないかな?」

写経屋の覚書-はやて「!?川田が金素雲に言うた台詞が、金か別の韓国人によって司馬に伝わったかもしれへん、ってこと?」

写経屋の覚書-なのは「うーん、有り得ない話じゃないとは思うけど、積極的に裏付けるものもない推測だし保留だね。それと、鎮海司令部が李に儀礼をおこなっていたらしいというのは、前回見た藤塚明直「アドミラル李舜臣を讃ふ」(京城公立中学校同窓会誌『慶熙』第8号 1977)(『一九三二・土州の沖は 旧制高校旧制中学同窓誌に雄叫ぶ』(文芸社 2000)所収)のp80にも書いているんだよ」

写経屋の覚書-藤塚80

李舜臣は、韓国版テミストクレス。帝国海軍は創期より彼を師とせしことネルソンに次ぐ。往時、鎮海の鎮守府司令官新任に当っては新司令官以下将校が儀仗兵を引率、舜臣の祀社に詣り表敬の札を納めたりしという。現に、かつて祀社の司直たりし韓国の人の物語るところなり。

写経屋の覚書-フェイト「ってことは、日本海軍全体としてどうかは措くとして、鎮海司令部では李舜臣に対して表敬はしてたってことは確かなのかな?」

写経屋の覚書-はやて「せやけど、川田が言うたんは毎年祭りをするいう話で、藤塚が聞いたいうんは新司令官の着任時に表敬参拝するいう話やろ?食い違っとるよ」

写経屋の覚書-なのは「鎮海司令部の年中行事表とか、予算関係書類が見られれば、どっちが本当なのかは判断、確認できるんだけどねぇ…ま、どっちにしても、前にも言ったけど、内鮮融和や海戦の指揮官として李を持ちあげたりする必要があって敬意を表するって程度かな」

写経屋の覚書-はやて「鎮海司令部が敬意を払とったいうことは有り得そうやけど、肝心の東郷が李を称賛したいうんは来歴不明のままやねぇ。東郷の著作とか発言集みたいなんにはヒントはないんかなぁ?」

写経屋の覚書-なのは「9年前にPolalisさんが調べてるんだけど、安部真造『東郷元帥直話集』(中央公論社 1925)、村上俊蔵『東郷大将詳伝』(成功雑誌社 1905)、小笠原長生『東郷平八郎全集』第1-3巻(平凡社 1930)には、李舜臣の話は出ていなかったんだって」

写経屋の覚書-フェイト「作者は確認したの?」

写経屋の覚書-なのは「うん。その3つの他にも以下の書籍を調査したけど、東郷を「東洋のネルソン」と書いたり、東郷とネルソンの比較の記述はあっても、李舜臣には一言も触れてなかったの」

横山健堂『大将東郷』(春陽堂 1915)
小笠原長生『東郷元帥詳伝』(春陽堂 1926)
高橋史光『国民教訓東郷元帥の言葉』(日東書院 1933)
『Admiral Togo a memoir』(東郷元帥編纂会 1934)
小笠原長生『聖将東郷平八郎伝』(改造社 1934)
高木秀男『人間東郷』(文進社 1934)
小笠原長生『晩年の東郷元帥』(改造社 1934)
海軍兵学校『東郷元帥景仰録』(大日本統計協会 1935)
エドウィン・A・フォーク『東郷平八郎』(柴田賢一、木田重三郎訳 青年書房 1941)

写経屋の覚書-はやて「うーん、これはもう証明しようがあらへんね…」

写経屋の覚書-なのは「そういうわけで、東郷に関する著作から李舜臣称賛言説の存在を証明することはできなかったの。今回はここまでにして、次回も東郷の李称賛言説について見るね」

東郷平八郎と李舜臣(1)
東郷平八郎と李舜臣(2)

写経屋の覚書-フェイト「今回は東郷の李舜臣称賛言説についての続きだね。たしか、朝鮮人、韓国人との関わりを見るって言ってたね」

写経屋の覚書-はやて「司馬に東郷の李舜臣称賛言説を教えた韓国人がおるん(ちゃ)うかいう話もしとったね」

写経屋の覚書-なのは「うん。そこで朝鮮人、韓国人の東郷の李舜臣称賛言説に関係ありそうなものを見るよ。最初はある意味一番有名かな、藤塚明直「アドミラル李舜臣を讃ふ」(京城公立中学校同窓会誌『慶熙』第8号 1977)っていうものを見るよ」

写経屋の覚書-フェイト「えーっと(国会図書館サイトを調べながら)、『慶熙』第8号って東京の国会図書館に所蔵されてるよね。国会図書館関西館に取り寄せて確認したんだね」

写経屋の覚書-なのは「残念だけど、雑誌だから取り寄せはできないの。でもね、Polalisさんの写経していた原文を送ってもらって、藤塚の『一九三二・土州の沖は 旧制高校旧制中学同窓誌に雄叫ぶ』(文芸社 2000)って著書に収録されているものと照合できたから問題なかったよ。じゃ、その本のp84-86を紹介するね」

写経屋の覚書-藤塚84
写経屋の覚書-藤塚85
写経屋の覚書-藤塚86

 「私はいつぞや頭山満翁に伴われて、東郷さんのお邸にお伺いし、お目に掛ったことがあるのです」。こう私の昵懇の韓国人李英介氏が話していた。「そのとき元帥が私にこう言われた、『あなたのお国の李舜臣将軍は私の先生です』と」。名提督というものは、藍の色の深々と沈潜した重厚さがあり、何か底から押し上げてくる、寂寥に堪えたところがある。提督李舜臣もこういう人であったかも知れない。あとでまた聞いたことだが、東郷の曰く、「自分はネルソンに比べられるかも知れない。しかし李舜臣は私を越えている」と。李提督は能文能書の武将であり、実証的で、科学的才智にも優れる。祖国防衛にあれだけの大功をたてながら、西党と呼ぶ、派閥の廷臣たちから妬まれ、誣言され、皇帝から一兵卒に落とされたことがある。この時の李舜臣を韓国の人も感動深く引用しているが、Homer B. HulbertのHistory of Koreaに、“But most remarkable of all he made no complaint, but went quietly about his work as if nothing had happened.”と述べている。やはり海の男だったようである。(中略)明治三十八年五月二十七日未明、「敵艦見ゆ」との警報に接し、連合艦隊は鎮海湾から出動するのであるが、全艦隊が沖に出て間もなく、各艦の将士は遥か西の方を向き、李舜臣鎮魂の礼を行った。李提督は、一五九八年十一月十八日の夜明け、南海島北側の水路で残敵急追中、流れ弾が左腋下から貫通し、海戦七年連勝のこの提督は息を引き取ったのである。李提督を師として忘れずにいた限り、日本海軍には常に栄光があった。

写経屋の覚書-はやて「え?「皇帝から一兵卒に落とされたことがある」って、宣祖って皇帝やったん?それとも明万暦帝から命令受けたん?w」

写経屋の覚書-フェイト「はやて、突っ込むべきはそこじゃないと思うよ。李英介って人が、頭山満のお伴をして東郷邸を訪問した際に、東郷から李舜臣称賛を聞いたって箇所だよ」

写経屋の覚書-はやて「いちおうボケとかなあかんかなってw 頭山満いうたら玄洋社総帥で黒龍会顧問いう右翼の大物やろ。李英介いう人は何者なん?」

写経屋の覚書-なのは「ひょっとしたら、1906年生まれの実業家で1942年4月の衆議院選挙に立候補した人のことかな?ま、そうでなくても別にいいんだけど、東郷は1934年没、頭山は1944年没だから、もしこのエピソードが事実だったら、1905年から1934年の間にあったことになるよね」

写経屋の覚書-フェイト「…実在の話だと信じろというほうが難しいよね…だいたい、藤塚の又聞きだし、李が事実を語ったという保証もないし」

写経屋の覚書-なのは「内鮮融和とか臣民たる朝鮮人を持ちあげる必要性があって称賛する可能性はあるだろうけどね」

写経屋の覚書-はやて「せやなぁ。Polalisさんが「まあ、頭山満・李英介が聞いた話であるというなら、戦後を待たずにもっと流布しそうなものですけどね」って言うたはったんやけど、ほんまにそんなことがあったんやったら、頭山もかんどるわけやし、内鮮融和や皇民化のためにも戦前に流布させなあかんやんねw 。せいぜい李が頭山に連れられて東郷邸を訪問したいうことくらいやったら有り得るやろけど、実際に東郷がそう言うたとしても、リップサービス程度(ちゃ)うん?」

写経屋の覚書-なのは「ま、そんなところだろうね。藤居信雄『李舜臣覚書』(古川書房 1982)p271ではこのエピソードを引用しているんだけど、藤塚じゃなくて「藤岡明直」なんて書いているんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「当然、藤居は李の発言の裏も取らずに書いているんだよね?」

写経屋の覚書-なのは「うん、当然、ただのコピペだよ。ここで東郷はネルソンを引き合いに出しているけど、安藤彦太郎・寺尾五郎・宮田節子・吉岡吉典(編)『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』(日本朝鮮研究所 1964)のp6-7にも似たような話が出てくるの」

写経屋の覚書-日朝中6
写経屋の覚書-日朝中7

   はじめに
(中略)
 ある時、日朝友好運動の活動家の集りで、朝鮮から来た郵便物の切手を互にわけあっている時、その切手に描かれている李舜臣という人物について、「どういう人か知っているか?」と私がたずねましたら、十五、六人のうち一人も知らなかった。李舜臣というのは、さっき話したいわゆる秀吉の「朝鮮征伐」の時、朝鮮の海軍の大将で、日本の海軍をメチャクチャにやっつけ、朝鮮では軍神とされている人です。すべて戦争よいうものは相手があり、戦争の話には両将二つの名前が出てくるものである。乃木大将といえば「敵の将軍ステッセル」である。川中島の戦といえば武田信玄と上杉謙信である。加藤清正とならんで、李舜臣の名前ぐらいは、知っていてもよいのではないか。しかもこの李舜臣というのは、ちょっとやそっとの人物ではないのです。面白い話がある。それは、日露戦争の時に東郷平八郎が日本海海戦で大勝利して凱旋した。彼は元帥になった。そのお祝いの席上である人がおべっかをつかって「この度の大勝利は歴史に残る偉大なものだ。ちょうど、ナポレオンをトラファルガーの海戦で敗ったネルソン提督に匹敵すべきあなたは軍神である」といった。東郷はそれに答えて「おほめにあずかって恐れいるが、私に言わせればネルソンというのはそれほどの人物ではない。真に軍神の名に値する提督があるとすれば、それは李舜臣ぐらいのものであろう。李舜臣に比べれば自分は下士官にも値しないものである」と言っています。今、日本で日朝友好をやっている指導的活動家が、李舜臣の名前さえ知らないというのでは、日本帝国主義を育てあげた東郷元帥の朝鮮認識よりも劣るという無見識なことになる。

写経屋の覚書-はやて「え?日本海海戦は明治38年(1905年)5月27日~28日で、東郷の元帥就任は大正2年(1913年)4月やから、えらい時間の離れた出来事やね。まるで凱旋後すぐに元帥になったみたいな感じや」

写経屋の覚書-なのは「あ、「この度の大勝利」って書いているから日本海海戦の祝賀会の方だと思うよ。まじめに考察すると、1905年10月22日に東郷は海戦結果奏上のために上京参内したんだけど、24日には東京市が連合艦隊将卒に祝宴を設け、27日には明治天皇が浜離宮に行幸して、連合艦隊の士官候補生以上と大本営の幕僚など全員に祝宴を催し、28日には同じく浜離宮で皇太子の祝宴が催されているから、この話が本当にあったとすれば、そのへんかな?」

写経屋の覚書-フェイト「文中の「私」って、安藤彦太郎・寺尾五郎・宮田節子・吉岡吉典の誰なのかな?」

写経屋の覚書-なのは「それがね、執筆者は記載されていないから誰が書いたか分からないの。一応巻頭に「なお、本書は 日本朝鮮研究所の幼方直吉、小沢有作、梶村秀樹、木元賢輔、楠原利治、渡部学各所員の協力によって完成いたしましたが、内容について、直接の責任を負うものは、表記四名の編集者であります」としているから、安藤・寺尾・宮田・吉岡が責を負うってことなんだけどね」

写経屋の覚書-フェイト「つまり「私」が誰で、その「私」がどこで仕入れてきた話なのか分からないってことだね」

写経屋の覚書-はやて「ほんまええ加減な話やなぁ…だいたい、東郷がネルソンを軽侮したかのような発言しとる時点で信じ難いんよ。それと李英介の話とどういう関係があるかも分からへんねんね?」

写経屋の覚書-なのは「うん。どうやらね、戦前の朝鮮人或いは戦後の韓国人のある層には、東郷が李を称賛したって話が信じられていたんじゃないかって節があるんだよね。1956年4月18日付朝鮮日報のコラム「万物相」(『萬物相 朝鮮日報名컬럼1』(朝鮮日報社 1972)収録)にこんな文章があるの」

写経屋の覚書-万物相

李忠武公기념
 日本海軍의 名将이었던 東郷平八郎은 평소에 우리 李舜臣将軍이 話題에 오르면、반드시 옷깃을 여미었다는 이야기가 있다。

李忠武公記念
 日本海軍の名将だった東郷平八郎は普段私たちの李舜臣将軍が話題に上がれば、必ず襟をただしたという話がある。

写経屋の覚書-はやて「襟を正した、か。えらい控え目やねw」

写経屋の覚書-なのは「ここで、藤塚・安藤等・万物相の言説を整理してみるよ」

  1. 「あなたのお国の李舜臣将軍は私の先生です」「自分はネルソンに比べられるかも知れない。しかし李舜臣は私を越えている」:藤塚明直「アドミラル李舜臣を讃ふ」

  2. 「おほめにあずかって恐れいるが、私に言わせればネルソンというのはそれほどの人物ではない。真に軍神の名に値する提督があるとすれば、それは李舜臣ぐらいのものであろう。李舜臣に比べれば自分は下士官にも値しないものである」:安藤彦太郎・寺尾五郎・宮田節子・吉岡吉典(編)『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』

  3. 東郷平八郎は普段私たちの李舜臣将軍が話題に上がれば、必ず襟をただした:「万物相」

写経屋の覚書-フェイト「3→1→2の順に表現が誇張されていっているよね。伝播の過程で修飾が過剰になっていくのって、よくあるパターンだよね」

写経屋の覚書-はやて「っちゅうことは、3が原形若しくは原形に近いってことなんかな?でも、「万物相」筆者が1か2を知っとった可能性もあるやんね?」

写経屋の覚書-なのは「だから論断まではできないんだけど、東郷が李を称賛したという「お話」が、戦前の朝鮮人のある層の間である程度流布していて、そこにネルソンとの比較という尾鰭がついていったと考える方が自然だよね」

写経屋の覚書-フェイト「実際に東郷が李を称賛したかどうかは別だよね?」

写経屋の覚書-なのは「うん。もし事実だったとしても、さっきはやてちゃんが言ったように、リップサービスか、朝鮮人に話を振ってあげたような感じだろうし、「私に言わせればネルソンというのはそれほどの人物ではない」なんて高慢な言い方まではしないんじゃないかな」

写経屋の覚書-はやて「前回言うとった、司馬に李称賛を教えた韓国人はその「お話」を知っとって司馬に教えたんかな?ほんで司馬は川田功を熟読もせんとこの李称賛とをごちゃ混ぜにしてもおたとか」

写経屋の覚書-フェイト「有り得る話だよね。たしかに、その韓国人と安藤等と李英介、万物相の元ネタになった「お話」があるって考えた方がいいよね」

写経屋の覚書-なのは「あとね、ネルソンとの比較という話になると、徳富蘇峰『近世日本国民史第9巻 豊臣氏時代己篇 朝鮮役下巻』(民友社 1922)に「李舜臣の死は、宛もネルソンの如しだ。彼は克つて死し、死して克つた」っていうのがあるね」

写経屋の覚書-はやて「ネルソンと李舜臣の共通点って、「一国の海軍総司令官」「負傷して戦闘終了直後に死亡」くらいしかないやんなぁ…李が連戦連勝いうんは事実(ちゃ)うし」

写経屋の覚書-フェイト「え?豊臣軍の水軍を撃破し続けたんじゃなかったの?」

写経屋の覚書-なのは「フェイトちゃん、戦況報告書の上では連戦連勝って話なんだよね。豊臣軍諸将の方の情報とかとも照合していくと、それなりに敵に損害を与えているけど、戦略的には不利になって撤退ばかりで補給船の切断や妨害も成功してないんだよね。かなり話を膨らませて盛って報告してたみたいなんだよ」

写経屋の覚書-フェイト「え?私たちの管理局でそんなことやったらすぐ処分されるよね。よくできたね」

写経屋の覚書-なのは「戦争中だから朝廷の方はその報告の裏をとることも難しいし、何よりも戦勝の報せを必要としてたからね。実状をある程度分かっていても戦争中はあえて究明はしないってことなの」

写経屋の覚書-はやて「士気高揚と景気づけのために信じといたるってとこやね。ほんなら戦後に論功行賞のために精査されたらえらいことになるやん。功績帳消しどころか、へたしたら処罰されるで」

写経屋の覚書-なのは「そういうわけで、戦死しなかったらしなかったで処罰の対象になっていただろうねぇ」

写経屋の覚書-フェイト「豊臣軍の水軍を撃破し続けたという捷報を送りつづけた将軍ってことなんだね…」

写経屋の覚書-なのは「そのあたりが妥当だと思うよ。それと、明治時代の戦史研究って、海軍も陸軍もそんなにレベルが高いってわけじゃないんだよねぇ…適切な史料批判を十分に行わないまま軍記物や講談類の記述を採用したりとかね」

写経屋の覚書-はやて「桶狭間の強襲を奇襲としたり、長篠の織田軍の鉄砲三段撃ちを鵜呑みにしたりいうんも陸軍の研究が発端やったなぁ」

写経屋の覚書-なのは「そうなんだよねぇ。前にも言ったけど、一次史料だからってそのまま全部信用するんじゃなくて、史料批判を経て適切に扱わなきゃだめなんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「作者の決め台詞が「とりあえず一次史料を持ってこい 話はそれから聞いてやる」だから、一次史料至上主義だと勘違いされがちだよね」

写経屋の覚書-黒なのは「にゃはは、作者は一次史料が至上だって無条件で信じるような人間じゃないんだけどねぇ。じゃ、今回はここまでにして次回も続きを見るね」

東郷平八郎と李舜臣(1)